Urocyon cinereoargenteus

musicとかの紹介

小田原へ行ってきました ~お鐘の台大堀切

2008年02月24日 16時08分24秒 | 旅、風景

 

 

実は今回行った中で一番良かったところです。

 

誰もいないし手も荒らせてないし、そしてなにより原型を留めている点で。

 

 

歩いてみると分かるのですが当たり前ですが両側が高い。高さは10mはありそうです。

写真を見ると簡単に見えそうですが登るのは非常に困難に思われます。

土もやわらかいし、枯葉も多く足をとられそうです。

 

道も意外に細く、横並びは三人ぐらいですね?

多分鎧に槍装備したら2列ぐらいで進むことになりそうです。

 

 

意図的ににクランクが作られています。

こういうところで左側から長槍や弓や投石すると部隊は混乱しそうです。

 

南側に出てくだり障子堀にいけると思いましたがダメでした。

見てみたかったのですが。

 

しょんぼりして下っていったらマンションでもめたところにこんなのが。

アレだけ壊されて名前だけあっても意味ないのですが。

 

●まとめ

小田原市はもっと郷土を大切にしたほうが良いですよ。

確かに箱根前の重要な拠点なのは分かりますが、小田原城のコンテンツの無さ、逆に重要なものを取り壊していたということは、郷土の歴史と見ても観光としてもダメなところです。

先人の残してきた物を上手く伝えて行き大きな遺産とするかは今いる人にしか出来ません。

 

例えば北条氏も結局は秀吉に負けましたが単なる凡将ではなかった事もアピールして欲しいですね。

最大版図は群馬全域、栃木半分、茨城半分、千葉全域、埼玉全域、東京、神奈川全域、伊豆となり、石高は210万石。

関が原直後の伊達でも60万石→幕末で漸く100万石、加賀の前田でも100万石とすればこの巨大さは実感できると思います。

何故そこまでなり得たのか?

そういったところも掘り下げて欲しいですね。

 

前述した二宮尊徳も「へー、小田原出身だったんだ」って思われているのではダメだと思います。

もっとアピールして小田原には報徳二宮神社だってありますってぐらいいえるぐらいになってほしいものです。

 

なにを伝えていかなければならないのか?

その部分を大切にして欲しいと思います。

 

 

結局小田原では色々見ましたが、お金かけた動物園やコンテンツが分散して逆に金かけてないように見える小田原城や色々取り壊されている先人の遺功といったものより、道端に咲く一輪の梅の花の方がはるかに綺麗に見れたのは自分だけでしょうか?

 


小田原へ行ってきました ~八幡山

2008年02月24日 15時43分32秒 | 旅、風景

 

まず初めに。

 

ここの写真はありません。

っと言うか普通に撮れません。

 

旧本丸とはいえ、今やここは小田原高校があり、普通に住宅街。

 

確実にカメラぶら下げてウロウロして良いところではありません。

 

小田原高校前に八幡山史跡があったので見ていただけで警備員が来ましたよ。

まぁ、わかりますよ。

最近何かと物騒ですから。

 

おまけに向かいにある鍛冶曲輪は今やテニスコート。

 

普通に部活している金網の外で写真を写していたら・・・警察来そうです。

 

高校の校門からちょっと外れたこの看板写すのが精一杯でした。

そう、5年ぐらい前にこの高校から見つかったっていう空堀があります。


小田原へ行ってきました ~ルート 小田原城

2008年02月24日 14時58分15秒 | 旅、風景

 

常盤木門を越えると、、、ケモノ臭っ!!

・・・いや、城マニアな方から小田原城はありえないって聞いていたのですがやっぱりありえないです。

 

何で天守閣に動物園があるのですか??

戦国時代最大規模を誇った小田原城がその一部しか残らず、挙句に本丸にサルですか、、、節操なさすぎです。

 

まぁ小田原市は八幡山に高層マンションを建てるとか色々そんな事もありましたし、鉄道で旧小田原城がぶった切られて旧本丸は住宅街。その形すらありません。

おまけに中庭に売店があり天守閣のチケットが売っているのですが使えるの1台しか使えないので15人ぐらい並んでました。10分近く並んでたら「チケットは中にも売ってますよ」だって

ちょっと酷くね?

入ってみると城というよりは博物館。

鉄筋コンクリートで展示品は・・・・改装中?それも文字が黄ばんでる、、、


一つのフロア鎧4つってどうなんですかね??

脇差類の小刀も小柄もkozukaって書いてあるのも??です。

コンテンツの素材としても沢山ありそうなのでもっと調べて分かりやすく配置すればもっと歴史資料館としても使えそうなのですが。

 

最上階は何故か洋間の板張りで売店が

それもお土産も何処にでもありそうなものが。

 

外を見ます

天守閣から八幡山を見たところ。

元曲輪があったところはコンクリートで壁が作られて見る陰もありません。

 

伊豆大島が見えます。スゲー

三浦半島もみえました。

結局小田原城は相模湾と箱根の山々を見るには良いかもしれませんがそれ以上は期待してはいけません

確実に裏切られます。

400円の価値があるかは、、、各個人に任せましょう。

 

おまけ

城の裏側。

石垣が崩れているのですが。


小田原へ行ってきました ~ルート 小田原城~常盤木門

2008年02月24日 14時28分18秒 | 旅、風景

●ルート

小田原駅から現小田原城→八幡山→大空堀

意外とシンプルですが距離は結構あります。

あと山なのでアップダウンも。

 

●小田原城

小田原駅から道なりに行くと旭丘高校のT字路にでるので道なりに北入り口へ


高校を左手に見て南に行く道です。

弓道場付近は以前は池があり、その池の中島を使って弁才天曲輪があったとのことです。

今では全く面影ないですが。

二の丸の入り口付近。広いです。

春一番が凄く砂が舞ってました。

銅門。

 

