白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

「インド哲学と仏教哲学の探求」からatom氏の実践part2

2006-11-12 00:30:23 | Weblog
part1の続きである。

3140 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/06 00:15

解脱など今の時代の多くの者には不要だ。
と言うより実現不可能だろう。
なんら、某サイトではコメントを見る限り思考の解脱もまったくしていない欲界の人を、成就者として取り扱いされ紹介されていたし。

人々は何のために宗教をやっているのだろう。
依存心を満たすためか。
そんなものをやりながら一生を終わるのだろうか。

いっそ宗教などから綺麗さっぱり足を洗って、全く精神世界とか宗教とか無関心になって、地に足つけて現実を精一杯生きてみたら私は良いと思うのだ。

依存心に振り回される人々、そのような者が苦悩から脱する道は無い。
自分の理想にしたがって現実を精一杯生きた人間こそが、次のステップとして人間の内面に向かえるのだろう。
それ以外の者は、依存心で一生を終わるのに違いない。
後で振り返った時、無駄に年を重ねた、後悔の残る人生になるのだろうな。

善を為す、人の為に生きる、人への思いやりその他云々、これらの正体は、結局それ自身を捨てるために、釈迦が縁起と言う技法で説いたものだったのだから。
それらは、思考をただ捨てる方法があったなら、それと全く同質のものだったのだ。

世の人は何のために、解脱法が存在しない宗教をやっているのだろうか。
一生を依存心で生き、それで終えるだけなのに、恐らく最後まで自立出来ない人々か。

3141 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/06 23:13

さて、某おままごと教団と言っては悪いが、出家と在家、激流を突破するのに出家と在家どっちが効果的かという問題だが、実践法を工夫すれば、はるかに在家の方が効果的に激流を作り出し、突破する道が開かれると私は判断する。

ゆっくりのったり行きたい者は出家すればいいだろう(どちらにしても、おままごと教団では無理だがね)。
理由は簡単だ、実践者が出来上がった、そもそもの原因が、その実践者の現状の環境の中にあるからなのだ。
その環境の中で的を得た解脱法を実践するなら、速やかに解脱の激流を作り出すことに繋がる。
自分の現環境こそが、その者のカルマの集大成なのだ、その環境で実践することが一番効果的だ。

出家はそこから背を向けて別の場所へ行ってしまう事を意味するものでもある。

現環境こそ、その者自身だ。
その環境の中で今までと違うパターンを作り出す実践が行われるなら、最もその者に適した効果的に激流を作り出すことに繋がる。
現環境こそ、その者のカルマの集大成の結果なのだから。

私は出家などしていたら、5年も6年も思考の解脱に掛かったことだろう。いや、もっと延々と年月を費やしたかもしれない。
実際に出家した者を知っているが、その者は何ら解脱をものに出来なかったのだ。

私がわずか2年~3年間に効果的に激流を作り出し、かなりの解脱が果たせたのは、現環境に背を向けずそれを逆利用したからに他ならない。

特に人間社会は色々な方向性の者と接触が起る。それを利用すれば効果的に激流が作り出せるのだ。
特に肉親だ。
自分のパターンは主に肉親から来ているのだから、慎重に接し方を考えればかなり効果的に、自分自身をそげ落とすことが出来る。
背を向けて自分が出来た根本原因の現環境から遠ざかったら、遠回りと私は言う。

出家ではこれは無理だろう。

私はよく実践時思ったものだ。出家の方がよほどにか楽だったに違いないと。
楽と言うことは、年月を何倍も費やすことを意味するのだ。


3142 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/07 00:01

解脱と言うものはそもそも、多くの大衆向けのものでは無い。

生きとし生ける者たちの至福のために、命を捨てるくらいの覚悟が無い者は、まず物には出来ないことだろう。

解脱とは生きていることに価値を見出せず、自殺するよりも、その命を使って人々の為に解脱を試してみようかなと言う私のような物好きしかやれないものなのだ。

なお、私は実践時、肉体的苦行により、肉体にまつわる思いとの分離の実践を取り入れた。
自分の肉体を惜しがるようなものに解脱が物に出来るとは、とても私には思えない。
思考の解脱と言えど、そんなに甘いものではないのだ。
そういう者は、初めから解脱など考えないことだ。

