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すべてのヘクセンナハトのために
筆者-初出●Townmemory -(同人誌『我こそは我にして我等なり』2010年12月31日初版)
●再掲にあたっての筆者注
ハロウィン記念として、ひとつ、記事を再掲しておくことにします。
この記事は、同人サークル「シフクノキロク」が去年、企画発行した同人誌『うみねこのなく頃に完結記念合同誌 我こそは我にして我等なり』のために書き下ろしたものです。より多くの人の目に触れることを願って、ここにあらためて掲示することとします。
この同人誌の初版発行日は2010年12月31日。つまり、『うみねこのなく頃に Episode8 Twilight of the golden witch』のイベント発売日でした。ですから、Ep8を見るより前、Ep7までの情報をもとに書かれています。
が、Ep8の内容をある種、予言するような内容になっているようにも思います。
「ヘクセンナハト」は、ドイツ語で、「魔女の夜」ほどの意味です。
以下が本文です。
☆
SF作家の新井素子さんの生活は、大量のぬいぐるみとともにあるそうです。いや、大量という言い方はいささか敬意が足りないかもしれない。新井さんは、「ぬいぐるみというのは、生きており、意志があり、生命体であり、きちんとお話ができるものである」とみなしているのですから。
新井さんはぬいぐるみとの奇妙な会話や、ぬいぐるみと共にある生活を描いた「ノンフィクション」の作品を、いくつも出版していらっしゃいます。
彼女の旦那さんは、もちろん当初はぬいぐるみと話すことはできませんでした。が、新井さんと結婚して、生活を共にするうちに、日々うつりかわるぬいぐるみの表情や言葉が、きちんとわかるようになっていったそうです。
これを、SF作家という怪しげな人種の奇妙な妄想と、それにつきあってあげている優しい旦那様の姿である……とするのは、あまりにも簡単なことなのですが。
子供のころ、わたしは、料理というのは特殊な知識と特殊なスキルを要する、自分にはとうてい手の届かない高みにある能力だと思っていました。ロマンチックな言い方をすれば、一種の「魔法」であるかのようにみなしていたわけです。どうやってできるのかさっぱりわからない。それはありえないものを生み出す錬金術のようなものである……というように。
ところが、いろいろな事情があって自分で料理をするようになります。わたしは不器用のコンテストがあったらかなりいい位置につけると自負しているのですが、それでも毎日食事を作っていると、少しずつスキルも知識も身についてくる。そしてあるときふと味見をして愕然としたのでした。「ああ! これっておばあちゃんが作っていたのとまったく同じ味だ!」。
これを、「かつて魔法だと思っていたものは、魔法でもなんでもなかった」というタネの解明と受け取るのか。
それとも、「ああ、今こそわたしは、魔法使いのおばあちゃんのあの境地に至り、あの高き魔法をついに会得したのだ」と受け取るのか。
砂糖と小麦粉と卵とバターとミルク。それがオーブンから出てきたときには可愛いカップケーキになっている。これを「ふしぎ! まるで魔法みたい!」と思うのか。「何の不思議もないことだ」と思うのか。
そこには重大な岐路があると思うのです。かつて言葉の魔術師はこう歌ったそうです。
薔薇の木に薔薇の花が咲く。「何ら不思議でもないことだ」と通り過ぎる人もいるだろうけれど。
「確かに不思議ではないんだが、でも……」
そういって、立ち止まり、顎に手を当ててふと考え込んでもいいだろう。そこに魔法を見いだす人がいてもいいだろう。
薔薇の花……。
さて。あなたがいま読んでいるこの本は同人誌という種類のものです。
同人誌という言葉は、今やほとんど「アニメや漫画を題材にしたパロディ創作を、アマチュアが執筆して刷り、イベント会場で頒布するもの」という意味になっています。
