空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

青春18きっぷの旅「八十場のところてん」

2015-08-27 23:36:52 | 日記

今夏青春18きっぷの旅第2弾は、四国香川県の八十場にところてんを食べに行きました。

今回は、はがき絵のzoomin氏が案内してくれました。

ふたりで行くのは、昨年の若狭・舞鶴以来の青春18きっぷです。


大阪(09:04)→姫路(10:06 10:07)→相生(10:26 10:30)→岡山(11:34 11:42)

→坂出(12:19 12:25)→八十場(12:28)

が、検索したら出てくる時間です。

私は、新大阪から乗車して席の確保を考え、混まない一つ前の時間を提案しました。

新大阪08:58発-大阪09:04発を、一つ前の新大阪08:42発-大阪08:48発です。

私が新大阪に着いたのは、08:31でした。隣ホームから新快速が出ていったのです。

仕事をしていた頃は、朝夕新快速が外側の特急用のホームに着くことを理解していましたが、

今日の私は、「あれ~何で外なんやろ?」とぼけていました。

おまけに見かけたのは、08:32発の新快速で、もう一つ速い新快速でした。

やっと気がつきzoomin氏と約束の新大阪08:42発に乗り込みました。

zoomin氏から、前の08:32発に乗り明石・西明石で駅のスタンプを押す連絡が入りました。

彼は西明石駅から乗り込んできました。

姫路はゆっくり乗換です。でも、相生では次の列車に走って乗り込みました。座席の確保です。

何でも知ってるzoomin氏から、

和気を出て、川の右後ろの山に大文字焼きのような『和』が見える」と

万富のすぐ横にキリンの工場があるよ。

    

    

岡山駅も、マリンライナーに乗るため、急ぎ足です。

    

定刻に発車した[快速]マリンライナー23号は、11:10茶屋町に着きました。

宇野方面の乗換駅です。

11:18児島に着きました。ここで臨時のアンパンマン列車を見かけました。

    

車内案内にもアンパンマンがあります。

瀬戸内海を約15分でわたります。美しい瀬戸内海の風景が続きます。

    

    

人が一人通れる通路のような物があります。補修・点検用でしょうか。

坂出の街が見えてきました。

    

    

坂出で、各駅停車に乗換です。

    

初めて見た電車です。左の座席は、4人のBOX席で、右は、横1列のフラットシートです。

    

ひと駅八十場です。女の車掌さんが乗車券を集めに来ました。

    

zoomin氏の後に付いていきました。目指すところてんの案内も出てきました。

観音さんと六地蔵をお祀りしてありました。

    

前の戦争の頃まで、何かの記念碑だったのか満州国牡丹江という字がありました

    

後ろに石の鳥居、前に朱塗りの鳥居です。

    

今は懐かしい半鐘もありました。


四国八十八カ所霊場 第79番札所 金華山高照院 天皇寺(てんのうじ)と、

白峰宮(しろみねぐう)が、混じり合うように建てられています。

私なりに建物を分けてみました。

天皇寺(てんのうじ)の歴史と由来です。

寺伝によると、天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。大師が弘仁年間(810〜24)にこの地方を訪ね、弥そ場という沢水が落ちる霊域にきた際、ひとりの天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。この天童は、金山を鎮守する金山権現であった。天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号した。大師はまた、弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであった。

 

保元元年(1156)7月、崇徳上皇(天皇在位1123〜41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御された。二条天皇(在位1158〜65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242〜46)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっている。

 

    

    

 

白峰宮(しろみねぐう)

崇徳上皇を祀るこの神社は,上皇の崩御の後に二条天皇によって社殿が建てられたと伝えられています。
 上皇の遺体が野澤井の水に浸されてから白峰山にて荼毘に付されるまでの間,毎夜,付近の霊木に神光があったそうで,当時の社殿はその場所に設けられていたそうです。このため,「明の宮(あかりのみや)」とも呼ばれるようになったそうです。
 上皇崩御の後,高倉天皇は「讃岐院」と呼ばれていた上皇に「崇徳天皇」と追謚(ついし)され,稲税を納めたと伝えられています。また源頼朝も稲税を納めて,下乗の立礼を建てたとされますが,残念ながら当時の社殿は天正年間に焼失してしまいました。
 現在の社殿はその後に再建されたもので,今も周辺の人々から手厚く祀られ,「天皇さん」の名称で親しまれています。

    

    

    

由来を読むと分けなくても良いのかもしれませんね。


お目当ての「ところてん」に急ぎました。からすうりです。

    

八十八名物ところてんの清水屋さんです。酢しょうゆとからしをいただきました。

    

すぐ横に、野澤井(のざわい)があります。

長寛二年8月26日,崇徳上皇は鼓岡で崩御されます。坂出に配流されてから8年目のことでした。そしてこのことは直ちに都に伝えられ,上皇の遺体の処置について朝廷の指示を仰ぐこととなりました。
夏の暑い時期でもあり,都からの指示を待つ間,古来から霊水と伝えられる野澤井の清水に浸して,遺体が腐敗することを避けたと伝えられています。
この野澤井とは,今の西庄町八十場の清水付近の古い呼び名です。
 この清水は,坂出に伝わる悪魚退治の伝説に登場する霊水でもあり,悪魚の毒気に倒れた八十八人の兵士がこの水を飲んだことで蘇生したため,弥蘇場(やそば)の水とも呼ばれます。(「やそば」については弥蘇場のほか,安庭・八蘇場・八十場・八十八などいろいろな字が当てられて記されています。)
 今も昔と同様,夏に涼しい場所であり,多くの人が涼を求めて賑わっています。
 


    

さて、戻りましょう。八十場駅で電車を待っていると、貨物列車も通過するので、ビックリです。

    


打ち上げに大正にある「クラスノ」に行きました。

    

このお店一時お店を長い間閉めていました。

私を含めファンの皆さんは、名物おじさんが亡くなったと思っていました。

ご健在で99歳。施設に入っているそうです。四代の写真です。おめでたい。

最後に大正橋は、今年100周年で記念のキャンペーン中です。

 


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