さいごのかぎ / Quest for grandmaster key

「TYPE-MOON」「うみねこのなく頃に」その他フィクションの読解です。
まずは記事冒頭の目次などからどうぞ。

Ep8を読む(補遺1)・探偵小説史の縮図としての『うみねこ』

2011年05月12日 01時55分01秒 | ep8
※初めていらした方へ:
「目次」から順に読んでいただくと、よりわかりやすくなっています。リンク→ ■目次(全記事)■

Ep8を読む(補遺1)・探偵小説史の縮図としての『うみねこ』
 筆者-初出●Townmemory -(2011/05/12(Thu) 01:49:18)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=62571&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
 Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)
 Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる
 Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち
 Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字)
 Ep8を読む(9)・いま、アンチミステリーを語ろう
 Ep8を読む(10)・右代宮戦人の「幸せのカケラ紡ぎ」
 Ep8を読む(11)・「悪の金蔵」とリフレインする運命


     ☆


 ちょっと、ミステリー史的なお話をしてみたいと思うのですが。

 最初に予防線を張っておきますが、どこぞで読んだり人から聞いたりした知識を、出典不明瞭のままぼんやりと語りますので、そんなかんじで話半分に受け取って下さい。事実関係など、間違いが含まれています(と断言しておこう)。
 例によって、Townmemoryが頭のなかにこねくりだした個人的な偽史だと思っていただけると良いかと思います。基本トンデモです。


●ファンタジーから発してアンチミステリーに至る

 Ep8では、山羊の怪物が攻めてきて、六軒島を襲います。
 怪獣があらわれて攻めてきたので、煉獄シスターズやシエスタが迎撃します。魔女の使い魔や天界の武官たちが怪獣をやっつける展開なわけで、これはファンタジー対ファンタジーです。

 そこで山羊の怪物は、「ファンタジーを一切認めない」というエンドレスナイン状態を発揮しました。この時点で、煉獄・シエスタのファンタジー攻撃は一切無効になりました。
 エンドレスナインといえばEp4までの「アンチファンタジー戦人」の必殺技です。ここはファンタジー対アンチファンタジーの局面といえます。

 この状態の山羊にダメージを与えられるのはミステリ探偵、ドラノールとウィルでした。つまりアンチファンタジー対ミステリーです。
 山羊は進化して、ドラノールたちでも苦戦するようになってきました。ミステリー対ミステリーです。

 そして場面は飛んで。
 ベルンカステルのミステリー攻撃に対して、まるで「エンドレスナイン」のように無効化をすることのできる縁寿がいました。
 ファンタジーを「エンドレスナイン」で無効化できるのがアンチファンタジーなら、ミステリーを「エンドレスナイン」で無効化できるものは?
 これを「アンチミステリー」と受け取ることにします。
 するとこのバトルはミステリー対アンチミステリーです。

(山羊の場面とラストバトルの場面、両方とも「エンドレスナイン」という表現がちゃんとでてきます)

 ファンタジー対アンチファンタジー。
 アンチファンタジー対ミステリー。
 ミステリー対ミステリー。
 ミステリー対アンチミステリー。

 これはまるで、『うみねこのなく頃に』全8話の縮図のような展開ですね。

 ファンタジーな犯行を主張するベアトリーチェを、どう否定するかという内容が、Ep1~4で描かれました。ファンタジー対アンチファンタジー。

 Ep5以降、ベルンカステル、ドラノール、古戸ヱリカといった人物は、ミステリーを標榜し、ファンタジーを切って捨て、アンチファンタジーだってファンタジーとそう変わらないものだと言い捨てました。アンチファンタジー対ミステリー。

 戦人はファンタジーの魔法使いポジションに位置を変え、彼女たちと戦いました。ファンタジー対ミステリー。

 Ep7では、“ヴァン・ダイン”ウィルとベルンカステルの、「二十則VS赤字」というバトルが展開されました。ミステリー対ミステリー。

 そして物語は、Ep8ラストの、ベルンカステルVS縁寿のシーンに合流します。ミステリー対アンチミステリー。


 この流れそのものに注目したいというのが、今回のちょっとしたお話です。

 作者が意図していたかどうか知りませんが(してない気がする)、『うみねこのなく頃に』って、日本における探偵小説(ミステリー)の歴史の縮図のように読めるんじゃないか? ということを、お話してみたいのです。

(というわけで以降、雑な歴史観を開陳いたしますので、お覚悟くださいませ)


●はじめに怪奇(ファンタジー)ありき

 当然のことながら、西洋から輸入されてくるまで、日本に探偵小説というものはありませんでした。
 そういうものが翻訳紹介されるのは明治以降です。

 ですから、たとえば江戸時代なんかに、探偵小説みたいなものはなかった。
 では、何があったのか。
 というと、かわりに「怪奇」があったのです。

 歴史の授業で、洒落本とか、黄表紙とか、滑稽本といった読み物が流行った、みたいなことを習った記憶があるでしょう。
 江戸後期ごろ、そういった出版ジャンルの中に「読本(よみほん)」というものがありました。

 この読本というカテゴリーは、中国の白話小説などから影響をうけて(あるいはあからさまな翻案をして)、伝奇・怪奇な題材が多く書かれました。
 たとえば有名な『南総里見八犬伝』『雨月物語』などは、読本です。もちろん、これらは、幽霊、妖怪、鬼神といったものが重要なギミックとして登場する物語ですね。

 ひとつポイントとして押さえておきたいのは、読本というのは、きくところによると、比較的教養の高い人たちが読む、文化程度の高いものとみなされていたらしいのです。
 漢文が読めるような知識人たちが、中国の小説に影響を受けて書いているものなので、知識人寄りのものだったわけでしょうね。

「教育を受けた、教養のある知識人たちが、怪奇小説を読む」
 という状況が、日本のプレ探偵小説の時代にはあった。

 そのことが、日本で探偵小説が受けいれられていくとき、重要な下地になっている。
 というのが、わたしの基本的な見方です。

 ここではあえて「怪奇」と呼んではいますが、これらの物語は、いわゆるホラーとはちょっとちがいます。東洋的美意識にいろどられた、ひじょうに美しいものです。

 恣意的ないいかえをすれば、これを「幻想」と呼ぶのに、わたしはそれほど抵抗をおぼえません。幻想……。


 プレ・ミステリーの時代に、ファンタジーがあった。


●怪奇に対するものとしての西洋的合理(アンチミステリー)

 江戸幕府はやがて、西洋に対して開国し、大政奉還になって、明治時代がやってきます。
 文明開化の時代がやってきました。
 これは西洋のすぐれた文物をいかに輸入して自分たちのものにするかというテーマに、日本のリソースのほぼ全部が費やされたような時代でした(ちょっと言い過ぎか)。

 それはもう文化全般にわたるのですが、その中でも、蒸気機関だの西洋医学・薬学といったことが非常に熱心に取り入れられていった。テクノロジーやサイエンスの分野で、日本人は西洋のやりかたを見て、それが断然優れていることにめちゃめちゃ驚いた。
「これからはこういう時代じゃないか」という雰囲気が醸成されていきました。

 蒸気機関車だとかの工学や、医学薬学を取り入れていくということは、つまりそれは、西洋的科学的アプローチ、西洋合理主義を取り入れていくということです。
 ぶっちゃけ科学の時代がきました。

 そういう雰囲気のなかで、江戸的怪奇はなんとなく時代にマッチしない……という感覚があっただろうと推測します。
 科学的な目からみれば、幽霊や化身みたいなものはナンセンスになってしまいます。


 そんな時代背景に、西洋文学の一部として日本国内に入ってきて紹介されたのが探偵小説だったわけです。
 黒岩涙香という人がいて、西洋の小説をさかんに翻案するという活動をしました。これは翻訳ではなくて、登場人物名を日本人名にして、舞台も日本にして、読みやすくかみくだいてまるで日本の読み物みたいなかたちにしちゃうものでした。モンテクリスト伯に巌窟王というタイトルを当てたのは涙香です。
 これは、目新しく、しかも読みやすいために人気を博しました。「涙香もの」なんて呼ばれたりしました。
 この黒岩涙香さんが、探偵小説をいっぱい翻案して、国内に紹介しました。これが、日本人が探偵小説に触れたほぼ最初の体験じゃないかな。

 探偵小説というのは、奇っ怪な事件がおこり、それが合理的思考によって解決にみちびかれるという大枠をもっています。
 いわば、怪奇趣味と合理主義が融合したような小説形態なのです。

 このことは、
「怪奇が支配していた場所に、合理主義が持ち込まれる」
 という、「江戸の闇→明治の文明開化」の流れと完全にひびきあいます。

 もうひとつポイントとしては、合理的な思考を楽しむためには、ある程度の教養がなければなりません。つまりあるていど知識人じゃないといけないでしょう。
 知識人が読むものだった怪奇の読本が、知的なものとしての探偵小説に置き換えられていく。
 中国小説の翻案としてはじまった読本の位置に、西洋小説の翻案としての探偵小説が置かれる。


 そうした「涙香もの」を熱心に読んでいた読者のひとりに、江戸川乱歩がいました。


 実質上、乱歩によって、国産探偵小説がはじまっていきます。
 大ヒットして、探偵小説の第一人者とみなされるようになった江戸川乱歩翁ですが、作品をよめばわかる通り、この人は、非常に怪奇趣味の作家です。(江戸時代マニアでもありました)
 事件に対して、合理的な解決がはかられるものの、その背後にはいわくいいがたい怪奇の影がそっとうずくまっている……。そういうものを好んで書いた、というより、違うものを書こうとしてもどうしてもそういうふうになってしまう作家でした。

 だからこそ人気作家になったのだともいえそうです。乱歩の小説では、怪奇に対して合理的解決がはかられますが、かといって、怪奇は合理に敗北しないのです。
 日本的東洋的怪奇と、西洋的科学的合理が、お互いの尻尾を追いかけあうような作品を乱歩は書いていた。
 それは、日本人が持っていた怪奇の素養の上に、科学的解決をはかる探偵小説が乗っかるという、
「日本的なミステリーの受容のしかた」
 とぴったりマッチしました。だから売れたんだ、それだから日本人は、本格的なミステリーに入って行けたんだという分析はできそうなのです。

 以降、日本の国産探偵小説はしばらく、乱歩の持っている雰囲気を基調にして展開していきます。
 黒岩涙香、江戸川乱歩の作風と、彼らのメガヒットを念頭に置いた場合、日本の初期探偵小説は、

「怪奇に対して合理をぶつけるもの」
「怪奇と合理が互いに食いあうもの」

 というニュアンスを色濃く感じ取ることができます。
 海外の探偵小説には、わたしの印象では、「犯罪を法の光で照らす」というアングルを強く感じます。しかし日本の初期のそれは「怪奇に対して合理の光を当てる」だと思うのです。
(だから、「怪人」という概念が生まれてくるわけです)

 これを「ファンタジーとアンチファンタジーの相克」という言い換えかたで理解することは、それほど無理がなさそうなのです。


●アンチミステリーは時代を巻き戻す

 わたしの記憶では、乱歩、クリスティ、ヴァンダインは、だいたい同期の作家です。

 日本国内で、乱歩ものがさかんに読まれていたそのころ、海外では長編の本格探偵小説が、スタイルとして完成してきた。乱歩の探偵小説は、読み比べてみると現代の探偵小説とぜんぜん違いますが、クリスティの作品は現代探偵小説とそんなに違いません。

 西洋探偵小説だって、ルーツをたどれば怪奇があるはずです。始祖であるポーは怪奇小説の名手でもありますし、ドイルの『バスカヴィル』なんてもろに怪奇趣味です。たしか吸血鬼をあつかったホームズ短編もあったんじゃないかな。

 が、海外では、そういう怪奇色というのはだんだんしりぞいていって、探偵小説はどんどんパズル的な方向に振られていった。

「中国人とか出すんじゃねーよ」でおなじみの『ヴァン・ダインの二十則』(ここでの中国人はほぼ「怪奇」の喩えだ)。
 これが発表されたのは1928年で、日本ではこの年、乱歩が最大のヒット作である『陰獣』を発表しています。

 つまり乱歩が乱歩趣味全開だったころ、海外では「怪奇とかはいらない、合理だけにしろ」という極論をいいだす作家が出てきていて、その言い分はかなり広く受けいれられていたとおぼしい。

 すなわちこのころ、海外では、うみねこ的な意味での、
「ミステリー」
 がほぼ成立していました。昭和初期です。
 それが日本にも入ってきます。

 時代もこのくらいになると、海外と日本のタイムラグはあまりありませんし、乱歩をはじめとする業界人は海外探偵小説の動向に敏感です。翻訳されないまでも、情報や作品は入ってきます。
 ルールが整備されたパズル的小説としての探偵小説、うみねこ的用語でいうところの「ミステリー」は、日本ではやはり海外から入ってきた。

 国産探偵小説が「本格もの」として成立したのがいつかというのは、わたしにはちょっとわからないのですが、戦後横溝正史では成立しているとみてよさそうに思います。
 戦後、海外の本格ミステリーが翻訳出版されるようになったりして(たぶん)、それでだんだん、わたしたちが「ミステリー」といってイメージするものが定着していった。

 すると、あまのじゃくな中井英夫さんという方がいて、
「アンチ・ミステリーというものを書こう」
 と思いついてしまった。
 アンチミステリーというのは日本で生まれた用語です。1964年。

(わたしの片寄ったアンチミステリー観については、こちら→「Ep8を読む(9)・いま、アンチミステリーを語ろう」)

 ミステリーというのは、謎という迷路に放り込まれた探偵が、華麗に脱出して、それが気持ちよいという小説です。
 じゃあ、迷路をぐるぐる回っていつまでも出られないようなミステリーを書いてやろう、みたいなことを思ったのかも知れません。

 アンチミステリーという言葉が生まれて広がったとき、『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』が「再発見」されて、アンチミステリーのワクにくくられます。

『ドグラ・マグラ』と『黒死館殺人事件』は、中井英夫に比べて、かなり古い作品です。前の二つは昭和初期、戦前だ。中井英夫『虚無への供物』は、戦後の高度経済成長がはじまったころの作品。

 というか、『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』は、乱歩がまだ第一線にいた時代。さすがに全盛期は過ぎていましたが、まだ、探偵小説といえばまず乱歩だった時代の小説です。乱歩の雰囲気にどっぷり漬かったところに現われた、乱歩の直接的な後輩の作品です。

 日本文学研究の分野では、江戸川乱歩と夢野久作は、「幻想文学」というくくりで一緒に扱われる場合が多いのです。これに黒死館が加わることもままあります。
 このアングルを開発したのは東大の小森陽一先生だったかのように記憶します。乱歩は国文学の分野では、探偵作家というより「ありもしないものを、美しく鮮やかに、ありありと描き出す作家」という枠組みで研究される場合が多いのです。その同じ枠組みのなかに、久作が(たまに小栗が)含まれています。
 たしかに、『ドグラ・マグラ』は、「乱歩的幻想」のニュアンスをありありと持っています。

 ありもしないもの……。幻想……。

 そして『虚無への供物』や『ドグラ・マグラ』は、ミステリーの迷宮から、最後まで外に出られないという作品。
 乱歩ベースの探偵小説というのは、怪奇(謎)をまず存在させ、それに対して合理的解決をはかるという基調をもっています。
 ところが、『虚無』や『ドグマグ』は、迷宮から出られない。合理的解決ができないという特徴がある。
 するとどうなるか。

 怪奇が怪奇であるままに存在し続ける。

 幻想が幻想のまま放置されつづける。


 アンチミステリーの中からは、ファンタジーを取り出すことが可能らしいのです。


●そしてファンタジーへ

 Ep8ラストのバトルで、ベルンカステルを撃退した縁寿のありかたを「アンチミステリー」とするならば。
「アンチミステリー」になることで、縁寿が守りたかったものは、お兄ちゃんが生きているという「自分の中のファンタジー」です。

 ファンタジーはアンチファンタジーを生み、アンチファンタジーは進化を遂げてミステリーとなり、ミステリーは反駁としてのアンチミステリーを生ずる。

 ファンタジーで始まり、アンチミステリーにたどり着いた物語は、そこから再びファンタジーへと回帰する。


 結論はすでに述べていますが、『うみねこ』を読んでいると、(わたしの考える)日本における探偵小説受容史をそのままなぞっているようだな、というのが、わたしの受ける印象なのです。


     *


 以下、余談ふたつ。

 江戸川乱歩の探偵小説は、多くの場合、合理的な解決が描かれますが、解決のあとで、
「その合理的説明って、本当に正しいのか? 何か重大な間違いが含まれているような……」
 というほのめかしを書いて、読者を宙ぶらりんな気持ちにさせ、そこでぷつっと終わる、そういう作品が多い印象です。

 まぼろしに対して、合理で説明をつける。その後、合理に対してまぼろしが再び力を持ったところを描き、ふいっと筆を止める。
 そういう趣向を、乱歩はいっぱい書きました。

 そんな乱歩的土壌が日本にはあったので、
「最終的には、巨大な謎というものが、どっしりと出現して、終わる」
 という体裁を持った、ファンタジーにすら回収されうるものとしての「アンチミステリー」がめばえたのだ。
 そういう議論はできそうな感じがします。


 もうひとつ余談。

 京極夏彦さんがデビューされたとき、『姑獲鳥の夏』の銀色の帯に、
「ミステリ・ルネッサンス」
 というキャッチコピーがつけられていたのが、印象的でした。

 京極さんの小説は、探偵小説的な不思議現象を「妖怪が憑いている」という言い方で表わします。探偵が推理を進めていくと、妖怪が発見される物語です。

「探偵小説の体裁を保ったまま、妖怪へと回帰していく」
 というベクトルをもった作品として読めます。

 上で論じたように、妖怪が登場するような怪奇の小説を、西洋合理主義の時代において、代替えするようなかたちで定着していったのが日本の探偵小説です。
 京極夏彦さんの小説は、探偵小説でありながら、探偵小説成立以前の世界へと回帰していく。

 それは、イタリア・ルネサンスの芸術家たちが、キリスト教に支配された芸術というものに倦んだとき、自分たちのルーツとしてギリシャというモチーフを発見したのと、ひじょうに相似形なのです。ですからこれを「ミステリ・ルネッサンス」というたとえで呼ぶのはたいへんふさわしく正しいのです。


 ついでにわたしの個人的な読みを言えば、『姑獲鳥の夏』は『ドグラ・マグラ』の強い影響下にある作品です。というか、下敷きにしている、オマージュ作品であるといってもいいと思います。
 道具立てが似ていることもそうですが、まさに「脳髄が脳髄を追いかけている」よね。



■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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Ep8を読む(11)・「悪の金蔵」とリフレインする運命

2011年04月21日 00時29分46秒 | ep8
※初めていらした方へ:
「目次」から順に読んでいただくと、よりわかりやすくなっています。リンク→ ■目次(全記事)■

Ep8を読む(11)・「悪の金蔵」とリフレインする運命
 筆者-初出●Townmemory 2011/04/21(Thu) 00:21:04)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=61933&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
 Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)
 Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる
 Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち
 Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字)
 Ep8を読む(9)・いま、アンチミステリーを語ろう
 Ep8を読む(10)・右代宮戦人の「幸せのカケラ紡ぎ」


     ☆


 前回の続きです。ですから前回をまず読んで下さい。
 Ep8を読む(10)・右代宮戦人の「幸せのカケラ紡ぎ」


●魔法エンドの六軒島殺人事件

 魔法エンドを選ぶと、「3日目の脱出行」が描かれます。
 潜水艦ドックから、小さなボートで戦人とベアトが脱出します。
 これは、物語を読んできたわたしたちにとっては、奇跡としかいいようがない脱出です。

 いったい、六軒島で2日のあいだにどんな物語が展開したら、戦人とベアトがふたりして愛の逃避行をするなんていう状況が発生するのか。

 それは、いくつか条件があって、ある程度解析できそうです。

 まず、これは魔法エンドなのですから、絵羽が生存していなければなりません。
 次に、戦人は、ここに登場するベアトのことを、
「俺たちの世界では、何の罪も犯しちゃいないさ。」
 と言っています。つまりここに登場するベアトは殺人を犯していないと戦人は思っていることになります。

 絵羽が生存するのは、Ep3か、Ep7お茶会か、どっちかです。
 Ep3は、ベアトは殺人をバカスカ行なっていそうな雰囲気がぷんぷんします。
 いっぽう、Ep7は、人を殺すのは霧江や絵羽で、ベアトはノータッチです。

 というわけでEp7が有望です。
 魔法エンドで描かれた脱出は、Ep7お茶会そのものか、それに限りなく近い世界の延長上にある。
 ということが言えそうです。これをとりあえずOKとしましょう。
「それに限りなく近い別の世界」というのが、ちょっとしたみそです。


●ベアトリーチェに罪がある

「俺たちの世界では、何の罪も犯しちゃいないさ。」
 という戦人のセリフに対して、ベアトは意味深な答え方をしています。

「いいや、………そんなことはないぞ。」

 まとめると、「ベアトはこの世界では罪を犯していないと戦人は思っているが、実は戦人の知らないところでベアトは罪を犯しているのだ」という感じになりましょうか。
 ここでの「罪」を、そのまま「殺人」という意味に受け取ることにします。
 するとこうなります。

「ベアトは戦人の知らないところで人を殺してしまいました」

 でも、Ep7もしくはそれに限りなく近い世界では、ベアトは人を殺すタイミングなんてなさそうなのです。

 いつ?
 誰を殺した?


 わたしにはひとつ心当たりがあります。


 ラムダデルタは、このゲーム盤に私は“絶対”に勝てないと豪語している。

 その時点で、逆説的にルールXは判明しているの。本当に馬鹿な子ね。
 つまり、物語が常に6月20日から始まるようなもの。恐らくこれが、ベアトリーチェなる魔女の心臓部でしょう。
(『Letter of Bernkastel』うみねこのなく頃に翼)


 ベルンカステルはベアトのゲーム盤に絶対勝てないのだそうです。なぜならこれは、「6月20日から始まる」ようなゲームだから、だそうです。
 6月20日というのは『ひぐらし』で意味を持つ日付です。
『ひぐらし』では、6月19日に最初の殺人が発生します。そして、それが発生したら、もう連続殺人の惨劇は絶対に止められないという条件のゲームでした。
 だから、惨劇を止めたいと思うなら、6月19日の殺人を絶対に発生させてはならないのです。
 古手梨花は、「6月19日の殺人を回避するカケラ」を数百年かけて探すことにより、このゲームをクリアできたのでした。

 つまり、「物語が常に6月20日から始まる」というのは、「最初の殺人が昨日すでに起こっている」ということであって、「もう連続殺人の発生は絶対に止められない」。

 だから、うみねこのルールXとは、
「ゲームが始まる前日、10月3日にはすでに第一の殺人が発生しているので、犯人は後戻りできなくなっている。犯人が連続殺人を断念することは絶対にない。よって惨劇は必ず発生するのである」
 ということだろうと推定されます。

 ようするに。
 ベアトリーチェさんは、戦人が島に来る前日、10月3日あたりに、一人ほどザックリ殺っちまっているだろう。そしてそれは、魔法エンドに限らず、ほとんどのゲーム盤で起こっていることだろう。
 そういうことを、言いたいわけです。
 では、ベアトリーチェは誰を殺したのか。


●ベアトリーチェは誰を殺した?