つまり、アニメーションや漫画や、そういったフィクションが愛しくてたまらないので、自分で登場人物を動かし、「こうであったらいいな」と夢想し、幻想を編み上げて、それを紙に書いて綴じ込んで配るという遊びが、思いのほか広く世間に定着しているということのようです。
不思議なことです。
なぜなら、元になっているものはフィクションなのです。「ありもしない作りごとを書いたもの」にすぎないのです。
「右代宮戦人」や「ベアトリーチェ」といった人物が実在するわけではない。にもかかわらず我々は、本当の人物であるかのように彼らの幸いを願い、ロマンスを期待している。
何の不思議もナケレド。でも、不思議だ。
その不思議を、ふと立ち止まって、かみしめたい。
その不思議の中に、魔法を見いだしたい。
「本当にあったのではないこと」が、それにもかかわらずわたしたちの心を強く打つことを。その魔法を。
無生物でしかないものに、魂を“見る”、その魔法を。
その豊かさを。
本当はそうでないかもしれないことに、心を動かす力。
わたしたちには、そんな能力があるようです。
無でしかないものを、有であるかのように見なす力。
無から有を生み出す魔法は、制作者の側にもあるけれど、わたしたちの側にもあるらしいのです。世界を生み出す最少人数は二人。つまり、作者と読者。作者は無でしかないものを有であるかのように語り、読者は無でしかないものを有であるかのように“視”る。
そこで。
「あなたの」つまり「わたしたちの魔法」について思いを馳せたいのです。
同人誌や、ファン動画を生み出している「あなた」。そこまではしていなくても、心の中で、夢を動作させている「あなた」や「わたし」。
例えば、わたしたちは、夢を見て、夢を語る。
BL方面の人の中には、例えば「戦人と嘉音のあいだに恋愛感情が発生してほしい」という夢を描いているかもしれない。「ヱリカと戦人に、ロマンスがあったらいいのに」という願望をいだく人もいたりするでしょう。
その幻想を、同人誌に描いたり、ファン動画に落とし込んだりしている。
それをあたりまえではなく、不思議に思うことにしよう。
だって、そんな事実は原作の中にはないのだから。そこで描かれたエピソードは、オーソライズされたオリジナル世界には存在しないものなのですから。
わたしたちは、ありもしないものごとを夢想して、自分の願望世界の内側において、まるで本当のことのように描き出している。
その不思議。
原作にないという意味において「本当ではないこと」が、それにもかかわらず人の心を強く打つ不思議。それを求めて、つまり美しい「幻想」を求めて、東京ビッグサイトが人の群れで埋まる、この不思議。
本来存在しないものを、それでも存在して欲しいと願ったとき、あなたやわたしの手はペンをとり、紙やディスプレイに向かい、その願いに形を与える。
そして、わたしとあなたの間では、それは真実として流通することにしよう、と取り決める。
そうした「夢」に対して、事実(あるいは原作)に即していないとか、正しくないとか言うのは、ナンセンス。なぜならこれは、事実性とか、正しさといったものとは全然別のものに根ざしている世界だから。
真里亞は、喋らないライオンのぬいぐるみと、それでも喋りたいと願う。ベアトリーチェと真里亞の間では、それは喋れるものなのだ、と取り決める。
ベアトリーチェは、魔法を使う魔女でありたいと願う。真里亞とベアトリーチェの間では、それは真実として流通させようと取り決める。
まるでわたしたちみたいに。
だから。
ここが黄金郷だ。
だから。
あなたが魔女だ。
だからわたしは、「魔女の自由」を語りたい。
「読み」というのは、常に、もっと自由なんだということを、高く歌い上げたいのです。
現実がこうだから、それに即していない物語を書くべきではない、などと、フィクションの作者に向かって言う人はいません。
同様に。作者がこうだといっているから、作中にこう書かれているから、それにしたがわなくてはいけないなんてことはないんだ。
そもそも自由を感じるために本を書き、自由を感じるために本を読むのです。
だって、存在しない舞台や存在しない人物を、存在するかのように感じる快楽が、フィクションを読むことなのだから。
