吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウライ男の随想 三十

2005年11月02日 11時42分06秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 三十  
 
 翌日の放課後、校長はいち早くO市に戻って職員室ではもう恒例になった各クラスの問題児童の出来事を話し合った。U先生もK先生も二人ほど問題児を抱えて悩んだりまた楽しい出来事を話したりした。私のクラスでは軍平がその対象になっている。
 一里ほど南に高等科学級のあるN国民学校があって小曽木からも五人ほどN校に通っている。
 軍平が時々頬や足に擦り傷してやってくる。
…転んだのか軍平!…と私が訊ねてもにやにやするだけだった。
…先生のクラスの軍平くん、坂下で時々、高等科の俊治という手に負えない乱暴生徒にいじめられているわ!と坂下から通ってくるK先生が言った。
 俊治は村の青年も手を焼く体格が人並み以上の高等科の生徒だ。 私はむらむらと腹がたった。軍平は身体が不自由の上、知能おくれだった。
 私は高等科の下校時間をみはからい坂下の小道で俊治の下校をまち伏せしてると軍平が左右に身体を揺すりながらやってきた。 そこへ俊治が姿を見せると軍平は慌てて道の端に身体を寄せようとして転んだ。俊治はまるで軍平に恨みでもあるかのように棒きれを持って軍平の肩を叩いたと同時に私は小道から飛び出した。
…お前が犯人か!すぐ手をついて軍平に謝らんかい!と叱った。
…お前、誰だ!ひっぱたたかれてもいいか!…。
…ハハハ、馬鹿者!オレは柔道二段の若者よ!なにっ!俊治がいきなり棒をふった。
 棒をよけるがはやいか飛びこんで腰払いをかけた。
 あっと言う間に俊治は投げ飛ばされて小石に頭をぶっつけて悲鳴のような声をあげた。
 俊治!こんど軍平いじめたら腕をべしおるぞ!私は土佐弁で告げた。

カウライ男の随想 二十九

2005年11月02日 10時58分10秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十九  
 
 茂助は複式教育のせいですでに六年生の実力を持つ少年で学校前のいつも埃りのたつ道に沿った農家の一人っ子である。二階の手摺はいつも埃で真っ白になっている。父が五年前に肺結核で亡くなった母子家庭だがとても明るい子だった。E校長のカツラを発見したのも茂助だった。…先生よ!オレ、困っちまっただわ…校長先生!と声かけたら校長は慌てて起きる時にカツラを逆様にかぶってしまっただわ…オレおかしくて弱っただわ!と急用ができて茂助をO市まで使いにだした時に戻ってそんな報告をしたのだ。
 西峰時代を思い出させるように茂助は朝倉へ私が行く前までほとんど毎晩のように私の住宅にやってきて遊んで帰るのだった。この山村では薩摩だけが豊富にあった。
…先生!一、二年教室の屋根に時々お化けが歩くっちゅうぜ!ミシミシ音立ててよ!ある日茂助が言った。…馬鹿者!この世に化け物なんかおらん!風がふいて古い屋根がきしむ音じゃ!と一笑にふした。その日から十日ほどして私は不思議な体験をした。
 答案作成で遅くまで職員室に残り住宅に戻った月夜のことだった。 ふかした薩摩を食べてすぐ布団にもぐりこんで間もなく、玄関の障子がガタガタ音をたて始めた。その音は次第に激しくなったのでパッと電気をつけた。
 静寂が戻った。私は猫か犬でも玄関にいるのだろうと思ってガラス戸をいきなりあけた。ふと見上げた旧校舎の屋根は月光で白く輝いているほか、一切の気配がない。
 電気を消してふたたび横になって十分ほどするとさっきと同じ障子のガタガタ振動する音が聞こえた。音はしだいに激しくなってくる。私はいきなり立ち上がって電気のスイッチをひねると同時に障子を開けた。鼠一匹、猫一匹も見えない。いったいだれが、なにものが障子を振動させたのか謎だ。
 その夜、私は電気をつけっぱなしにして横になった。

