天気 曇のち雨 夜大雨
朝から眠くて仕方がない。子供の頃から合歓の花が大好き。日暮れになると葉っぱが眠るように閉じるので子供の頃は面白かった。これは昭和記念公園で撮った写真、このあたりにはあまり見かけない。上皇后さまの作詞された「ねむの木の子守歌」が大好き。なぜか、合歓の花は子供の頃の夏休みを思い出させる。
合歓の花母は産婆でありしこと KUMI
母の生前は俳句を始めていなかったので、母が生きている句は全くない。
でも、この句は母の生きた証になる句(一応、主宰の選を受けてます)母は産婆と看護婦の資格を持っていた。その卒業証書を私は形見にもらい、まだ持っている。明治生まれには珍しいことだ。
睡蓮もまた、「睡眠」の字を使う。時間で閉じる花なので、眠い花かもしれない。
台風が近いので、眠くなるのも仕方ない気象現象の一つだろう。なぜか昨夜眠ってから、珍しく幾度も目が覚めてしまった。足元は冷たいのに寝汗をかいていたり・・今日は昼間から眠い、眠い。
熱海の土砂災害から約1年なのだという。去年だったのか・・と、一年の早さを思ってしまう。台風の被害で酷い目に遭ったことはないが、テレビの画面を見ていて小さな体験を思い出すことはある。
子供の頃は房総の海岸に住んでいたので台風の高潮に遭い、床上浸水したことも。もっとも、高潮が来る前に子供たちは勉強道具を持たされ、母の実家へ避難させられた。
翌日帰宅したら、畳が全部ぐっしょりで、障子とともに庭に干されていた。子供には、あまり辛い思い出はない。むしろ、漁師だった隣家の舟で避難したのが楽しい画像になって思い出される。
でも一度だけ、高校生になってから床下浸水ながら、忘れられない嫌な思いをした。
中学3年から高校にかけて、父の仕事の都合で四国に住んだことがある。台風なんて滅多に来ない瀬戸内海側の街だったのに・・台風が来た。川が溢れたのか、高潮だったのか覚えていないが、表通りより少し低い土地にあった平屋の宿舎、床下浸水したのだ。ぎりぎり、床上までいかなかった、という状況で。
朝起きたら、玄関が大変なことになっていた。下駄箱の履物と、玄関の脇の汲み取り式トイレ(当時はどの家も当たり前だった)の内容物とが、同じ水面にプカプカ浮いている。あ、私の通学用の革靴も~~~~
(写真は眼の保養に)
今も、あの日の「悲劇」は時々思い出す。靴は履く気にならず、廊下の戸棚にあって無事だった体育に使う運動靴を履いて通学した。貧乏な家に革靴を又買うお金がなくて、母はその靴をきれいにしてくれたけれど・・私はもう、履かなかった。通学は運動靴で通したのを覚えている。
街の出水した風景をTVで見るたびに思い出す「水害」だ。たいした「悲劇」でもないのにねえ。
街の音どつと湧きたる昼寝覚め KUMI
幸、浸水の経験はないです
まっ!災害はどれもこれも嫌ですけどね(;^ω^)
私は人生で3回大きな災害を経験しました
年度ははっきり覚えていません
10代の頃、呉に住んでいましたが、スゴイ台風で
死者が沢山出ましたね
呉はすり鉢の街なので、中心地に水があつまり
大変なことになり、集まったのは水だけでなく
聞くところによると遺体も・・・
断水して水をもらうのに苦労をしました
それまでもおばさんは苦手でしたが
水をもらうのに行かされて、並んで待っていて
おばさんの図々しさといやらしさをその時、嫌と
言うほど味わい、トラウマになってしまいました
又30代のころやはり台風で兎に角すごかった
風も雨も・・仕事帰り社屋を出て駐車場まで
会社前の大きな通りを渡らないといけないけど
何かにつかまっていなければ、吹き飛ばされ
そうで1歩1歩踏みしめながら渡ったのを覚えています
又、帰りの道は信号がほとんどついてなくて
風で揺れてるし、🚙はのろのろ運転だから
なかなか進まないし、橋の上で止まっていると
左隣りのジュラルミンの大きなトラックが
風にゆ~らゆ~らと私の方に揺れて、倒れて
来わしまいかとびくびくもんで、前の車に早く
進んでくれぇぇぇ~と祈りましたね
そして40代のころ地震です
家にもヒビが幾つも入ったり、瓦が落ちたり
しました
我が家の唯一の金目の物の【備前焼の壺】が
付き合いで仕方なく買って1か月も経っていない
のに、家に帰ると落ちて割れてました(T_T)
2度あることは3度あるって言いますが
3度あったので、これでもう勘弁してほしいです
壺はもったいないことでしたが、大ごとにならず良かったですね。