 おあつらえむきに、「ゲーム開始前にすでに死んでいる人物」という条件がコールされています。
 それは金蔵です。
 つまりベアトリーチェは、10月3日に、金蔵を射殺もしくは刺殺したのです。


 でも、それは変だ。金蔵については、1年以上前に大往生する姿が描かれているではないか。それを蔵臼が隠すから、親族会議は混乱を見せるわけなのだろう……という話になってきます。

 いつもの通り、こう考えることにします。
「金蔵が1年以上前に大往生したカケラ世界」「金蔵がベアトに殺害されたカケラ世界」
 があって、両立している。

 そして魔法エンドは後者のカケラである。

 すると例の意味深な会話はこういう意味になります。
「俺たちの世界では、何の罪も犯しちゃいないさ。(殺人を犯したのは霧江さんと絵羽伯母さんなのだから)
「いいや、………そんなことはないぞ。(なぜなら妾は金蔵を殺したからな)

 Ep7お茶会には、「蔵臼が金蔵の死を隠してる」という描写があります。蔵臼が金蔵の死を隠すためには、金蔵の大往生という条件が必要ですから、そこだけうまく合いません。だから「Ep7に限りなく近い別の世界」という処理になるわけです。

(あ、そうでもないかな。ベアトが4~5日くらい前に金蔵を毒殺し、それが自然死に見えた場合、「今、親父殿の死がばれるのはまずい」と蔵臼は考えるでしょう)


「金蔵の大往生」が明示されるゲーム盤は、必ず常に「ベアトリーチェ以外の人物がゲームマスターをしている」盤です。
「ベアトリーチェが存在しないゲーム盤(Ep7)」すら作れてしまうベルンやラムダのようなゲームマスターが、「ルールXが最初から無効化されてしまった(金蔵がもっと前に死んでいることによって)」ゲーム盤を持ってきている、というのは、想定できる話だと思うのです。


●善なる金蔵と悪の金蔵

 ちょっと、やみくもな想像を展開しますが、「金蔵が大往生するか/魔女に殺されるか」の違いは、「金蔵が善人か/悪党か」に関係あるかもしれません。

 ようするに、金蔵が善人なら大往生をとげることができるが、悪党なら魔女に殺されてしまう。そういうアングルを仮説的に提示したいわけです。


●金蔵が善人の場合

 金蔵がいい人の場合は、こんなストーリーが展開します。

 善人の金蔵は、運命に翻弄されたりはしましたが、基本的に善人なので、イタリア軍の黄金をせしめようなんて思ったりはしません。
 いい人なので、ビーチェさん……通称イタリアンベアトさんにも好かれます。2人は恋を育てます。

 イタリア黄金を盗もうとしたのは山本中尉です。日本軍とイタリア軍の戦闘が発生し、双方が全滅します。
 金蔵はビーチェを連れてボートで島を脱出し、山本の暴力であばらを折られたビーチェを南條医院にかつぎこみます。

 金蔵は戦後もビーチェをかくまい、赤ちゃんができます。この赤ちゃんはのちに九羽鳥庵ベアトになります。この出産時にビーチェは死んでしまいます。
 金蔵は忘れ形見の九羽鳥庵ベアトを大切に育てます。ところがビーチェへの愛に狂った金蔵は、九羽鳥庵ベアトとビーチェを同一視するようになり、九羽鳥庵ベアトと関係を持ってしまいます。子どもが生まれます。九羽鳥庵ベアトは楼座に連れ出され、事故で死亡します。

 金蔵は、九羽鳥庵ベアトとその赤ちゃんの運命を翻弄してしまったことを悔やみ続けます。かなうならもう一度会ってひと言詫びたい、許しを得たい。
 それがかなうまでは死ぬに死ねない……。
 その願いは、「碑文を解いた少女」が現われることで、叶います。「黄金を手にして現われた女性」は象徴的な意味で金蔵にとってはベアトリーチェなのです。
 金蔵は、彼女を通して九羽鳥庵ベアトに詫び、少女は「お父様」と呼ぶことで、金蔵に許しを与えます。
 もう思い残すことはない……。「ベアトリーチェに、もうひと目だけ会いたい」という執念だけで生き続けていた金蔵は、安堵して、糸がぷつりと切れるように大往生をとげるのです。

 これは、おおむね描かれた通りのお話ですね。
 悲しいし不幸だけれども、基本的には良い話として諒解できます。Ep8の戦人は必ずこっち側の真実を採用するでしょう。


 しかし、Ep7の物語は、「黄金を自分のものにしようとしたのは金蔵かもしれない」という可能性を見せびらかして、放り出します。

 そっちの話は、だいたい、以下のようになるような気がします。


●金蔵が悪党の場合

 こっちの金蔵は邪悪です。イタリア軍が持ってきた200億円の黄金を見たら、
「こいつを自分のものにすれば、何でもできるぞうー!」
 と考え、それを実行してしまいます。

 山本中尉に黄金奪取計画を打診したところ、善人の山本中尉は「バカなことを言うな!」と一喝してきたので、話にならんなと考えます。金蔵は、日本軍とイタリア軍を同士討ちさせてしまえば、生き残った自分が黄金を独占できるではないかと考えます。

 通訳の立場を利用して、イタリア軍に「日本軍が黄金を狙っている」と吹き込みます。あげく、イタリア軍の部屋に自分で手榴弾をほうりこみます。
 イタリア軍は「日本人の裏切りだ」と考え、報復攻撃に出ます。日本側とイタリア側が戦闘し、ほぼ双方が全滅します。生き残った者がいたら、金蔵が射殺します。

 ビーチェが生き残っていました。金蔵はビーチェに劣情をいだいていたので、あばらを折って動けなくします。そして性的な暴行を加えます。ビーチェが抵抗したので、顔をさんざんに殴りつけて、ボッコボコにして、抵抗する力を奪います。

 金蔵は「この女も俺様の戦利品だ、生かしておいていつまでも自分のものにしよう」と考えます。
 気絶したビーチェをボートにひきずりこんで、新島の南條医院にかつぎこみます。
 一命をとりとめたビーチェは、意識を回復し、顔面を殴打されて見るも無惨になった自分の容貌を知って、
「こんな身体じゃ恋もできない! どうして私を助けたんですか! あのまま死にたかった!」
 と絶叫します。

 金蔵はビーチェを別荘に監禁して、その後も関係を続けます。ビーチェは自殺しようと考えますが、自分が妊娠していることを知ってしまいます。お腹の子に罪はないので、出産を待って、その直後に自殺します
(Ep3の魔女ベアトリーチェは、「金蔵の手から逃れるために自ら命を絶った」と、自分のことして語っています)

 悪党の金蔵はめちゃくちゃ怒ったりガッカリしますが、幸い、女児の赤ちゃんが残されています。ビーチェが戦利品なら、この子も戦利品だ。監禁して、育て上げ、ビーチェの代わりとして関係を持ちます。また子どもが生まれ、事故で九羽鳥庵ベアトが死にます。今度の赤ちゃんは、さすがにあんまりだと思った源次が遠くに連れ去ります。どうしてこう、ビーチェとその子どもたちは自分から逃げだしてゆくのだ! 金蔵はますます狂っていきます。

 この金蔵像は、Ep1~4で描かれてきた彼のイメージに近い。と、わたしは感覚的に思うのです。

 そういう悪の金蔵は、十数年後に九羽鳥庵ベアトの忘れ形見(碑文を解いた少女)に再会したからといって、もう思い残すことはないなんて大人しく死んだりはしそうにないのです。
 もちろん、口では「すまなかった、一言わびたかった。会ってくれてありがとう」と言うに決まっています。でも同時に、内心では、

「今度は逃がさぬ」

 と思ってるにちがいありません。今度はビーチェを逃がさないために、自分は絶対死ぬことはできない、と、ますます妄執を深めそうだ。あと100年くらい勝手に生きるんじゃないのか。

 碑文を解いて黄金を継承し「ベアトリーチェ」になった少女は、源次や金蔵本人から、六軒島の歴史をすべて聞くのです。金蔵がどうして黄金を手に入れたか。そのために金蔵が何をしてきたか。悪の金蔵はそれを自分の手柄のように語ります。

 聞いた少女はこう思うわけです。

「こいつは屑だ。死ねばいいのに」

 1986年10月3日(推定)に、それを実行します。


●出産時の死亡なのか、自殺なのか

 Ep3で、魔女ベアトリーチェは、
「金蔵に監禁されたので、自殺して霊的な存在になることで、その支配から逃れた」
 という自分の物語を語っています。

 だから、二択です。

 金蔵は善人なのか、悪党なのか。
 ビーチェは金蔵を愛して出産時に亡くなったのか、それとも金蔵から逃れたくて自殺したのか。

 そして、さらにその延長上に、こんな二択を設定することができます。

 金蔵は最期に満足を得て大往生したのか、それとも生かしておく価値がないとみなされて誰かに殺されたのか。


「俺たちの世界では、何の罪も犯しちゃいないさ。」
「いいや、………そんなことはないぞ。」

 この会話を、「金蔵を殺害したベアト」というストーリーだと考える場合。
 魔法エンドの金蔵は、「悪の金蔵」です。


 しかし、Ep8を読んできたわたしたちは、そしてEp8を経験したベアトは、そんなふうに善悪を一面的に見ることはおかしいんだ、という視点を持っています。

 悪の金蔵は、露悪的に振る舞っていただけで、本当は善良だったかもしれない。善良な金蔵が、自分を正当化することをよしとせずに、自分を悪いものとして語っていただけかもしれない。

 そういう「かもしれない」の側面を、見ようとしてあげること。それが真の魔法であって、それが「愛をもって見る」ことなんだと、わたしたちは知っています。

 だから、そういうふうに見ようとせず、一面的に金蔵を悪だとみなして殺してしまったのなら、本当に愛がないのはベアトリーチェのほうです。
 愛がないのが罪なら、ベアトリーチェには罪があります。彼女は自分のことを、罪のある存在だといっています。
 だから彼女は自ら死ぬわけです。


 というストーリーをわたしが勝手に読みました。


●ここだけは紗音であってほしくない場面

 さらにその延長上に話を展開していきます。

 魔法エンドで語られる「ベアトリーチェの罪」が、ルールXに基づく金蔵殺害のことであると仮定します。
 魔法エンドのゲーム盤は、Ep7お茶会か、それに限りなく近い世界だと推定しました。よって、Ep7お茶会(その近似世界)では、金蔵はベアトに殺害されていることになります。つまりルールXが起動しています。

 ルールXに基づく金蔵殺害は、連続殺人事件の一環です。
 金蔵を殺してしまったら、もう後には引けない。右代宮一家を全員殺して島を爆破するところまで行かないかぎり、警察がやってきて自分は破滅する。だから金蔵を殺したら最後、絶対に六軒島爆破まで行ってしまう。これが(この推理上の)ルールXです。

 金蔵の死を露見させないという理由で連続殺人事件を続行しようとする者は、金蔵を殺害した人物か、死の露見によって蔵臼が破滅したら困る人物か、どっちかです。

 つまり、ちょっと思い切ったことをいうと、魔法エンドのベアトの中身は可変ではなく、朱志香一択だ、という可能性をわたしは考えているのです。


 というか、このベアトだけは紗音じゃないことにしたい
 そういうわたしの気持ちがあるのですね。
 これはわたしが特に、願望に基づいて言っているものですから、そのへん割り引いて読んで下さいね。

 わたしは……。
 なんの根拠もない、ただのわたしの願望ですが、個人的に以下のような真実が存在していてほしいと思うのです。
 すなわち……。

 譲治にプロポーズされて、紗音がその場で迷わず指輪を嵌める世界では、紗音はベアトリーチェではない。

 そういう真実がぜひとも存在してほしいんだ。


 たとえばEp2がそうです。紗音はその場で指輪を薬指にはめています。
 そして、Ep7お茶会がそうなのです。弱気になる譲治に、左手の指輪を見せて、「ほら、私はもう指輪をはめましたよ。気持ちはもう揺れたりしないのですよ」と言っているのです。未来を語る譲治に、「その未来を私に実際に見せて下さい」と言うのです。

「未来を私に見せて下さい」と言った紗音が、黄金の間で、その口で、「私もう生きても死んでもどうでもいいです」とかいってなげやりに射殺されて、でもどういうわけか生き残り、戦人と一緒に愛の逃避行をする。
 ちょっとそういうストーリーラインはご免こうむりたいんだ。

 そのためのひとつの方法としては、「魔法エンドとEp7お茶会はつながってない」ことにすることもできます。
 けれどもそれ以外の方法として、「Ep7お茶会のベアトは紗音ではなく、その延長にある魔法エンドのベアトも紗音ではない」とするほうが、わたしにはしっくりきます。


 例えばこんな挿話。

 Ep7お茶会では、理御は鎖にしばられて、右代宮一族が殺しあいをしていく朗読劇を強制的に見せられます。
 理御は「私は犯人を知っているし、真相ももう知ってるんだから、こんな劇をこれ以上演じる必要はないんだよ!」とクレルに絶叫します。
 でも、上演は止まりませんでした。

 Ep7は、普通に読んだら紗音がベアトリーチェである、と読める物語です。よって、理御が知っている「犯人」「真相」とは、紗音ベアトリーチェのそれである、と推定されます。
 なのに、クレルは上演を止めなかった。なぜか。
 それは、Ep7お茶会は、「紗音ではないベアトリーチェ」が、「私の物語も知って欲しい」と願って朗読したものだからです。きっと。
 ベルンは再三「この朗読のゲームマスターは私ではない」と言っています。Ep7お茶会のゲームマスターはきっと「クレルの中にいる、紗音ではないベアトリーチェ」です。

 クレルは「我は我らなり」と言っています。自分は複数形の存在だって言ってるんです。クレルの中には、中身の異なる複数のベアトリーチェがいそうなんです。
 シャノン=ベアトリーチェは、自分の物語を心ゆくまで語って、理御にそれを理解してもらい、一定の満足を得ました。
 それ以外のベアトリーチェだって、話を聞いてもらって、誰かに自分を理解してもらいたいのです。


 ……恐らく、理解できるのは、自分だけ。
 自分の中にいる自分たちにだけでも、せめてわかってもらえれば、それでいい。
(Episode7)


 ベアトリーチェは、自分の中にいる別のベアトリーチェたちに、自分の物語を理解してもらいたかった……。


 シャノン=ベアトリーチェが語った「自分の物語」に出てくる金蔵は、善良な金蔵でした。
 だから、シャノン=ベアトリーチェのカケラ世界に住んでいる金蔵は、善良なんです。きっと。

 でも、善良でない金蔵の姿も、示唆されている。
 Ep7お茶会を朗読するクレルのハラワタの中には、極悪非道の金蔵がいました。
 よって、Ep7お茶会の金蔵は極悪非道の悪党です。だから紗音ではない別のベアトリーチェは、許せなくて金蔵を殺したのです。


●魂のルフラン

 その「Ep7お茶会の朗読者」である、「紗音以外のベアトリーチェ」
 その正体とは、朱志香=ベアトリーチェである。
 という仮説をこれから話します。

 Ep7お茶会のベアトは朱志香であり、魔法エンドのベアトは朱志香である……という我田引水なお話をしますよ。


 Ep7お茶会の金蔵は殺害されており、よってEp7お茶会の金蔵は悪党のほうだった、という議論をすでにしました。話をここに乗っけます。

「金蔵悪党説」のほうのストーリーを思いだします。
 イタリアのベアトリーチェは金蔵からの暴力を受け、恋もできない身体にされ、ボートで拉致され、監禁され、自殺します。そんな感じでストーリーを想像しました。

 ところで、
 Ep7お茶会のストーリー内にも、恋もできないような身体にされた人がひとりいます。

 朱志香ちゃんは、霧江に顔面をボッコボコにされました。記憶では、鼻が折れて眼球が損傷するレベルまで殴られたと書いてあったんじゃないかな。

 黄金をせしめるために島内の全員を皆殺しにしよう、というアプローチをとった霧江は、まるで悪党説の金蔵そっくりです。
 そんな霧江に、「恋もできないくらいに」容姿を破壊された朱志香がいます。

 そんな朱志香ちゃんを、ベアトリーチェであると仮定してみます。
 Ep7お茶会は魔法エンドと繋がっている想定ですから、魔法エンドでボートに乗ったベアトリーチェは、実際には美しい容姿を失った朱志香である、と考えるのです。
 海に漕ぎ出た朱志香は、戦人を置き去りにして自殺することになります。


 ベアトリーチェは六軒島から脱出するとき、もとの美しい容姿を喪失するのである。
 ベアトリーチェは六軒島から脱出したのち、「六軒島の領主」を現世に置き去りにして自ら命を絶つのである。



 そんな物語が、リフレインされたことになります。数十年という時をへて、ビーチェ→朱志香という順で。


 この整合を、わたしは美しいと思うので、真実にしてしまいたい。そう思うわたしがいるのです。
 この整合は、「金蔵悪党説」と「ジェシカ=ベアトリーチェ説」を重ね合わせたときにだけ発生します。
(ついでに、そんな朱志香が一命を取り留めたりしたら、幾子に拾われて「18歳」と名乗ることができるので、手品エンドが派生します→ Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる


 このきれいなリフレインが、果たして意図されていないものなのか? というのは、むずかしいところですが、うーん、意図されてないかもしれません。されててもおかしくありません。どっちでも良いでしょう。

 みずから「ベアトリーチェになろうとした」少女は、まさしく「ベアトリーチェとしての運命」を完遂したんだ。そういうストーリーは、長い物語のピリオドとして、ふさわしいものと感じられます。

 そんな「ピリオドとしてのふさわしさ」を手に入れるために、あそこにいるベアトリーチェは朱志香であってほしい。


 そういう「あってほしい」を本当のことにしてしまおうとしているのが、わたしという魔女であって、このエントリはそのための魔法の呪文である……と、そんな感じで受け取っていただけると、わたしは良い気分になれます。



(「Ep8を読む」シリーズはここでいったん終了とします。あと2つほど書きたいことがあるんだけれども、それは「補遺」として付け加えるか、別シリーズとします)


■補遺→ Ep8を読む(補遺1)・探偵小説史の縮図としての『うみねこ』


■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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Ep8を読む(10)・右代宮戦人の「幸せのカケラ紡ぎ」

2011年04月19日 22時13分49秒 | ep8
※初めていらした方へ:
「目次」から順に読んでいただくと、よりわかりやすくなっています。リンク→ ■目次(全記事)■

Ep8を読む(10)・右代宮戦人の「幸せのカケラ紡ぎ」
 筆者-初出●Townmemory (2011/04/19(Tue) 22:11:24)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=61906&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
 Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)
 Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる
 Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち
 Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字)
 Ep8を読む(9)・いま、アンチミステリーを語ろう


     ☆


 あと1回か2回で終わります。ブログのカウンターを見る限り、思いのほか、みなさん議論についてこられているようで、わりとびっくり。当初の予想では、だいたい皆さん脱落して、最終的には半分になっているだろうと想像していたのですが、実際には一割減ほどでした。ブラボゥ。


●Ep8以降のジェシカ=ベアトリーチェ犯人説

「Ep8以降のジェシカ=ベアトリーチェ犯人説」というお題でいくつか整えます。


 大ざっぱなところから話しますと、Ep8を読んで、従来の考えを変更しなければならない、といった部分はありませんでした。
 ただ、「そのまま飲み込んだらうまく消化できない描写」が、いくつかあるにはありました。
 それらについては、ある種の「解釈」を行なうことによって、ジェシカ説への着地が可能でした。それについて語ります。

(「朱志香ベアトリーチェ説」の詳細については、「●Ep7推理」「サファイア・アキュゼイション」をご覧下さい)


●思いのほか小さかった留弗夫の秘密

 留弗夫の「俺は殺されるかもしれんな」の「家族の話」が、とうとう留弗夫本人の口から語られました。

 が。
 その内容が、ちょっとあれでした。

 かいつまんでいうと、正妻の明日夢が死産して、愛人の霧江が出産したもんだから、混乱して、霧江が産んだ子を明日夢の子だってことにしちまったんだそうです。
 霧江はそうとは知らずに戦人を半ば憎悪していましたし、留弗夫一家のここ数年のごたごたは、元をたどれば全部それが原因なのでした。留弗夫サイアク! そりゃ殺されても文句は言えないわ、そんな話でありました。

 うーん、まあ、筋は通っています。多くの人はもっと大きめの真相があると想像していたでしょうが、別にいけなくはありません。

 それに加えて、戦人が落ちる落ちる恐怖症なのは、留弗夫が遊園地で戦人をぶんぶん振り回したからだそうです。うーん、そうですか。なるほどね。

 本当に?

 そうなるとあれですね。『うみねこのなく頃にEp1』、つまり第1話には、大きなミスリードフェイク2個も設置されていたと、そういうことになりますね。第1話、やることがいっぱいあるでしょうに、あとになってから1話をふりかえって、「あっ、こんなところにすでに伏線が!」ってびっくりさせる布石をいくらでも置いておきたいでしょうに、単にほとんど中身のないトラップを置いていたと。そういうわけなのでしょうか。


 このふたつ(出生の秘密と、落ちる恐怖症の謎)が、同時に種明かしされるというのは、明らかに「戦人=19年前の赤ん坊」説を掣肘する意図があるものでしょう。

 戦人は19年前に九羽鳥庵ベアトリーチェが産んだ赤ん坊である。だから戦人は明日夢からは産まれていない。その赤ん坊は夏妃の手によって崖から落とされたため、戦人には高いところから落ちることに関する恐怖症があるのである。
 という「戦人=19年前の赤ん坊」説。
 これは、作中の条件をいくつも同時に説明できる、非常に端正な理論なのです。

 はっきりいいますと、作者が「戦人=19年前の赤ん坊」説につながることを意識せすに、「留弗夫の家族話」や「戦人の出生」や「落下恐怖症」といった条件を置いたなんてこと、ありえないのです。必ず意識的だったはずです。

 では、作者は、この3つの条件を一直線上に配置できる端正な論理を、自分で設定しておきながら、自らそれを捨てて、
「それらの背後には事件の真相につながるようなたいした事情はなかった」
 という空虚な真相のほうを採用したわけなのでしょうか。


●右代宮戦人の「カケラ紡ぎ」

 そうじゃない、というところに持っていきましょう。そこに持っていくのは難しくありません。

「戦人は九羽鳥庵ベアトから生まれたんだけれど、そうでないかのように語られたんだ」
 というふうに考えてしまおうと思います。
 というか、そのように考えてあげないと、「Ep5戦人犯人説」が不成立になってしまいかねませんよ。そしたら「Ep5夏妃犯人説」だけが成立した真実になってしまいます。

 だから「戦人の出生の秘密を隠すために、別の説明が繰りひろげられたんだ」と考えることにします。
 その上で、「戦人=19年前の赤ん坊」説を掣肘したいのは、じつは作者じゃなくて戦人なんだ、という乗せ方をしてみます。

     *

 Ep8のゲーム盤は、右代宮戦人が、
「六軒島と、右代宮一族を、幸せだけでいっぱいに満たそう」
 という意図でもって作り上げたものです。(そうですよね?)