すべてが自由だ。
ベアトリーチェだって、「自由を感じるために」魔女をやっているはずなのです。きっと。
だって、目の前にあるこの現実(この世界)を、こうある通りに受け容れなければならないというのなら、ベアトリーチェは「自分は魔女である」なんて思うことはできない。
目の前のこの現実を、この通りに受け容れなければならない、という「思いこみ」から自由になった者が、魔女なのです。そこから自由になることが、きっと、魔女になるということです。
あなたの足元に落ちてきた木の葉は、気圧差による大気の動きが枝からもぎとったものにすぎないのだが、冬の木があなたに投げかけてくれた親愛の挨拶なのかもしれない。
それが魔法。
どこにでもある素敵な魔法。
わたしは、わたしの魔法を日々感じ続けようと思う。だから、あなたも、あなたの魔法を感じてくれると嬉しいのです。
黄金郷よ、ここにあれ。
トワイライトオブゴールデンウィッチ。魔女の黄昏。それは、「傾き、斜陽を迎えた魔女」という意味ではないはずだ。それはきっと、「魔女の闇」の意にちがいない。魔女の世界。魔法の世界。見ようと思えば、そこここに魔法を見ることができるゴールデン・タイム。
箱が開けば、内と外がつながる。つまり箱の外にいて箱を開いたあなたは、いまや箱のなかにいる。箱の中はグレムリンが存在しうる世界。魔女の闇。
ですから。
初めまして、こんにちは。ご挨拶をさせて下さい。
あなたの闇に親愛の挨拶を。
世界にみちるヘクセンナハトに。
すべての魔女たちに、愛と親しみと祝福を。ハッピーハロウィン。
※引用は「日本の詩歌9 北原白秋」(中央公論社)によった。
■関連記事
世界構造(上)/ただの創作じゃない、全てに実体がある
世界構造(下)/フェザリーヌの魔法の正体
世界構造(補遺)/あなたの魔法を賛美する
■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
すべてのヘクセンナハトのために
筆者-初出●Townmemory -(同人誌『我こそは我にして我等なり』2010年12月31日初版)
●再掲にあたっての筆者注
ハロウィン記念として、ひとつ、記事を再掲しておくことにします。
この記事は、同人サークル「シフクノキロク」が去年、企画発行した同人誌『うみねこのなく頃に完結記念合同誌 我こそは我にして我等なり』のために書き下ろしたものです。より多くの人の目に触れることを願って、ここにあらためて掲示することとします。
この同人誌の初版発行日は2010年12月31日。つまり、『うみねこのなく頃に Episode8 Twilight of the golden witch』のイベント発売日でした。ですから、Ep8を見るより前、Ep7までの情報をもとに書かれています。
が、Ep8の内容をある種、予言するような内容になっているようにも思います。
「ヘクセンナハト」は、ドイツ語で、「魔女の夜」ほどの意味です。
以下が本文です。
☆
SF作家の新井素子さんの生活は、大量のぬいぐるみとともにあるそうです。いや、大量という言い方はいささか敬意が足りないかもしれない。新井さんは、「ぬいぐるみというのは、生きており、意志があり、生命体であり、きちんとお話ができるものである」とみなしているのですから。
新井さんはぬいぐるみとの奇妙な会話や、ぬいぐるみと共にある生活を描いた「ノンフィクション」の作品を、いくつも出版していらっしゃいます。
彼女の旦那さんは、もちろん当初はぬいぐるみと話すことはできませんでした。が、新井さんと結婚して、生活を共にするうちに、日々うつりかわるぬいぐるみの表情や言葉が、きちんとわかるようになっていったそうです。
これを、SF作家という怪しげな人種の奇妙な妄想と、それにつきあってあげている優しい旦那様の姿である……とするのは、あまりにも簡単なことなのですが。
子供のころ、わたしは、料理というのは特殊な知識と特殊なスキルを要する、自分にはとうてい手の届かない高みにある能力だと思っていました。ロマンチックな言い方をすれば、一種の「魔法」であるかのようにみなしていたわけです。どうやってできるのかさっぱりわからない。それはありえないものを生み出す錬金術のようなものである……というように。
