さいごのかぎ / Quest for grandmaster key

「TYPE-MOON」「うみねこのなく頃に」その他フィクションの読解です。
まずは記事冒頭の目次などからどうぞ。

うみねこに選択肢を作る方法(と『黄金の真実』)

2009年11月01日 07時56分02秒 | 赤文字論・密室を解く
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


うみねこに選択肢を作る方法(と『黄金の真実』)
 筆者-初出●Townmemory -(2009/10/11(Sun) 07:24:15)・(2009/10/12(Mon) 22:37:19)・(2009/10/13(Tue) 21:13:06)・(2009/10/27(Tue) 02:21:04)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=34006,34091,34113,34815&no=0 (ミラー
 Ep5当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注

 公式掲示板で、「赤字で嘘っぱちが言える、と主張している人」といえば「Townmemory」というふうに、代表選手のようになりつつあります。望むところです。
 赤字でまるっきりの虚偽が言えるのなら、規準がなくて推理のしようがないんじゃないか、という反応は、常にいただいてきました。その疑問に対する回答、というか、「自分はこういう思考モデルをとっていますよ」というのを、一度まとめておきたいな、と思っていました。

 ちょうど都合よく、掲示板アクティブユーザーの藤井ねいのさんがその話題を振ってくださったので、これを機会に書き込んでおくことにした次第です。

 4つの書き込みを1記事にまとめてお送りします。
 文中の引用文(青字)は、藤井ねいのさんの書き込みです。以下に原文のURLを示します。これをもって出典明記とします。
 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=33993,34037,34110,34115&no=0 (ミラー

 実際のやりとりを時間軸に沿って読みたい方は、以下のURLからご覧下さい。
 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=33993,34006,34037,34091,34110,34113,34115,34815,34817&no=0 (ミラー

 本論と関係ない世間話を省略しました。
 以下が本文です。


     ☆


他のところへの影響が大きすぎ・・・特にTownmemoryさんらの赤字主観論(というか、自分再度の都合のいいことなら何でも言える)だと、推理もくみ上げるのが厳しくなるのです。
(藤井ねいの)


 ちょうどその件について、考えをまとめていたところなので、便乗するのです。

 便宜的に藤井ねいのさん宛てにしますが、不特定多数を相手に一般性の話を語っている、と思っていただけると、ありがたいところです。木のウロに向かってぶつぶつ独り言を言ってる人がいる、というイメージで見ていただくとめやすになるでしょう。


 多くのひとが、赤字があやふやなものだったら推理が困難になる、という印象を語っていますけれど、わたしの感覚では逆なんです。
 赤字がほんとに全部真実だったらとても推理なんてできないなーという印象なのです。
 たぶん、統一感のあるストーリーを構成するのは、自分には無理かも、です。


 あくまで一例として、わたしの考え方を挙げるのですが、
 赤字を疑いつつの推理というのは、たとえばこういう思考形態なのです。

 ep5で、「金蔵はゲーム開始前に死亡している」という赤字があるのに、金蔵と夏妃
がテラスで談笑していた、おかしいではないか、というツカミの謎がありました。
 描写と赤字が矛盾をおこしているのです。

 戦人はここで、「描写に幻想がまじっている」(つまり描写が嘘である)という解をみちびきましたが、赤字のほうを疑うなら、
「金蔵は生きている。赤字は嘘である」
 という解を提出することもできるのです。
(おお、くしくも金蔵生存説ですね)

 ここではあえて、わかりやすくするために「嘘」という用語を使いますけれど……

 すなわち、描写と赤字とがコンフリクトをおこしていたら、
「描写で嘘がつかれている」
 か、
「赤字で嘘がつかれている」
 か、
 どっちかだ、というように、モデル化することができます。

