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空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

天王寺区 玉造・真田山付近を写真散歩

2015-03-31 23:00:42 | 写真散歩

鶴橋の「雀のおやど」に行く前、少し時間があったので玉造から真田山付近を歩いてみました。


まず最初は、三光神社(さんこうじんじゃ) 以下解説は、天王寺区役所の案内を参考にしました。

三光神社は、古くは月日山神社、後に社地を姫山と呼んだことから姫山神社、明治以後宰相山神社また姫山神社に戻り明治41年境内の全国唯一の中風除けの神、三光宮を合祀してより三光神社と呼ばれるようになった。毎年6月1日から7日まで中風祈願大祭が行われ、全国各地から多くの参拝者が訪れる。
また、古くから三光神社の地に真田の抜け穴の話が伝えられている。慶長元和の大阪の合戦の頃、真田幸村がこの地に偃月城と名付ける塁を築き、大阪城まで通じる暗道を造ったと言い伝えられており、今も「真田の抜け穴」として保存されている。

    

寿老神としてあります。

    

真田の抜け穴わかりますか?写真右、左に抜け穴。右に、真田幸村。

    


西に出ると、墓石が並んでいました。

真田山旧陸軍墓地(さなだやまきゅうりくぐんぼち)です。


この墓地は明治4年の創設で、日本でもっとも早く設置された陸軍墓地である。墓地には西南の役、日清日露及び今次大戦に至る戦没者将兵ら5,300余柱もの墓石が整然と並び霊堂には43,000余柱の遺骨が祀られている。

    


北に出て、西に行きました。

善福寺(ぜんぷくじ) (どんどろ大師) です。


宝亀9年(778)開成皇子が開基したと伝えられる。
善福寺の地にはもと真言宗鏡如寺があった。その本尊弘法大師が俗にどんどろ大師と呼ばれ、どんどろは土井殿の訛(なまり)で昔土井氏の邸宅があったことによるとされている。
戦災前毎月21日は大師参詣で非常な賑いであった。また寺前の通路は近松の名作阿波の十郎兵衛がその子おつるを殺したところとの俗伝がある。

    


南へ歩きました。お寺が、並んでいます。

 

心眼寺(しんがんじ) (まん直(なお)し地蔵) 


元和8年(1622)僧、白牟が創建した寺で、真田幸村父子の冥福を願って建立されたお寺である。門扉に真田家の家紋の六文銭が張りつけてあるのはそのためである。心眼寺には「まん直し地蔵」があり、まんの悪い時に祈願すると効験があると言われている。

    

    

心眼寺


南隣の興徳寺。かわいい地蔵さんと鯉のぼり。

    


大応寺(だいおうじ) (木村兼葭堂(きむらけんかどう)墓所)

寛永元年(1624)僧、証誉の創建。大応寺には木村兼葭堂の墓がある。
物識りの代名詞とまで言われた木村兼葭堂は北堀江の人で、酒造を業とし、坪井屋吉右衛門と名乗った。後藤隠岐守基次(又兵衛)の7世の孫であるという。学問を好み11歳の時片山北海の門に入って漢学を学び、長じては詩・書・文・画に才能を発揮したが、特に物産本尊学について精通していたという。

    

この道は北に向かって坂になっています。

    

東に曲がると、学校がありました。地名にもなっている真田山小学校です。


南に大きな真田山公園が広がっています。

真田山公園は、騎兵第四連隊のあった跡に昭和14年(1939年)に開設され、現在は天王寺スポーツセンター、真田山プール(冬季:アイススケートリンク)、野球場、テニスコートなどのスポーツ施設も整備されている。

    

このあたりは大阪冬の陣(1614年)で真田幸村が活躍した古戦場でもある。公園の北、三光神社の西側には、真田山旧陸軍墓地があり、公園の南東には法円坂の地名で知られる法円が建立したとされる浄照坊がある。


浄照坊(じょうしょうぼう)がなかなか見つかりません。

犬の散歩をしていた方に伺うと、「親父の墓があります。案内します。」と言っていただきました。

戸が閉まっているので、一人では入る事ができませんでした。

 大阪の町は大阪(石山)本願寺のもとに営まれた寺内町がもととなって発展したといわれるように、大阪と本願寺教団の関連は深い。浄照坊は、蓮如の弟子である法円が開いたという由緒をもつ真宗寺院であり、本願寺教団と大阪の関係を考えるうえで重要な多数の史料を伝えている。今も残る「法円坂」の地名は法円の名前を語源としているといわれるが、法円は八尾の慈願寺の6世であり、蓮如の有力な門弟で、摂津・河内・和泉地方での教化に重要な役割を果たした。大阪本願寺の前身となった、蓮如による大阪御坊の建立にあわせて、法円が大阪の通寺として建立したのが浄照坊であるという。