夏には夏の苦行(タパス)。
冬には冬の苦行(タパス)。

釈迦は仏典の中で効果的なタパスを勧めている。


増支部経典5-191
「もし、バラモンがタパスを行ない、それによってその人の善い性質が減り、悪い性質が増すようであれば、私はそのようなタパスをしりぞける。しかし、それによって善い性質が増し、悪い性質が減るようであれば、私はそのようなタパスを勧める」


私がどんな苦行(タパス)を取り入れたかは、真似するものが表れても命の保障が出来ないので、伏せておくことにする。
私は冬には苦行(タパス)のおかげで、冬季間中は爪が変形した。
しかし、夏のタパスの方がはるかに生命に危険があったことだろう。

私はよく思ったものだ、神が私を生かそうと思うなら私を生かすことだろうと。
ただし、あのタパスが無かったら、私は反対に発狂していたかもしれない。

3143 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/07 00:15

今は本当に快適だ。

確かにあの時あの数年は地獄の日々が有ったのだが、あまりにも今普通に快適に何の苦悩も無く楽々と当たり前すぎで、私は前に何かしたんだろうかとそんな毎日だ。

私は信仰も宗教も持っていない、しかし、毎朝親の真似して神棚と仏壇に思いのこもらない見せかけの手を合わせ、お盆にはお墓参りに行き、クリスマスにはケーキを食べる。とても快適だ。


3146 返信
Re:「小悟」に至る実践法 atom 2006/11/08 00:40

>もし、独力で「禅定」できるならば、やってみたい気がします。

禅定は八正道の八番目、つまり仏教では一番の決め手を為す部分だ。
禅定のポイントは、無思考を実現する方向で進むんだ。

だが、もっとも効果的な禅定とは、発狂スレスレの危険なものなのだ。

だから、EO氏など賢者は恐らく書籍などでは、明らかにしていないさらに効果的(危険な)技法が密かに一部に伝えられてたりするのでは無いかと思うのは私だけかな。

>(もっともEO流「死人禅」は恐ろしくてできませんが。)
>アドバイスいただければ幸いです。

EO氏も一般に明らかにしているものは、比較的危険の少なそうなものでそこそこには効果があるものでは無いかと私は思うのだ。
まず、それをやってみたらどうだろう。


実は私もこの一番の決め手の部分は、私のオリジナルなもので危険がとても強く、このようなネットの掲示板で公に出来るようなものでも無かったりする。つまり、発狂と背中合わせな部分がある禅定だ。今は薄めてレクレーションのように行っているが、そのままでやれば存在の解脱まで行ってしまうが、あえて今はそこまでするつもりも無くのんびり少しずつ進んでいる。

まずは、ただ黙って座る黙想から始めて見たらどうだ。
それでも30分出来れば、最初は上出来かな。
(私は時間さえあれば5時間でも6時間でも快適に座れるが。)

禅定は日常の実践と相互関係にあるものだ。
禅定で辿り着いた意識状態で、日常も過ごすようにすると良いだろう。
また、日常の実践で禅定がさらに効果的に出来るようになるんだ。


3147 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/08 01:23

>> 出家はそこから背を向けて別の場所へ行ってしまう事を意味するものでもある。

>ただ出家というものを一括りにして、こう断定してしまうのも、ちょっと無理があるよ
>うに思います。
>やはり、様々の個々の人それぞれのカルマによって、異なってくるものでしょう

もし、彼岸を渡る解脱を物にしたいなら、私にはあの出家と称するグループレッスンは全くのお遊びに思えるものだ。
自分の実践の理解者など周りにいたら、それだけ大幅に解脱の妨げとなる。

在家の環境の中で次の要素を取り入れただけで、最大の実践上に変わる。
それはかなりの激流となる。
同じ志を持つものに囲まれた、出家環境ではこれは無理だ。
これは、在家の環境で、自分だけが実践している場合に最大の効果をあげる実践法なのだ。