カウライ男の随想 二十八

2005年11月02日 08時55分08秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十八  
 
 私は教員住宅といっても一軒屋で玄関とは名ばかりの学校前の住まいに入っていた。六畳一間の狭い住まいだったし、自炊とはいっても主食はわずかの配給だし、副食としてタクアン一本と梅干しだけで食べていた。戦時中とは言え、四国に比べて雲泥の食生活を強いられていた。…こんな食生活を続けたら病気になるぞ!いったん高知へ戻ったら…と兄が心配して言う。
 そんな矢先、突然、天麩羅の土産をいただいて眼を疑った。
…じつは今年O農林へ入った次男の勉強のことでお邪魔しました…突然ですが次郎のお勉強を見ていただきたいと思いまして…。
…そうですか、やりましょう、今夜、お伺いしてよろしいですか?。 私は天麩羅を頭に浮かべて考えもせずに答えた。
 家庭教師を頼むとはよほどの金持ちに違いない…と私はその夜、S家を訪れた。事前にU先生からS家は奥多摩第一の山林王と教えられた。
 鬱蒼と茂る欅の樹齢は数百年はあろうそのかたわらに山門があり、右側の二階は恐らく下男部屋にちがいない格子窓が見えた。
 私は途中で思い切って家庭教師で通うより下宿させて貰おうと考えていた。にこにこ顔で白髪の老婆が私に深くお辞儀してくれた。 家族は細面でやや神経質な感じの祖父と婦人の夫は金持ち独特の威張った表情に見え、農林学校一年生の次郎とその弟の国民学校一年生の寅男、府立九女にかよう次女の七人のほか、女中のカヨと小僧の四郎が裏の人足長屋に住んでいる。
 私は思い切って下宿させていただけないか…と切り出した。
…たいへん結構ですが、主人がなんと言うか明日、ご返事させてくださいませんか…と婦人から鄭重な返事をいただいた。
 その頃私になついていた五年生の茂助が朝倉と言う屋号の村一番の大盡家に下宿しようとする私に…先生!朝倉行くのかぁ!オレつまんねぇぜ!まったくぅ!と口とがらして怒った。

カウライ男の随想 二十七

2005年11月02日 04時58分33秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十七  
 
 教え子に軍平という成績の悪い子がいた。小曽木にいたる小さな峠から曲がりくねった坂道の途中の掘っ立て小屋が斜面にへばりついているような家の子だ。彼はその上、左足が短く、歩くのに不自由していた。藁草履の尻にすれた藁がやっとついている。
 もし配給があたってもその代金は支払えない家庭だった。
 私は自転車に乗ってO町にでた。
 サッカリン製の今川焼きを求め、靴屋を訪れた。
 勿論、代金をはずんで闇靴を一足、手にいれた。
…旦那の弟さんだべ…この寸法では…ゴマ塩頭の主人が言った。
…いいえ北小曽木の国民学校からきました…教え子の靴です…。
…ほう!小曽木はたしかE校長でしょう…。
…知ってるんですか?…。
…ええ時々靴を買いに来られますよ…。
 私は主人のはっとした顔を見逃さなかった。
 E校長は靴の横流しをしている。
 つぎの配給の時だった。K先生から割当数を教えて貰っていたので…校長先生!五、六年生は大きいので草履はぼろぼろ、靴の踵もつぶれ、爪先から指がでてる子ばかりです…今度は十五足お願いします!と頭を下げた。
…なんとか事務所に申請して余分にとるから!…と意外な返事。
…Y先生!私の父が校長の時、出張費は毎月、六、七円でしたのに E校長はその二倍以上でしょう、これもあやしいわねぇ!…とU先生がつぶやいた。彼女の父は寺の僧侶で私が赴任する二年前に退職していたのだ。
 ある日、体操を終えて子供逹と水洗い場で足をあらっていると、着物姿の妙齢な眼のぱっちりした婦人に声かけられた。
…これほんのすこしばかりですが、お召しあがってくださいな…。 と風呂敷包みを開いて天麩羅の香りのするものを差し出した。

