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日本と朝鮮半島 (倭寇)

2008年08月16日 17時17分02秒 | Weblog
元寇以降、東シナ海周辺は倭寇によって無法地帯と変わりました。

●倭寇
元寇で壊滅的なダメージを負った対馬、壱岐、松浦党の生き残りは恨み、捕虜となった家族の奪還、経済的回復等のため朝鮮、中国沿岸部などにゲリラ的な略奪行為にでます。
世に言う倭寇です。
この倭寇、最初は沿岸部の略奪行為(海賊)でしたが、次第に力を強め、高麗の城に対して攻城戦を行うまで強力になってきます。

高麗は2度の日本侵攻失敗に続き、この倭寇の出現、元への貢物により急速に疲弊、結果李氏朝鮮へと変わります。
結果的な話からいえば高麗は元とともに日本に戦争を仕掛け、負け、日本の国民から反感をかい、ゲリラ攻撃を受け、国を滅ぼしてしまったことになります。

日本では褒章をもらえない人たちが旧体制の反発し悪党(現代の悪者って意味ではありません。当時の政府に反旗を翻す人たち、また当時の悪は強さのみを追い求める人たちの事をいいました)となり、鎌倉幕府が没落していきます。

元寇のカウンターとして正規軍ではない海賊が動いていた事は日本にとっては最初は都合が良かったのですが、それがエスカレートしていき、また天皇が二人存在するといった南北朝時代で内政混乱時期だったため倭寇の取り締まりが遅れました。

前期の倭寇が元寇に対する私怨によるものが大きいのに対し、後期(勘合貿易以後)は朝鮮人や中国人が指導者となり名前は倭寇、でも本当は中国の海賊といった不思議な倭寇(海賊)が出来てきます。

これは交易ルートが中国ルートから南蛮、つまり東南アジアルートに変わるまで続きました。

元は内部分裂を起こし、中国はモンゴル民族の元から明(明朝体のアレです)に変わります。
その後、戚継光という武将が倭寇退治に成功します。
戚継光は後に北方の守り(騎馬民族の襲来)のために屯所も兼ねた万里の長城の改修に着手します。
結果この万里の長城の改築が慢性的な明の財政難に陥ることになります。
財政難が続き、結果がんばって作った万里の長城の門を自分で開け、清(満州民族)を受け入れた事は皮肉としか言い様がないですが。

●応永の外冦
倭寇の荒らし行為があまりにも凄かったため、李氏朝鮮は対馬に侵攻、応永の外冦が起こります。
当時対馬では代替わりがあり、沈静化していた倭寇が息を吹き返した事が事の発端です。
李氏朝鮮の奇襲戦で始まりましたが成功せず、日本軍と膠着状態に陥り(死者日本123名、朝鮮2500名)、結果和解案に調印、収束するに至りました。

ちなみにこの倭寇、応永の外冦が後の秀吉の朝鮮出兵に繋がっていきます。


●韓国との領土問題
この時李氏朝鮮は「対馬は慶南(朝鮮半島の南東地方)だ」と根拠が薄い大儀を挙げたため、現在の竹島を含めた対馬の領土権問題に繋がっています。

しかしこれは一方的な侵略行動のため(それも倭寇警備問題から発した)、対馬を韓国領土と本当に思っているのは朝鮮半島のひとしか思っていません。

これに対し対馬を日本の領土とする根拠は魏志倭人伝ですでに対馬国があり、邪馬台国に属していたという記載があります。
実質的支配から見ても日本の領土と見てとらえ、GHQも「対馬問題は韓国の領土とする根拠がない」としています。


竹島(独島)問題は現在韓国軍の占拠しており、日本側は国際法廷で話し合おうとしていますが、韓国側は「自国の領土なので出る必要がない」と拒否しています。
竹島(独島)はグレーゾーンなので他国では島としておらず、リアンクール岩礁として扱われています。


領土問題は主に韓国併合に伴う事が多いですがそちらは近代史にて

日本と朝鮮半島 (元寇)

2008年08月16日 16時31分44秒 | Weblog
元寇と言えば日本の歴史教科書では良く出てくる部分です。
外敵相手のまるで歯が立たない戦闘にひたすら防戦していたら神風が吹いて助かったみたいな風にかかれていますが実際には違います。


●元と日本の関係
元(モンゴル帝国)は当時南宋と戦っていました。
日本はこの南宋と交流のある国でした。
この事から元は南宋の後ろを絶つ意味でも日本に属国になる書状を何回も送りつけてきますが朝廷、鎌倉幕府はこれを無視し続けます。