「赤字が嘘だとしたら、可能性がほとんど無限じゃないか」と思えていたものを、なんと二択にまで収束することができました。

 あとは、ひとつひとつの謎に対して、
「この場合は、描写のほうが嘘かな」
「こっちの謎は、たぶん赤字のほうが嘘かな」

 というように、配分してあげるのです。

 イメージとしては、一本の線路を、列車が走っているようなものです。

 線路には、ところどころ分岐点があって、ふたまたにわかれています。
 あのー、トロッコアクション映画に出てくる、レバーをギーッって倒して、右か左か切り替えるやつです。さびついててなかなか動かない、このままだと崖っぷちのほうに進んじゃう! みたいなやつです。

 たとえば、右ルートは「描写が本当」(赤字が嘘)、左ルートは「赤字が本当」(描写が幻想)だとすると、
 謎という名の分岐点を、右・左・右・左……と進んでいき、うまいことゴールまで走りぬける(統一感のあるストーリーが見える)ことができたら、それはひとつの推理が成立したといっていいのじゃないかな、という考え方なのです。
 うまくいかなかったら、それは、どっかで分岐点をまちがえているのです。

 そして、そのストーリーを持って、ひとつひとつの分岐点をみていくのです。
「赤字が嘘」とした場所は、それは赤字を言った人物が、その嘘をどうしても信じてもらわなきゃ困る立場だった、とみなすことができます。
「描写が幻想」とした場所は、描写をした人物が、その幻想が事実だったらいいなあ、という願望をもっていた、とみなすことができます。
 すなわち、プロファイリングが可能となるのです。
 プロファイリングができるということは、犯人を、指名できるということなのです。

 赤字を規準にして、描写を疑うことができ、描写を規準にして、赤字を疑うことができる。
 もしも赤字がなかったら、片目でものを見るようなもので、立体感がでません。つまり、この思考形態でも、実に「赤字は強力なヒント」なのです。


 そして、ここを強調したいのですが、
 赤字を破りたくない(赤字は真実だと思いたい)のなら、ゴールしたあとで分岐点に立ち戻って、
「赤字を成立させたまま、ここを通る方法はないだろうか」
 と考えるのは、まったく自由なのです。

 前にもどこかで書いたのですが、
 赤字というのは障子紙でできた壁みたいなものなのだから、ひっちゃぶいてゴールしてしまえばよい、ゴールしたあと、破らないでクリアする方法を考えても、ちっとも遅くないのです。

「赤字がウソなんでしょ?」という立場で、推理を構築できたら、そのあとで、
「古戸ヱリカは(万引きの)犯人ではない」
 というへりくつを思いつけばいいのです。「考える場所」が明確だから、考えやすいです。

 何人かの人に、誤解されているふしがあるのですが、赤字を疑うというのは「赤字は全部嘘」という意味では「ない」のですね。
 たとえばわたしは、「赤字破りは、なるべく最小限にしたいな」と思っていて、それで推理を進めています。
 できれば全部の赤字を守ってあげたいけれど、それではストーリーとして整合しないから、しかたなく、ところどころ外す。
(特にベアトリーチェの赤は、できるだけ守ってあげたいですよね。ベルンの赤は、盛大に破ってやりたいという欲求にかられるけれども)

 自分では、そのスタンスは悪くないと思っています。
 すぐれたうそつきさんは、本当のことをいっぱい言って、ほんのすこしうそを言うものです。
「全部嘘」というのは、うそつき村のたとえ話と同じで、「全部本当」と同じ意味になってしまいます。

 ということは、赤字はほとんど本当(たまにウソ)という理解なのですね。
 だから、基本的には、赤字を規準にして、描写のほうを動かしていけばOK。それでどうしてもうまくいかないときだけ、赤字のほうを動かす。これでいけそうな感じがします。
 この意味でも、「赤字は強力なヒント」なわけで、わたしはこれを非常に頼りにしているのです。


 実際には、もうちょっと複雑な変数が入ってきますけれど、思考モデルとしては、おおむねこんな感じなのです。わりあい簡単そうに思えてきませんか? ということで、皆様のご参考までに。ごめんくださいませ……。