 縁寿に「こんなの茶番!」と見抜かれて、「確かにそうだ」と自分で認めながらも、「それでもここには真実があるんだ」と言い張った。そういう世界です。

 真実というのは一義的なものではなくて、各人が「何を見ようと思うか」によってめまぐるしく姿を変えるものなんだ。
 そこに幸せを見ようとすることによって幸せを手に入れることができるものなんだ。
 そういうことを縁寿に教えようとして作った世界でした。

 いってみれば。
 Ep8は、「右代宮戦人の幸せのカケラ紡ぎ」なんだ。


『ひぐらし』の古手梨花ちゃんも、8つめのエピソードで「カケラ紡ぎ」をやっていました。
 梨花ちゃんが幸せになれる世界をつくるためには、いろんな条件が、たくさん必要でした。
 なので彼女は、たくさんのカケラ屑から、必要な条件をかきあつめました。

 彼女には、「鬼隠し編を経験し、仲間を信じることを知った前原圭一」が必要でした。鬼隠し編からそれを持ってきました。
「目明し編を経験し、沙都子を守りたい気持ちを手に入れた園崎詩音」が必要でした。目明し編からそれを持ってきました。
「暇潰し編を経験し、梨花を救えなかった悔恨に苦しんだ赤坂衛」が必要でした。暇潰し編からそれを持ってきました。
 そうやっていくつもの条件(カケラ屑)を組み合わせてひとつにまとめあげたのが、「祭囃子編」という、梨花の幸福をみちびきだすことのできるひとつのカケラ世界でした。


 右代宮戦人も、それに似たことか、ほとんど同じことをしたかもしれません。
 だって、『うみねこ』にも、「すべての駒を初期状態でプロモーションさせる」とか「複数のカケラをつぎはぎでつなげる」といった表現がありますものね。

 Ep8の六軒島の人々は、自分がどうなる運命なのか知っています。それを知っていて、いろんなことを縁寿に託そうとするわけです。
 つまり、いくつかのゲーム盤を経験した人々が、その経験を持ったままゲーム盤上に乗っているわけです。「祭囃子編」みたいにね。

 これを、「いくつものカケラを組み合わせて作ったカケラ世界、だからこその奇跡」だと思うことにしましょう。
 だったらついでに、
「カケラの海のどこかには、戦人が実は霧江から生まれているカケラ世界も存在する」ということにしてしまいましょう。これはわりと簡単に見つかりそうなカケラだ。
 そういうカケラから、カケラ屑をちょっと削って、Ep8にドッキングしてきましょう。
 すると留弗夫は、「戦人は霧江が産んだんだ」というエピソードを語ってくれます。

 ウソでもなんでもなく、まちがいなく真実なのです。

 だって、そういう真実がある世界から、そういう真実を拾ってきて置いているのですからね。「茶番ではあるが、真実でもある」わけです。

 でもね……。
 やっぱり、そんなふうに都合良く、すべてが幸せではなかったからこそ、六軒島の惨劇は起こったんでしょう。
 だから。幸せのカケラは幸せのカケラとして存在するとして、そうじゃない世界。
 そういうカケラ屑が融合していない世界では、それほど幸せではない展開が存在した、かもしれない。

 ですからここでは、「あんまり幸せじゃあなかった世界」について、思いを馳せることにしましょう。つまり、「戦人のほんとうの出生の秘密」と、「どうして戦人はそれを隠したかったのか」について。


●右代宮霧江を地獄から救う方法

「右代宮戦人は、九羽鳥庵ベアトから生まれたのだが、そうではないかのように語られた
 という仮定を、まず置いてしまいましょう。

「右代宮戦人は、霧江から生まれた」という真実が、カケラ紡ぎによって意図的に「持ってこられた」ものだとするならば。
 戦人は「そういう真実が必要だった」ので、わざわざ探して持ってきたことになります。

 戦人は、「右代宮戦人は霧江から生まれた」という真実をどうしても欲しかったのだ。
 そういうふうに考えたいのです。
 それはなぜか。

 戦人は六軒島のすべての人の心を、幸せで満たしたかったのだからです。

 霧江は、かつて留弗夫が自分ではなく明日夢を選んだことにずっと傷ついているのです。明日夢がぶじに子どもを産み、自分が死産であったことにも傷ついています。だから「明日夢が産んだ子である戦人」に対して、憎悪に近い感情を抱いています。
 その感情は、これからもずっと続く見込みなのです。
 それは幸福なことじゃない。

 霧江には、「愛する留弗夫とともにある限り、戦人を憎悪しなければならない」という地獄があるのです。
 その地獄から彼女を解きはなつ方法はただひとつ。
「右代宮戦人が霧江から生まれたという真実が存在すること」
 です。

 その真実を存在させるためには、「戦人は金蔵と九羽鳥庵ベアトの子であって、留弗夫の子じゃない」という真実が存在してはなりません。カチあってしまいます。単に明日夢の子じゃないというだけでは、霧江を救うには足りません。戦人は霧江を慕っています。必要なのは、「おまえの子が、必然として、おまえを慕ってる」という留弗夫の言葉です。

 戦人にとっても、彼は霧江さんを尊敬していて、もっと仲良くしたいし、愛されたいのです。だから、「霧江さんが俺のカーチャンである」という真実を生み出す。
 実際の事実がどうであるかに関わらず、そういう「黄金の真実」を手元にひきよせる。

 欠けたるものなき理想の六軒島を縁寿に見せるためには、ぜひともそのカケラパーツが欲しい。縁寿の母に、幸せの顔をうかべさせるためには……。


 そしてこれは、縁寿を「黄金の真実」の境地にみちびくためにも必要なことでした。なぜなら、
「留弗夫の家族の話、という“謎”があり、それは事件の謎と関わっているらしい」
 という疑いを放置していた場合。

「この“謎”の答えを知りたい! それを手掛りに、六軒島の真実にせまりたい!」

 という欲望を刺激してしまうからです。
 戦人は妹に、それとは違う種類の「真実の手に入れ方」を知ってもらいたいのですから、こっち側に誘導してはなりません。
 ですから、
「留弗夫の話にはべつに謎なんてなかったんだ、因縁もなかった、六軒島殺人事件とはつながってなかったんだ」
 というかたちを断固としてつくらねばなりません。


 これは、以前のエントリでも語ったような、
「存在しない真実だとわかっているが、それでも欲しい」
 という、魔女たちの願いと、ほとんど同型の願望です。


●シャノン=ベアトリーチェ世界の真実

 Townmemory式の「ジェシカ=ベアトリーチェ説」では、「戦人は九羽鳥庵ベアトから生まれた19年前の赤ん坊である」という条件が必須です。
(詳しくはこちらから→ Ep7をほどく(5)・分岐する世界の同一存在

 なのでこのような、「戦人は霧江から生まれた」という作中描写があってもなお、「戦人を19年前の赤ん坊でいつづけさせる」解釈を必要とするわけです。戦人は九羽鳥庵ベアトの子だけれども、それでも霧江の子だと言い張らねばならないからこうなってるんだ、と。

 ですがわたしは、「戦人は霧江から生まれた」という言及を、まったくうそっぱちとは思っていなくて、これはやっぱり真実の一種であるとみなしています。そういう真実はカケラ世界にかなり色濃く存在してます。

 というのも。
 ふつう、シャノン=ベアトリーチェ説を成立させるためには、「九羽鳥庵ベアト以外の母から産まれており」「幼少時に崖から落ちた経験はなく」「にもかかわらず落下恐怖症がある」右代宮戦人くんの存在を必要とします。

 Ep8で留弗夫の口から語られたことは、条件にぴったりマッチします。というか、この真実があってくれないと、シャノン=ベアトリーチェ説に不都合をきたしますので、あってもらわないとこまります。戦人が霧江から生まれたというのは、そっち側の真実なのでしょう。
 わたしは、シャノン=ベアトリーチェ説を真実でないとは思っておりませんから(別々のカケラ世界に、ジェシカが犯人になる世界とシャノンが犯人になる世界があるだろうという考えですから)、これはこっちの意味で重要な真相解明ではあります。両方のこと考えるの結構めんどうくさいんだぞう。


 だいたい、イメージとしては以下のような考え方です。
 Ep7に、こういう謎がありました。
「イタリア人の黄金を強奪しようとしたのは、山本中尉と、金蔵、いったいどっちだったのか?」

 両方の可能性が提示されていて、その答え合わせはいまだになされていません。両方の可能性がある猫箱の状態になっていて、箱は未開封なのです。
 なので現状、
「黄金強奪の計画者は山本中尉だった」「黄金強奪の計画者は金蔵だった」
 が両立している。

 それとほぼ同様に、
「戦人の実母は霧江であった」「戦人の実母は九羽鳥庵ベアトだった」
 が、現状両立していると認識することは可能で、

「落下恐怖症の原因は留弗夫」「落下恐怖症の原因は崖からの落下」
 も両立しており、
 その延長上に、

「ベアトの中身は紗音」「ベアトの正体は朱志香」
 が両立的に存在している。


 そういうカケラの分岐のアングルを見ています。


     *


 ところで。
 イタリアの黄金を強奪しようとしたのは山本中尉か金蔵か、という例を出したのは、無作為なことではなくて、わざとです。
 というのも。
 山本中尉が悪党の場合は紗音がベアトリーチェになる。
 金蔵が悪党の場合は朱志香がベアトリーチェになる。

 という構図がなんとなく見えてきてしまって、その構図はきれいだなとわたしが思ってしまったからです。

 そのことについて書こうと思いますが、そうとう長くなるので、別エントリに分けます。


(続きます)


■続き→ Ep8を読む(11)・「悪の金蔵」とリフレインする運命


■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■

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Ep8を読む(9)・いま、アンチミステリーを語ろう

2011年04月13日 21時05分58秒 | ep8
※初めていらした方へ:
「目次」から順に読んでいただくと、よりわかりやすくなっています。リンク→ ■目次(全記事)■

Ep8を読む(9)・いま、アンチミステリーを語ろう
 筆者-初出●Townmemory -(2011/04/13(Wed) 21:00:50)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=61746&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
 Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)
 Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる
 Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち
 Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字)


     ☆


 今回長いです。覚悟して下さい。


●アンチミステリー・ライジング

「アンチミステリー」の話をしませんか。しましょうよ。


 ミステリー業界には「アンチミステリー」という言葉があって、「アンチミステリー作品」といった分類をされる作品がいくつかあるみたいです。

 わたしは、アンチミステリーという用語の成立過程をリアルタイムで見てきたわけじゃないので、あまり自信を持っては言えないのですが、ざっと調べてみたところ、だいたい以下のようなことのようです。

 中井英夫『虚無への供物』という作品があるのですが、作者中井英夫がこの作品の序文で、
「(略)私の考え続けていたのは、アンチ・ミステリー、反推理小説ということであった。」
 と書き記しています。これがアンチミステリーという用語の初出のようです。

 中井英夫さんは「反宇宙」という言葉も別の序文で使っているので、おそらく彼は、ミステリーをくるっと表裏ひっくりかえしたようなの……ミステリーと衝突して対消滅するようなもの、といったニュアンスで「アンチミステリー」という言葉を創出したんだろうとわたしは思うのですが、そのニュアンスは現在使われているミステリー業界用語としての「アンチミステリー」には、わたしにはあまり感じられません。(少しはあるかも)


 その後……ちょっと出典が明らかでないのですが(ご存じの方お知らせ下さい)、埴谷雄高が、「なんかこう、すっごい異常な作品ってあるよねー」くらいのニュアンスで、夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』、中井英夫『虚無への供物』の3つを挙げて、

「日本文学の黒い水脈」

 と呼んだそうです。

 この「黒い水脈」の3作品の中に『虚無への供物』が入っていたので、いつのまにか、言葉としての、「黒い水脈」と「アンチミステリー」は、いっしょくたのものになっていきました。
 というか、
「中井英夫がアンチミステリーと名付けた作品内の要素が、そういえば『ドグラ・マグラ』や『黒死館殺人事件』にも感じられるなあ」
 と思う人が多かったのですね。たぶん。

 それで、やがて、「アンチミステリーといえば、それは『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』『虚無への供物』の3作品のことである」といった、漠然としたコンセンサスが生じました。

 だから狭い意味で言えば、「アンチミステリーとは『ドグマグ』『黒死館』『虚無』のことです」となるわけです。

 でもその後、「ドグマグ・黒死館・虚無みたいなテイストを持った作品は、だいたいアンチミステリーって呼べばいいじゃないか」みたいな雰囲気になってきたのだと思います。

 で、現状は、
「なんか、あのへんの3作品っぽいやつ」
 のことを、「アンチミステリー」と呼んでいる。だいたいそんな感じにわたしは理解しています。

 わりとくだけた言い方をすると、
「ミステリーみたいなんだけど……なんかこう……なんだこれ?」
 といった読後感を与える作品を、なんとなくだいたい「アンチミステリー」というくくりの箱に入れてるっぽいんです。

 なので、はっきりした定義というものは、ないっぽい。


 全然余談ですが、これは「ハードボイルド」という用語の成立過程にちょっと似ています。
 ものの本によると、ハードボイルドという形容は、もともとアメリカの俗語です。無感情な感じ、したたかな感じ、つきあいにくい感じを表わすもので、「ハメットの作品ってハードボイルドな感じだね」という言い方が、まず自然発生的にありました。
 その後、だいぶあとになって、
「ハメット・チャンドラー・ロスマクの3人には共通する傾向がある。この3人を“ハードボイルド派(スクール)”と呼ぼう」
 と言い出した人がいて、これが「ジャンル(作家群)用語としてのハードボイルド」の初出らしいのです。つまり狭義ではハードボイルド作品とは、ハメット・チャンドラー・ロスマクの3人のことを指すのでした。
 でもそんな狭い意味はすぐにすたれて、「こういう感じの作品は、全部いっしょくたハードボイルドでいいよね」という感じになりました。なのでパーカーやクラムリーや藤原伊織や原もハードボイルドと呼んで全然さしつかえないわけです。


●うみねことアンチミステリー

 アンチファンタジーとかアンチミステリーとか最初にいいだしたのは竜騎士07さんです。メモリアル。

 うみねこってアンチミステリーなの? そしてアンチミステリーっていったいなに? みたいなことが、Ep8以降、わりと言われだしていますが、それは元はといえば、竜騎士07さんが「うみねこはアンチミステリーを意識していますよ」といった意味のサインを送っていたからなんですね。

 たしかEp3の時点で、ソフトのジャケットに「アンチファンタジーVS.アンチミステリー」というキャッチコピーが掲載されたのでした。そしてそのあと、配布小冊子で、「アンチミステリーとアンチファンタジーについて」という竜騎士07さんのエッセイが公開されたのです。

 Ep8で、犯人の指名とトリックの解明がある、と多くの人が思っていましたが、それがなかったので、
「ああ、そうか、アンチミステリーなのかよ」
 といった受け取り方をした、そういった人が多かったみたいなんです。(というわたしの観測です)

 というのも、いわゆる「アンチミステリー」と呼ばれるような作品って、はっきりした真相が描かれない場合が比較的多いからなんですね。これはわたしが感覚的に言っていますが。
 真相を書かなかったら、それはなんとなくアンチミステリー作品っぽい、という、そういう雰囲気がちょっとあるみたいなんです。

 というわけで……。

「アンチミステリーっていう概念があるんだよ」
 というほのめかしのエッセイを書いた作者の作品が、いかにもアンチミステリーの典型っぽい終わり方をした。
 だから「うみねこ」は、アンチミステリーの作品である……。
 というのは、まぁ、筋が通ってはいるのです。

 通ってはいるんだが。

 それが間違いだとは決して思わないんだが。

 どうもわたし的には、釈然としないのですね。


 うーん、今さら、真相を隠してアンチミステリー……。
 という、「それは古いな」という感じが、わたしにはちょっとありました。
(他にもさまざまな、複合的理由があるということは置いといて、ですよ)

 べつに古くたって良いわけなのですが、近年、とくにこの20年くらいのうちに、ミステリーというジャンルはものすごく多彩化してしまって、
「あれもミステリーだし、これもミステリーと言えるし、あのへんにあるあんなのだってミステリーとして数えていいんじゃないか」
 というように、ミステリーの裾野はものすごく広がった感があるのです。

 言い換えたら、「ミステリーの懐」が、もんのすごく深くなってしまった。
 従来だったら、こんなんミステリーでもなんでもないよと言われそうな作品が、ミステリーと呼ばれて、とくに疑問を持たれなかったりしている。

 そういう状況では、「アンチミステリーの条件」は、厳しくなってくるのです。
「何でもかんでも、ミステリーの枠にくくって良い」
 という勢いの現在の状況では、ちょっとやそっと、ミステリーの文法からはみ出したからといって、もうアンチミステリー(反ミステリー)とは呼べない感じなのです。

 はっきりいうと、わたしには、「解明編がない」くらいのことでは、反ミステリーという感じは、しない。

 わたしの頭に具体的に思い浮かんでいたのは、東野圭吾さんの『どちらかが彼女を殺した』でした。
 この作品は、
「はっきりした解明がなく、誰が犯人かは最後まで指名されないにもかかわらず、まったくアンチミステリーではない
 という作品なのでした。
 むしろ、これ以上ないくらい「ミステリー」が信じられているんです。

 ミステリー業界の大メジャー、メインストリームの東野圭吾さんみたいな人が、そういうのをとっくに書いてる以上、単に犯人が最後までわからないくらいのことで、アンチミステリーと呼ぶわけにはいかないよなという印象は強く持っていました。


 でも、
「だからうみねこはアンチミステリー作品なんかじゃない」
と言い切れるかというと、それも違うと思う。
 むしろその逆で、
「うみねこってすっげぇアンチミステリーっぽいよなァ」
 と感じるわたしがいるのです。

 なんでかっていいますと、それは以下のように思うから。

 うみねこはアンチミステリー的な作品であるが、それは真相が書かれなかったからでは「ない」
 別の理由によってアンチミステリーになっているのだ。

 そういうことを、これから語ってみたいと思います。やっと本題だ。


●ミステリーってそもそも何なの

 やっと本題なのですが、「わたしが個人的に、アンチミステリーというものをどうとらえているのか」という話から始めていきます。そのうちうみねこの話になっていきますからちょっと我慢して下さい。

 念を押しておきますが、これは「わたしが」「個人的に」アンチミステリーをどう思うかということを語るのですよ。
 ようするに、あなたの考えとは違うかもしれないし、ミステリー業界的な考えとも違うかもしれないが、そんなことは気にしませんという意味です。最近、こういったことをきちんと先回りしておかないと、面倒くさいことになるので、面倒くさいです。ほんとにもう。


 さて。
 アンチミステリーが存在するには、所与のものとして……つまり前提として「ミステリー」が存在しなければいけません。当然ですね。巨人軍が存在しなかったらアンチ巨人は存在できないです。

 ですから、ミステリーというものが明確であってはじめて、アンチミステリーは成立できるのです。(ところが前述の通り、ミステリーの境界があいまいになっているので、アンチミステリーもなかなか成立しづらくなっているわけだ)

 なので、アンチミステリーって何? と問うためには、まず「ミステリーって何?」と問わねばなりません。でもそんなこと難しくて答えられませんよ。


 難しくて答えられませんが、あえて乱暴に、ものすごく単純に、ひとつの例としてこういう考え方をしてみてはどうでしょう。とわたしは提案します。

     *

 たとえば。

 内側から鍵のかかった部屋で、人がひとり死んでいる。
 ひとつしかない部屋の鍵は、その部屋の中にあるじゃないか。
 もちろん隠し通路なんてないし、死体以外の人間が隠れてなどいない。

 そういう状況があったとします。

 この事件が他殺で、殺人犯がいると仮定しよう。その殺人犯は、ドアから部屋を出たあと、鍵をかけることはできない。なぜなら鍵が室内にあるからだ。
 つまり、殺人犯がいるとしたら、そいつは部屋の外に出ることはできない。しかし、部屋の中に殺人犯はいない。

 つまり、この事件において、殺人犯は存在しえない。
 よって、この事件は自殺である。

     *

 これは非常に、筋の通った論理です。どこに出しても恥ずかしくありません。理に適っています。こういう結論を出さない警察がいたら、ちょっと心配になります。

 まったくもって筋が通っている。

 この、理に適った強固な論理があるにもかかわらず、

「それでも、しかし、この事件は殺人なのだ!」

 と主張しはじめるとき、その瞬間にはじめて、ただの事件だったものは「ミステリー」となるのだ。

 そういう考え方をしてみてはどうでしょう。


「密室内で人が死んでいたのだから、これは自殺だ」
 というのは、判断として堅牢です。常識的で、安定した判断の枠組みに沿っているのです。現実世界だったら、この判断でまずまちがいないでしょう。

 ミステリーは、この「常識的で、安定した判断の枠組み」を疑います。
 ミステリーは、レストレイド警部に対して「あなたの持っている判断の枠組みは常識的だが、にもかかわらずあなたは間違っていますよ」とささやきます。
 そしてミステリーは、
「密室内の死体。にもかかわらずこれは他殺だ」
 という、「異常、かつ新しい枠組み」を、驚きとともに提示し、しかもそれを正しいと証明してしまうのです。

「常識的な枠組みに基づく判断よりも、異常な枠組みに基づく判断のほうが正しい」
 ということを正面から主張して、なおかつ、読者にそれを「確かにそうだ」と認めさせてしまう。
 それを認めさせられたとき、読者には、驚きがあり、知的興奮がある。
 そういうものをミステリーと呼ぶのだ。……というふうに、ここでは仮に、仮定してみましょう。


●ミステリーって疑わしい

 そういうものとしてのミステリーは、百数十年の歴史にわたって、そりゃもう人気を博したのです。
 人気があるものだから、いっぱい書かれる。いっぱい書かれたものは、いっぱい読まれる。

 いーっぱい作られて、読者はそれらを、浴びーるように読んじゃったのです。

 その結果、一種の薬物耐性みたいなことができてしまいました。驚きや知的興奮を与えるための「異常な枠組み」を、読者は当然のものと思うようになってしまったのです。

 本来ミステリーって異端文学だったはずなんですが、ちょっとばかし、「エンタテインメント小説のなかのメジャー路線のひとつ」みたいなことになってきちゃった。

 その結果、存在そのものが異常に属していたはずのミステリーは、正常なものとして捉えられてしまった。
異常なことを言い出すものとしてのミステリー」を、当然のものとして受けいれる状況が生まれてしまった。

 つまりね。
「これはミステリー小説だから、探偵が異常な主張をして、それが正しいということになるのだろう」
「これはミステリー小説だから、意外な犯人が指名されて、意外なトリックが暴かれるのだろう」


 という予断が、「常識的で、安定した判断の枠組み」になってしまったのです。
「ミステリーって、最後に意外な人が犯人だってわかる小説だよね?」
 という言い方って、ミステリーの説明としてそんなに間違っていない、わりと多くの人が納得する説明だと思うのです。
 でも、そんな言い方が通用しちゃうのって、本来おかしいのです。
 だって、「ふつうそういうもんだよね?」という安定した常識的な予断から、遠く離れた場所に読者を連れて行くのがミステリーだったはずなんです。

 これじゃまるで、「密室の中の死体は自殺でした」って言ってるようなものじゃないか……。ミステリーって結局こんなもんか……。

 と、そういうふうに思ったとき、

「じゃあ、その“ふつうこうだよね?”の予断に対して、異常な枠組みをつきつけてやろう……

 そういうふうに思い始めた何人かの作家たちが、いたのだろうと思います。

「密室の中に死体があるなら、それは自殺だ」という思いこみがあるように、
「この小説がミステリーなら、意外な犯人解明があるはずだ」という思いこみがある。
 それを疑ってやろう。
 そうでない世界を見せてやろう。

 それが本来のミステリーというものではないか……。

 ミステリーとは、アプリオリな(あらかじめ当たり前だと思われているような)枠組みを疑うものだ。
 今ここに、
「ミステリーだとしたら、犯人はいるし、それは語られるに決まってるのである」
 という、油断しきった、予断にみちた枠組みがある。

 ならば、
「犯人は明かされないし、犯行方法は謎に包まれたままだ」
 という「異常な枠組み」を、体験として提供しよう。

 そんなことをしたら、みんなが思っている「ミステリーの枠」から、はみだしてしまいます。
 そんなの、もはやミステリーじゃない、なんて、言い出す人もいるかもしれません。

 でも、大きな意味で、神髄としてのミステリーを保ち続けるためには、表層としてのミステリーを裏切らなければならなかったのです。
 そういう矛盾にみちた選択を迫られてしまった……。

 ミステリーは自分自身のあり方に対して疑問を持ち、今までの自分じゃない自分になってやろうと思い始めてしまったのです。

「ミステリーとは、当然の枠組みを疑うものだ」
 という、ミステリーの神髄があった。
 にもかかわらず、ミステリー自身が、先験的な枠組みになってしまった。「来るぞ来るぞ、ホラやっぱり思ったとおり来たー!」の存在になってしまった。

 ミステリーは、ミステリーとして純粋であるためには、自分がミステリーであることに疑いを持たねばならなくなったのです。ボクがボクらしくあるためにはボクであることをやめなきゃだめだ、と思うようになっちゃった。
 ミステリーがミステリーでありつづけるためには、ミステリーであることをやめなければならない。
 ミステリーとして純粋であるために、ミステリーに背を向ける……。
 つまり、それって、反推理小説。アンチミステリー……。

 先験的な(当然のものとして予断されている)枠組みを疑うのがミステリーであるのなら、「ミステリーの先験的な枠組み」だって疑われるべきだ。そんなふうに考え始めたミステリー作品があるのなら、それは「アンチミステリー」と呼ばれるにふさわしい……。


●高潔であろうとした結果……

 というふうなのが、わたしの考え方なのですが、これが当を得た意見なのかどうか、じつはよく知りません。
 まぁ、はっきり言ってしまうと、これはわたしが頭の中でつくりあげた、一種の「アンチミステリー神話」です。