で、この付近で撮った梅の写真。

まだ5分咲きでしたが強風で散っている花もありました。

もう一枚。

自分以外にも写真写している人結構いましたよ。

しかしデジカメ一眼レフ使っている人多いですね。

常盤木門前の橋から

個人的な意見ですがこれは畑に見えますが当時はここを浅掘にして杭を仕込ませて防衛に使っていたと思われます。

 

常盤木門。

藩政時にはここが最重要門で通行の取り調べが厳しかったようです。


小田原へ行ってきました ~前知識 人物~

2008年02月24日 13時41分40秒 | 旅、風景

●後北条氏


鎌倉時代の摂政、北条氏と分けるため伊勢盛時(北条早雲)が開祖の北条氏は後北条氏、小田原北条氏と呼ばれています。

家紋は一緒(後北条は三角が若干縦に潰れています)ですが別と見て間違いはなさそうです。伊勢氏は北条氏と同属ですが直接のつながりはなさそうです。


伊勢盛時(北条早雲)は戦国時代の下克上の魁みたいな人ですが盛時が北条は名乗っていません。名乗り始めたのは息子の北条氏綱からです。

後北条氏は代々直系の正子の長男が継いで行ったため、戦国時代には珍しく家督争いは起こりませんでした。長男以外の子では北条長綱(幻庵)のように初代から最後の5代まで仕えた人もいます。


政治では小田原評定が有名ですがこれは戦国時代にはめずらしい制度です。
簡単に言えば合議制です。
早雲のエピソードで7人のうち誰かが大名になった他のものは仕えようと誓い合う話がありますがそこから来ているのかもしれません。
もっとも秀吉の小田原攻めの時は意見がまっ二つに分かれ、混乱し、あんなに固かった結束があっさり崩れてしまうのですが。

この事から「小田原評定」とは時間だけ経って何も纏まらない話し合いを指すようになりました。

税は極めて善政で当時も今でもびっくりな4割でした。
今の日本でも税は企業で5割+諸税、個人だとMAX6割と考えるとどれだけ凄いことか分かると思います。その代わり検地などは厳しかったようですが。

 

 

●二宮尊徳(金治郎)

 

意外に知られてませんが小田原出身の有名な人で二宮尊徳がいます。

よく学校の端っこに銅像がありそうなあの人です。

この写真、小田原駅で撮ったものですがこの構図、どう見ても二宮に向かってしょんぺん小僧が嫌がらせしているようにしか見えません。

わざとかどうか知りませんが配置した人の何かしらの悪意を感じるのは自分だけでしょうか?

 

二宮尊徳は農政家として有名です。

昔から商才があり、油代を稼ぐために荒れた田畑に菜種を植えて油と交換したとかその手のエピソードに事欠かない人です。

傾いた実家を20歳で再興→小田原で家老の財政を立て直し→幕府の日光にて立て直し

有名な天保の大飢饉の時も早めに稗を植えさせ餓死者を出さなかった等、今で言う「先見力」と「リスクヘッジ」ができていた人だったようです。


学校においてあるあの銅像はの意味はどうかと思いますが、働きながら学び、学びながら働くと言うことは非常に大事なことだと思います。

 


小田原へ行ってきました ~前知識 小田原城~

2008年02月24日 12時38分24秒 | 旅、風景

小田原へ行ってきました。

 

 

・・・ではなくてリアルで


梅の咲く季節になりました。

梅と行ったら小田原。

こんな感じで殆ど衝動的に小田原へ行ってきました。


小田原は関東側から見ると箱根直前の都市。

アクセスは東京から新幹線や東海道、新宿からは小田急でロマンスカーや普通の電車で行けます。


この写真はJRの小田原駅改札口付近。

 

このでっかいちょうちんは小田原ちょうちんです。


普通のちょうちんとちがって外枠がしっかりしていて持ち運びに便利

骨の部分が四角くなっているため霧や雨で紙がはがれにくい

当初は御神木を使っていたためお守り代わりにもなっていた


そういった利点があったため東海道を旅する人たちに売れていたようです。

江戸から行くとここから先は箱根の峠ってのもあったのでしょうね。

 

●小田原城

 


この城は巨大な城で市民の居住区の外周に掘りがあり、城塞都市として存在していました。

今の小田原城は赤い枠ですが、後北条氏のときは緑の八幡山の〇付近に本丸がありました。

赤枠の部分は別邸だったといわれてます。


赤枠のところが本丸になったのは江戸時代の話です。


ただ、堅城と知られた小田原城はこの程度では済みません。

 

小田原城全景

 


この赤枠が後北条時の小田原城です。

どれだけ巨大な城郭だったのか想像できますでしょうか?


北東の酒匂川、南西の早川に囲まれ、南東に相模湾、北西には箱根の山々。


天然の要害なりうる所に巨大な城郭。

あの上杉謙信、武田信玄の大軍から防衛成功した事や秀吉も調略によって勝ったことから城攻めとしては難攻不落の堅城として知られています。


生活空間を空掘りで切った構造のため囲まれても兵糧攻めの効果が出にくく、川などの水源もあるため防衛は長期になっても大丈夫な構造になっていました。

武田信玄の侵攻時には100日持ちこたえたようです。

 

ちなみに今の小田原城は完全に復元されたものではありません。

廻縁や高欄無かったとか掘りの高さが倍あったとか。

 

また現在の小田原城付近は湿地帯だったため、3つの池を繋いで二の丸としたようです。

増築に増築を重ね最終的にこのような山の中腹から海までの巨大な城になりました。