---------------☆----------------


なるほど、最終地点とそこに至る筋道はたくさんある、しかし無限とまでは言えない、って言う話ですね。たとえば3回分岐があったら、2の3乗、8パターン(ただし、同じ終着点の場合もあるからもっと少ない)以下ってことですね。
(藤井ねいの)


 それと、たとえ8パターンの終着点があったとしてもそのうち「つじつまがあう」のはたぶん1コか2コだろう、と推定できますので、末広がりに分岐しているように見えるけれども、実は収束しているはずだろう、という決め打ちなんですね。

 これ、書いてからあとで気づいたんですが、この2元モデル、あるいはトロッコ分岐点モデル。
 分岐点を「選択肢」と読み替えることで、いわゆる「アドベンチャーゲーム」の構造になりますね。
 ポートピア連続殺人事件とか、KANONとかFateとかみたいなやつ。
 あれらも、
「選択肢をあたっていって、最後まで走りぬけられたらクリア」(途中でつっかえたら、バッドエンド)
 というゲームですもんね。

 ひぐらしやうみねこは、「選択肢のないアドベンチャーゲーム」とかいう言い方をされていて、選択肢がないのにゲームって言えるのか? というような疑問もあるわけですけれど、ユーザーが意識することで、
「選択肢がないけれども、選択肢があるのと同じ」
 状態にできる、というのは、考え方としてちょっと素敵かもしれません。

(でもこの手の議論は、いろんなところで既出っぽそうだ)

 どうでもいい余談ですが、戦人たちはファミコン世代ですね。ミステリーに詳しい戦人とヱリカあたりは、「ポートピア連続殺人事件」はクリアしたことがありそうでヤス。


---------------☆----------------


ポートピアもそうでしたっけ?
コマンド総当たりゲームだったような気もするのですが、気のせいかな?20年以上前の話ですし。

(藤井ねいの)


 ポートピアはコマンド総当たりゲーです。
(いや、コマンド総当たりゲーだと「風の噂に聞いた」ということにしておこうっと……)

 コマンド総当たりゲームと、KANONやFateみたいなマルチエンディングゲームの差は、
「バツの選択肢を進んだ先が、行き止まりになってるか、落とし穴になってるか」
 の差なので、この場合は本質的な差異ではないとみました。
『うみねこ』の推理は、まちがえてると思ったら、戻って考え直せるわけですから、どっちかというと、ポートピアモデルのほうが近いかもしれないです。

 コマンド総当たりゲームは、コマンドを総当たりしたら解けてしまうという構造的欠点を抱えているわけで、それを避けるために製作者はいろんな工夫をこらしているわけですけど、
「そもそも選択肢をユーザーに作らせてしまえばよい」
 という割り切りによって、『ひぐらし』『うみねこ』は、この構造的問題をあっさり解決している、そこが斬新なんだ……なんていう評論が一本書けそうですね。そういう感じの冊子が文学フリマかどこかで売ってそうだ。


ともあれ、いわゆる「アドベンチャーゲーム」であれば、マルチエンディングといいつつも、結局は選択肢の数だけ広がっているわけではなく、いくつかに帰着するわけですから、これも「有限」ですよね。
(藤井ねいの)


 そうなんです要はそういうことで、無限の可能性に思えてしまうから、そんなの考えきれないよってゲンナリしますけれど、適当にモデル化してあげて、可能性を有限個にしぼってやって、あとはコマンド総当たり。
 これで、解けるんじゃないかなあ……という、これは「解法の仮説」です。

 当初の話にもどると、要はモデル化することができれば、思考範囲はいくらでも狭められるのだから、赤字を疑うか疑わないかと、推理構築の難易度の高低は、必ずしも関係あるとはいえない。信じたいか信じたくないかは、実はほとんど「趣味の問題」なんじゃないかなー、というのが、わたし的なフィーリングです。趣味というか、「気持ちの問題」というか。


