吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウラィ男の随想 二十五

2005年11月01日 15時28分48秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十六  
 
 東京府といってもどの家庭も半農、半山林労働で食べている寒村である。
 貧しい家庭が多く小作農家の師弟が半分近い。
 食糧が豊富だった四国にくらべ奥多摩山村は斜面の多くは麦畑か芋畑で水田はほとんど見当たらない。
 近くに府立のO農林学校があるが進学する生徒は西峰よりは多いがやはり余裕のある家庭の子供にかぎられている。
 戦時中のことで子供逹の履物は藁草履と配給のゴムシユーズである。
 その配給靴で問題が起きた。
 私は気ずかなかったが一、二年担任のK先生から指摘されてわかったのは、彼女の友人が隣村の国民学校の教師をしていて、三村地区の配給割当数の責任者だったのでK校の割当数(生徒数から)が判明したのである。私の担任学級の五、六年生は男女全部で三十名、本来なら五足の割当があるはずなのに三足しかなかった。
 全校で十五足のうち、校長から示された数が十一足しかなかった。 私は若かったが唯一の男性教師なので教頭代理を勤めていた。 二人の女先生から知らされて私は校長に、
…先生!ちょっと質問しますが…学校への靴の配給割当が十五足なのに十一足しかこないのは何故ですか?と訊ねた。
…なにを言うか、失敬な!君には関係ないことだ!学校への配給はこの私が責任者だぜ!なにを根拠に言うのか!と激しい怒りで答えた。私も文書の根拠がないので言葉につまった。
 K先生の話だと各学期ごとに配給があってこの学校へは年に四十五足だと言うのだ。
 校長の頭は禿頭でかカツラをかぶっている噂はのだれしも知っていると言う。
 私はその話を聞いてなるほどと思った。

カウラィ男の随想 二十五

2005年11月01日 13時05分34秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十五  
 
 私の兄は陸軍気象部所属の軍属で気象観測のラジオゾンデを飛ばしていた。
 勤務先は福生の陸軍飛行場なので近くの青梅に下宿していた。
 東京で頼れる身内は兄だけだった。
 私は早速、府の地方事務所へ行って、国民学校助教の申請をした。 視学は最初に奥多摩の氷川町にある大きな国民学校の同じく高等科の欠員を示した。そこへあらわれたのが隣村の北小曽木国民学校のE校長である。A教頭が出征するので欠員補充に事務所を訪れたのだ。
 これもひとつの出会いだ。たとえそれがもし悪い出会いにしても仕方がないと私は誘われるまま返事をした。校長は話術にたけた人物でその学校は複式教育実施校に指定され、教師としてのやり甲斐のある現場を熱心に説いた。
 辞令のおりるまでと私は青梅町の兄の下宿から一里半の道を歩いて小曽木の学校見学に行った。
 なるほど、平屋の校舎の古いほうが一棟、新しいのが渡り廊下をはさんで一棟の簡素な学校で校庭で遊ぶ生徒数も百人たらずである。 これでも東京府に属するのだ。
 ちょっと風変わりな校長は青梅町からかようのに乗馬できたり、たまにはその頃、珍しいオートバイに乗ってきたりで通常の学校長のイメージがわかない人物だった。
 一月ほどして風変わりの校長の正体が見えてきた。
 週、三日ほど出張と称して学校に来ない。
 助教の女教師二名、裁縫教師一名と私だけの教員で、私は五、六年生、U先生は三、四年生、K先生は一、二年生の複式教育だった。 国史は同じ教科書、国語や算数はべつべつなので教室の半分にそれぞれ五、六年生がわかれて座り、私が五年生の算数を教えている間は、六年生は自習といった具合に授業を進めるのだ。

カウラィ男の随想 二十四 

2005年11月01日 09時29分30秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十四  
 
 私にとって西峰は別天地だった。かけがえのない青春をおもいっきり羽をのばし羽ばたいたつもりだったし、O君のような秀才で豪快な生き様の人間にも恵まれて悔いはなかった。
 一年が三年にも五年にも感じられる充実した日々だった。
 未成年の私なのに好きな酒(どぶろく)に恵まれ、山村独特の食べ物にも不自由もせずすごしたことを感謝せずにはいられない。
 不思議な因縁もある。
 私の実家は西峰のある東豊永村の西、西豊永村、大砂子の番所 (街道の関所)のオカタヤシキ、略してオカタが屋号だった。
 豊永にオカタヤシキを名乗る屋号は七軒あったが…もっとあったかも…いずれも京都から嫁をとった家につく屋号である。
 曾祖父の象之丞(きさのじょう)は西峰の三谷家(土居番所の名門)から大砂子番役として養子にきた人物であり、その曾孫の私が偶然、百年たって西峰国民学校に赴任したのもなにかの縁であろうか…。
 私が子供の頃、母は…祖母ちゃんは京都の公家さんから大砂子に嫁に籠に乗ってきたぞね…と言った。その籠は実家の大広間に今もある。
 しかし吉松の子孫は代々不運にあっている。
 私はその原因が番所の役目とは言え人を切った罪業のせいと思っている。                           高知、万々にある本家は江戸時代、山内藩、江戸留守居役も勤めた高知の名門だった。遠い親戚には明治の海軍大将も輩出している。 しかしその血を受けた私の現実はどうなのか…すへてが過去世の宿業と知るには三十年もの歳月が流れた。
 三月の末、私とO君は豊永駅で子供逹に見送られて、O君は神戸へ、私は東京へ旅立った。

カウラィ男の随想 二十三 

2005年11月01日 08時38分06秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十三  
 
 大本営は十二月三十一日、ソロモンの主島、ガダルカナルから軍の撤退を発表。
…開戦一年目にしてこうなったとは…O君は深刻な表情で告げた。 彼の頭脳は冷静に戦況を分析している。
…君のお父さんが朝鮮の役所にいた頃、どんな仕事じゃった?とある時私は訊ねた。小樽にいた中学三年生の頃、F高等女学校生で朝鮮の美人が姉の友達にいて、時々家に訪ねてきたので淡い憧れに似た感情を抱いていた。
…姉の話によれば彼女の両親が亡くなって小樽、龍徳町で材木店を営む伯父にひきとられて来たと言う。もとは朝鮮で両班と呼ばれる貴族の家柄で名は李順淑(イスンスク)で日本名は高山桔梗と姉は言った。
…親父は文部関係の部署にいて、各道の州役人と連絡をとり朝鮮の教育関係組織の研究をしよったと聞いちょったが…。とO君は答えた。…この間の青磁もそんな関係で貰うたんやな…。
…だろうと思うが、わしにはさっぱり分からんきのう…。
『日本陶磁史』なる本が職員室の書棚の隅においてあった。
 だれも見てないらしく、頁をめくると新しい印刷の薫りがした。 私の本能が騒いだのか、その本を一晩で読み終えた。
 すると今まで歴史に出てきた須恵器が朝鮮から伝わったやきもの技術の影響で七百年も西国地方を中心に焼かれていることを知った。…お前は美術に詳しいのう、上野ねらったらどうや!お前の嫌いな数学試験はないきのう…とO君は言った。
 私は上級学校への進学は九割かたあきらめていた。理由は自信がないのもひとつだが、肝心の学費問題でどうにもならなかった。
 私はもう一年、西峰に残ろうとおもったが、タヌキ精神のM校長はまだ転勤しない情報を耳にして、思い切って東京にでることにしたのだ。