聖なる書物を読んで

現役JW29年目

マッテヤとパウロ

2018-09-06 | エホバの証人
12番目の使徒は、マッテヤかパウロか。
ユダ・イスカリオテが堕ちた後の使徒職は、どちらが受け継いだとみるのがよいのか。

う~ん・・・旧約的にはマッテヤ、新約的にはパウロかなぁ・・・
う~ん・・・形式的にはマッテヤ、実質的にはパウロだなぁ・・・

正直、自分的にはどちらでもいいのだけれど・・・重要なのかな?
もし重要なことだったら、復活して弟子たちに表われた時、イエスが決めてたんじゃないかなぁ。なにしろ一晩中祈って決めた12人だったんだし。

洞察は12人目はマッテヤになってる。でもパウロも使徒として認めてるんだね。
ということは、エホバの証人的には、12人目はマッテヤだけどパウロも使徒、という教義になるけど、兄弟姉妹のみなさん、これ知ってた??

マッテヤが任命された経緯は、聖書を調べて、今の状況に当てはめて、神に祈ってくじを引く、というもの。つまり、聖霊に導かれている組織(自称)がしているのと同じ方法※(くじは違うかな?でも案外やってたりしてw)だった。
この時はまだ、ペンテコステで聖霊が注がれる前だったのにね。(あれれ??統治体のみなさんは油注がれてるんじゃなかったっけ??同じやり方でいいのかなぁ??それにしてもよく間違えるのはなんでなんだろうね??)

パウロは自身で何度も証言しているように、直接イエスから任命された。その証人としてアナニヤもいる。でも諸国民への使徒ということで、12使徒の一人として任命されたかどうかは分からない。というか、もし12使徒の一人となったのなら、ルカがそう書くんじゃないかと思う。

なので、自分は洞察の考え方に賛成。(もともとそこはそれほど重要な問題じゃないと思ってるので・・・)



※脚注
以前、SKE出身の兄弟に、「聖書では聖霊はすべて組織ではなく個人に注がれてるのに、なぜ聖霊に導かれている組織というのか」と尋ねたことがあります。そしたら、「長老たちが集まって、聖書を調べて聖霊の導きを祈り求めて決定するから」だと言われました。
・・・なんだかなぁ・・・答えになってるような、なってないような・・・う~ん。


ヨハネ2章

2018-09-04 | 聖書
ヨハネだけが書いていることとして。

イエスがバプテスマを受けられた後、
●ガリラヤに行ってカナで最初のしるし(水をぶどう酒に変える)を行なったこと。
●その後の過ぎ越しの祭り(30年)でエルサレムの神殿を清められたこと。(ニコデモに再び生まれることについて語る)
●その後ガリラヤに行き(途中スカルでサマリアの女に命の水について語る)またもやカナで2番目のしるし(王の従者の息子を癒す)を行なわれたこと。

ちなみに、マタイ、マルコ、ルカは最後の過ぎ越し(33年)での神殿の清めのことを書いている。

最初の2つのしるしはカナで行われたんだね。


●最初のしるしは、婚宴で水をぶどう酒に変えたこと。

ぶどう酒がありません、ってマリアがイエスに告げた時、イエスはすぐにその願いを聞き届けたわけではなくて、わたしの時はまだ来ていない、って答えてる。とりあえず必要な分だけ、どこかから調達してくることもできたかもしれないけど・・・そうではなくて、奇跡によって多過ぎるほどの上等のぶどう酒を、マリアの願いをはるかに超えて答えてくださった。
これを祈りに置き換えて考えると、聞き届けられるのにふさわしい時があることや、思ってたのと全く違う形で、思ってた以上に素晴らしい形でかなえられること、神はそんな風に私たちの日常に関する祈りにも関心を払ってもっと素晴らしい答えを用意されてること、などで祈る喜びを増し加えられるかなと。