ところが、いろいろな事情があって自分で料理をするようになります。わたしは不器用のコンテストがあったらかなりいい位置につけると自負しているのですが、それでも毎日食事を作っていると、少しずつスキルも知識も身についてくる。そしてあるときふと味見をして愕然としたのでした。「ああ! これっておばあちゃんが作っていたのとまったく同じ味だ!」。
これを、「かつて魔法だと思っていたものは、魔法でもなんでもなかった」というタネの解明と受け取るのか。
それとも、「ああ、今こそわたしは、魔法使いのおばあちゃんのあの境地に至り、あの高き魔法をついに会得したのだ」と受け取るのか。
砂糖と小麦粉と卵とバターとミルク。それがオーブンから出てきたときには可愛いカップケーキになっている。これを「ふしぎ! まるで魔法みたい!」と思うのか。「何の不思議もないことだ」と思うのか。
そこには重大な岐路があると思うのです。かつて言葉の魔術師はこう歌ったそうです。
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
(北原白秋「薔薇二曲」)
薔薇の木に薔薇の花が咲く。「何ら不思議でもないことだ」と通り過ぎる人もいるだろうけれど。
「確かに不思議ではないんだが、でも……」
そういって、立ち止まり、顎に手を当ててふと考え込んでもいいだろう。そこに魔法を見いだす人がいてもいいだろう。
薔薇の花……。
さて。あなたがいま読んでいるこの本は同人誌という種類のものです。
同人誌という言葉は、今やほとんど「アニメや漫画を題材にしたパロディ創作を、アマチュアが執筆して刷り、イベント会場で頒布するもの」という意味になっています。
つまり、アニメーションや漫画や、そういったフィクションが愛しくてたまらないので、自分で登場人物を動かし、「こうであったらいいな」と夢想し、幻想を編み上げて、それを紙に書いて綴じ込んで配るという遊びが、思いのほか広く世間に定着しているということのようです。
不思議なことです。
なぜなら、元になっているものはフィクションなのです。「ありもしない作りごとを書いたもの」にすぎないのです。
「右代宮戦人」や「ベアトリーチェ」といった人物が実在するわけではない。にもかかわらず我々は、本当の人物であるかのように彼らの幸いを願い、ロマンスを期待している。
何の不思議もナケレド。でも、不思議だ。
その不思議を、ふと立ち止まって、かみしめたい。
その不思議の中に、魔法を見いだしたい。
「本当にあったのではないこと」が、それにもかかわらずわたしたちの心を強く打つことを。その魔法を。
無生物でしかないものに、魂を“見る”、その魔法を。
その豊かさを。
本当はそうでないかもしれないことに、心を動かす力。
わたしたちには、そんな能力があるようです。
無でしかないものを、有であるかのように見なす力。
無から有を生み出す魔法は、制作者の側にもあるけれど、わたしたちの側にもあるらしいのです。世界を生み出す最少人数は二人。つまり、作者と読者。作者は無でしかないものを有であるかのように語り、読者は無でしかないものを有であるかのように“視”る。
そこで。
「あなたの」つまり「わたしたちの魔法」について思いを馳せたいのです。
同人誌や、ファン動画を生み出している「あなた」。そこまではしていなくても、心の中で、夢を動作させている「あなた」や「わたし」。
例えば、わたしたちは、夢を見て、夢を語る。
BL方面の人の中には、例えば「戦人と嘉音のあいだに恋愛感情が発生してほしい」という夢を描いているかもしれない。「ヱリカと戦人に、ロマンスがあったらいいのに」という願望をいだく人もいたりするでしょう。
その幻想を、同人誌に描いたり、ファン動画に落とし込んだりしている。
それをあたりまえではなく、不思議に思うことにしよう。