 大阪市内に残る蓮如の時代にさかのぼる真宗関係史料は非常に限られているが、浄照坊にはそのうちのいくつかが伝来している。文明13年(1481)の蓮如裏書を伴う法円画像、蓮如自筆の御文(御文章)3通、蓮如開版の三帖和讃・正信偈、執持鈔文の4点の史料は、いずれも蓮如自身による逸物であり、本願寺教団と大阪の関連を考えるうえで最も重要な史料である。この他に実如が浄照坊3世の栄春に永正元年(1504)に下付した法光画像裏書、准如が慶長19年 (1614)に下付した親鸞画像も残る。また、浄照坊伝来の安土桃山時代から江戸時代の文書を集めた大坂浄照坊古証墨跡は、浄照坊と本願寺とのかかわりだけでなく、大阪の町の様子をうかがい知ることのできる文書を多数含んでいる。享保17年(1732)に浄照坊11世の慈春がまとめた浄照坊来歴も寺史として重要である。
  これらの史料は、いずれも中世から近世にかけての大阪を考えるうえで、極めて重要であり、その意義は高い。

    

    

真田山公園の西を、南から北へ歩きました。

旧騎兵第四連隊の記念碑です。


 

志太野坡(しだやば)墓所 宝国寺(ほうこくじ)


 志太野坡(しだやば)は江戸時代初期の俳人で、松尾芭蕉の有名な10人の門人、いわゆる蕉門十哲の1人である。本姓を武田といい、通称は弥助といった。寛文2年(1662)に越前福井の商家に生まれ、若くして江戸に出て両替商の番頭などをしたといわれており、宝永元年(1704)10月に来阪した。以後現在の中央区農人橋の近くに樗木社を結成し、ここを本拠にして活躍したが、享保7年(1722)に樗木社が類焼したため、翌年、現在の中央区高津付近に浅生庵を新築し、以来、無名庵高津野々翁と名乗った。野坡の俳諧活動は、元禄6年(1693)頃から活発になり、翌年には彼の代表的編著であり、蕉門七部集の一つに数えられる「炭俵」を刊行した。また、野坡はしばしば西国を行脚しており、とくに九州には10回ほど遊歴した。有力な門人が各地に多く、元文の頃には1,000余人にも上ったといわれる。元文5年(1740)1月3日、79歳で没した。主な編著には、「万句四之富士」、「放生日」などがある。

    


北隣にある成道寺(じょうどうじ) 主夜天尊(しゅやてんそん)です。

成道寺を創建した僧袋中(たいちゅう)は徳の高い人でこの地に仮庵を結び説法をしたところ、多くの信者が集まり徳を慕って財を持ち寄り成道寺ができたといわれる。袋中はある時頼まれて沖縄に伝導に出かけたが、その帰路海賊に襲われた。袋中は平然と合掌瞑目し念仏を唱えると不思議や雲中に霊像が現れ海賊は奇瑞に恐れて退散したため生き仏様と崇められたといわれる。袋中はこの像こそ仏法の守護神主夜天に違いないと像を刻んで安置した。像は現在も境内に祀られ盗難除けの神として、「盗っと神様」の名で広く信仰されている。