 さらなる余談。いまウィキペディアにあたってみたところ、ファミコン版のポートピアが1985年発売。ドラクエ1の発売が1986年5月でした。六軒島連続殺人事件は、ドラクエブームに火が点いたちょうどそのころに発生したのですね。そういえばあれも、鍵をもとめてさまようゲームだけれど……。


---------------☆----------------


 間が空いてしまったけれど、アドベンチャーゲーム理論、トロッコモデル解法説の補遺をちょっとだけしていいですか?
 この話に関連して、
「このことがちょっと広く理解してもらえるといいなあ(別に賛同はされなくても)」
 と、思っていることをちょうど都合良く語れるのです。

 例によって便宜上藤井ねいのさん宛てですが、不特定多数の聴衆にむけて、ジェネラルな話をしている、という受け取り方をしていただけると、わたしはシアワセな気分です。


問題は、たどり着いたエンディング1が、ベストエンドかどうか全くわからんところですね(苦笑)
(藤井ねいの)


 このことなんですが、これって、
「何がベストで何がトゥルーで何がグッドで何がバッドなのか、を決める権利は作者にある」(作中に定義されているものである)
 と思うから、発生する問題ですね。

 でも、今のこの話って、
「ありもしない選択肢を、ユーザーが勝手に作って、勝手に選んでいって、その結果、ある結論にたどり着いてしまってもよい」
 という設定のうえでのお話なのでした。

 だから、たどりついたエンディングも、その延長上にあると考え、
「きっとこれがベストエンディングである」
 と、ユーザーが勝手に決めてしまえば良い。

 と思っているのです。

 選択肢をユーザーが勝手に設定できるのだから、エンディングの価値もユーザーが設定しちゃえばいい。作者が何といおうとも、
「これがわたしのベストエンディングです」
 と、言い張っちゃえば良いのではないの? というのが、わたしの常々の考え方なんです。
 暴論かしら。

 ありもしない選択肢を自分で作る、というゲームプレイにおいては、何が価値あるエンドなのか、という規準も自分が作る。

 そんな考え方を採れば、
「これはベストな終わり方なのか?」
「これは正解なのか?」
 ということについて、悩む必要は、ほぼなくなります。少なくとも、作者という名の他人におうかがいを立てる必要はなくなる。


 天草十三が、とても示唆的なことを言っていまして。

「俺が言いたいのは、自己満足、大いに結構ってことなんです。誰に褒められたって、それを納得できなきゃ意味がない。……逆を返しゃ、誰に褒められなくったって、自分が納得できりゃそれでいいってことです」
「吾唯(われただ)足るを知る、っていうヤツですわ」
(『うみねこのなく頃に Episode4』より)


 誰にどれだけ(例えば作者に)認められればいいのか? と煩悶するよりは、自分で自分を認めれば良い。何が正解か、と思い悩むのも良いけれど、これが正解だ、と自分で納得して満足するのも良い。
 これってそういう話かなと思いまして、こういうことをさらっと言う天草十三は確かにクール。

 自分にとって、何が価値あるものなのかは、自分が決めればよい。
 月にうさぎの文明がある、という夢に、価値があると思うのなら、誰がなんといおうと自分の中で真実として抱き続ければ良い。



 子供たちって、きれいな石を探し集めて、その石を価値あるものとして珍重したり、集めた数を友達に誇ったり、勝手にレートを決めて取引したりするものです。
 それは社会的には、ただの石ころですから、価値はゼロですね。
 大人たちは、「何だ、その変な石ころは」と言うのです、きっと。
 でも子供たちにとっては、それは宝石で、黄金とおなじ価値があるのですね。子供たちは、「こういう石には価値がある」と、自分たちで決めて、大事にしたのです。

 石ころを黄金に変える……。


 よくよく考えたら、大人たちが珍重している「日本銀行券」とかいう紙っきれだって、なんと「金」との交換が可能なのです。
 ハタから冷静に見たら、そんなの、幻想なのです。だって、紙っきれですもの。でも、みんなが、「この紙にはとてもとても価値があるんだ」という幻想を、だいじにだいじに、心に抱いて守り続けているから、その幻想は今もって破られてはいないわけなのです。
 つまり彼らも、紙っきれを黄金に変える魔法を使っている……。


