谷町線谷町九丁目駅4番か6番出口を出て、北東に行くと交番があり横にテニスコートがあります。
このテニスコートの端に、「青い山脈」の作曲者 服部良一の記念碑があります。
戦後の産んだ明朗青春劇、原節子と吉永小百合で見ました。
その主題歌も、♪若く明るい歌声に~♪は、今でも歌えます。
その一つ北に『東平北公園』があり、薄田泣菫文学碑があります。
薄田 泣菫(1877年~1945年) 平成16年6月改訂 冊子「大阪市文学碑」より
薄田泣菫(すすきだきゅうきん 本名 薄田淳介すすきだじゅんすけ)は、
明治10年(1877年)岡山県浅口郡大江連島村(現倉敷市連島町)に生まれ、昭和20年(1945年)10月9日死去した。
故郷の小高い赤土の松山と遠浅の瀬戸内の海辺での遊びが、彼の自然感と動植物への親近感を育んだ。
玉島高等小学校(現玉島小学校)を卒業し、岡山中学校(現朝日高等学校)に入学したが2年で中退。
明治27年に上京、漢学塾に寄宿しながら上野の図書館に通い、和漢洋の文学書を読み、独学で勉強した。
明治30年、『新著月刊』に投稿した「花密蔵難見(はなみつにしてかくれてみえがたし)」13篇の詩が認められ、
詩壇にデビューした。
明治32年、第一詩集「暮笛集(ぼてきしゅう)」を大阪の金尾文淵堂(かなおぶんえいどう)から刊行、
与謝野鉄幹(よさのてっかん)に高く評価された。翌33年大阪で、金尾文淵堂の文芸誌『小天地』の編集に当たった。
明治34年、第二詩集「ゆく春」を、翌35年、「公孫樹下にたちて」を刊行。さらに、明治38年、第三詩集「二十五絃」を、
翌39年には泣菫一代の名詩集「白羊宮(はくようきゅう)」を刊行し、島崎藤村(しまざきとうそん)、
土井晩翠(どいばんすい)の後を受けて、蒲原有明(かんばらありあけ)とともに代表的詩人となった。
詩人としての活動は、明治41年頃をもって終わりをつげ、一時小説の筆をとり、随筆を多く書いた。
大正元年、大阪毎日新聞社に入社、夕刊に連載した「茶話(ちゃばなし)」は好評を博した。
選抜高等学校野球大会歌の作詞者でもある。
「金剛山(こんごうせん)の歌」は、明治36年『新小説』に発表した作品で、谷町八丁目にある本長寺(ほんちょうじ)に
仮寓していた頃、毎朝早く起きて付近を散歩し、華やかな朝日を浴びて金色に輝く葛城山嶺(かつらぎさんれい)に
感動して歌ったものである。東平北公園(とうへいきたこうえん)のあたりは、その頃散歩した場所と思われる。
墓所は、岡山県倉敷市連島町の自家墓地。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます