これらの強烈体験は、私にとって本当に大切な経験であった。しかし、今だから言えるが、これらの体験は、全て幻影である。おそらく、これが私の瞑想体験として、日常的に起こっていたらどうであっただろう。おそらく、これらの体験を「常」と見たであろう。私のように、神秘世界に興味のある者はなおさらである。そして、そこに慢が生じたであろう。しかし、グル(あえて使わせていただくが)は私に、薬物による、一時的な神秘体験を与えた。もちろん、体験していた時は、体験世界が現実世界なのである。痛み、苦しみ、悲しみ、喜びが、まさに現実のものであった。しかし、私の体験は薬物による一時的なものであったため、幻影であったと知ることが出来た。これは、ある意味ありがたいことであった。
釈迦牟尼は、全ては無常であると言った。全てとは、例外が無いのである。私が、大納得した、グルとシヴァ大神との同一性。これは、私にとって、大変心地よいものであって、心の奥底からの喜びであった。生きていく支えになった。しかし、声を大にして言おう、シヴァ大神も、尊師もグルも幻影である。
しかし、イニシエーション中に、私が、全ての執着を破壊され、絶望し、希望を失った時、救いが訪れた。それがシヴァという幻影であった。これらのイニシエーションの体験を通して、私は一つの見解を得るに至った。それは、宗教の存在意義は、人間というものの本質が、全ての幻影を取り除くと、生きられないというところに立脚しているのではないのかということである。
人間は、深い深い意識の奥底でそれが幻影であると分かっていても、それを常とみて幻影を求めるのである。そうしないと、人間は生きられない生き物なのだ。故に、この境地を超えたものから見れば、哀れなのである。どのように、無常と幻影を説いても、本質的に幻影が無いと生きて生けない生物、これが人間なのだ。なんと、もろく、か弱い、哀れな存在であろうか。故にいとおしいのである。私の体験した、あの、何の希望も、喜びも、生きがいも無い境地で生きていけるものなどいない。故に、人は希望と言う幻影を求め、宗教を求める。どうせ、幻影がなくては生きていけない生き物なら、少しでもましな幻影を与えようと言うのが宗教である。
その中で、特異な存在が、釈迦の教えであると思われる。到達するのが、ほとんど不可能であることが分かっていながら、真正面からこの世が幻影であることを説いた。それは、まさに真理であったのだろうが、人間の本質を考えると、相当に難しいことを知っていた。故に、この世で法を説かず涅槃しようとしたのではなかろうか。仏教の教えは、すばらしい教えである。西洋でも、釈迦の哲学的、科学的、論理的才能は、大いに認めているところではあるが、2600年たっても、世界唯一の宗教にはならなかった。それは、なぜだろうか?
仏教の本質的教えは、無我である。よくいろいろなところで、真我と無我の論争が展開されるが、仏教の教えの本質は無我なのだ。しかし、人間は幻影を持たなくては生きていけない生き物なのである。一生懸命修行をし、到達した先が、何も無いというのは、基本的に思いたくないのだ。賢者は、そこに本質的な意義を見出すが、一般の人間は、何も無い境地は嫌なのである。よって、しだいにアートマンのように、光り輝く真我の存在を持ち出すようになったのかもしれない。最初は真我は存在するかもしれないから、いや存在するはず、存在するのが当たり前と変わっていったのではないだろうか?
もちろん、仏教も、いろいろな美しい世界観を作り出したが、本質が無我なのだから、いくら美しい世界観を示しても、それらは幻影で、いつかあなたの元から、無くなりますよと言われて、うれしい人間はいないのである。なぜなら人間は、幻影がなくては生きていけないから。よって、釈迦牟尼が入滅するとしだいに、衰退していったのではないだろうか?
