吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライ男の随想 四十一

2005年12月05日 13時37分55秒 | Weblog
カウライ男の随想 四十一

…まさに天国と言える西峰の自然と大地と教え子達の純粋な精神はいつまでも心に残る…今、僕は君が西峰時代にいつも首をつっこんでいた哲学に関心を持ち始めたのは。例の西田幾太郎にうるさい同級生や教授の『絶対矛盾的自己同一』について僕は不消化でまさに下痢をおこしてしまったが君はどう思うか?…商大予科に入った理由は君が知ってるとおりあくまで高等学校、一高か三高卒資格が欲しかったのだ…勿論、学部は東京帝大の法学部にしぼっている…そして将来は政治家か法律家になる積もり、J中学退学の素行審査で官立高等学校はアウトになるので…しかしいずれにしても、今の戦争状態は危惧しなければならない…もう勉強どころでない気がするが君はどう考える…。そんな内容の手紙だ。O君が商大予科をねらった理由は私はとっくに知っていた。始めは甲南高等学校(私立)をねらったが商大予科のほうが難関だし、当時、官立で大学予科があるのは北海道帝国大学予科ぐらいで、寒さに弱いO君は神戸をえらんだのである。
 高等専門学校の学生達にたいして総力戦のキャッチフレーズはつぎから次とだされていた。
…武士道とは死ぬこととみつけたり…全国の若者達は命を国にささげることが使命と心のそこにしみわたっていた。
 私は相変わらず自己の死について、正直、いずれ軍隊にはいり、どこかの戦場で死をとげる覚悟はできていたが、なお、現実の生き方のなかに青春を強く意識もしていた。
 毎日がそんな厳しい精神との現実に、ただ子供逹の天心爛漫な気持ちにせっする間だけが幸せにかんじていた。
 だれにもあかさなかったが、軍隊にはいり戦争で死を迎え、国体を守る華となる意味はなんだろうか!O君はそう叫びたかったに違いない。

カウライ男の随想 四十

2005年12月01日 13時35分20秒 | Weblog
カウライ男の随想 四十

 夏目漱石って胃が悪かったのですね!それでいらいらして書いた小説もあるんでしょう…生半可な読み方をしていた私は勝手な想像をしていたが、まさに噴飯ものの批評ぶりだ。
…結局。芸術の世界が最高と言いたかったんでしょう!…これはU先生のかんがえかた。
…情にはだれでもほだされるわ…とK先生。
…住み憎い世の中って厭世哲学にあったよ…それがこうじて我が身を切り刻むギリシャ哲学の本を読んだよ…とこれはわたしの発言。 とにかくもう一度、ハイケンスを聞きましょう。
 そんな職員室の雰囲気が毎日続いた。
 U先生の妹は女子医専志望で府立九女の優等生でS大尽家の娘も同級である。
 わたしは時々数学問題の解答を教えただけだった。
 どうしても上を狙うのならもう一段のレベルが必要だったが次郎の教師は頼まれて成績をあげたが娘は頼まれたわけでもないので…たまにそんなことがあっただけである。
 受け持ちの生徒で府立農林を志望してるのが三人いた。
 やはり四国の西峰と違って奥多摩の山村とは言え、林業を営む家の生徒は裕福な家庭なので進学するのである。
 奥多摩では唯一の中等学校なので希望者も多く競争率も厳しかったので特別学習時間をもうけた。
 父兄も心配と見えて、時々、学校へ届け物をしてくれる。そのほとんどが食糧品だった。
 四国の落人のドブロク攻めには縁がなかったがなにしろ食べ盛りの十八才…自炊生活に大助かりだった。
 神戸商大のO君も食糧には苦労してる…西峰を思うとあの頃は天国だった…との手紙がきた。