元寇と言えば日本の歴史教科書では良く出てくる部分です。
外敵相手のまるで歯が立たない戦闘にひたすら防戦していたら神風が吹いて助かったみたいな風にかかれていますが実際には違います。
●元と日本の関係
元(モンゴル帝国)は当時南宋と戦っていました。
日本はこの南宋と交流のある国でした。
この事から元は南宋の後ろを絶つ意味でも日本に属国になる書状を何回も送りつけてきますが朝廷、鎌倉幕府はこれを無視し続けます。
元はフビライの建国以来、南宋攻略を重視していため、日本侵攻はさほど重要視していませんでしたが属国である高麗(コリア)の忠烈王が再三に渡り元に日本侵攻を進言しています。
これは日本に恨みと言うよりは内政基盤の強化(元軍の駐留による治安維持)と元への忠義により元属国の地位向上、領土拡大のためと思われます。
●文永の役
こうして元軍は日本に侵攻していきます。
最初元軍は対馬、壱岐、九州松浦地方などに侵攻し、一般人も大量虐殺されました。
日本のそれまでの戦闘では戦闘は武士がするもので一般人は搾取があっても一つの地域の人全てが虐殺されることはありませんでした。
捕虜は両手に穴を空けられ、船につるされたという記録もあります。
この大量虐殺が後の明、李氏朝鮮を悩ませる海賊集団、倭寇につながります。
鎌倉幕府は古来からの軍事拠点の太宰府に終結し、海岸での戦闘をしますが日本は名乗りをあげて一騎撃ちが基本だった(両軍の被害を最小限に留める為の日本内での戦いのルール)ため集団で殲滅作戦をとる元軍に次々と負けていきます。また、てつはう(爆弾)などの新兵器の攻撃もあり、ついには上陸を許してしまいます。
元軍は博多を制圧するも太宰府を本営とする幕府軍が博多から撤退した際、執拗に追撃し、結果戦線が長くなりすぎ、武将が逆に討ち取られ、また矢も底をつき士気も落ちたところで日本から撤退を決意します。
火を放ち撤退する最中、幕府軍が箱崎で矢を放つと元軍は壊走し、朝鮮に戻る最中に玄界灘で遭難しました。
よく言われる元寇→神風と言うのは間違いです。
●弘安の役
文永の役以降から鎌倉幕府は九州の海岸線沿いに防塁を作りました。
そして南宋が落ちたころ、日本に送った使者が殺された事を知ったフビライは激怒し、14万の兵(元、朝鮮、そして士気の低い南宋兵)を用い再度日本に攻めてきました。
対する幕府軍は4万。数に差がありますが今回は水際で防衛、小舟で単騎突入(船などの狭いところでは一騎打ちに慣れている幕府軍が優勢だった)などにより3カ月本隊を海上に停留させます。
元軍は後詰めで船を新たに送り込もうとしますが季節は台風シーズン。補給もできない状況に陥りました。
本軍も長い停留により疲弊、食糧資材不足の上にこの台風をもろに食らいます。
結果14万の兵の8割を失いこの戦いは終結します。
このときの損害は元(モンゴル帝国)の全水軍の2/3にまでのぼったと伝えられています。
捕虜の中で交流があった南宋人以外は処刑され、その南宋人の作った街が今の博多の唐人町といわれています。
この後にもう1度日本侵攻計画が立てられますがこのとき既に元内部では相続争い、内乱などが起こり、弱体化、とても戦争する余裕がなくなったため計画は立ち消えました。
疫病もかさなり元は弱体化し南京を拠点とした明によって押し上げられ、万里の長城より南は明となりました。
●元寇の不思議な点
文永、弘安どちらとも言えることは元軍本体の背後連絡線の消失、本体の補給物資の枯渇ですが、文永の役に出てくる「矢がなくなった」とはどういうことなのでしょうか?
一般的には文永の役は元の威嚇行動だったとする説が有力です。
そのため元はこの時点は日本攻略は本気ではなかったと思われます。
高麗の忠烈王があまり強硬に進言したため「じゃ、やってみな」的な意味が大きかったのではないでしょうか?