 実際、上で述べた、わたしのアンチミステリー観は、『ドグマグ』『黒死館』『虚無』の三作品にはほとんどあてはまる感じがしないです。

 ただ……。
「どうして人は、真相解明が書かれていないミステリーのことを、アンチミステリーだと思うのか」
 については、まあまあ巧妙に説明している気がするんですね。

 Wikipediaの「アンチ・ミステリー」の項には、

「推理小説でありながら推理小説であることを拒む」という1ジャンルを指す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC

 という説明がなされています。


 また、竜騎士07さんは、アンチミステリーについて、こういう言い方をしています。

 ミステリーがミステリーとして高潔であろうとした結果、自らの存在を否定するに至ったことの何と皮肉か…。

 これは私は皮肉な意味を込めて“アンチミステリー”と呼んでいます。
(小冊子『アンチミステリーとアンチファンタジーについて』)

 ミステリーがミステリー自身を否定する……。


●「そんなわけねぇだろ」のまなざし

 そこで話を、「うみねこ」に戻してみる。

「当然のものを疑っていくこと」がミステリーであり、「ミステリー自身が当然としているものを疑っていくこと」がアンチミステリーである。
 この発想を持った状態で、「うみねこ」を見ていこうと思うのです。

「アンチファンタジーvs.アンチミステリー」なんていう、キャッチフレーズがあったわけです。

 この物語は、大時代なドレスを着た金髪の美女が現われて、
「妾という魔女が、魔法を使って島の人間を皆殺しにしたのだ。何も不思議なことはない、当然のことであろう?
 といったファンタジックなことを言い出したので、
「そんなわけねぇだろ」
 と、つっこむところから始まりました。

 ファンタジーを当然のこととして主張する人物に、「そんなわけねぇだろ」とつっこんでいくのですから、これは、
「アンチファンタジー」
 という新語をつくったら、ちょうどあてはまりそうな態度です。


 そんな展開がEp4まで続いて、Ep5からは、「お箸お箸」とか急に興奮しだす、ちびっこい、なんか異様に表情豊かな女子が現われて、
「隠し通路は常に絶対に存在しませんし、探偵は絶対に犯人ではありえませんし。知らない人が犯人だなんて絶対にありえませんし、カンで正解することは絶対にないのです。そして変装するなら必ずヒントを出しておかねばなりませんッ! そんなのあったりまえのことですよねえええ!
 といった、ミステリーにおもいっきり自家中毒したことを言い出しました。

「そんなわけねぇだろ」

 そう。

 ミステリーが「自明のこと」とするこれらのこと。
 ミステリーだったら、こうしたことは当然守られているだろう。と、そんなふうにミステリー読者が当然のこととして思いこむ経験的なルール

 それに対して、「そんなわけねぇだろ」とつっこむ立場がもしあったら。
 それは、「ミステリー自身が当然としているものを疑う」という態度です。

 つまり、もし作中に、そんな態度が存在したとしたら、それは「アンチミステリー」と言っておかしくなさそうなのです。

 そういう立場。そういう態度が、「うみねこ」の作中にあったかどうか。

 わたしの見る限り……。
 Ep5にはありませんでした。
 Ep6、Ep7にも、なかったように思います。

 Ep8になって、しかもオーラスになって、ようやくそれっぽいのが出てきました。
 それはこうです。

「赤字が真実だなんて、私、認めない」


●自己否定するミステリー

 というわけで、やっぱり赤字の話なんです。


 大時代なドレスを着た金髪の美女ベアトリーチェさんは、戦人くんに対して、うそっぱちの描写をいっぱい見せたのです。
 そのうそっぱちの描写は、絢爛豪華で、不可思議にみちていて、たいへん面白いものなのです。
 けれども、

「こんなうそっぱちの画面ばっかりじゃ、推理なんてできっこないぜ! くそっ、くそっ!」

 といって情けなく泣きが入ったので、しょーがねーなーと言ってベアトリーチェが提案してくれたルールが赤字でした。
 おぅ、よしよし、赤い字のときは本当のことを言ってやるから。それを手掛りに推理したら良いぞ。そのくらいの手掛りがあったら、推理できるよな? よし、がんばれ。

 ふつうのミステリーだったら、基本的には正しい描写が行なわれるのですから、それを手掛りに推理することができます。でも、間違った描写が行なわれるのだったら、推理できません。つまりミステリーとして成立しません。それを避けるための赤字なのです。

 ですから、「赤字」というのは、
 幻想描写という名のうそっぱち混じりの物語の中で、それでもなおかつミステリーを成立させるためのギミックなのですね。言ってみれば、たったそれだけのために存在するのが赤字なんです。

 ミステリーを成立させるためにあるギミック……?

 これがあるからこそミステリーでいられるギミック。「赤字」。
 これがなかったらミステリーでいられなくなるギミック。「赤字」。


 そんなものが否定されたら、この物語のミステリー性はたちまち崩壊してしまいます。大事なことなので二回言いますが、ミステリー性が崩壊してしまいます。
 ミステリーだったものが、ミステリーじゃなくなってしまいます。

 ミステリー性が崩壊してしまうので、この物語をミステリーでありつづけさせたいならば、絶対に疑ってはならないもの。

 自明のものとして・所与のものとして・当然のものとして・アプリオリなものとして、基準値として、これだけは疑われるべきではないと多くの人たちが思っているもの。

 そういうものをあえて疑っていくという立場が、あったはずです。そういうのを何と言ったでしょうか。

 ミステリーとして始まっていながら、ミステリーであることを自ら拒むような作品……。

 ご存じ、その名は「アンチミステリー」。


●自ら拒め、その依って立つものを

「赤字が真実だなんて、私、認めない」

 縁寿は、ついにそういう立場を表明しました。それによって……たったそれだけのことで、ベルンカステルの赤字は無効となりました。

 赤字を無効にできてしまうのなら、この物語における、ミステリー性の唯一の基盤は、もはやありません。

 それどころか。縁寿がそれをできたということは、初期の戦人だって、それに気づけば、それをやろうと思えば、いつだって赤字を無効にすることができたし、ミステリー性を崩壊させることができたということです。
 つまり、この物語のミステリー性を保証していた基盤は、まったくもってグラグラした、実は最初っから不確かなものだったのです。


 そして、「うみねこ」は、自らのミステリー性を拒むことで、「アンチミステリー」になることができました。

 うみねこがアンチミステリーであるのは、真相解明が書かれなかったからではありません。「うみねこをミステリーたらしめていたもの」を、うみねこという物語自身が、自分で否定してしまったからです。


 ……という言い方が、これでできるようになりました。ふー、長かったねー。


●この物語には4つの答えがある

 わたしはちょっと、手が回らなくて、しっかりと検証していないんだけれども、シャノン=ベアトリーチェ犯人説って、赤字の内容を全部満たした上で成立しますか?

 自分でみてないから、あんまり不用意なことは言えないけれども、多くの人がこの説を採用しているみたいなのだから、たぶん赤字を満たして成立するんだろうと思います。してくれないとややっこしいことになっちまう。誰かがきっちり検証してるはずだとは思うんですが。

 まぁ、ここではひとまず「紗音犯人説は赤字の内容を満たしたうえで成立する」と勝手に仮定して話をすすめます。


「うみねこ」には、大きく分けて4つのフェイズがあるわけです。「このゲームはいったい何であるのか」という問いに対して、4通りの答え方が作中に提示されています。

「ファンタジー」「アンチファンタジー」
「ミステリー」 「アンチミステリー」


 この4つの立場があって、4つそれぞれに別の解答があります。と、わたしは思ってます。

 つまり、この物語には、ファンタジーの解答とアンチファンタジーの解答とミステリーの解答とアンチミステリーの解答があるんだってわたしは思っています。

「ファンタジーの解答」というのは、魔女犯人説です。つまり魔女ベアトリーチェという幻想的な人物が実在して、魔法を使い、島の人々を皆殺しにした……というのが、ファンタジーの真相です。これを真相としたって、いっこうにかまいません。かわいい煉獄ちゃんたちを実在させることができますしね。

「アンチファンタジーの解答」は、Ep4までの、初期戦人のアプローチです。すなわち人間犯人説です。誰かはわからないが普通の人間がやったんだ。そしてその誰かを指名する必要はないんだっていう答えです。べつにこれだってかまわないでしょう。

「ミステリーの解答」は、赤字の内容を全て満たした上で、特定の人物を犯人として指名することです。多くのユーザーがここにたどり着こうと思っている。そういうタイプの答え方です。ここにうまくあてはまるのはシャノン=ベアトリーチェ犯人説だろうって個人的には考えています。これが答えだというのは、わりと多くの人が納得するでしょう。

「アンチミステリーの解答」は、“うみねこをミステリーとして成立させてきたもの”(すなわち赤字)を拒んだ場合に到達できる答えのことです。赤字がなければすべての描写を幻想だと仮定することができますから、すべての登場人物を犯人として指名可能です。それどころか、登場していない人物を犯人として指名可能です。
 ミステリーではひとり(か2人くらい)に絞り込めていた犯人像が、アンチミステリーでは無限に拡散してしまいました。(だから『うみねこのなく頃に』が『散る』なわけです)
 ミステリーのワクでは犯人にすることができなかった人物を、アンチミステリーの解答では、犯人にすることができるんだ。

 ご存じの通り、わたしはここに「ジェシカ=ベアトリーチェ」という存在を滑り込ませようとしています。わたしの考えでは、ジェシカ=ベアトリーチェ犯人説は、アンチミステリー式でこのゲームを解こうとするときにだけ成立する解答です。
(べつに朱志香じゃなくても良いです)


 どの流儀をえらぶかによって、当然、犯人像、真相像はおのずと変わってくるんだっていうことです。そして、4つのうちどれを選ぶかなんて、完全にユーザーにまかされています。

 ポイントは、「誰を犯人だと考えるのか」という選択の前に、「どの流儀によってこのゲームを解こうと思うのか」という無意識の選択があるのだということです。

 自分はどの流派を選んで解こうとしていただろうか、あの人はどの立場を選んで解こうとしているだろうか。そういう視点がないと、議論はかみあわないことが多いでしょう。要はそれを意識することです。


(続く)


■続き→ Ep8を読む(10)・右代宮戦人の「幸せのカケラ紡ぎ」


■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字)

2011年04月11日 23時03分26秒 | ep8
※初めていらした方へ:
「目次」から順に読んでいただくと、よりわかりやすくなっています。リンク→ ■目次(全記事)■

Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字)
 筆者-初出●Townmemory -(2011/04/11(Mon) 23:00:40)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=61687&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
 Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)
 Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる
 Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち


     ☆


 ちょっとわかりにくい話が続いていますが、他に良い言い方もないので、このまま進めます。


●「書かれたこと」と「本当のこと」再び

 今回の一連のエントリでは、
「書かれたこと」
「本当にあったこと」
 というキーワードで、さまざまなことを説明しています。

 そしてその両者に、本質的な違いはないのだということを、わたしは言おうとしてきました。

 絵羽の日記は、単にペンで書かれたことにすぎないのか、本当にあったことなのか。
 それはどちらでもあるのだ。死んだ猫と生きた猫が同居可能であるように。

 語られた8つのエピソードは、本当にあったことなのか。それとも八城十八が書いたことにすぎないのか。
 その答えは「どちらでもある」。

 魔法エンドは、本当にあったことなのか。それとも魔女フェザリーヌが「縁寿にハッピーをくれてやろう」と言って書き記したものにすぎないのか。
 その答えは、「書いたものであるのだが、同時に本当のことでもある」。本当にあったことなのだが、それは同時にフェザリーヌが書いたものでもあるのだ。

「右代宮一族は全滅した」という「記述」は本当なのか単なる記述にすぎないのか。答えは、「本当のことではあるのだが、単なる記述にすぎないものでもあるのだ」。

 そういういっけん矛盾したことを、同時に成立させてしまうシステムとしての『うみねこ』、ということを、論じてきています。
(いきなりこのエントリから読み始めてしまった人は、『Ep8を読む(1)』に飛んで下さい)


 この物語においては。

「書かれたこと」は、すなわちそのまま「本当のこと」である。

 そして同時に、この物語においては。

「本当のこと」とされているものは、単に誰かによって「書かれたこと」にすぎない。

 書かれたことにすぎないとされているものは、じつはすべて本当のことであり、本当のこととされているものは、すべて書かれたものであるにすぎない。
 そしてその書かれただけのものは本当のことであり、本当のことはまた書かれただけのことである。その書かれただけのことは本当であり……。

 そういうハムスターの車輪のようなサイクルによって、「虚」と「実」の境界線が意味のないものとなり、同一平面上に置かれる。
 優劣のないものとなる。
 そういうギミックを提供するものとしての『うみねこのなく頃に』があるのだという話をしました。


●「赤い字で」書かれたことと本当のこと

 さて。
 お気づきの方も多少おられたと思いますが、以上のようなことは、そっくりそのまま全て、
「赤字」
 というシステムの解明でもあるのです。わたしにとっては。


「書かれたこと」は、すなわちそのまま「本当のこと」である。
「本当のこと」とされているものは、単に誰かによって「書かれたこと」にすぎない。


 それってこういうことでもあるでしょう。

 赤い字で、書かれたことは、本当のことである。
 本当のことだとされているが、それは、ただ赤い字で書かれたことにすぎない。



 つまり、この物語は、まさしく最初っから、
「書かれたもの」が真実であるかないかをめぐる物語
 であったのだ……。というのが、わたしの考え方です。

 初期においては、「赤い字で書かれたもの」がそのまま真実であり、そして終盤のいまでは、「赤い字で書かれたからといって、真実とはならない」という様相があらわれている……。

 ぐるりとめぐっている。
 赤い文字は本当に真実なのか。それとも、魔女がでたらめを書き記しただけのものなのか。
 その答えは「真実にすることもできるし、でたらめだと見なすこともできる」。
 絵羽が書いた単なる個人的な日記が、いつのまにやら「真実を語る聖典」と見なされてしまったのと同じ。
 絵羽の日記が真実を語るものだとされたのは、人々みんなが「真実を語るものだと信じた」からであって、本当に真実を語っているからではありません。
 だから、信じられている場では、真実として通用するし、信じられていない場では、真実としては通用しません。
 赤字が真実を語るものだとされたのは、本当に真実を語っているからではなく、戦人や縁寿が「真実を語るものだと信じた」からです。
 だから、縁寿がそれを信じたいとき、赤字は真実であり、縁寿がそれを信じたくないとき、赤字は真実ではないわけなのです。

 真実か真実でないかというのは、人がその時々でどう受けとめるか、によることです。
 真実性とは、「物」それ自体の中にあるのではなく、受けとめる人の側にある。

(書いてみてビックリしたけど、本当ビックリするくらい当たり前のことだな)

     *

 さて……。

「書かれたことは、本当のことである」
 というギミックを意識したうえで、

「妾が赤にて語ることは真実」

 という記述を読んでみる。するとそれは、「赤字はとりもなおさず真実である」という意味ではなく、

「赤字で記述されたことは、真実であるということにしちゃおう(真実に変えちゃおう)

 という「魔女のわざ」を語るものとして読めてきます。


Ep8を読む(1)(2)」で論じたように、当推理では、「書かれたことを、本当のことにできるのは魔女のわざ」です。

 魔女フェザリーヌは「ラムダがぼこぼこに負ける」という描写を「書いて」それを「本当のこと」にしてしまった。
 魔女フェザリーヌは「戦人が生き延びる」という描写を「書いて」それを「本当のこと」にしてしまった。
 私たちユーザーは、「戦人は海の底までベアトと添い遂げた」「戦人は生き延びて縁寿と再会した」という「書かれたこと」を、内容が矛盾するにもかかわらず、両方とも「本当のこと」にしている。

 それらとまったく同様に、魔女ベアトリーチェは、赤い字でものごとを書き記し、魔法で、それを本当のことにしている……かもしれません。

 なぜって?

 ベアトリーチェには、「本当ではないけれども本当にしてしまいたいこと」……つまり「叶えたい夢」があったから。かもしれません。
 赤い字は夢を叶えるための道具。
 だったかもしれません。

 魔術師の座を受け継いだ戦人は、ベアトが「本当のことにしたかったこと」を守ろうとして、悪い魔女たちと戦ったのかもしれません。赤い字が本当でなければ、ベアトが「本当のことにしたかったこと」は本当にはなりません。だから、「本来は書かれたことにすぎない赤い字の内容」を必死で守ろうとした……かもしれません。

 そして、悪い魔女がその「赤い字による本当」を悪用して、縁寿を不幸にしようとしたとき。戦人と縁寿は、魔法を裏返し、「本当のことを、書かれたことにすぎない」ほうに戻すことで、窮地を脱した。……かもしれません。


●本当にしたいことを「赤い字で」書く

「かもしれない」の内容を、もうちょいかみくだきますね。
 かりに赤字が、「書かれたことを、本当にする」システムの一部だったらどういうことになるだろう、ということを語ります。


 ベアトリーチェは、自分は魔女でありたい、魔法があってほしいと願っていました(と思います)。
(以下だいたい「わたしが思う」ということです)

 でも、呪文を唱えたら奇跡が起こる、という意味でのいわゆる「魔法」なんてものは、本来この世にはないのです。
 それはわかっているけれども、それでも魔法が存在してほしい。
「書かれたことを本当のことにする方法」(赤い字)を使えば……「魔法は本当にある」ことにできそうなんです。

 密室殺人があり、それが絶対解けないのなら、魔女が魔法で殺したのと同じになる、と、彼女は考えました。

 部屋の中に他殺死体があり、他には誰もおらず、全ての出入り口が施錠されていて、鍵が使用不能であったのなら。
 それは人間にはできない犯行であり、それは魔女のしわざであり、魔女と魔法が存在するのです。

 そこでベアトリーチェは、

「室内には他殺死体がある」
「他に人間は潜んでいない」
「全ての出入り口が施錠されている」
「鍵は使用不能であった」

 と、「書いた」(言った)のでした。その上で、一連の推理で論じてきたような、
「書かれたことを本当のことにする方法」(つまり赤字)
 を使って、それを「本当のこととしてしまった」わけなのです。(と思うのです)

 本当の意味での「密室」なんて、物理的に不可能ですからね。
 つまり密室というものは、本来、作ることはできません。
 けれども、ベアトは自分が魔女であるために、「本当の意味での密室」が存在してほしいのです。
 ですから、彼女は、密室構成条件を「書きしるす」。
 そして、その書き記されたことに対して、「書かれたことを本当のことにする作用」をかける。
 それで、密室構成条件は「本当のこと」になるのです。

 絵羽がイガんだ憎悪をこめて書き記した「一なる真実の書」は、もし社会に公開された場合、世間の人々がみんなで信じてしまって「本当のこと」になっちまうところでした。
 ヱリカが悪意をこめてでっち上げた「Ep5夏妃犯人説」は、幻想法廷の人々がみんな認めてしまったために、「本当のこと」になってしまうところだったのです。

 それとまったく同じように。
 ベアトリーチェが、自分の夢、自分の願いをこめて書き記した「赤い文字のコトバ」は。
「赤い文字で書かれていることは真実である」と戦人が信じてくれているために、「本当のこと」になっていたのです。

 それはまさに――
 書いたことを本当にしてしまう魔法。


●「願いとしての赤字」を戦人が守ること

 戦人は、遅ればせながらそのことに気づいた……ことにします。
 このゲーム盤は、ベアトリーチェが、彼女の美しい夢、美しい願いを、どうにかして実現しようとする必死の試みだったこと。
 そして、願わくばその美しい夢を、戦人が共有してくれないか、と願っていたであろうこと。

 戦人は、彼女の願い、彼女の魔法を受け継ぎます。魔術師になります。
 古戸ヱリカ、ベルンカステルという「ミステリーの侵略者」たちが、ベアトの夢、ベアトの魔法を台無しにしようと襲いかかってきます。
 戦人はそれを撃退しなければなりません。
 愛しい魔女が、必死で実現させようとしていた美しい夢を、どうしても守りたかったのです。愛する魔女を守るため、「魔女があり、魔法がある」という真実をどうしても守りたかったのです。

 戦人は、この時点で、
「赤字とは、本当でないことを本当にすることによって、夢を実現するシステムだ」
 ということに、気づいています。(わたしの考えでは・この推理では)

 ミモフタもないことをいえば、「赤字でウソも言える」とわかっています。
 だからそのことを利用すれば、ロジックエラーに閉じこめられることなんてなかったはずです。それどころか、簡単に「解けない問題」を作ることができ、簡単に古戸ヱリカを撃退することができてしまいます。

 だって、縁寿が「赤字を認めない」ことでベルンを撃退できるのなら、当然のことながら、戦人だって気付きさえすれば、「赤字を認めない」ことでベアトを撃退できますし、ヱリカを撃退できるのです。

 でも彼はそれをしなかった。なぜか。

 だって、
「赤い字は真実を語る」
 というシステムが信じられているからこそ、魔女と魔法が、六軒島に存在できているのです。
 つまりこれが「ベアトの魔法」そのものなのです。

 ベアトが「赤い文字で」語ったいくつかのこと。
 それは、ベアトがどうしても本当のことにしてしまいたかった、ベアトの夢そのものです。
 それを破棄してしまったら、それは「ベアトの夢を自分の都合で捨てた」のと同じ意味になってしまいます。
 ベアトは「赤字は真実であってほしかった」し「赤字の内容は真実にしたかった」のです。
 戦人はそれをどうしても守りたかったのですから、自分のゲーム上においては、「赤字を本当に真実にしてやりたかった」し、「ベアトの赤字の内容は全部本当のこととして扱ってやりたかった」。

 だから、赤い字の内容を全部守るという縛りを設けたうえで、ヱリカを倒してやろうと考えた。赤字の内容を死守することが、ベアトへの愛のあかしだった……という(わたしの)考えなわけです。


●「ミステリーの悪意」としての赤字

 そんなふうにして、ベアトの願いと戦人の努力によって、「赤い字で言われたことは真実である」という、強力な真実が、六軒島を支配するようになりました。

 でもそれは戦人たちにとっていいことばかりではなかったのです。
 ミステリー側の魔女たちが、赤い真実を悪用しはじめたからです。「赤い字で言われたことは真実である」というコンセンサスは、ミステリーの魔女たちにとっても歓迎すべきことでした。

 なぜなら、この「赤き真実」は、事実性を他人に押しつけて反論不能状態に追い込むのに、非常につごうがよかったからです。

 ベルンカステルは、赤い字を使って、縁寿を不幸にしてやろうとたくらみました。その姿を見て楽しもうと思ったのです。
 たとえば、霧江は殺人鬼であるとか、戦人は死んじゃいましたー、とかを赤い字で言えば、縁寿はすごい形相をして泣いたりするので非常に楽しかったのです。
 実際それらは、ある意味では事実ではあったので、信憑性がありました。

 願いを本当のことにするための赤い字が、願いを打ち砕くために使われだしました。

 そんなふうに赤字が使われだしたとき、戦人は、「赤字ルールを破る」ことに躊躇しませんでした。
 赤字ルールは、ベアトが「夢を叶える」ために作ったものです。
 戦人が守りたかったのは、ルールではなくて、「美しい夢」です。
 赤い字が、夢を壊すために使われるのなら、夢を守るために赤字ルールを打ち砕くのは当然のことなのです。

 赤字とは、誰かが願いを込めて、「書かれたもの」を「本当のこと」に変えたコトバである。
 それは裏返せば、赤字とは、本当のことだとされているけれども、単に誰かが勝手な願いをこめて「書かれたもの」にすぎない。

 この「書かれたもの」にすぎない、という立場をとることで、赤字は何の真実性も保証しないものとなり、「戦人は死んでいる」なんていう赤字には、何の拘束力もないことになります。
 戦人は、縁寿にそういうやり方を悟らせようとしたわけです。

