吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウラィ男の随想 二十四 

2005年11月01日 09時29分30秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十四  
 
 私にとって西峰は別天地だった。かけがえのない青春をおもいっきり羽をのばし羽ばたいたつもりだったし、O君のような秀才で豪快な生き様の人間にも恵まれて悔いはなかった。
 一年が三年にも五年にも感じられる充実した日々だった。
 未成年の私なのに好きな酒(どぶろく)に恵まれ、山村独特の食べ物にも不自由もせずすごしたことを感謝せずにはいられない。
 不思議な因縁もある。
 私の実家は西峰のある東豊永村の西、西豊永村、大砂子の番所 (街道の関所)のオカタヤシキ、略してオカタが屋号だった。
 豊永にオカタヤシキを名乗る屋号は七軒あったが…もっとあったかも…いずれも京都から嫁をとった家につく屋号である。
 曾祖父の象之丞(きさのじょう)は西峰の三谷家(土居番所の名門)から大砂子番役として養子にきた人物であり、その曾孫の私が偶然、百年たって西峰国民学校に赴任したのもなにかの縁であろうか…。
 私が子供の頃、母は…祖母ちゃんは京都の公家さんから大砂子に嫁に籠に乗ってきたぞね…と言った。その籠は実家の大広間に今もある。
 しかし吉松の子孫は代々不運にあっている。
 私はその原因が番所の役目とは言え人を切った罪業のせいと思っている。                           高知、万々にある本家は江戸時代、山内藩、江戸留守居役も勤めた高知の名門だった。遠い親戚には明治の海軍大将も輩出している。 しかしその血を受けた私の現実はどうなのか…すへてが過去世の宿業と知るには三十年もの歳月が流れた。
 三月の末、私とO君は豊永駅で子供逹に見送られて、O君は神戸へ、私は東京へ旅立った。

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