真田山小学校が見える所まで戻り、西に歩きました。信号の所にあったのが、

契沖旧庵(けいちゅうきゅうあん)並びに墓 円珠庵(えんじゅあん)です。


 明治維新の思想的基盤となった国学は、契沖が江戸中期に中興し、国学4大人といわれる荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真渕(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)が大成したものである。契沖は寛永(かんえい)17年(1640)に尼崎の城主青山氏に250石の禄で仕える下川元金の2子として生れた。下川家は名門で祖父の代には熊本の加藤清正に仕えて5,000石を領し、また伯父は1万石を領する家柄であった。しかし加藤家の改易ののちは一家離散し、父はこの尼崎の青山氏に仕えたのである。11歳の時に今里の妙法寺に入り、13歳で高野山にのぼって修業した。24 歳の時には早くも阿闍梨(あじゃり)の僧位を得ている。これより少し前から彼は生玉の曼陀羅院(まんだらいん)の住職となっているが数年ののちにはこの寺を捨て放浪の旅へ出た。長谷寺や室生寺で修業したと伝えられるのはこの頃である。各地を経て40歳の時、彼の仏教への出発の寺である今里の妙法寺の住職となった。ここでは母と兄を迎えて養ったといわれる。徳川光圀の命により万葉集研究の最高文献であるとされる「万葉代匠記(まんようだいしょうき)」を著わしたのはこの時代である。元禄(げんろく)3年(1690)に母が死去したのを機会に妙法寺を弟子に譲り、契沖はこの円珠庵に隠棲したのである。円珠庵時代の契沖は著述と講義と歌会とに専念したが、元禄(げんろく)14年(1701)、62歳で生涯を終えた。彼は稀に見る記憶力の持主で、5歳の時には百人一首を暗記したといわれ、自分の読んだ書物は克明にメモを残し、それは膨大な量である。また彼の研究態度は和漢の典拠を微細に引証した帰納的、文献学的なものでのちの国語学、文献学の発展に大きく貢献した。この円珠庵に契沖の墓はある。契沖の師であり、親友でもあった下河辺長流(しもかわべながる)(ちょうりゅう)の供養碑もここにある。長流は万葉集注釈を徳川光圀から命じられたが、病(中風という)を理由に自分の代わりに契沖を推挙したものという。契沖の「万葉代匠記」に代匠の文字が入れられている所以(ゆえん)である。

    


鎌八幡(かまはちまん)    
 境内にある小さな八幡宮がそれで、傍の榎の樹に数多くの鎌が打ち込まれている。元和の大坂攻めの時真田幸村はこの八幡宮に必勝を祈願したあと幹に力一杯鎌を叩き込んで武人の決意を表した。以来鎌を打ち込む風習が残り、鎌八幡と呼ばれて信仰されている。榎は二代目で初代の樹は樹齢350年、周囲8尺、高さ8 間といわれたが、戦災に遭い失っている。しかし二代目にも錆びついた鎌や、刃だけのものが数多く打ち込まれ、見ているだけで奇異な感じがする。


中は、写真撮影ができませんでした。


また西に歩き、左の高津中学校に沿って左(南)へ曲がります。

楞厳寺(りょうごんじ) (織田作之助(おださくのすけ)墓所)です。


慶長2年(1597)僧、禅牛の開創である。楞厳寺には織田作の名で親まれ浪速の体臭をもつ小説を発表した織田作之助(1913-1947)の墓所がある。彼の名を一躍挙げたのは「夫婦善哉」である。この小説は千日前の裏手にあたる法善寺横丁のぜんざい屋「夫婦善哉」を背景にミナミで生活する庶民の愛情を風俗的に描いた作品である。織田作之助は大正2年(1913)天王寺区上汐町4に生れ、府立高津中学から第3高等学校文科に入学したが、病気退学の止むなきに至った。そののち新聞記者としてジャーナリストの世界に入り、当初は劇作家を志していた。しかしスタンダールの小説「赤と黒」を読み小説家となることを決意したという。以後「夫婦善哉」のほかの作品で大阪の庶民のねばり強い人生、風俗を描き人気作家の仲間入りをしたのである。しかし読売新聞に「土曜夫人」を連載中、未完のまま36歳の若さでこの世を去った。今でも大阪の文学を語る時、織田作の名を忘れることはできない。母校である高津中学校(現高津高校)には織田作之助記念文庫が設けられている。

    

織田作の墓を見つけることは、できませんでした。


次の観音寺(かんのんじ)をなかなか見つけることができませんでした。

楞厳寺(りょうごんじ)の前の道を捜してましたが、円珠庵(えんじゅあん)から高津中学校の東を南へです。

やっと見つけた時、ご住職が表を掃除されていました。

断りを入れて、写真を撮りました。

観音寺(かんのんじ)

円珠庵から南へ約50m下ったところに、観音寺がある。
当寺はもともとは円珠庵の道をへだてて南側現在の高津中学の位置にあった。しかし昭和20年3月、戦災により罹災し、すべてを焼失した。その後27年には区画整理によって移転を余儀なくされ現在地に移った。
当寺を再興された月海上人は今から約200数十年前、当寺において仏法をおさめられ大変徳高く、上人の説法される場所はたちまち数百人の信者が集まったと伝えられている。毎月21日の弘法大師縁日には多数の信者をひきつれて大師巡りをされたといい、このことから大阪大師巡りの開祖といわれている。

ご住職には、史跡を回って写真を撮っていると申し上げました。


地図を頼りに、梅松院(ばいしょういん)を捜しました。

片山北海(かたやまほっかい)・入江昌喜(いりえまさよし)墓所です。(中には入れませんでした。)