 縁寿は、戦人が教えようとしたことを、悟ることができました。

「戦人は死んでいる」なんていう赤字の真実性を、まったく認めないことによって、戦人がどこかで生きているという真実をつくりだして、胸に抱き続けることができました。

 譲治と朱志香が、モンティホール問題にからめて、
「他人に影響されずに、自分の願いを追求しつづけること」
 が大切なんだという話を、縁寿にしてくれました。

 まさしく、赤字などという他人の真実に影響されることなく自分の真実をたもちつづけること。
 それが大切なのだということを縁寿は理解し、ベルンの赤字を拒否するという行動において、それを実際になしとげたのです。


(そして、わたしもそれを一環してそれをやりつづけています。……という、このくらいは自画自賛してもバチはあたらないと思うんですよ(^_^))


●リザレクション・オブ・ザ・ゴールデンウイッチ

 さて。
 それだけの言葉を費やしたあとで、ようやく語れることがありまして。
「縁寿はどうしてベアトリーチェの称号を受け継いでエンジェ・ベアトリーチェであるのか」
 ということを語りたいのです。

 なぜならそれは、縁寿がベアトの志を、正確に受け継いだからだ、というところに、もっていきたいのです。

 そういうことを、これから語っていきます。


 よろしいか。
 具体的な字として露わになってないだけで、
「魔法など存在しない」
 という「世間の赤字」があるのです。これは見ようと意識することで、容易に見えるはずです。

 魔女でありたいベアトリーチェは、「魔法など存在しないという世間の真実」を打ち破りたかった。
 そのための武器が「魔女ベアトリーチェの赤い文字」であった。
 そのような構図で見直してみよう、というのが、これまでのわたしの提案なのですね。

 そして。

「戦人など生存していない」
 という「ベルンの赤字」がありました

 戦人に生きていてほしい縁寿は、「戦人など生存していないというベルンの真実」を打ち破りたかった。
 そのための武器が「黄金の真実」であった。


 どちらも、他人の真実が自分の願いを押しつぶそうとしたとき、願いを守るために振るわれる武器なのです。

 そのように、魔女ベアトリーチェの願いと、縁寿の願いは、リフレインしている。

 そんなふうに考えてみたとき。
 Ep8ラストで縁寿によって「赤い字」の権威性は却下されるのですが、だからといって、魔女ベアトリーチェの願いは否定されていないことに気づけるはずです。
 それどころか、「赤字を拒否する」ことによって、より大きな意味で、魔女ベアトリーチェの思いは受け継がれ、叶えられているとすらいえそうです。

 片方は(ベアトは)「赤字を真実だと主張する」。もう片方は(縁寿は)「赤字を真実でないと主張する」。にもかかわらず、この両者の利害は一致し、同じものを求め、同じものを手に入れているのです。

 強力な力で譲歩を迫ってくる「大きな真実」に対して、自分の胸の中に抱いている「小さな真実」をどうやって守り抜くか。
 ベアトも縁寿も、そのことを考え、そのことを実現しようとしている。

 そういう意味で、彼女たち二人のやっていることは実は「同じ」なんです。

 他人の強力な真実が自分を脅かそうとするときに、いかに行動すべきか、という一点において。
 彼女たちの行動は、まったく同一なんだ。

 縁寿は、赤字の真実性を退けているにも関わらず、ベアトリーチェの方法論は正確に受け継いでいます。
 それは言い換えれば、志を、魂を受け継いだというのにひとしいのです。

 だからこそ縁寿は、ベアトリーチェの称号を受け継ぎ、エンジェ・ベアトリーチェなのである……。

 そういう言い方が、できそうです。
 単に、生き残った右代宮一族だからベアトリーチェなのではない。自分自身の真実をまもり、真実をみずからつくりだすという境地に至ったから、縁寿はベアトリーチェなのである……。
 そういうふうに思いたいところなんです。


(ちなみに、「大きい真実」「小さな真実」というキーワードでいえば、そういえばEp5で戦人は、ドラノールから「かよわき人間の真実を守る者」みたいな呼ばれ方をされていました)


●魔女の復活祭としてのEp8

 だとしたらね。

 ひとつ思いだしたいことがあるんです。
 この物語は当初から、
「長らく封印され、力を失っていた魔女ベアトリーチェが、再び力を得て復活する儀式なのである」
 というサブストーリーによって支えられていました。碑文殺人というのは復活の儀式だとされていました。

 1986年の六軒島爆発事故によって、魔女ベアトリーチェの中の人も(推定ですが)爆死しました。
 外から見れば、魔女ベアトリーチェはその死によって力を失い、滅びた小島に永遠に封印されたのです。(内から見れば・猫箱の発想からすれば、違う結論にもなるのですが)

 しかし、「願いを実現する魔女」ベアトリーチェは。
 12年という歳月を経て。
 エンジェ・ベアトリーチェという姿をとって、この世にみごと復活したのだと、そういう言い方ができそうなのです。

 しかも、この新たな復活版ベアトリーチェは、島の外に解きはなたれた自由な存在だ。

 かつての魔女ベアトリーチェも、それを求めていたのです。今は妾は島に縫い止められているが、いずれ島の外に出たいのだと。

 つまり、ベアトリーチェの願いは、縁寿に託され、「エンジェ・ベアトリーチェ」というかたちをとってすべて実現されたっぽいのです。
(ずっと待っていた思い人が、長い年月の果てに、ようやく自分に会いに来るなんていうところまで忠実に再現してね……)


 このことは(ベアトの願いを縁寿がすべて実現することは)、魔法エンドを選ぶか、手品エンドを選ぶかということとは、まったく関係がありません。

 なぜなら、どちらかを選ぶ前に、縁寿はすでに、
「強力に迫ってくる他人の真実をしりぞけ、自分自身の真実を実現する」
 という境地には達しているからです。

(手品エンドの縁寿が真相究明を放棄するのは、「真実というのは自分の裡に求めるものであって、外から探してくるものじゃない」という認識に到達しているからです)

 その時点で彼女はすでにベアトリーチェなんです。2つのエンドの差は、「彼女は個人的に、どんなベアトリーチェになりたいか」という差でしかないのであって、どちらを選ぶにしても、彼女はベアトリーチェとしての本質は獲得しているのです。



 このようにして、魔女復活の儀式は完遂されました。


 そして、わたしたちのこの世界には、いま、「ベアトリーチェの思いと志」を理解した「わたしたち」がいます。
 つまり、魔女ベアトリーチェは、わたしたちという姿をとって、わたしたちのこの世界に、自由な存在として解きはなたれました。

 だから『うみねこのなく頃に』は、冗談ぬきで本当に魔女復活の儀式だったわけです。いまや魔女はわたしたちの世界に実在しています。


(続く)


■続き→ Ep8を読む(9)・いま、アンチミステリーを語ろう



■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち

2011年04月05日 23時18分52秒 | ep8
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち
 筆者-初出●Townmemory -(2011/04/05(Tue) 23:14:19)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=61527&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
 Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)
 Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる


     ☆


●ガラス石はいくらなのか

 いとこチームは、ランチのあと、砂浜に行ってガラス石を拾って遊びます。
 ガラス石というのは、ガラスの破片が波に洗われてカドが取れ、きれいな石のようになったものです。
 戦人たちは、だれがいちばんたくさんガラス石を拾えるか、またいちばんきれいなガラス石を拾うのは誰か、競争するのでした。

 さてこのガラス石。価値はいったいどれくらいなのか。

 もっとはっきり言えば、いくらに換金できるのか。
 当然のことながら、それはゼロ円です。ガラスのかけらですからね。まったく市場価値はありません。つまり社会的に無価値です。

 では、そんなガラス石をよろこんで集めている彼らは、それが換金に値しないことを知らない可哀想な人なのでしょうか? そんなわけはなさそうだ。

 では、彼らは、価値のないものをそうとわかっていて喜んで集めている、変な人なのでしょうか?


●保証があれば良いのか

 そんなふうに思う人はいないはずです。

 価値というのは、そんなふうに一義的なもんじゃないからです。

 換金できるかできないか。社会的な価値があるかないか。そんなこととはまったく関係なく、海辺に流れ着いたきれいな石は、自分で見つけて手に取った石は、自分にとっては価値あるものになりうるのです。まったくもって……月夜の晩に、波打ち際で拾ったボタンは、どうしてそれを捨てられようか、ということなのです。(知らない人は「中原中也・ボタン」くらいで検索してみて下さい)

 換金できるかどうかが、いつも価値の基準とはかぎらない。

 そのことを強く意識したうえで、以下の部分を読んでみることにしましょう。

「信じないわ……。………これも全部、……お兄ちゃんの茶番なんでしょ………。」
「お前は、何を見たら、聞いたら。信じることが出来るんだ…?」
「………赤で。…………赤き真実で言ってくれたら。」
「赤で言えなければ、全ては嘘なのか?」
「……信じない…。……私は、……こんなの………。」
 縁寿は俯き、黙り込んでしまう。
(Episode8)


 縁寿は、戦人が語ること、見せてくれることを、茶番だと思います。つまり「価値のあること」とは見なせないでいるのです。
 価値あることとして受け取らせたいのなら、保証をしろ、と縁寿は要求します。
 何の保証を?
 それは……「ここで語られていることが真実である」という「保証をしろ」ということでした。

 それって、ガラス石の話に似ていませんか。

「ガラス石を、価値のあるものだと思わせたいのなら、ガラス石がお金と交換できることを保証しろ」

 縁寿が言っているのは、ほとんどそういうことです。
 でも、価値というのは、真実というのは、そんなふうに一義的なものではないのです。

 そう……本当に。
 価値というものは、交換力によって決まるものではない。

 何が価値あるものなのか。
 それは、保証の有無や、文字の色で決まるのではない。
 あなたが何をだいじと思うかによって決まるのだ。


●黄金があれば良いのか

 かつて、世界の貨幣経済は、「金本位制」という制度によってなりたっていました。
 ずっと昔、まだ世の中が成熟していなかったころ、おカネというものは信用ならなかったのです。
 だって、印刷された紙や、ちっちゃな銅の破片でしかありません。つまり、
「紙だとか銅の破片だとかに価値があるなんて、いまいち信じられない」
 と、みんなが思っていたのです。

 そこで国はこう約束しました。
「これこれの額面の貨幣は、いつでも、これこれの重さの黄金と交換します」
「そのことを“保証”します」

 そういうことを国が保証したので、人々は、
「ああ、このおカネというものは、ゴールドとの引換券なんだ」
 というふうに安心して、価値を認めることができたのです。「おカネというのはゴールドと同じ価値があるんだ」と。

 けれども、現代では、そんなふうに金本位制をとっている国なんて、きいたことがありません。(じつはよく知らないけど。少なくとも先進国にはありませんよね?)
 つまり、円やドルやユーロが、必ず一定の黄金と交換してもらえるという保証なんてべつにないのに、おカネはおカネとしてきちんと通用しています。

 誰かが価値を保証したわけではないけれど、みんなが、価値はあると思ってる。
 だから、おカネは価値あるものとして通用する。
 みんながそう思っているから、その「みんな」の間では通用するのです。

(でも、ときどき、「ドルっていまいち信用できないんじゃね?」とみんなに思われたりすると、ドルの価値はさがったりする。相対的に、円の価値が上がったようになったりする。もちろんその逆もある。いまやジンバブエドルにおカネとしての価値があると思ってる人はいません)

 現代の世界に、金本位制はありません。
 それぞれの人が、それぞれに判断し、貨幣の価値というものを、信じて受けいれているだけです。

 そこでもちろんこうなるのです。

 ニンゲンの世界に、赤き真実など、存在しない。
 自らが見て、聞いて。……信じるに足ると、自らが信じたものを、赤き真実として受け入れるのだ。
(Episode8)


 赤い字としての保証がなかったら、価値があると思えないのか?
 それってもう、「自分の頭と目で、価値を判断することができない」ということ。
 たとえるなら、パパやママが「この人にしなさい」って言ってくれないと、自分で結婚相手を決めることができませんか? といったようなことです。
 縁寿はそういう幼児的な精神状態を持っていたわけです。(でも六歳だからしょうがないよな)


●価値とは何なのか

 そんな縁寿ですが、クライマックスで、ベルンの放つ赤字をガン無視しはじめました。
 正しいです。というか、それこそが、戦人が彼女に気づかせたかったことです。

 ベルンは「戦人は死んでいる」だの、「右代宮蔵臼は死んでいる」だの「右代宮夏妃は死んでいる」だの、「おまえはもう死んでいる」シリーズの赤字をばんばん投げつけるのですが、縁寿ひとりが「そんなの認めない」と言っただけで、その赤字の内容はまったく無効でした。
 縁寿の背後で、右代宮ファミリーは全員生き続けました。

 縁寿が認めない限り、どんな真実も、真実たりえない。
(Episode8)


 赤い文字がこれまで真実として通用していたのは、本当に真実であるからでは「なく」、「赤い文字は真実であると戦人や縁寿が認めていたから」です。

 戦人が、縁寿が、「真実とは認めない」とすれば、赤き真実はその瞬間から真実たりえなくなります。

 これは原理的にいっても、あたりまえのことです。なぜなら、どんな真実も、人間の認識を通してはじめて表現されるのですからね。

 真実というのは、常に「私はこれを真実と思うが」という意味です。それ以外の意味は、存在しえません。だって真実というのは、事象に対する評価ですからね。その評価をする主体が「認識」しなければ、真実どころか、事象そのものが存在しえないのです。

 目の前にリンゴがあるとき、目の前にリンゴがあると認識せずに、リンゴがあるという事実を表現できますか? わたしにはできません。ふつうできないでしょう。
 そして、目の前に本当にリンゴはあるのでしょうか。
 わたしたちが把握できるのは、「私は目の前にリンゴがあると認識してはいるが」というところまでです。人間は意識を通さずに実体そのものを把握することはできません
 そして、「リンゴがある」と「リンゴがあることを認識する」が、ほんとうにイコールで結べるかなんて、誰にも保証できませんよ。

 たとえば2人の人間がいて、「私はリンゴがあると思う」「俺もリンゴがあると思う」というふうに、認識が一致すれば、この2人のあいだでは、「リンゴがあるというのは真実である」と言えるでしょう。
 でもここに3人目の人間が現われて「リンゴなんてどこにもないじゃないか」と言い出したとしたら、はたして、リンゴはあるのでしょうか、ないのでしょうか。
 いや、それ以前に、2人の人間のあいだで、「私はリンゴがあると思う」「いや、リンゴなんてどこにもないじゃないか」というふうに、意見が分かれたら、果たして真実はどこにあるのでしょう。

 目の前のリンゴのあるなしで、意見が分かれるはずなんてない、と思う人がいるかもしれませんが、ミステリー読みの方は、京極夏彦さんの『姑獲鳥の夏』を思いだしてください。関口くんの目に見えたものは本当に存在したのか? 関口くんの目に見えなかったものは本当に存在しなかったのか――?
 UFOの話でも良いです。UFOを見たという人はいっぱいいるのです。UFOなんて見たことないという人もいっぱいいるのです。わたしは、見たような気もするし見てないような気もします。UFOは存在するのかしないのか。ツチノコでも天狗でも同じことです。

 そしてこの物語は、

 存在するわけないのに、魔女を“視て”しまう――
 目には見えないのに、魔女が“存在”する――

 そういう物語であったはずなのです。

 戦人とベアトは「赤い文字は真実である」「なるほど、赤い文字は真実なんだな」と、その真実性を認めていました。認識が一致していたのです。だから「赤い文字は真実である」という「真実」が、ふたりのあいだにはあったのです。

 ベルンは「赤い字は真実であり、戦人は死んでいる」と赤い字で言いました。でもベルンは意識のある存在であり、意識を通さずに事象そのものを手に入れることなどできないのですから、これは「私は赤い字は真実であると思うし、戦人は死んでいると思う」という意味でしかないのです。
 縁寿は、「赤い字が真実だなんて認めない。私は真実を字の色ではなく自分の意志で判断する。よって、お兄ちゃんは死んでない」と言いました。
 認識が一致していません。どっちが真実かなんてわかりません。
 つまり赤い字で言った内容は、もう真実とはいえません
 縁寿が認めない限り、どんな真実も、真実たりえない。

 これはおカネも同じことです。
 ベルンは10円あったらチロルチョコが買えると思っています。縁寿はチロルチョコを10円玉と交換してもいいと思っています。10円とチロルチョコが同じねうちだという共通認識があるから、ベルンの10円と縁寿のチロルチョコは交換されるのです。チロルチョコは10円であるという真実が2人のあいだに共通認識として存在しているわけです。
(先回りしておきますが、世の中にはコンビニ版20円チロルチョコと駄菓子屋版10円チロルチョコがあるのです)

 ところが急に縁寿が「こんなヘンな銅の破片と、チョコレートを交換しなきゃならないなんて、おかしくない? 銅のかたまりにそんな価値なくない?」と考え出したら、取引はもう成立しないのです。ベルンが半泣きになりながら、一生懸命「ほら、ほら!」とかいって10円玉をさしだしてもむだなことです。チョコレートは縁寿のもので、10円玉をいくら投げつけられても「だから?」ということになります。10円とチロルチョコがイコールだ、というのは、単なるベルンの一方的な主張であるだけです。

 ベルンががんばって、「ほら、赤い字って、真実としてのねうちがあるでしょ!」といって、どんなに投げつけても、縁寿は「なんで?」と柳に風で受け流すことができます。
 あのクライマックスで起こっていたのは、わたしの考えではそういうことです。

 赤い字が真実であったのは、赤い字が所与のものとして真実だからではありません。赤い字は真実なのだと、戦人(縁寿)が、「信じるに足ると、自ら信じ」ていたからです。
 その「信じるに足る」という気持ちが失われ、赤い字だからって真実とは関係ないんじゃない?(おカネって信じられない。10円玉って何の価値もないんじゃない?)と思った瞬間に、赤い字は真実性を失い、縁寿との取引能力を喪失するのです。


 10円玉には10円ぶんの価値がほんとうにあるのか――?

 この例をうけて、
 そこを疑問に思うことにしましょう。

「おカネがかならず黄金と交換できた時代」には、まちがいなく価値がありました。なぜならゴールドと交換ができたからです。貨幣は黄金との引換券であって、重たくかさばる黄金をいちいち運べないから引換券で代用していたというのとほぼ同じだからです。

 黄金には価値があり、その黄金と交換できるから、おカネには価値がある。

 あれ。
 じゃあ、黄金には、どうして価値があるのですか?

 黄金に価値があるということを保証しているのは誰でしょう。黄金は貴重なものだなんて決めたのは、誰なんだ? その根拠はどこにありますか?

 黄金というものには、本当に価値があるのか?
 私には黄金より、ガラス石のほうがずっと価値が高いわ。

 と誰かが言い出したら、その人にとって黄金は何の価値もありません。よって、黄金との交換を保証するおカネというものには、何の価値もありません。

 誰か他人の認識に基づく「赤き真実」といったものには、本当に価値があるのか?
 私には他人の真実より、自分自身の真実のほうが、ずっと価値が高いわ。

 縁寿がそう言い出したら、縁寿にとって赤い字は何の価値もありません。


 だからこれは、まさしく――黄金をめぐる物語なのです。

 黄金と交換できなければ価値を認められないのか?
 黄金と交換できさえすれば価値があると思うのか?

 赤くなければ真実と思えないのか?
 赤ければそれを真実と思うのか?


 真実というのは、そんなふうに一義的なもんじゃない――。
 多くの人が、その認識には到達しているにもかかわらず、赤い文字の根本的な真実性については検討を加えたがらない(貨幣で引き替えられる「黄金」というものに本当に価値があるのかといったラディカルな部分を疑いたがらない)のが、わたしには不思議です。
(でもまあ、そこを疑う人ばかりだったら社会が混乱するからね)


●戦人はいつ気づいたのか

 さて、真実というのは、字が赤いかどうかじゃない。自分で判断し、自分が認めるかどうかだ。
 戦人は縁寿に、それを伝えたかったようです。
 ということは戦人は、どっかの段階で、

「真実というのは、字が赤いかどうかじゃないんだな」

 という重大な気付きを手に入れていたことになります。いっときは「赤くない字は信用できないよー」なんてびゃーびゃー泣いてたのにね。


 金本位制の話にもどると、われわれの人類社会は、さいしょっから今のような管理通貨制度をとることはできませんでした。
 つまり、お上は「このお札という紙は価値があるんですよ」と言うけれど、私たちは最初、とてもそうは信じられなかったのです。だって紙だもん。
 そこで政府は「いつでも黄金と交換しますよ」と保証してくれた。それで社会に、共通の価値があるおカネというものがやりとりされていくようになった。
 やがて私たちは、「おカネのやりとりを信頼する」ということを覚え、「黄金と交換してくれる保証がなくても、おカネっていうものは価値を判断できそうだ」と思うようになった。
「おカネの価値は、黄金の保証があるかどうかじゃないっぽい」
 それで、黄金と交換してくれる制度は廃止になり、けれども、おカネはおカネとして今もまわりつづけているのです。

 右代宮戦人は、当初、魔女が言ってるコトバをぜんぜん信じられなかったのです。
 そこで魔女は、「赤いコトバは真実ですよ」と保証してくれた。それで、戦人と魔女との間に、共通の意味があるコトバがやりとりされていくようになった。

 そうして自分のコトバと相手のコトバがきちんとやりとりされていくうちに、
赤いかどうかに関わらず、コトバというものは、価値を判断できるのではないか」
 というふうに、戦人は思わなかっただろうか。
「コトバの価値は、赤いかどうかじゃない」
 そういう認識に、戦人が立ちはしなかっただろうか。

 コトバの価値は、そのコトバを俺が認めるかどうかだ。

 その認識に到達した瞬間、彼は、“俺自身にとっての真実のコトバ”――「黄金の真実」というものに、目覚めはしなかっただろうか。

 誰しもが「私にとっての黄金」を持っているのではないか?