カウラィ男の随想 二十五

2005年11月01日 15時28分48秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十六  
 
 東京府といってもどの家庭も半農、半山林労働で食べている寒村である。
 貧しい家庭が多く小作農家の師弟が半分近い。
 食糧が豊富だった四国にくらべ奥多摩山村は斜面の多くは麦畑か芋畑で水田はほとんど見当たらない。
 近くに府立のO農林学校があるが進学する生徒は西峰よりは多いがやはり余裕のある家庭の子供にかぎられている。
 戦時中のことで子供逹の履物は藁草履と配給のゴムシユーズである。
 その配給靴で問題が起きた。
 私は気ずかなかったが一、二年担任のK先生から指摘されてわかったのは、彼女の友人が隣村の国民学校の教師をしていて、三村地区の配給割当数の責任者だったのでK校の割当数(生徒数から)が判明したのである。私の担任学級の五、六年生は男女全部で三十名、本来なら五足の割当があるはずなのに三足しかなかった。
 全校で十五足のうち、校長から示された数が十一足しかなかった。 私は若かったが唯一の男性教師なので教頭代理を勤めていた。 二人の女先生から知らされて私は校長に、
…先生!ちょっと質問しますが…学校への靴の配給割当が十五足なのに十一足しかこないのは何故ですか?と訊ねた。
…なにを言うか、失敬な!君には関係ないことだ!学校への配給はこの私が責任者だぜ!なにを根拠に言うのか!と激しい怒りで答えた。私も文書の根拠がないので言葉につまった。
 K先生の話だと各学期ごとに配給があってこの学校へは年に四十五足だと言うのだ。
 校長の頭は禿頭でかカツラをかぶっている噂はのだれしも知っていると言う。
 私はその話を聞いてなるほどと思った。

カウラィ男の随想 二十五

2005年11月01日 13時05分34秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十五  
 
 私の兄は陸軍気象部所属の軍属で気象観測のラジオゾンデを飛ばしていた。
 勤務先は福生の陸軍飛行場なので近くの青梅に下宿していた。
 東京で頼れる身内は兄だけだった。
 私は早速、府の地方事務所へ行って、国民学校助教の申請をした。 視学は最初に奥多摩の氷川町にある大きな国民学校の同じく高等科の欠員を示した。そこへあらわれたのが隣村の北小曽木国民学校のE校長である。A教頭が出征するので欠員補充に事務所を訪れたのだ。
 これもひとつの出会いだ。たとえそれがもし悪い出会いにしても仕方がないと私は誘われるまま返事をした。校長は話術にたけた人物でその学校は複式教育実施校に指定され、教師としてのやり甲斐のある現場を熱心に説いた。
 辞令のおりるまでと私は青梅町の兄の下宿から一里半の道を歩いて小曽木の学校見学に行った。
 なるほど、平屋の校舎の古いほうが一棟、新しいのが渡り廊下をはさんで一棟の簡素な学校で校庭で遊ぶ生徒数も百人たらずである。 これでも東京府に属するのだ。
 ちょっと風変わりな校長は青梅町からかようのに乗馬できたり、たまにはその頃、珍しいオートバイに乗ってきたりで通常の学校長のイメージがわかない人物だった。
 一月ほどして風変わりの校長の正体が見えてきた。
 週、三日ほど出張と称して学校に来ない。
 助教の女教師二名、裁縫教師一名と私だけの教員で、私は五、六年生、U先生は三、四年生、K先生は一、二年生の複式教育だった。 国史は同じ教科書、国語や算数はべつべつなので教室の半分にそれぞれ五、六年生がわかれて座り、私が五年生の算数を教えている間は、六年生は自習といった具合に授業を進めるのだ。