だって、そんな事実は原作の中にはないのだから。そこで描かれたエピソードは、オーソライズされたオリジナル世界には存在しないものなのですから。
わたしたちは、ありもしないものごとを夢想して、自分の願望世界の内側において、まるで本当のことのように描き出している。
その不思議。
原作にないという意味において「本当ではないこと」が、それにもかかわらず人の心を強く打つ不思議。それを求めて、つまり美しい「幻想」を求めて、東京ビッグサイトが人の群れで埋まる、この不思議。
本来存在しないものを、それでも存在して欲しいと願ったとき、あなたやわたしの手はペンをとり、紙やディスプレイに向かい、その願いに形を与える。
そして、わたしとあなたの間では、それは真実として流通することにしよう、と取り決める。
そうした「夢」に対して、事実(あるいは原作)に即していないとか、正しくないとか言うのは、ナンセンス。なぜならこれは、事実性とか、正しさといったものとは全然別のものに根ざしている世界だから。
真里亞は、喋らないライオンのぬいぐるみと、それでも喋りたいと願う。ベアトリーチェと真里亞の間では、それは喋れるものなのだ、と取り決める。
ベアトリーチェは、魔法を使う魔女でありたいと願う。真里亞とベアトリーチェの間では、それは真実として流通させようと取り決める。
まるでわたしたちみたいに。
だから。
ここが黄金郷だ。
だから。
あなたが魔女だ。
だからわたしは、「魔女の自由」を語りたい。
「読み」というのは、常に、もっと自由なんだということを、高く歌い上げたいのです。
現実がこうだから、それに即していない物語を書くべきではない、などと、フィクションの作者に向かって言う人はいません。
同様に。作者がこうだといっているから、作中にこう書かれているから、それにしたがわなくてはいけないなんてことはないんだ。
そもそも自由を感じるために本を書き、自由を感じるために本を読むのです。
だって、存在しない舞台や存在しない人物を、存在するかのように感じる快楽が、フィクションを読むことなのだから。
すべてが自由だ。
ベアトリーチェだって、「自由を感じるために」魔女をやっているはずなのです。きっと。
だって、目の前にあるこの現実(この世界)を、こうある通りに受け容れなければならないというのなら、ベアトリーチェは「自分は魔女である」なんて思うことはできない。
目の前のこの現実を、この通りに受け容れなければならない、という「思いこみ」から自由になった者が、魔女なのです。そこから自由になることが、きっと、魔女になるということです。
あなたの足元に落ちてきた木の葉は、気圧差による大気の動きが枝からもぎとったものにすぎないのだが、冬の木があなたに投げかけてくれた親愛の挨拶なのかもしれない。
それが魔法。
どこにでもある素敵な魔法。
わたしは、わたしの魔法を日々感じ続けようと思う。だから、あなたも、あなたの魔法を感じてくれると嬉しいのです。
黄金郷よ、ここにあれ。
トワイライトオブゴールデンウィッチ。魔女の黄昏。それは、「傾き、斜陽を迎えた魔女」という意味ではないはずだ。それはきっと、「魔女の闇」の意にちがいない。魔女の世界。魔法の世界。見ようと思えば、そこここに魔法を見ることができるゴールデン・タイム。
箱が開けば、内と外がつながる。つまり箱の外にいて箱を開いたあなたは、いまや箱のなかにいる。箱の中はグレムリンが存在しうる世界。魔女の闇。
ですから。
初めまして、こんにちは。ご挨拶をさせて下さい。
あなたの闇に親愛の挨拶を。
世界にみちるヘクセンナハトに。
すべての魔女たちに、愛と親しみと祝福を。ハッピーハロウィン。
※引用は「日本の詩歌9 北原白秋」(中央公論社)によった。
■関連記事
世界構造(上)/ただの創作じゃない、全てに実体がある
世界構造(下)/フェザリーヌの魔法の正体
世界構造(補遺)/あなたの魔法を賛美する
■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
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