 ならば。それと同じメカニズムで。
 自分の頭の中だけで、勝手にたどりついた、ある一個のエンディングを、
「最も価値のあるエンディング」として、
 黄金だと見なしたって良い。

 たとえ作者や、周りの誰しもが、
「あなたの後生大事に抱えているものは紙切れと石ころだよ」
 と言おうと、それが黄金であることは、決して揺るぎはしない。

 誰もが認めなくても、自分には(あなたには)価値があるもの。他人には石ころに見えても、自分にとっては黄金の輝きを放つ、ある結論。

 それには、こんな名前が付けられそうですね。――「黄金の真実」。


 以上のような暴論により、「たどり着いたエンディング1」は、「ゴールデン・エンディング」であることが確定されました。元は石ころだったかもしれませんが、魔法により、今は黄金になりました。
 そんな感じのことを、思っています。

 すなわちこれが魔女タウンメモリーの黄金の魔法なのです。



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 なぜ戦人は赤字で「明日夢から生まれた」と言えないのか
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 赤字問題は「神」や「メディアリテラシー」に似ている
 うみねこに選択肢を作る方法(と『黄金の真実』)
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赤字問題は「神」や「メディアリテラシー」に似ている

2009年07月03日 04時09分14秒 | 赤文字論・密室を解く
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■

 Ep4当時に執筆されました]


     ☆


 ゆるーく、フィーリングのようなことを書いていきます。
 ゆるーく、読んでいただけるとうれしいです。


「真実とは、その場における合意である」
「“赤で語られたことは真実”というとき、その真実とは、その場における合意のことである。だから、物理的な現実と異なっていてもかまわない」

 というのが、わたしの考え方です。
 参考→ 赤字の真偽と、「真実」の定義について


 それをふまえてのことなのですが、

 赤字によって言及されたことを真実だと信じる、というのは、神を信じるのに似ているな、と思いました。

 わたしたちの社会全体をみたとき、
「神は実在する」
 という真実は、ありません。
 どうして私たちは、この真実を手に入れられないのか。

 逆も言えます。
「神なんて実在しない」
 という真実も、この社会にはありません。
 どうしてこれが真実として必ずしも通用しないのか。

 それは簡単で、
 神が実在すると思う人々がいる一方、神が実在しないと思う人々もいるから。
 神が実在しないと思う人がいる一方、神が実在すると思う人もいるから。

 つまり、わたしたちのこの社会において、
「神の実在・不在に関する合意が取られていないから」
 です。
 その合意が、きちんと得られないかぎり、どちらか一方が真実になることはないのです。


 ところが、歴史上のある期間、ある地域において、
「神は実在する」
 が真実だったときがあります。
(おおざっぱに、中世ヨーロッパをイメージしています)
 その時代、その地域においては、「神は実在する」という合意が社会的に得られていたのです。

 しかし、今、その地域は「神が実在する」を真実とはしていません。わたしたちの社会も、それを真実とはしていません。

 つまり、
「かつて真実だったものが、そうでなくなっている」
 ということになります。
 これは、まさに「後期クイーン問題」です。

 わたしたちの社会には、現在「神は実在する」という真実も、「神なんて実在しない」という真実もありませんが、はるか未来には、どっちかが真実として合意される可能性も、ゼロではありません。

 もしそうなった場合、
「わたしたちの社会は、後期クイーン問題に直面した」
 といえるかもしれません。

 結局のところ、人類は、「その場における合意」という定義以外の真実を手に入れたことはないのです。それ以外の定義を手に入れられるとしたら、それこそ魔法といっていい。

 神は実在するのに、どうしてそれを認めない人がいるのだろう。
 魔女は“い”るのに、どうしてそれを認めない人がいるのだろう。
 赤字は真実なのに、どうしてそれを認めない人がいるのだろう。

(逆も全部言えます)