カウラィ男の随想 二十四 

2005年11月01日 09時29分30秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十四  
 
 私にとって西峰は別天地だった。かけがえのない青春をおもいっきり羽をのばし羽ばたいたつもりだったし、O君のような秀才で豪快な生き様の人間にも恵まれて悔いはなかった。
 一年が三年にも五年にも感じられる充実した日々だった。
 未成年の私なのに好きな酒(どぶろく)に恵まれ、山村独特の食べ物にも不自由もせずすごしたことを感謝せずにはいられない。
 不思議な因縁もある。
 私の実家は西峰のある東豊永村の西、西豊永村、大砂子の番所 (街道の関所)のオカタヤシキ、略してオカタが屋号だった。
 豊永にオカタヤシキを名乗る屋号は七軒あったが…もっとあったかも…いずれも京都から嫁をとった家につく屋号である。
 曾祖父の象之丞(きさのじょう)は西峰の三谷家(土居番所の名門)から大砂子番役として養子にきた人物であり、その曾孫の私が偶然、百年たって西峰国民学校に赴任したのもなにかの縁であろうか…。
 私が子供の頃、母は…祖母ちゃんは京都の公家さんから大砂子に嫁に籠に乗ってきたぞね…と言った。その籠は実家の大広間に今もある。
 しかし吉松の子孫は代々不運にあっている。
 私はその原因が番所の役目とは言え人を切った罪業のせいと思っている。                           高知、万々にある本家は江戸時代、山内藩、江戸留守居役も勤めた高知の名門だった。遠い親戚には明治の海軍大将も輩出している。 しかしその血を受けた私の現実はどうなのか…すへてが過去世の宿業と知るには三十年もの歳月が流れた。
 三月の末、私とO君は豊永駅で子供逹に見送られて、O君は神戸へ、私は東京へ旅立った。

カウラィ男の随想 二十三 

2005年11月01日 08時38分06秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十三  
 
 大本営は十二月三十一日、ソロモンの主島、ガダルカナルから軍の撤退を発表。
…開戦一年目にしてこうなったとは…O君は深刻な表情で告げた。 彼の頭脳は冷静に戦況を分析している。
…君のお父さんが朝鮮の役所にいた頃、どんな仕事じゃった?とある時私は訊ねた。小樽にいた中学三年生の頃、F高等女学校生で朝鮮の美人が姉の友達にいて、時々家に訪ねてきたので淡い憧れに似た感情を抱いていた。
…姉の話によれば彼女の両親が亡くなって小樽、龍徳町で材木店を営む伯父にひきとられて来たと言う。もとは朝鮮で両班と呼ばれる貴族の家柄で名は李順淑(イスンスク)で日本名は高山桔梗と姉は言った。
…親父は文部関係の部署にいて、各道の州役人と連絡をとり朝鮮の教育関係組織の研究をしよったと聞いちょったが…。とO君は答えた。…この間の青磁もそんな関係で貰うたんやな…。
…だろうと思うが、わしにはさっぱり分からんきのう…。
『日本陶磁史』なる本が職員室の書棚の隅においてあった。
 だれも見てないらしく、頁をめくると新しい印刷の薫りがした。 私の本能が騒いだのか、その本を一晩で読み終えた。
 すると今まで歴史に出てきた須恵器が朝鮮から伝わったやきもの技術の影響で七百年も西国地方を中心に焼かれていることを知った。…お前は美術に詳しいのう、上野ねらったらどうや!お前の嫌いな数学試験はないきのう…とO君は言った。
 私は上級学校への進学は九割かたあきらめていた。理由は自信がないのもひとつだが、肝心の学費問題でどうにもならなかった。
 私はもう一年、西峰に残ろうとおもったが、タヌキ精神のM校長はまだ転勤しない情報を耳にして、思い切って東京にでることにしたのだ。