1.自分の日常遭遇する全ての人に逆らわず、意見せず従順に振舞う。

2.たとえ年下の者に対しても、自分が世の中で一番下の者のように、他の者にたいしては神に接するように敬いながら接する。


激流の作り出せないお遊びの実践で、彼岸へは渡れはしない。

3148 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/08 01:26

なお、彼岸に渡る激流とは思考中毒の禁断症状を超えると言う意味なのである。

彼岸に渡る、それは激流だ。

麻薬を楽しむ人間が麻薬をやめる、それよりきついんじゃないか。
もっと思考して楽しみたい(ただし苦しみと繰り返しの背中合わせだが)、楽しみたいのにそれをやめるのだ。

解脱修行で思考中毒の禁断症状として、どんどん心は灰色になっていく。
思考したい思考して楽しみたい(苦悩と繰り返しで背中合わせだが)、苦しい苦しいよと心は灰色になっていく。
麻薬中毒者が麻薬を絶たれて苦悩するように。

だが、実践者は思いを灰色にしてはならない。
意識して、喜ばなければならない。
顔に微笑を浮かべて。

激流の彼岸に渡る実践中は、思いは意識して喜んでいなければならないのだ。

おれは、とても喜ぶ心境じゃないんだなどというやつは、初めから実践などやめてしまえ。

理由は、それは心が灰色なら、意識してその心(の灰色)との同化を断ち切る実践のためだ。

やがて禁断症状が終われば、快適な毎日が待っているのだ。
なお、繰り返すが彼岸に渡る実践とは決して大衆向けのものではないので、よほどの物好き以外は志さない方が無難だろう。

3155 返信
Re:atomさん、 atom 2006/11/09 23:20

>やはり、さとるためには「禅定」は必要なのですね。

>日常的な実践だけでさとりに至る方法ってあるのかなあ、と漠然と思っていたのです
>が、atomさんの場合も「禅定」はやっておられたと。

基本的には激流の彼岸に渡る(思考の解脱)には、禅定がなくても渡れない事は無いだろう。
参考までに四つの福音書のイエスの教えがそれだ。
しかし、どんな禅定でも取り入れればそれだけ、彼岸の激流を渡りきれる可能性が高くなるのだ。

ただし、彼岸に渡る激流だ、どんな方法でも少しでも効果的なものがあれば取り入れてやろうと言う気構えが無い者は初めから脱落者だな。
釈迦は彼岸の激流を渡る方法は出家者に説いて、在家者には主に生天を説いたんだ。
バカでもちょんでも彼岸の激流が渡れるなら、釈迦も全てにそれを説いたことだろう。
激流の彼岸(思考の解脱)、そんなに甘いものじゃない。

>ところで、「彼岸」に渡る激流って、本当にすごそうですね。
>私にはやはり無理かなあ、と。
>何たって思考中毒ですし、それで「食べて」いるようなものですから。
>しかし、私なりに、日常生活の中で、己の心を浄化するよう「善」をなし、他者に対し
>て敬意を持つ実践を続けていきたいと思っています。

まずそうだな、精一杯理想主義者をやることだ。
精一杯やって意義を感じ、思いっきり楽しんで、やがて八方塞にぶち当たる。
精一杯やった、でも思考の限界だ、もう先に進むことが出来ない、この地点まで思考の生き方の限界に挑戦することだ。
彼岸を渡る実践はそれが第一条件だ。


ダンマパダ183
「諸悪莫作  衆善奉行  自淨其意  是諸仏教」 
「しょあくまくさ  しゅぜんぶぎょう  じじょうごい  ぜしょぶっきょう」   
諸々の悪をなすことなく、衆々の善を奉行し、自らのこころを浄める、これ諸仏の教えなり。


この教えが仏教の全てだ。
この教えの中の「諸々の悪をなすことなく、衆々の善を奉行し」だけを生きる理想とすることだ。
「自らのこころを浄める」の部分を全く無視しろ。
そうすれば完璧に理想主義者だ。
私もこれを長くやった。