 この3つを、同じ問題としてとらえるかとらえないかが、赤字の受け入れ方のちがいになっているのでしょう。


「赤で語られたことは真実」という言及が真実であるか、真実でないか。
 それは、
「赤で語られたことは真実」という言及に対して、後期クイーン問題を想定するかどうか、という違いとして、まとめられるかもしれません。

「エラリィ・クイーンが“証拠はすべて出そろった”と保証している以上、証拠はすべて出そろったのだ。“未知の証拠Xは存在しない”が真実なのだ」
 これに疑う余地がないのなら、後期クイーン問題はそもそも存在しません。
 これを疑う人がいるから、後期クイーン問題が「問題」として存在しているのですね。

     *

 ところで、もっと卑近な例でおなじことを言ってみたいのです。

「真実なんてものは、メディアによって捏造される」
 という危険性について、耳にされたことがあるかと思います。

 だからこそ、メディアから流される情報をうのみにしてはならない。常に疑問符をつけて、ほんとかどうかは保留しておく。そういうスタンスが必要なのです。
 これを「メディアリテラシー」と呼びます。
 米国などではメディアリテラシー教育が積極的に推進されているという噂です(ほんとかどうか知りません。メディアから聞いた情報なので)。

 たとえば、「ひぐらし」の、雛見沢大災害。
 影響力の強いメディアが、
「雛見沢大災害は、沼から発生した有毒ガスが原因だ」
 という説明を流した。
 これにより、有毒ガスが原因、という社会的合意が、得られてしまった。
 よって、「雛見沢大災害は、沼から発生した有毒ガスが原因だ」が真実として社会に通用するようになった。

 ところが、この真実に疑問を持つ人がいる。
 大石と赤坂だ。
 彼らは、真実をひっくり返すための「後期クイーンの芽」なのです。


 もうひとつ。
 これは、非常にこんじょうの悪い邪推です。

 たとえば。
 未成年が、斧でもって、父親を殺害するという事件が起こったとする。
 影響力の強いメディアが、
「“ひぐらしのなく頃に”というゲームに、少女が鉈で人を殺すシーンがある。事件の未成年は、ひぐらしに影響を受けたのだろう」
 という説明を流した。
 どこからか、「犯人の本棚にはひぐらしがあった」という噂も流れた。
 これにより、「未成年の斧殺人はひぐらしの悪影響だ」という社会的合意が形成されてしまった(もしくは、されそうになってしまった)。

 ほんとうにひぐらしの影響かどうか、誰も検証していないはずです。
 でも、おそらく、日本のかなりの人数が、「ひぐらしとやらの悪影響」という印象を持ったままでいるはずです(と想像します)。
 そういう真実があるのだろう、と、なんとなく、受け止めているはずです。


 真実っていったいなんだろう。

 マスメディアは、
「六軒島殺人は、絵羽おばさんの犯行にちがいない」
 と言っている。
 小此木は、「絵羽さんは犯人じゃないよ」と言っている。

 真実ってなんだろう。

 ベアトリーチェは、
「マスターキーは5本しかない! これが真実だ」
 と言っている。
 楼座おばさんは、
「マスターキーが5本だけなんて、誰かが言ってるだけじゃない。6本以上ある可能性を疑っておくべきよ」
 と言っている。


 真実とはいったい何なのか。

「真実とは何なのか、それを問うこと」「真実の正体を問うアプローチを手に入れること」それ自体が、うみねこという作品の「解」そのものではないかと思うのです。

 この問い自体が、うみねこのすべての謎に通用するグランドマスターキーです。……たぶんね。



■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■


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赤字の真偽と、「真実」の定義について

2009年06月30日 05時19分31秒 | 赤文字論・密室を解く
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


赤字の真偽と、「真実」の定義について
 筆者-初出●Townmemory -(2009/06/26(Fri) 01:01:29)・(2009/06/30(Tue) 04:24:23)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=27811&no=0 (ミラー
 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=27861&no=0 (ミラー
 Ep4当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注
 2つの書き込みを1記事にまとめてお送りします。