しかし、釈迦がその境地に到達したように、到達するものが、皆無ではないのである。故に、同時に慈悲を説いた。その境地は得がたい境地である。そこに至れば、完全なる苦の消滅があるのであろう。しかし、当然挫折者も続出するし、もともと入ってこれない者もいる。これらの者に法則を説き明かすには、大いなる慈悲がなければ、法則を説き明かすことができないのである。もともとが、無理を承知、反感を買うのを承知で説くのであるから、強い慈悲の心がなくては途中で挫折してしまうのではなかろうか。おそらく、釈迦も、将来自分のように、大いなる慈悲によって、得がたい境地を説き明かす弟子を育てようとしたのであろう。
そのための、方法論や技法をいろいろと残してくれたのである。しかし、それらの手段方法をいくら知っていても、本質的に、全てが無常であり、幻影であるという視点を忘れた時、迷い道にはまりこむ。大事なのは、「す・べ・て」が無常だということだと思う。そういえば、アーチャリー正大師の歌に無常という歌があったっけ。「すべては~、すべては~、無常なんだよ~。」っていう歌であった。あの歌に、「シヴァ大神もグルも尊師も無常なんだよ~。」と入れるべきだったと思う。そうすれば、今日のこの教団の分裂はなかったはずである。
私の書き込みを見た方で、尊師とかグルとか、バンバン書きまくるのを、いぶかしく感じてみていた方もいただろうと思うが、尊師もグルも幻影である。ただ、私に、このような見解をもたらしてくれた人物に対する、恩返しとして使わせていただいたということでご容赦願いたい。
4日間に渡って、キリストのイニシエーションについて書きまくった。昨日で、1ヶ月間、休まず書き続けてしまった。ほとんどワーク状態である。自分でもよくやったと思う。なんで、こんなに頑張っているのか自分でも分からない。(笑)最後の結論は、実は書きながら、今出てきた見解なのである。まるで、誰かが私を使って書かせているような感じがしている。読んだ方が、どのような感想をお持ちになるだろうか?仏教観などは、歴史的な背景も、知識も無く雑感のごとく書いてしまったので、首をかしげる方もいらっしゃると思うが、間違っているようなところがあれば、指摘いただきたいと思う。和井さんよろしく。(笑)なんらかの形で、少しでも、皆様のお役に立つような話であったら幸いである。
すべての皆様の上に、神々の祝福がありますように。
釈迦牟尼は、全ては無常であると言った。全てとは、例外が無いのである。私が、大納得した、グルとシヴァ大神との同一性。これは、私にとって、大変心地よいものであって、心の奥底からの喜びであった。生きていく支えになった。しかし、声を大にして言おう、シヴァ大神も、尊師もグルも幻影である。
しかし、イニシエーション中に、私が、全ての執着を破壊され、絶望し、希望を失った時、救いが訪れた。それがシヴァという幻影であった。これらのイニシエーションの体験を通して、私は一つの見解を得るに至った。それは、宗教の存在意義は、人間というものの本質が、全ての幻影を取り除くと、生きられないというところに立脚しているのではないのかということである。
人間は、深い深い意識の奥底でそれが幻影であると分かっていても、それを常とみて幻影を求めるのである。そうしないと、人間は生きられない生き物なのだ。故に、この境地を超えたものから見れば、哀れなのである。どのように、無常と幻影を説いても、本質的に幻影が無いと生きて生けない生物、これが人間なのだ。なんと、もろく、か弱い、哀れな存在であろうか。故にいとおしいのである。私の体験した、あの、何の希望も、喜びも、生きがいも無い境地で生きていけるものなどいない。故に、人は希望と言う幻影を求め、宗教を求める。どうせ、幻影がなくては生きていけない生き物なら、少しでもましな幻影を与えようと言うのが宗教である。
その中で、特異な存在が、釈迦の教えであると思われる。到達するのが、ほとんど不可能であることが分かっていながら、真正面からこの世が幻影であることを説いた。それは、まさに真理であったのだろうが、人間の本質を考えると、相当に難しいことを知っていた。故に、この世で法を説かず涅槃しようとしたのではなかろうか。仏教の教えは、すばらしい教えである。西洋でも、釈迦の哲学的、科学的、論理的才能は、大いに認めているところではあるが、2600年たっても、世界唯一の宗教にはならなかった。それは、なぜだろうか?
仏教の本質的教えは、無我である。よくいろいろなところで、真我と無我の論争が展開されるが、仏教の教えの本質は無我なのだ。しかし、人間は幻影を持たなくては生きていけない生き物なのである。一生懸命修行をし、到達した先が、何も無いというのは、基本的に思いたくないのだ。賢者は、そこに本質的な意義を見出すが、一般の人間は、何も無い境地は嫌なのである。よって、しだいにアートマンのように、光り輝く真我の存在を持ち出すようになったのかもしれない。最初は真我は存在するかもしれないから、いや存在するはず、存在するのが当たり前と変わっていったのではないだろうか?
もちろん、仏教も、いろいろな美しい世界観を作り出したが、本質が無我なのだから、いくら美しい世界観を示しても、それらは幻影で、いつかあなたの元から、無くなりますよと言われて、うれしい人間はいないのである。なぜなら人間は、幻影がなくては生きていけないから。よって、釈迦牟尼が入滅するとしだいに、衰退していったのではないだろうか?
