空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

龍馬とゆく2(河原町▷木屋町▷四条烏丸界隈)を歩く

2015-02-22 13:22:25 | 日記

阪急電車のHPを見ると、沿線の観光案内が豊富です。

その中に「沿線おでかけパンフレット」の中に、“龍馬と京をゆく”があります。

阪急京都線に今も残る、坂本龍馬の足跡をたどる観光マップを見ました。

その中で、龍馬とゆく2(河原町▷木屋町▷四条烏丸界隈)を歩いてみました。

先日CANON IXY630を購入し直しましたので、2つのコンパクトカメラを持って行きました。

CANONで、モノクロ撮影しました。おまけに1:1の比率です。

ふるいPanasonicLumixでカラー4:3の比率です。


①古高俊太郎邸跡碑(桝屋跡)です。

阪急河原町の木屋町北出口を出て、すぐです。

古高俊太郎。文政12年(1829年)、大津代官所の手代・古高周蔵の子として誕生。母は公家の広橋家家来の娘。近江国栗太郡古高村(現・滋賀県守山市)出身。

父・周蔵が山科毘沙門堂門跡に仕えたのに際し京都へ移住。尊皇攘夷を唱える梅田雲浜に弟子入りした。文久元年(1861年)、京都河原町四条上ル東で諸藩御用達・枡屋を継ぎ、枡屋喜右衛門を名乗る。古道具、馬具を扱いながら早くから宮部鼎蔵らと交流し、有栖川宮との間をつなぐなど長州間者の大元締として情報活動と武器調達にあたった。
しかし、元治元年6月5日(1864年7月8日)、新選組に踏み込まれ捕縛される。武器弾薬を押収され、諸藩浪士との書簡や血判書が発見された。壬生屯所前川邸の蔵で局長・近藤勇、副長・土方歳三から直々に厳しい取調べを受けた。2階から逆さ吊りにされ足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられる等の過酷な拷問を受け、自白。その内容は八月十八日の政変後、京を追われた長州人らが6月下旬の強風の日を選んで御所に火を放ち佐幕派公卿の中川宮を幽閉し京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうとするものだった。すでに計画実行の志士が多数上洛、潜伏しており近々市中で同志の集会があることも判明し、これを阻止したのが池田屋事件である。ただし計画の内容は古高が拷問を受けて発言した以外の客観的な証拠が乏しく、捏造もしくは誇張であるとも言われる。
その後、六角獄舎に収容されたが、7月20日(8月21日)の禁門の変の際に生じたどんどん焼けで獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首された。享年36。

    


②中岡慎太郎寓居之地碑

①を河原町通へ出て、右(北)へ。あぶらとり紙の店があります。(閉店していました。)

    

中岡慎太郎

生年:天保9.4.13(1838.5.6)  没年:慶応3.11.17(1867.12.12)
幕末の尊攘・討幕派の志士,土佐(高知)藩郷士。大庄屋中岡小伝次の子,母は初。安政2(1855)年武市瑞山の道場に入門し坂本竜馬を知り,また間崎滄浪に経史を学ぶ。同4年,大庄屋見習となり結婚。文久1(1861)年土佐勤王党の血盟文に署名。翌年10月五十人組結成に参加,江戸に赴き山内豊信の警護に当たった。翌3年4月帰郷,藩庁による尊攘派の弾圧が始まり脱藩,長州に入り,三条実美らの護衛に当たる。翌元治1(1864)年6月上洛,長州軍の一員として禁門の変に参加。その後長州藩に逃れ忠勇隊の隊長となる。同隊は脱藩浪士を構成員とする長州藩諸隊のひとつ。以来,下関,大坂,京,太宰府,長崎,鹿児島と歩き,この間,竜馬と共に薩長の和解工作に尽力する。慶応1(1865)年冬『時勢論』を土佐の同志に送り,こう予言した。「自今以後,天下を興さん者は必ず薩長両藩なるべし。……天下近日の内に二藩の命に従ふこと鏡に掛けて見るが如し」。同3年2月,脱藩の罪を許され,土佐藩より陸援隊隊長に任命される。竜馬の海援隊に対しての陸援隊である。5月21日,板垣退助を西郷隆盛に引き合わせ,談は武力討幕におよんだ。6月22日,薩土盟約締結に立ち合う。京白河で討幕の日に備えていた同年11月15日,刺客に襲われ負傷,17日に絶命した。年30歳。


④本間精一郎遭難之地碑

②からそのまま北に歩き、一つ目の路地に入り、階段のようにたどり、高瀬川に出る。

本間 精一郎(ほんま せいいちろう、天保5年(1834年) - 文久2年閏8月20日(1862年10月13日))は、越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士。早くから江戸や京で学び、尊王攘夷の思想に目覚める。彼の一族は、日本海側の人々の中でも裕福な家系で、佐渡奉行や大商人とつながっている。

