吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

カウラィ男の随想 二十五

2005年11月01日 13時05分34秒 | カウライ男の随想
カウライ男の随想 二十五  
 
 私の兄は陸軍気象部所属の軍属で気象観測のラジオゾンデを飛ばしていた。
 勤務先は福生の陸軍飛行場なので近くの青梅に下宿していた。
 東京で頼れる身内は兄だけだった。
 私は早速、府の地方事務所へ行って、国民学校助教の申請をした。 視学は最初に奥多摩の氷川町にある大きな国民学校の同じく高等科の欠員を示した。そこへあらわれたのが隣村の北小曽木国民学校のE校長である。A教頭が出征するので欠員補充に事務所を訪れたのだ。
 これもひとつの出会いだ。たとえそれがもし悪い出会いにしても仕方がないと私は誘われるまま返事をした。校長は話術にたけた人物でその学校は複式教育実施校に指定され、教師としてのやり甲斐のある現場を熱心に説いた。
 辞令のおりるまでと私は青梅町の兄の下宿から一里半の道を歩いて小曽木の学校見学に行った。
 なるほど、平屋の校舎の古いほうが一棟、新しいのが渡り廊下をはさんで一棟の簡素な学校で校庭で遊ぶ生徒数も百人たらずである。 これでも東京府に属するのだ。
 ちょっと風変わりな校長は青梅町からかようのに乗馬できたり、たまにはその頃、珍しいオートバイに乗ってきたりで通常の学校長のイメージがわかない人物だった。
 一月ほどして風変わりの校長の正体が見えてきた。
 週、三日ほど出張と称して学校に来ない。
 助教の女教師二名、裁縫教師一名と私だけの教員で、私は五、六年生、U先生は三、四年生、K先生は一、二年生の複式教育だった。 国史は同じ教科書、国語や算数はべつべつなので教室の半分にそれぞれ五、六年生がわかれて座り、私が五年生の算数を教えている間は、六年生は自習といった具合に授業を進めるのだ。

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