しかし、釈迦がその境地に到達したように、到達するものが、皆無ではないのである。故に、同時に慈悲を説いた。その境地は得がたい境地である。そこに至れば、完全なる苦の消滅があるのであろう。しかし、当然挫折者も続出するし、もともと入ってこれない者もいる。これらの者に法則を説き明かすには、大いなる慈悲がなければ、法則を説き明かすことができないのである。もともとが、無理を承知、反感を買うのを承知で説くのであるから、強い慈悲の心がなくては途中で挫折してしまうのではなかろうか。おそらく、釈迦も、将来自分のように、大いなる慈悲によって、得がたい境地を説き明かす弟子を育てようとしたのであろう。
そのための、方法論や技法をいろいろと残してくれたのである。しかし、それらの手段方法をいくら知っていても、本質的に、全てが無常であり、幻影であるという視点を忘れた時、迷い道にはまりこむ。大事なのは、「す・べ・て」が無常だということだと思う。そういえば、アーチャリー正大師の歌に無常という歌があったっけ。「すべては~、すべては~、無常なんだよ~。」っていう歌であった。あの歌に、「シヴァ大神もグルも尊師も無常なんだよ~。」と入れるべきだったと思う。そうすれば、今日のこの教団の分裂はなかったはずである。
私の書き込みを見た方で、尊師とかグルとか、バンバン書きまくるのを、いぶかしく感じてみていた方もいただろうと思うが、尊師もグルも幻影である。ただ、私に、このような見解をもたらしてくれた人物に対する、恩返しとして使わせていただいたということでご容赦願いたい。
4日間に渡って、キリストのイニシエーションについて書きまくった。昨日で、1ヶ月間、休まず書き続けてしまった。ほとんどワーク状態である。自分でもよくやったと思う。なんで、こんなに頑張っているのか自分でも分からない。(笑)最後の結論は、実は書きながら、今出てきた見解なのである。まるで、誰かが私を使って書かせているような感じがしている。読んだ方が、どのような感想をお持ちになるだろうか?仏教観などは、歴史的な背景も、知識も無く雑感のごとく書いてしまったので、首をかしげる方もいらっしゃると思うが、間違っているようなところがあれば、指摘いただきたいと思う。和井さんよろしく。(笑)なんらかの形で、少しでも、皆様のお役に立つような話であったら幸いである。
すべての皆様の上に、神々の祝福がありますように。
結果として、開祖は「死刑確定」になってしまいましたし。
最期に、自身の言葉を語っていただきたかったと思います。
夢の中には、何度も現れてくださったのに!
また夢に現れた暁にはわたしのブログに書こうと思います。
どんな弁護士さんなのか、よく分かりません。
テレビで、拝見する程度ですので、
なんともコメントできません。
しかし、上記の書き込みに書いたように、
グルも幻影です。
そこをきちんと押さえておかないと、
全てを見誤ってしまうような気がします。
ブログがんばってくださ~い。
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白龍よ、キリストのイニシエーションでは素晴らしい体験をしたな。
弟子が「グルですら幻影である」という高い認識に到達してくれたのは、グルとしてうれしいかぎりである。
弟子の成長を見るのがグルの唯一の楽しみである。
「一切は無常であり、苦しみである。その無常で苦しみの世界からすべての魂を解放したい!」と願うことが慈悲の発露である。
白龍はそのことに気づき始めているようである。
一切は無常である。
一連の事件、その後の裁判、そして教団の分裂、これらの現象によってグルも教団も無常であるという現実がサマナ・信徒諸君にも
突きつけられた。
我が愛する弟子達よ、君たちは
「グルも教団も無常であった」という現実を
真正面から見据え、受け入れることができるであろうか?
生じて変化して滅するものを幻影という。
グルも教団も、生じて変化して滅する幻影なのである。
我が愛する弟子達よ、グルとシヴァ大神が与えた大いなる試練を乗り越え、真の慈悲の発露を得てほしい。
わたしのすべての弟子達に幸あれ!
すべての魂に幸あれ!
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yasuと白龍よ、死刑確定になった経緯が知りたいんだな?