本間は故郷越後から江戸に出て清河八郎らと親交を結び、清河より一足早く京に上って、薩摩や土佐に倒幕を説いた。しかし、利発で勝気な気性の彼は論争に強く自己の実績を過大に喧伝していため、薩摩や土佐の貧しい出の浪士たちや、彼の存在を疎ましく思う同志が、彼にしこたまの酒を飲ませてからの殺害を企てた。その計画にまんまとはまり、同志の凶刃に斃れることとなった(実行者は田中新兵衛・岡田以蔵と言われる)。そのため、彼の力量、評価にあたう成果を残さなかった。本間精一郎のなくなった場所には、本間精一郎殉難の地という石碑が建てられている(京都市中京区先斗町)。本間の死後に維新を成し遂げた新政府は従五位の官位を彼に贈っている(ほかに、長州の吉田松陰・久坂玄瑞など幕末に斃れた同志に対して新政府より官位が贈られている)。


すぐ横にあるはずの③本間を襲撃する岡田以蔵の刀傷 が見当たりません。

横でホースで掃除をしていたお兄さんに伺うと、民家の中だそうで、シャッター越しの1枚。


もう一度河原町通に出て、西側に渡ると

⑤坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地碑、近江屋跡

ここはよく目立つので、わかりやすいです。回転寿司屋さんですよ。

    

坂本 龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。

諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬。 他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)などの変名がある。
土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。


もう一度、河原町通を東に渡り。高瀬川方面に行くと

*土佐稲荷神社がありました。

    


高瀬川に出ると⑥土佐藩邸跡碑です。(上の地図の解説をご覧下さい)

後ろは、高瀬川です。

高瀬川を南に見ました。右は、北を見ました。

    


そのまま高瀬川を北に歩きました。

*先斗町歌舞練場が見えました。

    


龍馬通に出て、左(西)を見ると、⑦酢屋(海援隊京都本部)が見えています。

坂本龍馬の寓居之跡碑です。

    

ぐどいようですが、モノクロで。


すぐ三条小橋です。三条通北側に、⑧池田屋騒動の址碑があります。

    

池田屋事件は、京都の旅館・池田屋で元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた、京都の治安維持組織である新撰組による、長州藩や土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃した事件の事を言います。他に、池田屋騒動・池田屋事変・三条小橋の変とも呼ばれています。 坂本龍馬はこの事件に関わってはいませんでしたが、池田屋事件によって中止となった計画もありました。


三条小橋には、佐久間象山・大村益次郎の案内碑がありました。


すぐ北に⑨吉村寅太郎寓居之跡碑があります。

吉村 虎太郎(よしむら とらたろう、天保8年4月18日(1837年5月22日) - 文久3年9月27日(1863年11月8日))は、幕末の土佐藩出身の志士。諱は重郷。一般には「寅太郎」と記されることが多い。

土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。平野国臣らが画策する浪士蜂起計画(伏見義挙)に参加すべく脱藩するが、寺田屋事件で捕縛されて土佐に送還され投獄される。釈放後、再び京都へ上り孝明天皇の大和行幸の先駆けとなるべく中山忠光を擁立して天誅組を組織して大和国で挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変して幕府軍の攻撃を受け敗れて戦死した。(天誅組の変)


武市瑞山寓居之跡碑 四国屋〈丹寅〉

武市 瑞山(たけち ずいざん)は、日本の志士、武士(土佐藩郷士)。土佐勤王党の盟主。通称は半平太で、武市 半平太(たけち はんぺいた)と呼称されることも多い。幼名は鹿衛。諱は小楯(こたて)。号は瑞山または茗澗。変名は柳川左門。後に柳川左門と変名した際は雅号を吹山とした。

土佐藩郷士・武市正恒(白札格、51石)の長男。母は大井氏の娘。妻は土佐藩郷士・島村源次郎の長女・富子。子女はなし。坂本龍馬とは遠縁にあたる。
優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8ヶ月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。

嘘か誠かわかりませんが、ここだけの話しにして下さい。お笑いにならんように。

幕末の時代劇に出てくる月形半平太のモデルなんでしょ。


⑪佐久間象山寓居之跡碑

佐久間 象山(さくま しょうざん、-ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理(しゅり)、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階は贈正四位。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。

象山の号は近隣の黄檗宗象山恵明禅寺に因んだとされる。その呼称については、一般に「しょうざん」、地元では「ぞうざん」と呼ばれており、弘化2年(1845年)に象山自身が松代本誓寺への奉納文書に「後の人我が名を呼ぶなばまさに知るべし」として、反切法を用いて「しょうざん」と呼ぶように書き残している。象山は松代藩の下級武士の出であり、若年期に経学と数学を学んだ。とりわけ象山は数学に興味を示し、熱心に学んだ。若年期に数学の素養を深く身に着けたことは、この後の彼の洋学吸収に大きく益した。