片山北海(1723-1790)は江戸後期の儒学者で、かつ大阪の代表的な詩文家でもある。懐徳堂(かいとくどう)、泊園書院(はくえんしょいん)、梅花社(ばいかしゃ)と並ぶ有数の学舎である「混沌詩社(こんとんししゃ)」は片山北海を盟主とし明和(めいわ)2年(1765)に結成された。そのメンバーは儒者、医師、武士、商人など多彩であり、酒盃を交えながら詩文を練り、韻を探り、作品の出来不出来は、盟主片山北海が裁断したという。
入江昌喜(まさよし)(1722-1800)は、榎並屋半次郎という町人国学者であり契沖(けいちゅう)の学に傾倒し、多くのものを学びとったという。本格的な研究は60歳近くになって、かつ独力で学んだといわれるが、次第に実力をつけ業績をあげ、学者としての名も高くなった。高津の隠居所で読書三昧の生活を送り「幽遠随筆」ほか数多くの優れた著作を残している。(右の写真:北海・昌喜墓所)

    北海・昌喜墓所


上町筋に出ました。

大阪(浪華(なにわ))仮病院(かりびょういん)跡  大福寺(だいふくじ)です。

≪碑文≫
明治2年2月、緒方惟準を院長とし、蘭医ボードウィンらを教師とし、当寺内に浪華仮病院が開設された。現在の大阪大学医学部の前身である。

明治2年(1869)時の大阪府知事後藤象二郎は、本格的な大学校のほか、病院の建設を計画していたが、財政難のため実現できずに仮に設けた病院がこの仮病院である。院長は緒方惟準(洪庵の次男)、主席教授としてオランダ軍医ボードウィンを招き大福寺の施設の提供を受けて、明治2年(1869)とりあえず一般の病気治療と医師に対する新治術伝習のために開かれた。しかし所詮診療所の域を出ることはなく、半年ののち鈴木町代官所跡(現国立大阪病院付近)に移転した。病院に併設された医学校では、諸医学と臨床経験を教授し、西洋医学を日本に定着させるべく努力が続けられたが、この医学校は明治5年(1872) に学制改革により廃校となった。しかしその廃校を惜しむ人々により再興され、のち大阪帝国大学(現大阪大学)医学部及び付属病院へと発展し、その伝統を伝えている。大福寺門前には「浪華仮病院跡」の石柱が建ち、境内には緒方惟準、ボードウィンの肖像をレリーフした記念碑が立てられている。

    

    


南へ歩きました。

実相寺浄土曼茶羅図(じっそうじじょうどまんだらず)

曼荼羅図(まんだらず)とは仏画の一種で、阿弥陀や菩薩など諸尊の像を一定の方式に並べて描いたものをいう。わが国では浄土曼荼羅に、当麻曼荼羅・清海曼荼羅・智光曼荼羅の3種があるとされるが、古くから織物の曼荼羅を絵に写して拝む信仰が盛んであった。実相寺ものは当麻曼荼羅の忠実な模写で、阿弥陀如来と観音・勢至の2菩薩を中心に、極楽浄土の模様が克明に描かれている。丹念な筆の運びで一線一画もおろそかにせず、彩色にも細心の注意が払われていて鎌倉時代仏画の優秀作品とされている。(右の写真:曼茶羅図)

    曼茶羅図


いよいよ最後です。岡田米山人(べいさんじん)・岡田半江(はんこう)墓所  妙中寺(みょうちゅうじ)です。

≪碑文≫

父子ともに大阪の人で、米山人は詩書を作り、また文人画を描いた。半江も詩文書画に長じ、田能村竹田・頼山陽らの文化人と交友し、大阪文人画の指導者であった。

 父米山人、子半江はともに文人画家として名高い。米山人(1744-1820)は儒者として津幡の藤堂侯に仕えたが、独力で元・明・南宋の古画を学び山水画を長じ、簡潔素朴な中に一種の気品を持つ独自の画風を作りあげたといわれる。半江(1782-1846)もまた父と同じく藤堂侯に仕えたが、父の死後は帰阪して画業に専念し柔らかな筆致と鮮やかな墨色で清潤な水墨画を描き、大阪の文人画壇の指導的な役割を果たした。

    


今日の散歩は、天王寺区の資料を基に歩きました。

以前、天王寺七坂も区役所の資料があって歩きやすかったです。

大阪市内の区役所も、町歩きができる資料を提示している所とそうでないところがあります。

町の良さをアピールするなら、町歩きの資料を提示していただきたいです。


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