元はフビライの建国以来、南宋攻略を重視していため、日本侵攻はさほど重要視していませんでしたが属国である高麗(コリア)の忠烈王が再三に渡り元に日本侵攻を進言しています。
これは日本に恨みと言うよりは内政基盤の強化(元軍の駐留による治安維持)と元への忠義により元属国の地位向上、領土拡大のためと思われます。

●文永の役
こうして元軍は日本に侵攻していきます。
最初元軍は対馬、壱岐、九州松浦地方などに侵攻し、一般人も大量虐殺されました。
日本のそれまでの戦闘では戦闘は武士がするもので一般人は搾取があっても一つの地域の人全てが虐殺されることはありませんでした。
捕虜は両手に穴を空けられ、船につるされたという記録もあります。
この大量虐殺が後の明、李氏朝鮮を悩ませる海賊集団、倭寇につながります。

鎌倉幕府は古来からの軍事拠点の太宰府に終結し、海岸での戦闘をしますが日本は名乗りをあげて一騎撃ちが基本だった(両軍の被害を最小限に留める為の日本内での戦いのルール)ため集団で殲滅作戦をとる元軍に次々と負けていきます。また、てつはう(爆弾)などの新兵器の攻撃もあり、ついには上陸を許してしまいます。
元軍は博多を制圧するも太宰府を本営とする幕府軍が博多から撤退した際、執拗に追撃し、結果戦線が長くなりすぎ、武将が逆に討ち取られ、また矢も底をつき士気も落ちたところで日本から撤退を決意します。
火を放ち撤退する最中、幕府軍が箱崎で矢を放つと元軍は壊走し、朝鮮に戻る最中に玄界灘で遭難しました。

よく言われる元寇→神風と言うのは間違いです。


●弘安の役
文永の役以降から鎌倉幕府は九州の海岸線沿いに防塁を作りました。
そして南宋が落ちたころ、日本に送った使者が殺された事を知ったフビライは激怒し、14万の兵(元、朝鮮、そして士気の低い南宋兵)を用い再度日本に攻めてきました。
対する幕府軍は4万。数に差がありますが今回は水際で防衛、小舟で単騎突入(船などの狭いところでは一騎打ちに慣れている幕府軍が優勢だった)などにより3カ月本隊を海上に停留させます。
元軍は後詰めで船を新たに送り込もうとしますが季節は台風シーズン。補給もできない状況に陥りました。
本軍も長い停留により疲弊、食糧資材不足の上にこの台風をもろに食らいます。
結果14万の兵の8割を失いこの戦いは終結します。
このときの損害は元(モンゴル帝国)の全水軍の2/3にまでのぼったと伝えられています。

捕虜の中で交流があった南宋人以外は処刑され、その南宋人の作った街が今の博多の唐人町といわれています。

この後にもう1度日本侵攻計画が立てられますがこのとき既に元内部では相続争い、内乱などが起こり、弱体化、とても戦争する余裕がなくなったため計画は立ち消えました。
疫病もかさなり元は弱体化し南京を拠点とした明によって押し上げられ、万里の長城より南は明となりました。


●元寇の不思議な点
文永、弘安どちらとも言えることは元軍本体の背後連絡線の消失、本体の補給物資の枯渇ですが、文永の役に出てくる「矢がなくなった」とはどういうことなのでしょうか?
一般的には文永の役は元の威嚇行動だったとする説が有力です。
そのため元はこの時点は日本攻略は本気ではなかったと思われます。
高麗の忠烈王があまり強硬に進言したため「じゃ、やってみな」的な意味が大きかったのではないでしょうか?
韓国の歴史では元からの強い要請で行ったとありますが、元から日本への書状、南宋との戦闘などを考えると文永の役の時点での攻撃をしかけるのは時期としては尚早としか言えません。

実際の戦争の準備は船を建造、人員、補給物資など殆どが高麗から出資されたため高麗の急激な財政難があったのではと考えられます。

戦争をするにも物資が足りず、本国からの補給連絡線も海路で確実ではなかったため攻撃側なのに篭城戦の体になったものと思われます。

これは弘安の役にも言え、神風という突発的な神がかり的な奇跡が発生したのではく、3ヶ月間も海上に停留させることによって起きた兵糧攻めの効果、加えて水計といった軍略によるものと判断できます。

まぁ、この計略があまりに鮮やか過ぎて太平洋戦争では普通に考えたらありえないと思える神国思想が普通にまかり通る事になるのですが、、、