 そのことに覚醒した戦人は……そのことだけは、最愛の妹に教えてやりたい、そう思いはしなかっただろうか。それは「真実そのもの」よりもはるかに大切なこと。手品エンドか魔法エンドかは重要ではない。「何が真実かを自分できめる」ということ……。その認識は「このゲームの答えにたどり着いた」とすらいえるものではないだろうか。つまり戦人は「答えを教えよう」としていたのだ……。


●その保証は本当にあるのか

 そういう心の動きの中に、
「赤い字を認めないなんて信頼がない態度だ」
 といった言い方が入り込む余地は、あるのだろうかということなのです。


 赤い字は真実だ、と思うことが、魔女を信じることなのか。
 それとも。
 字が赤いかどうかによらずに、コトバを判断することが、魔女を信じることなのか。


 だって。
 愛している人にウソをつくなんて当たり前のことではないですか。
 それに対して、
「ウソをついたおまえは、俺のことを愛していないんだな」という判断は、正しいでしょうか。
「そのウソの背後に、愛を見ることができるかどうか」
 が問われており、

 ベアトリーチェのウソの背後に、愛を見ることができるか、を、戦人は問われており、
 お兄ちゃんのウソの背後に、愛を見ることができるか、を、縁寿は問われている。


 ゲームマスター戦人は赤字を使わないベアトリーチェみたいなものです。彼は縁寿には、赤字によらずに物語の中からなにがしかの真実を見いだしてほしかった。
 でもね、そう思ったら、
 ベアトリーチェだって、ほんとは赤字なんか使わずに、物語の中からなにがしかの真実を見いだしてほしいって戦人に思っていたんじゃないでしょうか。


 ごく初期の戦人は、ウソをつくかもしれない魔女のいうことに、耳をかたむけなかったのです。
 つまり、コトバを「価値のあること」とは見なせないでいました。(お兄ちゃんを信じない妹のようです)
 でも、魔女の真意はたぶん、「私のことをわかってください」というものでした。

 私とコトバをかわしてください。
 私を理解しようとしてください。
 私のコトバに、どうか、まずは耳をかたむけて下さい。

 コトバという、「貨幣のように人と人のあいだに流通するもの」を信じようとしない戦人。それに対して魔女が取った行動は、
「金本位制度下の貨幣のように、コトバの価値を保証する
 ということでした。赤い字で書いてあったら、真実としての価値を保証しますから、と。

「そういう保証があるんなら、話をきいてやろうじゃないか」

 戦人はそれでようやく、魔女の物語に耳をかたむけだします。


 ところで、金本位制がとられていたころ。おカネというのは、必ず黄金と交換できなければならない約束でした。
 ということは、おカネをつくる政府は、政府が持っている黄金と同じ額だけのおカネしか、発行することができませんね。
 でも、実際には、政府が保有している黄金よりも、ずっと多くのおカネが発行されたのです。
 なぜなら、すべての国民がいっぺんにおカネを黄金と交換するなんてこと、あるはずないからです。多めに刷っちゃっても、だいたいおっけーなんです。
 現在の銀行だってそうですよ。銀行は人からおカネを預かって、そのおカネを人に貸し、利息を取り、それで利益を得る機関です。貸しちゃってるということは手元にないということですから、預けた人全員がいっぺんにおカネを下ろそうとしたら、支払えなくてハタンします。
 でも、そんなことは常識的にありえないので、とくに問題はないわけです。銀行は貸し付けによって、おカネをもうけることができます。
 同様に政府は、持ってる黄金以上におカネを刷ることができ、その分は、単純化した言い方をすれば「もうけ」になります。

 さて。ということは。
「必ず黄金と交換できる」という約束になっているおカネですが、「実際には黄金と交換できないぶんのおカネ」が、一定数、出回っているということになります。

 保証されているのに、実際には黄金と交換できないおカネ……。


 魔女はたぶん、戦人にわかってもらいたかったのですが、簡単にはわかってほしくなかったのです。
 話をきいてはもらいたかった。でも、だからって直接話法で訴えたらすむというものではなかった。

 愛して下さいとベアトがお願いしたから、戦人はベアトを愛するのか。
 ベアトのことが愛しいと戦人自身が思ったから、戦人はベアトを愛するのか。

 コトバを保証して、素直に誘導しつづければ、いずれ戦人は真相にたどり着くでしょう。でもそれは、魔女が道案内をしたからてくてく歩いてこられてゴールした、ということにすぎないのです。正しい地図を持っていたら、正しい場所に行けるのはあたりまえなのです。
 保証されたからコトバを信じるのか?
 それとも、真偽ないまぜの魔女のコトバの中から、真実の響きを自分の耳で聞き当てるのか?
 赤い字を信じた結果、真相にたどり着くのではなくて、戦人本人が信じるに足ると思ったものを信じた結果、真相にたどりついて欲しい……。

 自らが見て、聞いて。……信じるに足ると、自らが信じたものを、赤き真実として受け入れるのだ。
(略)
 赤き真実という、ゲームのルールで真実を押し付けても、何の意味もないのだ。

 そう。何の意味もない、と、ベアトリーチェは思いはしなかったか。

 ほんとは赤字によらずに、物語の中から何かをつかんでほしかった(かもしれない)ベアトリーチェ。耳をかたむけさせるために、しかたなく赤い字を使ったベアトリーチェ。
 そんなベアトリーチェは、赤い字の中に、罠をしかけはしなかっただろうか。

 何を信じるかを自ら選んだ結果、真実にたどり着いてほしい。そう願うのならば、魔女は戦人に与える誘導のなかに、ところどころ、あえて空虚なものを混ぜ込むかもしれません。
 つまり、真実を保証されているのに、実際には真実でないコトバ……。


 そういった視点を持った上で、もう一度、“保証されたコトバ”を見てみることにしましょう。

「マスターキーは5本しかない!」

 本当ですか?
 わたしたちはそれを「認め」ますか?




(続く)


■続き→ Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字)


■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる

2011年03月18日 04時39分51秒 | ep8
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる
 筆者-初出●Townmemory -(2011/03/18(Fri) 04:29:12)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=61043&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
 Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)


     ☆


 抽象的な話が続いてしまったので、ちょっとばかり、具象的な話をしてみようと思います。


●手品エンドは何エピソードの続き?

 手品エンドは読むところがいっぱいあって、個人的には大好きです。

 縁寿は川畑船長の船上で、天草十三のミッションを見破り、天草を射殺し、ついでに川畑も射殺します。
 小此木社長は、「六軒島で縁寿を殺害し、その罪を須磨寺霞になすりつける」といったプランを持っていた。天草十三はそのためのエージェントであった。
 その後、どこからともなく現われた探偵・古戸ヱリカと語らったあと、彼女はいずこかへと去ってゆきます。

 手品エンドで語られた、この一幕。
 全8エピソードのうちの、どのエピソードから繋がっている物語でしょう?
 どのEpのアフターだと考えると、筋が通るでしょうか。

「右代宮縁寿の六軒島巡礼」
 というイベントが発生するのは、Ep4と、Ep6です。
 他のエピソードでも、ひょっとしたら12年後に、同様に発生しているかもしれませんけれども、描かれていませんから、ひとまず考えないことにします。

 われわれに分かっている範囲では、
「右代宮縁寿の六軒島巡礼」は、2バージョン存在しているわけです。
 Ep4バージョンと、
 Ep6バージョンですね。

「手品エンド」は、いったいどっちのバージョンの後日談なのだろうか……ということを考えたとき、
「それはEp6のほうである」
 というふうに考えることができそうです。

 なぜなら、手品エンドの縁寿は、古戸ヱリカと話をしているからです。


●古戸ヱリカを認識する条件

 だいたい、あの船の上にひょっこり現われた古戸ヱリカはいったい何者でしょう。

 これは、
「縁寿が“幻想した”イマジナリーフレンド」
 ということで、良いのではないかと思います。
 だって、実際には会ったことのないはずのヱリカに対して「あら、いたの?」ですものね。

 手品エンドでは、Ep4で存在できていた、マモン・さくたろうが、一切登場しません。
 マモンとさくたろうは、「縁寿が想像力の中に存在させていたもの」でした(たぶん)。
 手品エンドの縁寿は、魔法の存在を拒否したわけですから、彼女の世界観の中に、魔女の使い魔といったものは、もはや存在しないわけなのでしょう、きっと。
 だからマモンは登場しない。
 そのかわりに、彼女は、心の中の話し相手として、唯物論的なキャラクターである「探偵」古戸ヱリカを登場させた。
 そんなところでよろしいのではないかと思います。とりあえずそう仮定しておきます。

 だとすると。この仮定を成立させるためには、ある条件が必要になってきます。
 それは簡単なことで、

「縁寿は、古戸ヱリカという人物のことを知っていなければならない」

 ただ名前や容姿を知っているだけではだめで、どういう思想を持っていて、どういうことを言いそうか、まできちんと知ってなければならないのです。

 右代宮縁寿が、古戸ヱリカという人物を知った上で、六軒島への船に乗るのは、Ep6だけです。
 Ep6の縁寿だけが、「八城十八との会談」に成功し、そこで古戸ヱリカの八面六臂の大活躍を、半強制的に読まされるわけですからね。

(ただ、Ep4の縁寿も、八城十八がネットに放流した『End of the golden witch』[Ep5]を読んでいた……という可能性はあります。けれどもEp4内にとりあえずそういう描写はないので、その条件はないのだとしておきます。各エピソード(各平行世界)は番号順に発生しているとも思えるので、「Ep4当時には、Ep5という平行世界はまだ発生していない」という解釈をとりたいところです)

 さて、ということは。
 手品エンドの縁寿は、八城幾子に会ったことがある、ということになります。


●八城邸を訪れるための「ある条件」

 縁寿はほとんどすべての平行世界で八城幾子と会うことはできず、そのまま新島に行ってしまうのです(とEp6に書いてあります)。
 会えたのはほとんど奇跡に近いそうです。
 なぜ、会えないのか。

 その理由が、魔法エンドのほうで語られました。

 推理作家「八城十八」は、じつは2人1組のユニットでした。六軒島から生還した戦人は、八城幾子に拾われました。そして、戦人がプロットライターを務めることで、はじめて推理作家「八城十八」はブレイクするのです。
 その戦人は、記憶に障害を生じていました。自分の記憶を自分のものだと思えない症状だそうです。これゆえに戦人は、縁寿に会うことをおそれ、縁寿を拒否したのです。

 自分が右代宮戦人であるということを、受け容れられない。
 右代宮戦人の記憶が本当であるという証人に直面したくない。

 だから、ほとんど全ての場合で、縁寿の会談要請は断られたのでした。会えない理由は、戦人が断ったからです。

 これは、非常に強力な「会いたくない理由」です。
 この事情があるかぎり、たしかに、八城十八は縁寿にぜったいに会わないだろう、とわたしには感じられます。


 しかし、Ep6では縁寿は、八城邸におもむいて、八城幾子に会うことに成功しているのです。
 ということは、Ep6では、戦人は、縁寿に会うことに反対をしなかったのです。
 なぜ?

 こう考えてみました。

「Ep6では、戦人は、六軒島からの脱出に成功していない。少なくとも、幾子に拾われていない」

 この仮定を採ることで、「なぜ縁寿・八城会談が発生できたのか」の、説明がつきます。いないから反対しようがないわけです。

 ところが、この仮定では、ひとつ帳尻が合わないところが出てしまいます。
 八城十八は、
「異常なほど正確な六軒島事件の描写ができる偽書作家」
 なのでした。
 だから縁寿は、この人に会って情報を得たいと思ったのです。そういうハイパー偽書作家でないのなら、そもそも縁寿は、八城に会おうと思わないのです。

 なぜ八城十八が、「特別な偽書作家」であるのかといえば、
「六軒島の事件を実際に体験し、なおかつ真相をすべて知り、ベアトリーチェと2人きりの逃避行までしようとした右代宮戦人」
 が、ブレーンとしてついていたからなのです。(と推定されるのです)

 しかし、今回の仮定では、右代宮戦人というブレーンがいないのですから、八城十八は、偽書作家として名声を得ることはできません。
 それどころか、八城幾子個人は、文章力はあってもプロットに難があってデビューできない、よくいってもセミプロくらいの実力しかない作家なのです。戦人のプロットワークがあって初めて、八城十八は人気作家になれたようなのです。

 右代宮戦人がバックについていない限り、「縁寿が会いたがる八城十八」は発生できません。
 Ep6には、八城十八のバックに、戦人はいません。(という仮定です)
 なのにEp6では、「縁寿・八城会談」が発生しているのです。

 このコンフリクトを解決するために、わたしが提案するアイデアは、こうです。

「六軒島の真相を知っている、戦人以外の誰かが、八城幾子に拾われる」


 そこで、Ep6幾子の、こんな発言を拾います。

「……ありがとう。最後まで読んでくれて。……そして、あなたの考えと感想を、ありがとう。……きっと、一番最初の無限の魔女も、喜んでいると思います…。」

 一番最初の無限の魔女……。
 そんな人物が「きっと喜んでいるはずだ」なんて、どうして幾子は自信を持って言えたのでしょう……。

 それは。
「八城幾子は、道ばたでぶっ倒れていた魔女ベアトリーチェを拾ったから」です。たぶん……。


●戦人以外の誰かが「十八」になる

「八城幾子に拾われた謎の人物」
 は、Ep8を通して、何者なのかがほとんど伏せられた状態で描写されます。
 魔法エンドまで来て、そこでようやく「その正体は記憶喪失の戦人だった」ということが語られます。

 これを、
「魔法エンドが発生しうる世界では、謎の人物は必ず戦人である」
 という「条件」だと考えることにするのです。
「戦人が幾子に救われないかぎり、魔法エンドは発生しない」ということですね。これはまあ、あたりまえですね。

 これを裏返して、
「戦人が幾子に救われた場合、手品エンドは発生できない」
 という仮定を、この推理ではとっているわけです。
「手品エンドが発生しうる世界では、謎の人物は必ず戦人以外の誰かである」
 という考え方をしてみよう、という提案なんです。

 さて、そこで、幾子に拾われた謎の人物X。

 ハッキリとした描写はほとんどないのですから、戦人以外の人物をそこにあてはめることは可能なのです。
 たとえば、戦人は男ですが、謎の人物Xが女性であったとしても、べつだんおかしくない。描写との矛盾は起こさないのです。一人称が「私」という、性別のないものですしね。

 そのように、Ep8における「謎の人物の描写」は、「戦人でも成り立つし、他の誰かでも成り立つ」ように、わざと書かれている。そのように思ってみます。


「幾子に拾われた謎の人物X」を特定する条件は、2つか3つしかありません。

1.自分のことを18歳だと認識している。

2.記憶を取り戻しかけたとき、「私は、右代宮…………ぐ、…………」と発言できる。(つまり右代宮姓を持っている可能性が高い)

 そして、

3.おそらく六軒島連続殺人事件の完全な真相を知っている。


 3は、わたしが仮定に仮定を連ねて、自分勝手に設定した条件ですが、これはこれで良いことにしましょう。
 これによって、謎の人物はベアトリーチェであるという大前提を設定します。

 というか、「道ばたで倒れていたその人物」が、戦人でないとしたら、それは消去法でベアトリーチェしかありえないのです。
 だって、幾子に拾われるためには、六軒島を脱出しなければなりません。
 しかし、奇跡的な例外をのぞいて、誰も六軒島を脱出できないのです。

 脱出可能なのは、絵羽と、戦人と、そしてベアトリーチェだけなのです。絵羽は除外して良いでしょう。
 魔法エンドで描かれた戦人とベアトの脱出行。あれが、ほとんど唯一の「奇跡的な脱出」なのでした。

 魔法エンドで描かれたことによれば、戦人とベアトは三日目に島を脱出して、二人して入水し、ベアトは海のもくずと消え、戦人だけがかろうじて生き延びます。

 これを、
「三日目に男女一組が脱出し、うち、どちらか片方だけが生き延びる」
 という形にとらえなおすのです。

 魔法エンドは、もちろん、「ベアトが水死し、戦人が生還する」バージョンです。

 手品エンドはその逆で、「戦人が水死し、ベアトが生還する」バージョンなのではないか、と、ここでは捉えるのです。


 ここで、ひとつの小さな結論として、こういうことが言えます。

「手品エンドには、“犯人”が、のうのうと生存している」
「手品エンドを選んだ縁寿は、調査と推理を諦めなければ、犯人を見つけ、捕らえ、望むならトカレフで射殺することができる」


 手品エンドは、「この事件には、物理的な真相があり、物理的な犯人がいるべきだ」という選択なのですから、そう、犯人がちゃんといてくれなければ、「探偵の華麗なる解決」をみちびくことが出来ません。
「犯人はもう死んでますし」なんてのは、いまいち、さまにならないわけです。
 そんな事態が、回避されました。
 手品エンドを選べば、縁寿か、あるいはわたしたち読者の努力しだいでは、

「犯人はあなたですね」

 という決めゼリフを放つことはできる、ということです。

 Ep6、八城の書斎で、縁寿が物語を読まされて、感想を言わされていたそのとき。
 書斎のドアの向こうには、魔女ベアトリーチェがいて、じっと聞き耳を立てていたわけです……。

 魔法エンドは、「お兄ちゃんがいてほしい」という選択なのだから、お兄ちゃんが存在する。
 手品エンドは、「犯人がいてほしい」という選択なのだから、犯人が存在する。


 その、犯人。
 この話の流れからいうと、謎の人物X=ベアトリーチェは、

 1.自分を18歳だと認識している、2.右代宮姓を持った、3.女性

 ということになりそうです。


 さあ。ベアトリーチェの正体は、誰?


●シャノン・ベアトリーチェの場合

 ほとんどの人が、「ベアトリーチェの正体は、紗音」と見なしているだろうと思います。
 わたしも、そのこと自体には反対していません。紗音がベアトリーチェ、OKです。
(が、それとは別の真相も、並列的に持っているわけです。ご存じでない方は、ブログの目次からいろいろな記事をご覧下さい)

 ですので、「紗音が八城幾子に拾われる」場合を考えます。

 シャノン・ベアトリーチェは、「右代宮理御」という真の名前を持っていますので、
「私は、右代宮…………ぐ、…………」
 という発言は、問題なく発生できます。
 今気づきましたが、「私は、右代宮…………家の使用人の」でも全然かまいませんね。

 紗音は、設定年齢16歳、実際の年齢は19歳です。
 18歳でないのは、いっけん、ネックです。

 でも、こう考えればよろしい。19歳の人物は、19歳であった時間よりも、18歳であった時間のほうが長いのだ、と。
「私っていくつだっけ、18……じゃない、19歳だ」
 という、「どっちだっけ」の瞬間って、誰にもあることでしょう。もし仮に、誕生日が最近であったりすれば、なおさらです。

 だいたい、頭をしたたか打って、記憶が混濁した人の言うことなんですから、そのくらいあやふやでも結構でしょう。


 そんな感じで全然問題ないのですが、ちょっと面白い別の解を思いついてしまったので、聞いて下さい。

「Ep8の描写を満たすように推理する」という条件からは、ちょっと外れてくるのですが、
 もし紗音が……この人はわりと忘れっぽい人のはずなんですが、そして記憶混濁中なのですが、年齢に関してだけは、なぜかゆうずうのきかない几帳面な記憶能力を持っていて、

「私は19歳です……ええ、それはもう絶対」

 と力強く主張したとしたら、どうなっただろうか。


 この場合に考えたいのは、ちょっと唐突なんですけれど、「八城幾子って、本名なのかな?」ということなんです。
「私は八城幾子」
 って、自分で名乗っていますけど、八城幾子は作家志望の女性です。できることなら自分は作家でありたいという人なんです。
 もし「幾子」が、彼女のペンネームであったとしたら。
 自分は作家・八城幾子でありたいので、八城幾子と名乗る。これはなきにしもあらず、と思うのです。
 たとえば自分の本名が嫌いだったりしたら、よけいそういう名乗り方はするかもしれません。旧家ですから、「八城トメ」なんて名前をつけられて、おかげでグレた、なんてことあったりしてもよさげです。

 そんな八城幾子さんが、「私は19歳です」少女を拾う。

 もし以下のようなことが起こったら、面白いなあと思うのです。

「そうか、19歳だから、そなたはこれから幾子(19子)と名乗るがよい。八城幾子は私のペンネームだが、これも何かの縁だから、この名前はそなたに進呈しよう
「そなたに敬意を表し、私は今後、ひとつ若返って八城十八とでも名乗るとしようか……

 このくだりは、紗音の記憶が戻ったときに発生するのでも特にかまいません。
 この想像のとき、十八と幾子は、魔法エンドのときと、内訳が逆なのです。こっちの場合は、幾子のほうがプロットライターで、十八がノベリスト。

 でも外からみれば、どっちみち、
「八城十八と、八城幾子の小説家ユニット“八城十八”が発生する」
 という現象じたいは、かわりません。

 ちょっとひねった想像ですが、わたしはこういうのがわりと好きです。採用する必要性が、ぜんぜんないのですけどね。


●もうひとりの18歳

 ところで。

 八城幾子に拾われ、自己紹介をしようとして、記憶が混濁し、「私は、右代宮…………ぐ、…………」と言うことができる「18歳」は、戦人の他に、もうひとりいました。

 ていうか、年齢を厳密にとれば、あとひとりしかいません。右代宮朱志香です。

 こちらは何の解釈も要りません。ストレートに、右代宮姓を持つ18歳の女性です。

 ご存じのとおり、わたしは朱志香犯人説のほうを本命にしています。ご存じでない方は、ここ(リンク)から、「●Ep7推理」をいきなり読んじゃうのが今はてっとり早いかなと思います。ご興味があれば、どうぞ。


 いくつものエントリで、再三再四、言っているように、以上のこと(ベアトリーチェの内訳)は、「このうちどっちかが正解」といった主張ではありません。

「男女ふたりが脱出し、一人が生き残って流れ着く」

 という式があり、その内訳として、

「戦人と紗音が脱出する場合」と、
「戦人と朱志香が脱出する場合」があり、

 よって、

「戦人が生き残って流れ着く場合」と、「紗音が流れ着く場合」と、「朱志香が流れ着く場合」がある。

 そのうち、魔法エンドが発生する可能性があるのは、戦人生存のときだけである。
 これでよいわけです。
 平行世界ものなのですから、そういうふうに、クラウドコンピューティング的に、ふんわりつかめたらそれでよかろうっていう、見切り方なわけです。

 どの場合でも、作家ユニット「八城十八」は発生します。
 誰が生き残った場合でも、なぜか全員が、人気作家・八城十八になって、のちの世に活躍してしまう。
 そういうふうに、「どの場合でも、おおむね同じところに合流する」というあたりが、わたしは個人的に面白いと思うのです。面白いことが好きなので、わたしは意図的にその形に持っていこうとしています。

 この、
「内訳はちがっても、どっちみち十八と幾子の八城コンビが発生する」
 ということ。

 以前、Ep7推理の「ジェシカベアト説」の項で展開した話なのですが、

「六軒島という孤島で、ミステリー読みの女の子が、寂しい思いをしながら戦人を待っている」

 という、「ベアトリーチェ発生のための式(現象)」に対して、
「女の子」
 の部分に代入されるのが、紗音でも朱志香でもかまわない。どっちもベアトリーチェになることができる。そのふたつの真相(犯人像)が併存している……。
 という説と、じつは完全におなじりくつです。


(続く)

■続き→ Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち
コメント (11)
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Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)

2011年02月14日 10時26分29秒 | ep8
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)
 筆者-初出●Townmemory -(2011/02/14(Mon) 10:23:04)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=59987&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)


     ☆


●記憶障害が暗示するもの

 前回語った内容、すなわち、
「“書かれたこと”と“本当のこと”の相克・相生」
(相克とはたがいに打ち消しあうこと、相生とはお互いを生みあうこと)
 を、端的にあらわしているギミックがあります。

 というか、この「構造」を、ひとりで体現している人物がいます。
 それは生き残った右代宮戦人氏です。

 彼は、「自分の記憶を自分自身のことだと思うことができない」という脳障害をもってしまいました。

 それって言い換えればこういうことなのです、つまり、
「記憶」という「(脳の中に)書かれたもの」を、本当のことだと信じることができない」(本当のことであるにもかかわらず)

 戦人氏は、自分の中にある記憶、それは確かに彼自身が見聞きしたことなのですが、にもかかわらず、それを「本当のこと」だと思うことができないのです。
 まるで、誰か悪意を持った存在が、自分の脳のなかにまやかしのデータをキュルキュルキュルっと「書き込んだ」かのように、思えてしまっているのです。

「本当のことを、書かれただけのことにする」……。

 しかしそれは、裏返せばこうも言えるのです。

 たとえ信じることができなくても、その記憶は確かに頭の中に「書かれている」。そこに確かに書かれているのだから、信じられなくてもやっぱりそれは真実なのだ、と。

 つまり、「書かれたことは、本当のことなのである」……。

 どっちでもあるのです。「書かれたことは、本当のことである」は同時に、「本当のことは、書かれたことにすぎない」のです。彼の中には、その両方がある。

 そのふたつが、どっちかに固定することなく、くるくると回り続ける。一方が意識されれば他方が反論し、他方が意識されればもう一方が反論する。
 そのどうどうめぐりが、「右代宮戦人の記憶を巡る地獄」であるのです。すなわちあの戦人は「うみねこが提起した問題」そのものなんです。

 そういう、この物語が提起する「両義性」(ひとつの事柄が、互いに矛盾するようなふたつのものごとを同時に指し示すこと)を、右代宮戦人は体現しています。
 この「現実と虚構のターンテーブル」は、いわばうみねこの猫箱黄金郷そのものなのです。ですから、ある意味においては、
「六軒島猫箱は、右代宮戦人の体内に、あれからずうっと存在しつづけた」
 ともいえます。

 いってみれば右代宮戦人氏は、「六軒島システム」を小さくアーカイブしてぎゅっと詰め込んだ「缶詰」のようなものなんだ。

 だから……。その右代宮戦人が、「寿ゆかりの黄金郷」という、しかるべき「場」にたどりついた時。
 右代宮戦人の中にひそんでいた猫箱の中身が、そこに開放される。
 だからそのとき、「六軒島の黄金郷」が、再生可能になるのです。黄金郷の人々、右代宮ファミリーが、そこに再び現出することができたのはそれだからです。


●真相を語らないことがわたしたちに語ること

 Ep8はファイナルエピソードだというのに、「犯人は誰で、トリックはこうである」といった、明確な解明パートがありません。

 竜騎士さんは、いろんなインタビューで「そういうハッキリした解明は最後までないよ」という意味のことを、何度も何度もおっしゃっていたので、そうなることをわたしはあらかじめ知っていました。けれども、そういうのを読んでいなくていきなり直面した人は、そりゃビックリしたろうと思います。

 竜騎士さんは「答えを書かない理由」について、インタビューで説明を加えているのですが、ここではひとまずそれをガン無視します。(別のエントリでそのうち取り上げます)

 作者が言ってることはとりあえず無視して、
「真相を語らないことが語ること」
 について、わたしがこれから語ります。

     *

 わたしたちの中には「真相に到達したい」という欲望があり、その一方で、「ハッキリした答え合わせはない」という現実があり、コンフリクトしています。

 Ep8には、「魔法エンド」「手品エンド」があります。
 わたしたちの「真相に到達したい」という欲望が接続されているのは、「手品エンド」のほうです。

 だって魔法エンドのほうは、「事件の真相へ向かう欲望」が発生しない(キャンセルされる)選択なのですから、真相解明へのアクションと接続しようがないわけです。
 それをオッケーということでのみこめる人は、それで良いはずです。「Ep8を読む(1)」「Ep8を読む(2)」で書いた内容で、だいたい欲望的に完結できます。

 ちょっと言い方を変えれば。
 最後の二択は、ベアトリーチェが見せてくれた、手の中から飴玉が出現するというフシギな現象を、

「魔法」と呼ばれるブラックボックスということで納得するか、
 あくまでも物理法則の範囲内で行なわれたもので、トリックだと思うのか(ブラックボックスを認めないのか)、

 そういう「あなたのスタンスを問う」二択であるというふうに理解できます。

 トリックの存在を想定したとき、はじめて「そのトリックを知りたい」という欲望が喚起されます。ですから、わたしたちが「うみねこの真相を知りたい」と思うのなら、それは「手品エンド」の中に問うべきだという筋になります。

 が、その「手品エンド」の中にも、真相解明はなかった。

 手品エンドの縁寿は、「未来に生きるんだ」という決意はかためてくれますが、残念ながら「六軒島の真相をあばいてやるぞう」という決意は持ってくれません。
 むしろ「真実とか、意味ないってわかったし」くらいのことをだるそーうに言っていました。

 ということは。わたしたちが「真相解明」を手に入れるためには、縁寿にかわる、「真相を調べて教えてくれる探偵」を必要とする。ということになります。

 八城十八。……あの人は「一なる真実の書」の公開をやめてしまった人ですから、「真実を知って、それを明らかにする」という願望も「途中でやめちゃった」でしょう。
 大月教授。……あの人はだめです。彼はどっちかというと「魔女が存在してほしい」側の人ですからね。たぶんすべての犯行を魔女で説明してしまいますよ。

 では、誰が探偵を?