素敵なお店の入口です。

御池通まで来ると、加賀藩の藩邸跡碑がありました。


⑫大村益次郎公・佐久間象山先生遭難之地碑

高瀬川のすぐ横に立っています。

元治元年(1864)7月11日の夕刻、この路上を馬に乗って通りかかった佐久間象山は、刺客に襲われて斬られ即死した。  象山は信濃(長野県)松代藩士で、洋学・砲術を学び、開国論を唱え、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰ら多くの俊才を教育した。この時は幕府の命で上京し、海防の相談にあづかるとともに公武合体策をすすめていた。時は池田屋事件の直後で、いきりたっていた攘夷派は、学者象山の説をも受けつけなかった。象山、享年52才。  それから5年後の明治2年9月4日、この地の東側にあった旅宿の奥座敷二階で大村益次郎が斬られ、その傷がもとで益次郎は同年11月5日大阪の病院で歿した。  益次郎は周防国(山口県)の生まれ、家は医者であったが、医学とともに西洋兵学を学び、兵学の第一人者となって幕末の長州藩や戊辰(ぼしん)戦争に活躍した。ついで明治政府の兵部大輔となり、封建軍隊にかわる近代兵制の創立に努力した。そのため、不平派士族に襲われたのである。益次郎、享年47才であった。中京区二条木屋町下る一之船入町


佐久間象山先生です。

大村益次郎公です。

 

⑬大村益次郎公遺址碑です。

高瀬川一之船入碑です。昨年行った頑固寿司の所でした。

二条通に出ると、ホテルがありました。西側を北に歩きます。

銅駝美術工芸学校です。

    


⑭木戸孝允旧跡碑が2つあります。

木戸孝允は長州藩出身の明治維新の政治家。天保4年(1833)生まれ、桂小五郎とも称し、のち木戸姓に改める。吉田松陰の門下生で、西郷隆盛、大久保利通らとともに尊王攘夷、討幕運動に指導的役割を果たした。  文久年間から慶応年間の京都の政局は主導権をめぐり激しく動いていた。その中心は朝廷であり御所を核に公卿屋敷が政治の拠点でもあった。この木戸旧邸は、その拠点の一隅に位置し、近衛家の下屋敷を譲り受けて別邸となしたもので木造二階建であった。  明治10年(1877)5月19日、病気療養中の木戸に明治天皇の行幸があったが、同月26日薨去、享年44歳。  妻、松子は尊攘運動のころ、木戸を庇護した芸者幾松である。夫妻の墓は東山の霊山にある。中京区末丸町


その奧に、⑮明治天皇行幸所木戸邸があります。

河原町通に出てみると、京都マラソンが行われていました。(撮影日は。2015.02.15.)

第一走者です。

    

島津製作所のビルとマラソン折り返し地点京都市役所です。

    


ホテル敷地内に、⑯木戸孝允の像があります。


くるっと南側に回ると、⑰長州屋敷址碑がありました。

 

ここまでは、割合に固まっていました。

 

ここから、四条烏丸まで残り4つです。

御池通から御幸町通を南に行くと、⑱藤本鉄石寓居之址碑です。

悲しいかな駐車場の看板と自動販売機の間です。

藤本鉄石(ふじもとてっせき、文化13年3月17日(1816年4月14日) - 文久3年9月25日(1863年11月6日))は幕末の志士・書画家。諱は真金。通称を学治・津之助、字を鋳公。鉄石・鉄寒士・吉備男子・柳間契民・海月浪士・取菊老人・都門売菜翁など多数の号がある。

岡山藩を脱藩し、諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘派浪人と交わり志士活動を行った。大和行幸の先駆けとなるべく大和国で挙兵して天誅組を結成し、吉村虎太郎、松本奎堂とともに天誅組三総裁の一人となる。その後、幕府軍の討伐を受けて天誅組は壊滅し、藤本も戦死した。


古き良き建物ですね。


⑲西川耕藏邸址碑です。理髪店ですね。

西川耕蔵 にしかわ-こうぞう

1823-1865 幕末の尊攘(そんじょう)運動家。
文政6年生まれ。京都の書店主。梅田雲浜(うんぴん)に師事し,安政の大獄で捕らえられた雲浜の妻子をたすける。また天誅(てんちゅう)組に資金を援助した。元治(げんじ)元年池田屋事件で新選組に捕らえられ,2年2月11日処刑された。43歳。名は直純。字(あざな)は正義。号は俛斎。


柳馬場通を南に。⑳楢崎将作邸跡碑

楢崎将作

楢崎家は元は長州藩士であったが、祖父源八郎の時に除籍処分となって京都柳馬場三条南で医者を開業した。父大造も同地で医者を営んでいる。
父を継いで、京都で内科・外科医を営んだ。また青蓮院宮尊融法親王の侍医として召されている。一方で頼三樹三郎らの尊王の志士らと積極的に交流した。そのために安政5年(1858年)安政の大獄に連座して捕えられた。翌年には釈放されるが、文久2年(1862年)京都の自宅で没した。

 

前にあった中国家庭料理のお店です。

錦通を過ぎるとあった風呂屋さんです。

  


㉑菁々塾跡碑が見つかりませんでした。

 

㉒薩摩藩錦小路邸跡碑です。最後です。

歩いても疲れましたが、ブログは、歩いた時間(1時間半)より長い3時間半ほどかかりました。

あ~しんど。


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