バプテストのヨハネが荒野で禁欲的な生活を送っていたのとは対照的に、そのヨハネが証ししたメシアであるイエスは婚宴に列席したりして、普通に自然に生活を楽しんでおられた様子が伺えて興味深い。


●神殿を清められたこと。

いわば単なる一庶民のイエスが、神殿でちゃぶ台返ししながら鞭ふりまわして暴れまくっているわけで・・・ユダヤ人たちからしたら、「しるしを見せろ」というのもいたしかたないかなと思える場面。
この時に、イエスはユダヤ人たちに「神殿を壊してみなさい。わたしは三日でそれを建てます(ヨナのしるし)」って言われた。実際にイエスがこう言われたことを書いているのはここだけ。イエスは宣教の初めからすでに、彼らによってご自分が死ぬこと(神殿を壊す)、そして復活すること(三日で建てる)を、彼らに‘挑戦的’に語られたように感じられる。裁判や処刑の時に、この言葉が繰り返されていることを考えると、一つのキーワードだったんだろうなと。

ヨハネ1章

2018-09-03 | 聖書
ヨハネの福音書は、他3人の福音書とは違った趣を持っている。

書かれたのは1世紀の末頃で、すでにエルサレムは滅び、他の使徒たちもみな(多分・・)死の眠りにつき、会衆もほぼ確立されて予告通りの背教も進んでいた頃。イエスを実際に知っていた世代は過ぎ去り、会衆も世代交代が進んでいたであろう頃に書かれた福音書。

最初に4福音書を全部通して読んだ時に、ヨハネの福音書だけ違った印象を受けたので、そのことを研究司会者に告げたら、ヨハネが一番最後に書いたから他の人が書かなかった事を主に書いてるからじゃないか、と言われたことを覚えている。

それもあると思うけど、ちょっと違う。上手く言えないけど、他の3福音書で描かれているイエスが神の子の人間イエスであるのに対して、ヨハネが描くイエスは人の姿をした霊者イエスのように感じる。

出だしからして「初めに言葉がおり、言葉は神と共におり、言葉は神であった。」だし・・・これは創世記の最初の「初めに神は天と地を創造された」から続く天地創造のイエスバージョンみたいだ。命と光がテーマの、死と闇からの救出をもたらすイエスの新しい天地創造。

パウロはイエスが神と共に創造の業を行なったことを書いているけど、他の3福音書だけではその辺のところはよく分からない。でもヨハネが書いたことから、人間になる前のイエスのことが推察できる。イエスが神とどれほど親密な関係であったかも、ヨハネが一番多く書いているんじゃないかな。

ところで、バプテストのヨハネは、この福音書の中では単にヨハネと書かれている。筆者は自分の名を出さないで書いているから。

光を輝かせる

2018-09-01 | ものみの塔
今週のものみの塔。

相変わらず、聖書を学んでいるとは思えず。
せっかく山上の垂訓の中からテーマを取ったのに、伝道と集会と長老に従う話ばっかり・・。

もう突っ込むのもめんどくさいので、どうしても言いたいこと一つだけ。

15節。
光を輝かせるために、ずっと見張っている必要がある。大患難はまだ先で生きてる間には来ないと思うなら伝道に対する熱意が弱まり、光が消えてしまうかもしれない。

みたいに書いてあるけど・・・・んなこたぁないでしょ。
「人となり」はその人の培ったものであって、大患難がいつ来るかとは関係ないでしょ。
クリスチャンとしての良心を持ち、それを表してゆく限り、この闇の世では光を輝かせてることになるでしょ。
14節に書かれてるみたいにあざといことしなくても、書かれてるような自問しなくても、無理せず普通にしているだけで、光を輝かせることができてるはずでしょ。
大切なのは自分がクリスチャンであることを隠さないこと、でしょ。

光を輝かせること=伝道、だからおかしくなるんだよね。

あ、も一つ言いたいことあった。
牧羊訪問で聖書の知恵を学べたことなど、残念ながら一度もありません。