これは激流ではない、とても意義が感じられ楽しいものだ。
功徳もつめることだろう。
これは彼岸の激流を渡る方法ではないが、このステップは重要だと思う。


3156 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/10 00:01

>> 在家の環境の中で次の要素を取り入れただけで、最大の実践上に変わる。
>> それはかなりの激流となる。
>> 同じ志を持つものに囲まれた、出家環境ではこれは無理だ。
>> これは、在家の環境で、自分だけが実践している場合に最大の効果をあげる実践法な
>>のだ。
>>
>> 1.自分の日常遭遇する全ての人に逆らわず、意見せず従順に振舞う。
>>
>> 2.たとえ年下の者に対しても、自分が世の中で一番下の者のように、他の者にたいし
>>ては神に接するように敬いながら接する。

>たしかに、「それはかなりの激流となる。」ということでしょうね。
>言葉では、かんたんに、言うことが出来ますが、いざ、このことを実践しようとすると
>必ず、自己のプライドというか、エゴが頭をもたげてきますからね。

それが狙いなんだよ。
プライドもエゴも頭を出してくれなければ、それらから同化を解除する(解脱する)道は現れないのだから。
効果的にプライド、エゴこれらが出てきてくれる方法が最も抜群の彼岸に渡る実践法なのだ。

>人類の歴史、5000年か一万年か知りませんが、いまだに戦争が止まないというの
>は、つまるところ、この人間のエゴを滅することができないがため、ということが出来
>るのではないでしょうか。


見方を変えれば、我々は戦争のおかげでまとまれたとも言えるのだ。
たとえ戦争と言えども、現象だけを捉えて、エゴ云々は語ることは出来ないのが実際のところだが、これは我らの視点だから、戦争が悪いと言う判断があるのなら、自分が加担しないようにすれば良い。

私が語る方法は、エゴを除く効果面だけではなく、個人のカルマの集大成とも言える現環境を最大限利用して、カルマをクリアーにしていく行為も兼ねているのだ。

釈迦はこの宇宙の全てがカルマで成り立っていると述べている。


増支部経典3-135
比丘らよ。いまアラカン(真人)であり、正しい悟りを開いた者である私も、業論者であり、行為論者であり、精進論者である。比丘らよ、愚人マツカリは『業は存在しない、行為は存在しない、精進は存在しない』といって、私を批難している。

スッタニパータ654
世間は業によって存在し、人は業によって存在する。生命あるものは業に結ばれていて、それはちょうど進み行く車がくさびに(結ばれている)ようなものである。


私以上の者ならだれでも自分の前世くらいは想起しているものであるが、カルマとは単純に言えば、やったら今度は、自分がやられる立場になると言うものだ。
実はイエスがこのカルマについて福音書で実にみごとに説き明かし、カルマを綺麗にしながら越える方法を述べているのだ。


マタイの福音書7―1~5
さばいてはいけません。さばかれないためです。
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
兄弟に向って、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。



もしも、理不尽なことを人からされて、それを理不尽だ相手は何と悪いやつなんだと判断したら、意業が生じ、次は、来世などで自分が人に対して横柄な態度を取る環境が出現し、人からあいつは理不尽だ何と悪いやつなんだと捉えられるような現状になり人から恨みを受ける、単純に言えばこれがカルマの繰り返しだ。

ところが、イエスが説くように、人から理不尽と思われるような事をされても、その相手を悪いやつだと判断しなければ(さばかなければ)、それがカルマの繰り返しの堂々巡りを解除する方法になるのだ。人をさばけば、やがてあなたもさばかれる時が巡ってくる、これがイエスのカルマに対しての教えだ。


新約聖書 マタイの福音書 5‐38~42

『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。


目には目が帰ってくるし、歯には歯が帰ってくる、これがカルマだ。
だから、イエスは目には目で返すな、歯には歯で返すな、と教えた、これがカルマを説く方法だ。

つまり、私は出家環境ではなく、カルマの実現した現、在家環境こそがイエスの教え通りに、その自分のカルマに背を向ける事無く、前向きにカルマをクリアーしながらエゴを落とせる、効果的な彼岸に渡る「激流の実践の場」になると説いたのだ。


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