韓国の歴史では元からの強い要請で行ったとありますが、元から日本への書状、南宋との戦闘などを考えると文永の役の時点での攻撃をしかけるのは時期としては尚早としか言えません。
実際の戦争の準備は船を建造、人員、補給物資など殆どが高麗から出資されたため高麗の急激な財政難があったのではと考えられます。
戦争をするにも物資が足りず、本国からの補給連絡線も海路で確実ではなかったため攻撃側なのに篭城戦の体になったものと思われます。
これは弘安の役にも言え、神風という突発的な神がかり的な奇跡が発生したのではく、3ヶ月間も海上に停留させることによって起きた兵糧攻めの効果、加えて水計といった軍略によるものと判断できます。
まぁ、この計略があまりに鮮やか過ぎて太平洋戦争では普通に考えたらありえないと思える神国思想が普通にまかり通る事になるのですが、、、
外敵相手のまるで歯が立たない戦闘にひたすら防戦していたら神風が吹いて助かったみたいな風にかかれていますが実際には違います。
●元と日本の関係
元(モンゴル帝国)は当時南宋と戦っていました。
日本はこの南宋と交流のある国でした。
この事から元は南宋の後ろを絶つ意味でも日本に属国になる書状を何回も送りつけてきますが朝廷、鎌倉幕府はこれを無視し続けます。
元はフビライの建国以来、南宋攻略を重視していため、日本侵攻はさほど重要視していませんでしたが属国である高麗(コリア)の忠烈王が再三に渡り元に日本侵攻を進言しています。
これは日本に恨みと言うよりは内政基盤の強化(元軍の駐留による治安維持)と元への忠義により元属国の地位向上、領土拡大のためと思われます。
●文永の役
こうして元軍は日本に侵攻していきます。
最初元軍は対馬、壱岐、九州松浦地方などに侵攻し、一般人も大量虐殺されました。
日本のそれまでの戦闘では戦闘は武士がするもので一般人は搾取があっても一つの地域の人全てが虐殺されることはありませんでした。
捕虜は両手に穴を空けられ、船につるされたという記録もあります。
この大量虐殺が後の明、李氏朝鮮を悩ませる海賊集団、倭寇につながります。
鎌倉幕府は古来からの軍事拠点の太宰府に終結し、海岸での戦闘をしますが日本は名乗りをあげて一騎撃ちが基本だった(両軍の被害を最小限に留める為の日本内での戦いのルール)ため集団で殲滅作戦をとる元軍に次々と負けていきます。また、てつはう(爆弾)などの新兵器の攻撃もあり、ついには上陸を許してしまいます。
元軍は博多を制圧するも太宰府を本営とする幕府軍が博多から撤退した際、執拗に追撃し、結果戦線が長くなりすぎ、武将が逆に討ち取られ、また矢も底をつき士気も落ちたところで日本から撤退を決意します。
火を放ち撤退する最中、幕府軍が箱崎で矢を放つと元軍は壊走し、朝鮮に戻る最中に玄界灘で遭難しました。
よく言われる元寇→神風と言うのは間違いです。
●弘安の役
文永の役以降から鎌倉幕府は九州の海岸線沿いに防塁を作りました。
そして南宋が落ちたころ、日本に送った使者が殺された事を知ったフビライは激怒し、14万の兵(元、朝鮮、そして士気の低い南宋兵)を用い再度日本に攻めてきました。
対する幕府軍は4万。数に差がありますが今回は水際で防衛、小舟で単騎突入(船などの狭いところでは一騎打ちに慣れている幕府軍が優勢だった)などにより3カ月本隊を海上に停留させます。
元軍は後詰めで船を新たに送り込もうとしますが季節は台風シーズン。補給もできない状況に陥りました。
本軍も長い停留により疲弊、食糧資材不足の上にこの台風をもろに食らいます。
結果14万の兵の8割を失いこの戦いは終結します。
このときの損害は元(モンゴル帝国)の全水軍の2/3にまでのぼったと伝えられています。
捕虜の中で交流があった南宋人以外は処刑され、その南宋人の作った街が今の博多の唐人町といわれています。
この後にもう1度日本侵攻計画が立てられますがこのとき既に元内部では相続争い、内乱などが起こり、弱体化、とても戦争する余裕がなくなったため計画は立ち消えました。
疫病もかさなり元は弱体化し南京を拠点とした明によって押し上げられ、万里の長城より南は明となりました。
●元寇の不思議な点
文永、弘安どちらとも言えることは元軍本体の背後連絡線の消失、本体の補給物資の枯渇ですが、文永の役に出てくる「矢がなくなった」とはどういうことなのでしょうか?
一般的には文永の役は元の威嚇行動だったとする説が有力です。
そのため元はこの時点は日本攻略は本気ではなかったと思われます。
高麗の忠烈王があまり強硬に進言したため「じゃ、やってみな」的な意味が大きかったのではないでしょうか?
韓国の歴史では元からの強い要請で行ったとありますが、元から日本への書状、南宋との戦闘などを考えると文永の役の時点での攻撃をしかけるのは時期としては尚早としか言えません。
実際の戦争の準備は船を建造、人員、補給物資など殆どが高麗から出資されたため高麗の急激な財政難があったのではと考えられます。
戦争をするにも物資が足りず、本国からの補給連絡線も海路で確実ではなかったため攻撃側なのに篭城戦の体になったものと思われます。
これは弘安の役にも言え、神風という突発的な神がかり的な奇跡が発生したのではく、3ヶ月間も海上に停留させることによって起きた兵糧攻めの効果、加えて水計といった軍略によるものと判断できます。
まぁ、この計略があまりに鮮やか過ぎて太平洋戦争では普通に考えたらありえないと思える神国思想が普通にまかり通る事になるのですが、、、