吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライ男の随想 四十五

2005年12月12日 16時35分49秒 | Weblog
カウライ男の随想 四十四
カウライ男の随想 四十五

 三重県の松坂出身のご両親で、父は宗洞宗中学をでてすぐ永平寺で三年の修行したのち東京府下、西多摩の海林寺という大きい古刹に住職として赴任するはずだったのにねこのような山寺にだまされて来たのよ…とU先生の母は挨拶のあとに言った。
 庫裏のに続く離れの裏は竹林だった。離れから本堂に渡り廊下が続いている。
 軸はまんまるい模様の墨書で円窓と言うそうだ。
 円は宇宙を表わし、宇宙即禅の悟りとなるらしい。
 床に、桔梗の紫花がいけてある。これは学校でU先生から教わってしっていた。
 まい床の間の軸をみて、生けた花に一礼して正座した。
 すぐ隣はU先生だ。                            
 香の匂いがしたがU先生ではなく、部屋全体の匂いで、伽羅(キャラ)という香木の王様をたいたと言う。              
 最初に出てきたのは最中だった。戦時中ではもはや珍しい生菓子である。       そしてつぎに筒茶碗のそこに粥状の抹茶がでた。
…どうぞそのまま召し上がれ!…。
 言われるままに口をつけて吸った。
 苦さの中に香ばしい抹茶の香りがした。
 紀州、松坂から取り寄せた銘茶で青の露と言う銘でございます…。
 私は思わず…ヘヘェとなった。
 生まれて十八才、初めていただく茶の湯の抹茶である。
…この茶入れは古瀬戸の肩衝で、母の寺にふるくから伝来したものでございます…。
 歴史にあった織田信長が論功行賞に土地の代わりに与えたと言う茶入れが脳裏をよぎった。こんな小さな入れ物のどこにそんな値打ちがあるのだろうか…。

カウライ男の随想 四十四

2005年12月12日 15時25分36秒 | Weblog
カウライ男の随想 四十四

 栗平の夜は五軒の農家はほのかなランプの灯りがまるで小さな火魂のように浮かんで静寂そのものだった。囲炉裏の窓から満天の星がきらめいてO君の手紙にある…カントの夜の輝ける空…を思い出させた。
 私はいつも朝に炊いた御飯を夕方もどってから、囲炉裏に薪をくべ、茶を沸かしてほとんど漬物でお茶漬け飯をたべるのである。一度、福生陸軍飛行場の気象観測をしている兄が訪ねて来て…こんな食生活するのなら、帰高しなければ栄養障害を起こすぞ!…と厳しい叱責をうけた。しかし、週に一度はU先生が野菜や肉の缶詰を持参して栄養補給をするので、何とか健康は維持できた。
 O君から貿易商社をいとなむ華僑の家庭教師をやって食生活が再び西峰時代に戻ったとのハガキが舞いこんだ。
 ある日の放課後、学校の囲炉裏でU先生の点じたお茶を一服ご馳走になった。
 禅寺なので母が若い頃から学んだ遠州流の点前と言う。
 茶碗は備前焼の筒茶碗でこれも母が娘時代によく使った茶碗と言った。
 私は初めて拝見した備前焼きのわびに満ちた釉の変化の美のとりこになった。
 日本にもこんなに優れたやきものがあったとは…驚きだった。
 それまで美術好きな私は美術の本でふるい縄文や弥生土器、そして須恵器などを写真でみていたが手にとってみたのははじめてだった。
…今も母上様はお茶を…?と訊ねた。
…はい、週に一度は離れでお点前しますわ…。
…ちょっと質問…おてまえをどうして点前と書くのですか?…。
…知らないわ…今度の日曜日にいらっしゃい、学校前の正沢川を少し上ったところのお寺 よ…。
 そんな約束である日曜日に正沢寺に行った。
 禅宗の寺格は二十四級とかで禅では最高が百級の芝、高輪の泉岳寺と言う。奥多摩の寒村の北小曽木では檀家もわずか九十軒しかない。父も学校に勤め、つい三年前に北小曽木の校長を定年退職したばかりだ。