●「人間犯人説」とのアナロジー

『うみねこ』という作品は、こういう扇動からはじまりました。

皆さんは、どんな不思議な出来事が起こっても、全て“人間とトリック”で説明し、
一切の神秘を否定する、最悪な人間至上主義者共です。

どうぞ、六軒島で起こる不可解な事件の数々を、存分に“人間とトリック”で説明してください。

皆さんが、どこまで人間至上主義を貫けるのか、それを試したいのです。

(略)

一体何人が最後まで、魔女の存在を否定して、“犯人人間説”を維持できるのか。

「うみねこのなく頃に」作品紹介


『うみねこ』の物語は、「魔女犯人説」と「人間犯人説」の対立、というところから始まりました。
 ベアトリーチェが主張する魔女説と、戦人が主張する人間説が戦うという物語でした。(そしてそれ以後しばらく、その論点は見かけ上は棚上げになっていました)

 Ep8で、焦点は、ぐるっとまわってそこに回帰してきます。

「魔法エンド」と「手品エンド」の関係は、「魔女犯人説」と「人間犯人説」の関係と、ほとんどアナロジーの間柄にあるといえます。

「魔女犯人説」というのは、つきつめたら、
「魔女が全部やりました。そして魔女本人が、どうやったかを子細に語ってくれました」
 ということです。(魔法の杭がどうとかね)

「魔法エンド」というのは、つきつめたら、
「魔女がペンで書いた(語った)物語を、本当のこととして採用しちゃいましょう」
 という選択です。
(この推理では、そういう解釈をとっています)

 響きあっているでしょう?


 そして思い出してみれば。
「魔女が語る真相」(壁をすり抜ける呪いの杭だ!)に「満足できない!」「だから俺が、納得可能な真相をあぶりだしてやるぜ!」というところから、この物語は始まったのではなかったでしょうか。
 そう、ソレに「満足できない」ということから生じたのが、「人間犯人説」なのでした。
「俺が本当の真相を突きとめて語ってやるぜ」
 という立場なのでしたね。

 そして「手品エンド」というのは、
「お兄ちゃんや魔女フェザリーヌがこしらえた(語った)真相には満足できない。もっと他のものが欲しい」
 という選択です。(この推理ではそういう理解です)


「魔女犯人説」と「人間犯人説」……。

 この2つを、
「魔女が答えを語るのか」「人間が答えを語るのか」
 という形に読み替えたとき、それらは、

「魔女のストーリーを受け容れる選択としての魔法エンド」
 と、
「それを受け容れない。自分で模索しようという選択としての手品エンド」

 その2つの扉と、きれいに響きあうのです。


 それをふまえたうえで、
「手品エンドには、あるべき真相解明パートがなかった」
 という問題を、もういちど考えてみる。

「魔女犯人説」と「人間犯人説」の関係では、魔女説に納得できない「戦人」という人物がいて、彼が別の真相を手に入れることを望み「じゃあ、俺がそれをつきとめて語ってやるぜ」と言い出したのでした。

「魔法エンド」と「手品エンド」の関係ではどうなるか。
 魔女がペンで書くストーリーに満足できない誰かさんがいて、その人物は別の真相望み、手品エンドのほうを選択する。
 その「別の真相」を誰がつきとめて語るのか。
 戦人は、「満足できないから、自分でやる」と言い出したのですから、別の真相をつきとめる役目は、「満足できないからという理由で手品エンドを選んだ人」です。

 選んだのは縁寿かしら。
 その縁寿が、「真実とか無意味だし」とか言い出したのですから、これを叱咤して、「コラ、ちゃんと探偵しろ」と言えば良いのか?

 もちろんそうではない。なぜなら、手品エンドを選んだのは縁寿ではないからだ。


 その選択肢を選んだのは、ポインタを動かしてクリックをした人に決まっている。


●選択肢はあなたに問いかけている

『うみねこ』にはこれまで選択肢がなかったのですが、今回のEp8で、急に選択肢が導入されました。しかも、そのほとんどが、ストーリー的には分岐の発生しない、なぞなぞやミニ推理ゲームでした。
 なぜでしょう。

 一般的なビジュアルノベルにおける選択肢は、
「ユーザーの選択通りに主人公がうごいてくれる」
 というギミックです。たいていのユーザーは、そのように認知していると思います。

 が、それは、別の見方をするとこういう意味にもなる。
「あなたが答えを指示しないかぎり、物語は一切、一歩も、一文字も先に進まない」


『うみねこ』ではおそらく、後者の意味で選択肢が導入されています。
 ストーリー上、物語のテクスチャー上では、縁寿が選んだことになっている。
 けれども。
 わたしたちが選ばない限り、縁寿は絶対になぞなぞの答えを出さない。
 なぞなぞの答えが出ないかぎり、物語は絶対に、一文字も先に進まない。
 わたしたちが選ばない限り、戦人とベアトは決して推理ゲームの犯人を指名しない。
 推理ゲームに正答しない限り、物語は絶対に、一文字も先に進まない。

 あなたが指示する。
 指示しないかぎり、その先は「存在しない」……。



 ベルンカステルの推理ゲーム。その犯人を告発したのはわたしたち、つまりあなたです。

 あなたが探偵だ。

 ミステリーは、探偵が犯人を告発しないかぎり、真相がわからない。



「人間が答えを語る」という思想としての「人間犯人説」。
 たくさんのクイズを解いたのは「あなた」。
 ベルンのミステリーを解いたのも「あなた」。
 選択肢を選んだのは「あなた」だから。

 当然、「人間犯人説」における「答えを語る人間」とは、あなたのことです。


 そんなあなたが選んだ「手品エンド」。探偵が登場する、いわば「探偵エンド」。

「魔女が適当に書いたモヤモヤするハッピーエンドよりも、物理的な真実がほしい」
 と「望んだ」のは誰でしょう。
 それはわたしたちつまりあなた。では、謎を解くのは、だぁれ?

 わたしたち……つまり「あなた」しかいないのです。


 手品エンドは探偵エンド。探偵が謎を解決するエンディング。
 その探偵とはあなたなのだから、あなたが解決しなければ、真相はわからない。

 リフレイン。
 ミステリーは、探偵が犯人を告発しないかぎり、真相がわからない。

 あなたが指示する。
 指示しないかぎり、その先は「存在しない」……。



 だから「わたしたち」すなわち「あなた」が推理し、解明し、「見えない選択肢」を選び。それを物語らない限り。すなわち「書かない限り」
 その先は「存在しない」


 なぜ手品エンドの中に事件の真相を語るパートがないのか。
 あなたという探偵が(あるいは魔女が)、まだそこを「書いて」いないからだよ。


 魔法がないなら、魔女フェザリーヌはいない。フェザリーヌがいないのなら……代わりに誰かが書くしかない。「あなたが選んだ手品エンド」は、そういう選択なんだ、多分。


●わたしたちはどこにいるのか

 わたしは今回、「書かれたことを、本当のことに変える」「本当のことを、書かれただけのことに変える」というサイクルのことを、しつーっこく語っています。
 このサイクル。
 何らかの「書かれたもの」がタネとして存在していないと、サイクル自体が発生しないのです。

 逆に言えば「書かれたもの」さえあれば、それを真実にしてしまえるし、虚構に戻すこともできる。

 ですから、
「わたしたち」という探偵が、観察と推理のはてに、とある真相を解明し、犯人をつきとめ、それを「語る」あるいは「書いた」のだとしたら。

 それは「本当のこと」に変えることができる。それをわたしたちはすでに知っているはずです。

「書かれただけのことを真実につくり変えているのはわたしたち(あなたたち)だ」
 ということを、わたしは、このシリーズの(1)(2)で、のべました。

 魔法エンドは、
「あなたたちが魔法を使って、書かれただけのことを真実へと作りかえなさい」
 ということを、ささやきかけます。

 手品エンドは、
「本当のことへと変えるための、真実を作って、書きなさい」
 ということを要求するのです。


「本当のこと」に変える……それは「魔法エンド」側の作用でした。
 つまり「手品エンド」の中には、可能性としての「魔法エンド」が内包されている。

 いっぽう、「魔法エンド」の中にも、「手品エンド」が内包されています。頭の中の「本当のこと」が「書かれただけのこと」になってしまった右代宮戦人氏。

 魔法エンドの中には手品エンドのシステムがあり、手品エンドの中には魔法エンドのシステムがあるんだ。
 外側のものが内側にある。内側のものが外側にある。
 クラインの壺。

 回転する「虚構」と「真実」のサイクル。


 わたしたち各人、つまり「あなた」が真相を書いたとして、それが本当の真相だとどうしてわかるのか。
「書かれたことを本当のことにする」作用があるからだ。それは真実となるのだ。
 だが、自分以外の他の人々も真相を書くだろう。それは自分の書いた真相とは異なっているかもしれない。他の人々も「本当にする」のだから、真相にならないじゃないか。
 他の人が持ってくる「本当のこと」を、「書かれただけのこと」にすれば良い。
 その「他の人」も、わたしの真実を「書かれただけのこと」にしてしまうじゃないか。
 なら、そこでもう一度「書かれたことを本当のことにする」魔法を使えば良い。

「書かれたこと」と「本当のこと」が、入れ替わり立ち替わり、くるくる回ってる。

  その回転によって、虚構と現実とのあいだにあった「鏡」が、バリンバリン割れていく。(何度聞いただろう、その音を)
 虚構は鏡を割って現実に侵食し、現実は鏡を割って虚構に侵食し。

 そのたびに「虚構と現実とを隔てる壁」が、ぶっこわれる。

 わたしたち自身が「虚実境界線破壊ドリル」として回転し、そのたびに、虚構と現実との壁は、幾度となく破砕されてゆく。六軒島の魔法は、我々の手元にまで飛び出して来てる。

 こういう言い方もできる。
 わたしたちはすでに、無限にめぐる「六軒島システム」に巻き込まれている。
 それをもう少しロマンチックに、こう言い換えてもいい。
 わたしたちはいま、六軒島にいる。


●“インストール”されたもの

 というわけで。
 どうして急にEp8には選択肢があったのか。
 どうしてなぞなぞやゲームがあり、その先にユーザ選択肢としての「二つの扉」があったのか。

 なぞなぞや推理ゲームを「解けたか解けなかったか」ということに、大きな意味はないと思うのです。じっさい、ストーリー上の変化はない。

「選択する人」としての「あなた」が意識され、浮かび上がってくることに意味があった。

 縁寿の物語が、あなたの物語に。
 縁寿の選択が、あなたの選択に。

 すりかわってゆくこと……いや、むしろ、「最初からすりかわっていたものが、本来の位置に戻ること」に、意味があったといえます。


 たとえば以下のような記述。
(すべてが「探偵・古戸ヱリカ」の発言です)

「……真実の魔女にとって。真実は与えられるものですか? 私が、これが真実だとあなたに押し付けたなら、あなたはそれを鵜呑みにする気ですか…?」
(略)
「……誰にも、教えられません。………真実は、自分で手にしなければならないからです。」


「そうです。神々の物語に記されることがなくとも。……私たちが記す自らの物語の主人公は、常に自分なんです。………それを自覚できるか出来ないかが、魔女とニンゲンをわける最初の分かれ道。」


 作者が、これが真実ですと押し付けたなら、わたしたちはそれを鵜呑みにするのだろうか(だったら、最初から魔女犯人説や魔法エンドで良い)。
 物語の探偵がそうしているように、自分で考えて出すしかない真相というものがある……。

 作品そのもの(神々の物語)に登場していなくても、あなたが主人公として選び、あなたという探偵があなた自身を語るのだ……。


 これらの記述はすべて、「縁寿の物語」を「あなたの物語」へと変換していくために置かれているものです。
 古戸ヱリカはいつだって、こっちに向かって語ってる。「いかがですか、皆様方」って。

 幻想と真実。
 鏡のむこうとこっちにいて、入れ替えが可能な「虚構」と「現実」。
 モニタの向こうにいる縁寿と、こっちにいる「あなた」

 うみねこのなく頃には幻想に決まっている……本当に?


 ここに至って、わたしたち即ち「あなた」は探偵役として、この「幻想」の中に取り込まれました。この物語の中には主人公である「あなた」がおり、ファンタージエンの姫君は、名前を呼ばれるのを待っている。

 逆もいえます。あなたがいるその場所は、今や「うみねこのなく頃に」になったのです。

「あなた」という存在は、「うみねこのなく頃に」の中にインストールされる。
 そして「あなた」もまた、「うみねこのなく頃に」を自分の中にインストールする。
 内側と外側がつながった、クラインの壺。



(まだ続きます。だいたい重要なことは書いたから、今後ますますゆっくり進めます。いま2/3くらいです)

■続き→ Ep8を読む(6)・ベアトリーチェは「そこ」にいる


■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)

2011年02月08日 11時43分09秒 | ep8
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)
 筆者-初出●Townmemory -(2011/02/08(Tue) 11:41:54)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=59806&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)
 Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)


     ☆


●前回の回想

 絵羽の日記の内容は疑わしいという話をしました。あれはたぶん「彼女個人の真実」にすぎないと。

 ところが、この物語には、
「書かれたことを、本当にする」
 という魔法がフィーチャーされています。魔女だけでなく、わたしたちですらも、欲しい願いをフィクションの場から「真実の座」へと、くるっと入れ替えて持ってくることができてしまう。

 つまり、「書かれたことを、本当のことにする力」でもって、ほとんどデタラメが書かれた「絵羽の日記」の内容は、本当のことになっちまいます。

 日記の内容を「本当のことであってほしい」と願って、「本当にする魔法」を使うのは、「世間の人々」です。
 世間の人々は、六軒島事件に興味を持っており、真相が知りたいと思っています。そして、右代宮絵羽は、六軒島から唯一生き残った人物です。右代宮絵羽は、非常にオーソリティー(権威性)のある立場なんだ。
 右代宮絵羽が見てきたことは、本当にあったことだろう。右代宮絵羽が日記に書いたことは、本当のことだろう。つまりこの日記に書かれていることは「ほんとうのこと」だ。

「書かれたことは、本当のこと」の魔法。
 世間の魔法は、おそらく、「留弗夫一家がすべての元凶だ」という絵羽の個人的な想像を、自分勝手に「本当のこと」にしてしまうだろう。
 もし、日記が世間に公表されて、そうなった場合。

 そうなった場合の縁寿を、救うことができるものがあるとしたら。
 それは。

「本当のことなんて、書かれただけのこと!」

 という、ひっくりかえしの主張。

 書かれただけのことを、本当のことにできるのなら、本当のことを、書かれただけのことにすることもできるのだ。

 真実であるとみんなが認めるものを、いちフィクションにすぎないものに変えてしまう力。
 世間の合意という「魔力」によって真実になってしまった、「右代宮絵羽によって書かれたもの」に対して、
「書かれたからって、それが本当になったりはしないのだ!」
 と主張する声。

 縁寿を救うことができるのは、そういう声だけです。たぶん。
「書かれたからって、それを真実扱いするなんて、認めない」
 という断言。
 つまり、「書かれたことを本当にする魔法なんて認めない」。
「魔法の作用を拒否する。認識の錯誤、つまり手品(トリック)に過ぎない」
 というアプローチ方法。

 このアプローチを取ることができれば、「世間の魔法によって真実になってしまった留弗夫一家犯人説」を、疑わしい虚構の位置に戻すことができる。


 そう考えたとき、「ベルンカステルの推理ゲーム」が、急に意味を持ってくる。
 戦人とベアトとベルンカステルが、全員で認め合った「留弗夫一家犯人説」という「真実」がある。全員で認め合う魔法によって、その仮「説」を、真実にした。
 その、魔法によって取り出した「真実」を、
「それは真実として確定されるものではない、一主張にすぎない」
 といって、あっさりリジェクトしてみせた、古戸ヱリカがクローズアップされてくる。


 そして。
「フェザリーヌによって書かれたものにすぎないストーリーを、本当のことに変えてしまう選択」としての「魔法エンド」
 これに対置される、
「その魔法を拒否するという選択」としての「手品エンド」は、急激に、光輝くものとして、わたしたちの前にあらわれてくるのです。


●まわるターンテーブル

 このことひとつ取っても、すでに。

 この物語は。
「魔法を信じよう、それが良いことなんだ」
 という単純な話ではないのです。

 そんな簡単なことじゃないんだ。

 手品エンドのアプローチも、確実に、縁寿を救っている。
 それどころか、それがなければ縁寿を救えない、という局面が、確かにある。

 これは「手品に対して魔法を選ぶのが正しい」なんていう楽園的な話じゃないのです。


 わたしはこれまで、「書かれたこと」と「本当のこと」との関係を、
「任意にくるくると入れ替えが可能」
 という言い方で表現してきました。これをちょっと頭にとめておいて下さい。

「願われ、書かれたことは、いつも、すべて、必ず真実なのである」
「真実とは、いつも、常に、誰かがそう書いたこと、にすぎないのである」


 この2つが、背中合わせに立って、ターンテーブルに載っている。そういうモデルをまず想像してみて下さい。
 回転ドアとか、忍者屋敷のどんでん返しみたいなイメージでも良いです。一方の背後には必ず他方がある。一方が前面に出て力を持てば、他方がアンチテーゼとして追ってきて前面に出る。

 まず、このイメージを持って下さい。

 で、これからしばらく、同じことを繰り返したような話が出てきますが、我慢して読んでください。だんだん「おや」という感じに変質していく予定です。


●ヤギとヒト/循環する利害

 さて……。

 誰しもが、自分の望む「書かれたもの」を真実にする魔法を使っています。
 わたしもそうです。たとえばこのブログなんかは、わたしによって「書かれたもの」です。わたしは、「うみねこって、こういう真相なんじゃないのかなぁ。こうだったらいいのになぁ」と思っているわけです。それで、
「わたしの中では、これは真実ってことにしようー」
 という処理を行なっているわけです。

 でも、世の中にはいろんな人がいるんだから、いろんな真実がある。その「真実」どうしの利害がかちあうことなんて当然あるでしょうよ。
 あの人が書いてることが真実だったらやだ、とかね。はなはだしくは、「だから攻撃してやろう」なんてね。


 さて、そこで皆さん。
 おまたせしました。ヤギあたまのお話をしましょう。

 ヤギあたまさんは、大きく分けて、Ep8に2種類出てきます。
 右代宮邸をばりばり食べてたやつと、ルチーア学園の制服を着ているやつです。

 右代宮邸を咀嚼していたやつっていうのは、未来世界のネットに生息するウィッチハンターらしいです。
 つまり、各自が六軒島事件について考えて、つまり心の中なりウェブ上なりに「書いて」、「これが真実にちがいないぜー」といって、「書いたことを真実にしている」人たちです。

 ルチーア学園制服のヤギあたまは、絵羽の日記という「書かれたもの」を、「これって真実なんでしょー?」と決めている人たちです。

 つまりこれ、どちらも、
「“書かれたことは、本当のことである”の魔法」
 を使って、本来は虚構性であるものを真実に変えている魔法使いなのです。

 なんと、ヤギたちがもっているアプローチは「魔法エンド」寄りなんですね。

「右代宮邸咀嚼ヤギ」たちが持っている「真実」は、おおむね、
「この島には殺人鬼がいて、それは右代宮関係者の誰かだ」
「右代宮関係者たちは互いに殺し合ったりして、血なまぐさい惨劇があったのだ」
 といった種類のものです。

 これは、「家族も関係者たちも、みんなハッピーであってほしい」と願って、その願いを真実にしたい右代宮ファミリーにとっては、はなはだもってつごうのわるい真実なのです。つまり真実どうしの利害がかちあっています。

「ルチーア学園ヤギ」たちの「真実」は、
「絵羽の日記に書かれていることって、本当のことだ」
 というものです。(前述のとおりわたしは、具体的内容は「留弗夫一家犯人説」だと考えているのですが)

 これは、「これを真実だとするなら、もう生きていかれない」といって、縁寿が飛び降り自殺するくらいのものです。縁寿にとってはつごうのわるすぎる真実なのです。彼女は他の真実を期待していたのです。真実どうしの利害がかちあっています。

 ある人間からみて、まったくあいいれない、排斥したい真実を持ってる人物は、どうやらヤギとして描かれるみたいなんですね。

 こういうのって、相互的なものです。ようするにお互い様のものです。ですから、ルチーアのヤギから見たら、縁寿というのは、ヤギに見えてたかもしれません。ヤギから見たら、右代宮ファミリーはヤギに見えてた可能性もあります。


「右代宮邸咀嚼ヤギ」たちは、それぞれが持っている「真実」を投げつけてきます。
 それを認めるわけにいかない戦人たち、中でもウィルとかドラノールは大活躍して、

「そんなもん、現実にもルールにも即してないぜ。おまえさんが心に書いたものにすぎないぜ」
 といって、ずんばらりと切り捨てていたのでした。その真実は書いたものにすぎない……。

 そう……ウィルとドラノールが使っていた技は、「手品エンド」寄りなんです。

 書かれただけのことを、本当のことにだってできる
 という楽園的な言葉の背後には、常に、
 本当のことだって言うけれど、誰かが勝手に「書いた」だけのものじゃないか
 という言葉が、背中合わせに立っている。


「書かれたことを本当のことにできる魔法」。
 でも、その魔法でつくりだした真実が、誰かを不幸にするのであったら?