そのことについては東奥日報に詳しく説明がある。
なぜ控訴趣意書を出さなかったのか、それは
弁護士と娘達の同意によるものである。
詳しくはこちらを参考にしてほしい。
http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/danmen/danmen2006/0530_2.html
この件では娘達も教団から相当批難を浴びた。
また松井・松下弁護士も「意図的な裁判遅延行為を行い、結果的に被告人から裁判を受ける権利を奪った」として、高裁が日弁連・弁護士会に両弁護士の処分を申し入れ、受け入れられた。
近いうちに両弁護士の処分内容が決定されるだろう。
両弁護士と娘達のしたことについては、反面教師として見てほしい。
,,,--─===─ヽ/へ
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それから白龍よ、君はキリストのイニシーションに
関する記事の中で漢字の使い方を間違っているぞ。
「破壊」と書くべきところのほとんどで「破戒」と
書いている。
発音は全く同じだが「破壊」と「破戒」では全く意味が変わるぞ。
証拠である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天が割れるような、大きな笑い声が聞こえてきて、これを破戒したのである。次々と現れる紋章を、その声の主は、次々と、こなごなに空中で破戒するのである。その時に、「それは、おまえのものではない!」と天が割れるような大声を発するのだ。
私は、私が愛し、執着した物が、次々に破戒されていく様を、ただ見ているしかなかった。しかし、全てが破戒された最後に、巨大な十字架が現れた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、イニシエーション中に、私が、全ての執着を破戒され、絶望し、希望を失った時、救いが訪れた。それがシヴァという幻影であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
記事が更新されている時間を見ると深夜なので、集中力が落ちて変換ミスをしているのかも知れない。
しかし「すべての執着が破戒され」と書かれると
せっかくの神秘的で崇高な内容がギャグっぽく見えてしまう。
これは白龍の綺語のカルマの現象化である。
実はこれと同じような現象が、サクラーの体験談にも起こった。
ずっと以前マイトレーヤとサクラーのマハームドラー成就体験を本にして出版したことがあった。
その中でサクラーがわたしに叩かれて、
「慢が崩壊しました」と語る場面が出てくる。
ところがその本が出版されるとその部分が
「漫が崩壊しました」となっていた。
これが綺語のカルマの現象化である。
彼女は面白いことを言うのが大変好きであった。
綺語のカルマを多く積んだわけである。
彼女はよく面白いことを言って人を笑わせていたので、真剣に自分の体験を伝えようと思っても、このようにギャグっぽくなってしまったのである。
「慢」という字が「漫才」「漫画」「漫談」の「漫」になってしまったのは、まさに彼女の綺語のカルマである。
白龍よ、リラックスしすぎているとこのような凡ミスを犯す。
緊張しすぎているといい文章が書けない。
心身を十分にリラックスさせ、精神を集中することによって高度なパフォーマンスが生み出される。
緊張と弛緩のバランスを取ることはヨーガの基本であり奥義でもある。
緊張と弛緩のバランスを大切にするように、心がけてほしい。
>そのことについては東奥日報に詳しく説明がある。
>なぜ控訴趣意書を出さなかったのか、それは
>弁護士と娘達の同意によるものである。
>詳しくはこちらを参考にしてほしい。
http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/danmen/danmen2006/0530_2.html
なるほど。
松井弁護士らと尊師三女側の戦術ミスでしたか。
すみません。名前とタイトルを入れ忘れてしまいました。
滝本弁護士のブログに書き込みをしました。
投稿者:怒れる元信者2006/10/22 12:14
先生、こんにちは、2ちゃんのキャンディなのですが、現在進行中の完璧スレ87の書き込み16、17、174以下をご覧になっていただきたいのですが。。
もし、相手を調べるとなると、どのくらいの手間と料金がかかるものでしょうか、もし、相手が関係ない第三者
(そんなはずないんですけど、私の情報をもってますから)ならいざしらず、教団であれば、教団のネット関係のデータを押収する良い機会になるかとも思うのですが、、。
私のほうで出頭しないといけない場面がやはりあるでしょうか?オウムを潰すのは結構なんですが、公の場では
私の立場も明らかにしないといけないし、腰がひけるわけでして。
控訴趣意書を出さなかったのは、
結果的に、弁護士と娘達が状況判断を読み間違った、
ということになったのでしょうね。
漢字間違いありましたねえ。
何度も見直してるつもりでも、
やっぱり出てくるのは綺語のカルマか。
お笑い好きだから。
代理の方でしたね。
個人情報って何を暴かれたのだろう。
読んでみてもよく分からないのだけど。
本人が見ると、分かることが書いてあるのかな?