 その誰かを救う言葉は、
「その大事に抱いている“本当のこと”なんていうもの、それは単に書かれただけのものなんだよ」

 では。
 誰かによって願われた真実を、「書かれたもの」へとおとしめることが、常に正しいのだろうか。

「不幸な真実」を、刃でもってしりぞかせることができた。そのあとに、たとえば実体とか証拠とかを伴った、物理的な事実が出現したとしましょう。
「書かれたものではない真実」
 を求めた結果、それで手に入ったもの。その事実が、「自分が期待していたあるストーリーを全く打ち砕いてしまう」ものであったら?(絵羽の日記を読んだ縁寿のように)

 そのとき、自分を救うのは、やっぱり、自分が心の中に「書いた」ストーリーを、「本当のことにする」魔法なんだ。まるで自分をヤギに変えるような「魔法」……。

 で、その魔法で本当のことにした真実が、他の誰かの利害とかちあったら?

 ヤギを人が討ち、人がヤギになり、ヤギを人が討ち。
 人がヤギになり、ヤギを人が討ち、人がヤギになり。

 くるくる回っているのです。


●ターンテーブルから螺旋へ

 くるくる回っている。
 これを今までは、ターンテーブルや、どんでん返しのような、平面上の回転モデルとしてイメージしてきました。

 このイメージを、ちょっと変更してみて下さい。
 この回転を、回転ドアみたいに同じ場所でくるくる回ってるのではなく、コイルとか、スプリングみたいな、らせんを描いているモデルで想像しなおしてみて下さい。
 おんなじところをぐるぐるしてるんじゃなくて、三次元方向に進行があるようなかたちです。

 下から上に向けて、うずまきバネがくるくるっと巻き上がっているようなイメージをしていただけると良いです。
 つくえの上に、ネジを立てて置いたみたいな感じ。

「Ep8を読む(2)」で書いたことなのですが、
『うみねこ』における虚構と現実は、「同一レイヤー上の、鏡をへだてた左と右なのか。上下のある多層構造なのか」という話がありました。


■上下階層モデル

------------------
・上位階層 現実
------------------(階層を隔てるレベルの壁)
・下位階層 虚構
------------------



■「うみねこ型」平面単層モデル

------------------
・同階層 現実(虚構)←|→虚構(現実)
------------------



 こんなでした。『うみねこ』は後者のモデルだっていう話をしました。
 けど、それをいったん忘れて、ここでは仮に、前者のほう。上下階層モデルだと思って下さい。

 で、虚構と現実に上下のレベル差があることをイメージしたうえで、さっきのらせん構造を思い出してみて下さい。

 らせんが回転するたびに、虚構が現実になったり、現実が虚構になったりしているでしょう。
(「書かれたもの」が「本当のこと」になる。「本当のこと」が「書かれたもの」になる)

 つまり、回転ごとに、虚構と現実を隔てる「レベルの壁」がぶっ壊れているんだ。


 らせんが回ると、虚構と現実の壁が壊れます。
 さっきまで現実だったレイヤーは虚構レイヤーと同じになって、つまり虚構化します。
 ということは、「今は虚構になってしまった旧・現実レイヤー」の上には現実があるはずです。
 壁(というか天井)があって、その上は現実のはずです。
 その虚構と現実の壁も、次のらせん回転で壊れます。現実だったものは虚構と同じ層に入ってしまいます。虚構の上には現実があるはずだから……。


 たとえば。
 今ここで、十階建てくらいのビルを想像してください。
 で、ビルの真下、地面の底から天空に向けて、巨大ドリル(つまり螺旋)がぐるんぐるん回転しながら突き上がってくるような絵づらを想像してみて下さい。

 まず、地下と一階をへだてる床が、ボコーンと突き破られて砕け散ります。
 ドリルはさらに回転して、一階と二階を隔てる天井(床)をガコーンと破壊します。
 さらにさらにドリルは回って、二階と三階の床をドゴーンと粉砕、続いて三階と四階も。四階と五階も……。

 エヴァンゲリオンを見た方は、ラミエルくん(水晶みたいなやつ)がドリル攻撃で地下への層をずんずん貫通していった、あんな感じを想像してもらっても良いです。

 そうしてすべての床がなくなった結果、このビルは、「階層」というものがまったく意味をもたない構造物になるんです。

 つまり、かつては十層のレイヤーがあったこのビルは、全部が吹き抜けになった結果、1層のレイヤーしかないものになる。
 つまりフラットな空間。
 層をへだてるものがなくなり、全部が同一平面になる。

 つまり、同一レイヤー上に虚構と現実が同居する『うみねこ型』単層モデルに変化する……。


 この構造は意図されてます。
 物語のテクスチャー上でもほとんど同じことがおこなわれているからです。ものすごくわかりやすく、床が抜けたり、世界そのものが崩壊したりといった描写がなされてるよね。

 現実の存在がゲーム盤上に侵入してくる。(レベルの壁を越境)
 ゲーム盤の駒たちは、上層のメタ世界「黄金郷」へと撤退する。(レベルの壁を越境)
 黄金郷の人物たちは、さらに上層の「図書の都」へと侵入する。(レベルの壁を越境)
 図書の都へと侵入した縁寿は、現実へと帰還する。(レベルの壁を越境)

 どの層が虚構なのか、どの層が真実なのか。真実だと思えた層は虚構化し、虚構のひとつ上にあった真実も虚構化し。

 書かれたことは本当のことに。
 本当のことは書かれたことに。

 そうして交互に入れ替わりながら螺旋は直進してゆき、

 そしてそのらせんのサイクルの行き着く先に、

「魔女やお兄ちゃんが『書いてくれた』ものを信じたい、本当にしたい」
 という選択としての魔法エンドと、

「それを真実として受け取らせたいらしいけどそれはやっぱり『書かれたもの』だ、もっと他のものがあるはずだ」
 という選択としての手品エンド

 そのふたつがある。


●愛を語らない

 あのね、唐突ですが、わたしは、「愛」とかいう、はなはだもって不定型な概念を、じつのところそんなには好まないんです。(あ、皆さんが、うみねこや、あるいはこの推理に、愛を感じ取るのはそれぞれの自由ですよ)
 けれども、わかりやすいから、これは皆さんへのサービスとして使うんだけれども、

「こんなもの書かれたことにすぎない、本当じゃないことよ」
 というセリフを、愛をもって投げかけるということは、ある。この物語の中には確実にある。

 もちろん「書かれたことを、本当にする」という魔法にも、愛が介在することは多いでしょう(サンタクロース)。介在しないこともあるでしょう。


 魔女が与えてくれる満足を選ぶのか(そしてその満足は、自分がつかみとったものではないのか)
 自分の手がつかみとる真実を選ぶのか(その真実は、与えられた満足ではないのか)

 それって単純にどっちがいいとか、どっちが愛があるとか、いえないはずです。

 ひょっとして、手品エンドを、トゥルーエンドに対するサブエンドみたいな位置づけで見ている人がいそうな気がするんです。そうじゃないというところを語りたい。
 魔法側アプローチと、手品側アプローチ。両方の方法論がなければ、そもそも「扉の前」に立つこともできなかったのです。たぶん。

 ふたつのエンディングが、相互補完といおうか……回転しながら、相克し、または相生する。ちょうど太極印みたいな図形をなす。「その織りなす形が見えるかどうか」ということだと思うのです。

 魔女は探偵よりも偉いのか? 探偵は魔女より偉いのか? そうではないんだ。ひとつのアーモンドと、もうひとつのアーモンド。入れ替え。回転。それらは等価です。では、何が違うのか。答えは古戸ヱリカが出している。「どう生きるかです!!」


●朝のガスパール

「らせん構造によるレベルの壁の破壊」
 というアイデアは、わたしオリジナルのものではありません。

 筒井康隆の『朝のガスパール』という小説があります。『うみねこ』とよく似た、メタ構造を持つメタフィクションです。この小説で、これに似たらせん構造が作られていて、そのらせんの瞬発力をつかってメタレベルの壁をぶちやぶっているのです。

 レベル壁破壊兵器としての性能は、うみねこのほうが端的なぶん高性能かもしれない。らせんの作り方の違いが、面白いです。

 この小説はEp8にすごく似てます。作品内から読者を批評したりね。竜騎士さんがこれを読んでいるかいないかは、わかりません。もし読んでいたら、あ、やっぱりなと思います。
 もし竜騎士さんが読んでいなかったら……。
『朝のガスパール』は、「読者の反応を取り入れつつ、リアルタイムに、シリアルに、物語を小出しに提出していく」という形で書かれた新聞小説なのです。つまりうみねことほぼ同じやりかたなんです。
 もし竜騎士さん読んでなかったら、「この方式で読者参加小説を書いたら、しぜんに内容はこういう感じになってしまう」という、すさまじい実験結果が得られたことになります。

 これは文学研究上の、すごく有意義なサンプルなんじゃないかって、ちょっと思います。


(続く)

■続き→ Ep8を読む(5)・「あなたの物語」としての手品エンド(下)


■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
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Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)

2011年02月06日 16時06分45秒 | ep8
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


Ep8を読む(3)・「あなたの物語」としての手品エンド(上)
 筆者-初出●Townmemory -(2011/02/06(Sun) 16:03:00)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=59771&no=0 (ミラー


●番号順に読まれることを想定しています。できれば順番にお読み下さい。
 Ep8を読む(1)・語られたものと真実であるもの(上)
 Ep8を読む(2)・語られたものと真実であるもの(下)


     ☆


●誰に対しても通用する真実はない

 さて、今回は。
 右代宮絵羽の日記「一なる真実の書」という、素敵なマクガフィンがEp8には登場します。
 ここから話を始めてみます。

(「マクガフィン」とは、「お話の中で、とても大事だということになっている物品」くらいの意味です。「国際列車の中で、ダイヤモンドが盗まれた。取り戻さなければ!」という物語における「ダイヤモンド」。「テロリストに新型爆弾を奪われた!」という物語の「新型爆弾」。「マルタの鷹」における「マルタの鷹」。がそれにあたります。いっぺん、マクガフィンという言葉を使ってみたかったのです(^^;)。使い方、微妙に正しくないかもしれない)

 右代宮絵羽の日記「一なる真実の書」。

 これには何と、「六軒島の真実が記されている」ということになっています。ほんとかよって感じですね。だいいち縁寿本人が「伯母さんの妄言じゃないの?」と疑ってます。
 ほんとかよって感じなのですが、

 赤:右代宮絵羽の日記、“一なる真実の書”には、1986年10月4日から5日にかけての、六軒島の真実が記されている。

 という赤い文字があって、その内容の真実性が保証されています。

 が。
『うみねこ』を、これまできちんと追いかけてきたわたしたちは、

「この物語においては、真実という言葉は、『万人に通用する真実』ではなく、たいていの場合『個人的な真実』でしかない」

 という理解には、到達しているんじゃないでしょうか。

 ということで、
「一なる真実の書に記されているのは、右代宮絵羽から見た、個人的な真実である」
 ってことで、かまわないでしょう。彼女にとっての「一なる真実」ということ。

 だって、そりゃそうでしょう。
 右代宮絵羽は、絵羽本人が知り得たことしか書けないのですからね。絵羽が知り得たことと、そこから想像できることしか、この日記には書かれることはできないのです。

 ちょっと極端なことをいえば、本当の意味での「一なる真実」なんてもの、魔女ベアトリーチェにだって記せないんじゃないでしょうか。

 ですからあの赤字は、

 赤:右代宮絵羽の日記、“(彼女個人にとっての)一なる真実の書”には、1986年10月4日から5日にかけての、六軒島の(彼女にとっての)真実が記されている。

 という意味だと考えることができます。

 ところが、この赤字を聞いた縁寿は、

「絵羽の日記『一なる真実の書』には、“誰にとっても広く通用する”真実が記されているんだ」

 と勝手に思いこみます。
 そんなふうに認識した縁寿は、戦人に対して、「真実を公表しろ、日記を見せろ、私は何があったのかを知りたいんだ」と詰め寄ります。
 それに対する戦人の言葉はこうです。

「1986年の真実など存在しない」

 これは「“誰にとっても真実として通用するような”1986年の真実など存在しない。(日記には絵羽の個人的な真実が書かれているのであって、縁寿が求めるような真実はそこには書かれていない)」という意味だととれます。

 ところが性悪な魔女の入れ知恵によって、日記の存在を知らされ、そこに「汎用的な真実」が書かれていると思いこんでいる縁寿は、戦人の言葉を「欺瞞にみちた真相隠し」だと認識し、戦人との確執を深めてゆきます。


 さて、ここまでは……異論のある人もいるでしょうが、少なくとも「考え方としてそういうアプローチがある」というくらいは諒解できそうでしょう。
 これをふまえて、あえて考えてみたいのです。

 絵羽の日記『一なる真実の書』には、何が書かれていたのか。


●謎の数字をかならずメモする絵羽

 絵羽の日記が書かれるためには、絵羽が生存してくれなければなりません。その上で、「絵羽が何を見たのか」が問われることになります。

 わたしたちが知る限り、絵羽が生還しそうな物語は2パターンあります。

 ひとつは、Ep3です。
 絵羽が黄金の間を発見し、第9の晩まで生き残り、戦人を犯人だと思って射殺する。
 その後、あっちこっちにゴロゴロ転がってる死体や、なにより「自分が殺した戦人の死体」がおそろしくて、黄金の間に逃げ込む。
 黄金の間は九羽鳥庵につながっているので、絵羽は九羽鳥庵を発見する。そのとき時計の針が十二時を指し示して大爆発が起こり、九羽鳥庵で絵羽は救出される。

 もうひとつは、Ep7のラスト近くで上映された、「霧江がライフルで大量殺人を実行するエピソード」
 このエピソードは、霧江と留弗夫が島の人々をばっすばっすと撃ち殺していき、絵羽によって返り討ちにあうというストーリーです。
 このストーリーでも、絵羽は黄金の間への通行方法を知っています。霧江を殺した絵羽は唯一の生存者(推定)となり、あとはEp3と同じ。爆弾のタイマーを解除しないまま九羽鳥庵に逃げ込みドカーンで証拠隠滅。

 とりあえずこの2つが認識できますので、この2つの場合で、「絵羽の日記」が執筆されるものとします。

 ここで唐突ですが、「ナゾの数字」のことを思い出すことにします。
 ナゾの数字というのは、「07151129」という、あの8桁です。

 どちらのエピソードでも、絵羽は8桁の数字をメモするのです。
 Ep3では、客間の扉に赤インクで書かれていた「07151129」を、彼女は手帳に書き記しています。その番号は銀行の貸し金庫の暗証番号でした。
「霧江大量殺人」エピソードでは、黄金の間において、10億が預金されたキャッシュカードの暗証番号8桁を魔女から教えられ、絵羽はそれをメモしています。

(キャッシュカードのほうの8桁が、「07151129」であるとは、限りません。別の番号かもしれません。わたしはそういう可能性世界も、かなり有望なものとして検討しています。けれども、それを導入すると話が煩雑になりますので、ひとまず置いておきます。ここでは、キャッシュカードの番号も「07151129」だった、と仮定して話を進めます)

 どちらの場合でも、絵羽にとって8桁の番号は「魔女が(犯人が)知らせてきたサイン」です。

 さて……。
 18歳の縁寿から見て12年前。縁寿6歳当時。六軒島の事件直後。
 彼女のもとに、「右代宮留弗夫」宛、差出人名「右代宮縁寿」という謎の封筒が返送されてきます。推定ですが、住所がでたらめだったため、宛先不明で差出人・縁寿のもとに戻ってきたのです。
 その封筒には、銀行の磁気カードと、タグつきの貸金庫の鍵と、暗証番号「07151129」というメモが封入されていたわけです。少なくとも、そう推定されます。

 その封筒を、幼い縁寿はなくしてしまいます。「あの後のゴタゴタで紛失した」と縁寿は言っています。
「あの後のゴタゴタ」には、おそらく、縁寿が絵羽にひきとられて引っ越したりする、そういうことも含まれているでしょう。

 その封筒、本当に縁寿がただ「なくした」のでしょうか。
 何かのはずみで、絵羽がそれを手に取り、不審に思い、中身を確かめた……としたら、どうでしょう。

 そこには、あの数字が書かれているじゃありませんか。

 絵羽は銀行に行き、南條雅行医師と同様の体験をして、一億円の札束が入ったアタッシュケースを確認したかもしれません。Ep3の場合には、絵羽はそこで初めて、「8桁の番号は、銀行の暗証番号であったのだ」という事実を知るのです。

「六軒島事件の首謀者」しか知り得ない番号のメモが、縁寿に送られてきた。
 それは一億円の現金を、縁寿に与えるためのものだった。

 それを知った絵羽はどう思うか。

「縁寿は、六軒島事件の首謀者(犯人)と通じ合っていたのだ!」

 そういう確信を持ってしまうだろう、と想像できるのです。


●絵羽の内部で構成される「ある論理」

 その疑心暗鬼にいったんとらわれてしまえば、あとは水が流れるように、ある方向にすべての想像が動いていきます。

 Ep3では、絵羽は、「戦人が殺人犯だ!」と確信して、彼を射殺するのです。Ep3のTIPSで、戦人をエグゼキュートすると(つまり死因説明の表示にすると)、「朱志香は失明。戦人と二人。狼と羊のパズル。」なんて書いてあります。戦人の死因は狼と羊のパズルなのです。
 狼と羊のパズルなのですから、一見、絵羽が狼で戦人が羊のようですが、そうではないと思うのです。これは南條殺しの一幕のことを言っています。このとき生き残っているのは絵羽、戦人、朱志香の3名です。
「絵羽は、自分が南條を殺していないことを知っている」
「朱志香は失明しているため、南條を殺すことができない」
「よって消去法により、戦人が南條を殺したのである。他のみんなを殺したのも戦人であろう」
 このような論理が発生して、はじめて、絵羽は戦人を殺すことができます。

 つまり、Ep3では、絵羽は戦人を殺人犯だと思っているのです。しかしこんな大がかりな殺人事件を、戦人少年ひとりで起こすことはできないでしょう。
 そこで「留弗夫・霧江・戦人」という「留弗夫一家が計画した事件だったのだろう」という発想に至るだろう、と考えられるのです。

「霧江殺人犯エピソード」はどうでしょう。
 これは、直接的に、
「霧江と留弗夫がライフルで虐殺を実行する」
 さまを、絵羽本人が目撃するエピソードです。

 すなわち、Ep3であろうとも、「霧江殺人犯エピソード」であろうとも。
 絵羽が生存する場合、どちらの場合でも、絵羽は、

「留弗夫一家が大量殺人の首謀者である」

 と確信しそうなのです。
 その証拠に、ほら、犯人だけが知り得る番号が、「留弗夫の娘」に送られて来ているじゃないか。


 そこで「右代宮絵羽の日記」に話が戻ります。
 この日記に、「六軒島で起こったことの回想」が書かれているとしたら。

 それは、「留弗夫一家が、どんな非道をおこない、私の夫や息子を含む多くの人々を無惨に殺していったのか」ということが、憎しみに基づく暗い想像でいっぱいにふくらまされて書かれているにちがいないのです。


●真相として流布される「絵羽個人の真実」

 そんな「右代宮絵羽の日記」=「一なる真実の書」を、縁寿は読んでしまったわけです。
 ただ読んだだけではありません。
「そこには真実が書かれているんだよ」
 ということを赤字で保証され、
「それさえ読めば、私は真実を手に入れられるんだ!」
 と熱心に思い入れて、それを入手するためにいろんな冒険をして、魔女ベアトリーチェと一騎打ちまでして、それでようやく手に入れた「真実」がそれなのです。

 やっと真実が手に入った! と思って読んだ内容は、お父さんとお母さんとお兄ちゃんを犯人として指名するものだった……。

 それを知っちゃった縁寿はどうなるか。
 Ep8本編内に書いてあります。

 ヤギあたまの女生徒がいっぱい現われて、ひそひそと、縁寿にこんなことをささやき続けるのでした。


『これが、六軒島事件の真相なんですって!!
「…………認めないわ。」
『あんたが認めなくたって!! これが真相なんでしょう?! だって、******、**********!! **************ッ!!!
「……認めないわ、認めないわッ、………そんな真実、私は認めない、……認めない……。」


 伏せ字になっている部分。これはおおむね「霧江が真犯人、留弗夫と戦人は共犯者、六軒島事件の犯人は留弗夫一家」くらいの内容が言われている可能性が高そうなのです。
 やっと手に入れた真実は、縁寿には絶望的なものでした。

 このシーンはイメージ的に描かれていますが、ただのイメージとはいえません。
「一なる真実の書」は、広く一般公開されるかもしれなかったものです。
 もし、八城十八が「やっぱ公開やめます」と言わずに、これを社会に公表していた場合。
 右代宮縁寿は、これ以後、世間からこの陰口、この視線を一生浴びることになっていたのです。

 そうなっていた場合。元から精神が不安定な縁寿は、たぶんそんな生活に耐えられなかったでしょう。
 自分は、家族が殺人者だなんて認めない。けれど、信頼できる「唯一の生存者の日記」がそういっている。社会が「真実」として受け取るのは日記の内容のほうだ。
 だから縁寿は、こうなった場合、きっとビルから飛び降りて墜落死します。自分が死ぬことで「自分以外の世界の全て」を猫箱の中に閉ざし、「自分の家族が犯人だった」という「真実」を猫箱の中に再封印するのです。

「一なる真実の書」が一般公開されていたら、縁寿はとんでもない不幸におちいったであろう。縁寿はEp8の物語で魔女たちに勝利することで、自らを不幸から救ったのである。そんなことが言えそうです。
 そして、
「一生涯、何があっても決して縁寿に真相を教えてやることがなかった右代宮絵羽」
 彼女の評価も少し変わってきますね。


●「書かれただけのこと」にもできる

 さて、以上の内容は、なんと前フリです。ここからが本論。

「一なる真実の書」を読んだ縁寿は、その内容の真実性が保証されているにもかかわらず(その保証があるからこそ真実の書を求めたにもかかわらず)、

「こんなものは真実とは認めない」

 と言い出します。


 わたしは、このシリーズの前回・前々回を通して、
「書かれたことと、本当のこととの間に、本質的な差はないのだ」
 という、新しい価値観を『うみねこ』から取り出しました。(読んでない方、まずそちらからお読み下さい)

 その価値観の中から、
「書かれたことは、本当のことである」
 という、一種の魔法的な認識を語りました。

 それって、裏返せば、こうも言えるのです。

「本当のこととは、書かれたことにすぎない」

 書かれたことを本当のことにしてしまえたあの理屈は、くるっと反転させた瞬間、真実性の高い本当のことを、フィクションにしてしまえます。


 右代宮絵羽の日記「一なる真実の書」……。

 世間の人々はそれを読んで、
「ここにそう書かれているのだから、これは本当のことだろう」
 と思います。

 そして。右代宮縁寿は、
 本当のことが書かれている本の内容を読んで、「こんなものは“書かれたもの”にすぎない!」と絶叫するのです。


 わたしは前回までに、「書かれたことを、本当のことにする」という魔法の、楽園的な、ハッピーな側面ばかりを語りました。

 けれども、そうでない負の側面。
 それもこの物語にはちゃんと内包されていて、語られているのです。

「書かれただけのことを、本当のことだとみんなで思いこむ」という認識の暴力。
 それに対抗する手段は何か。それは。

「本当のことだっていうけれど、特定の誰かが“書いたもの”にすぎないじゃないか」

 という対抗主張をおこなうことです。


 はたしてこれは、
「本当のこと」
 なのだろうか。
 それとも、
「書かれたこと」
 なのだろうか。

「本当のこと」に対する「書かれたこと」

 まるでそのふたつに響きあうように、この物語は、

「魔法エンド」に対する「手品エンド」

 を提示するのです。


     ☆


 手品エンドでは、探偵・古戸ヱリカが縁寿のパートナーになります。

 そして古戸ヱリカという人物は、
「留弗夫一家犯人説を示唆するベルンカステルの推理ゲーム」
 に閉じ込められて苦しんでいた幼い縁寿を、絵羽一家犯人説という「もうひとつのアーモンド」をもたらすことで救い出してくれた救世主なのでした。



(前置きが長くなりすぎました。続きます)


■続き→ Ep8を読む(4)・「あなたの物語」としての手品エンド(中)


■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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