 この話題のそもそもの始まりは、公式掲示板推理系チャットにおいて、大勢の参加者がいる中、わたしひとりが「赤字は必ずしも真実ではない」と主張したところ、なんというか、かなり強烈な反応をいただいてしまった、ということでした。
 誰だったか忘れましたが、そしてわたしのひがみが入っていてニュアンスが捏造されてるかもしれないのですが、
「自分に都合の悪い赤字を信じないという態度の人が提唱する仮説に読む価値があるのか?」
 みたいなことをおっしゃる方までいたと記憶します。
 これは恐ろしい話題だぞ、と、認識をあらたにしました。
 気分としては、周囲からよってたかって「ベアトリーチェが存在すると認めろ」と迫られるep1お茶会の戦人を想像していただけると、めやすとなるでしょう。

 しかし、多くの人が、そこまで「信じたい」と願う赤字とはいったいなんなのか、という興味もわきました。

 その後掲示板にて、チャットでの話題の感想戦のようなかたちで、2つほど反応をいただきました。むくげさんという方と、bouncebackさんという方です。このお二人にレスポンスをしているうちに、自分の中で、赤字に対する認識が、よりクッキリと輪郭をあらわしてきたので、これはブログにも上げておこうと思った次第です。

 むくげさんが下さった元発言はこちら。 (ミラー
 bouncebackさんが下さった元発言はこちらです。 (ミラー

 上記の2発言に対するわたしの返事を、以下に転載します。

 以下が本文です。


     ☆


●むくげさんへ

 こんにちは。はじめまして。
 チャットのあの局面を、そういうふうに見てらっしゃる方がいるとは思いませんでした。少し心強くなりました。ありがとうございます。

 わたしは、赤字が真実でないとしたら、
「どんな可能性でも考えられる“自由”を手に入れた!」
 と認識するのですが、チャットでは、それだと手がかりがなくなる、ゲームが成立しなくなる、と考える人が多かったようです。
 外部の条件に自分を合わせるか、自分の条件に外部を合わせさせるか。アプローチの違いですね。

 わたしの考えは、ごく単純なことで、
「すべての犯行は、魔法によって行われた!」
 と主張しているドレスの人が、その同じ口で、
「赤で語ることは真実!」
 と言っている。
 前者は、信じない人が大多数なのに、後者は、信じる人が大多数だというのは、不思議な現象だなという、そんだけのことなんです。

 ついでにいえば、わたしたちは実社会で、手から光の剣を出す人を見たことはないし、赤い字で喋る人を見たこともない。
「手から光の剣」は常識的に受け入れないのに、「赤い字で真実を喋る」は常識外でも受け入れる、というのは、なんか違和感があるなあ、というのもあります。赤字だって、一種の魔法ではないのかな、と。だったら、それには疑問を持ってもいいな、と。

 なのに、赤字を信じる。
「赤字を信じたいわたしたちの気持ち」の正体については、もっと検討がなされてもいいな、という問題提起のつもりでおります。

 赤字がなかったら、千日手に戻ってしまう、というようなことをおっしゃる方もいましたけど、実はそれ自体がトリックなのですね。
 赤字があっても、千日手は防げません。
「魔法ではなく、赤字に抵触しない未知の方法X」を主張し、Xの内容を説明拒否すれば、戦人は無限後退で人間説を主張しつづけられます。
 赤字で無限後退が阻止されたように見えるのは、戦人がこの手を使っていないから、そう見えるだけのことだと思うのです。


 ヴァンダインの二十則について、むくげさんの書かれたことを読んで、ふと思ったのですが、二十則に意図的に反したい、というよりは、
「ミステリーのお約束に対する批評」
 としても読めるような作品にしたい、という意図があるのかもという気もしてきました。
「ミステリの流儀に反しているが実は反していない」というのは、外部的な視点から見た、お約束への批判、無意味化、そんなようなことではないかしら。

 たとえば、「三人称の地の文で嘘をついてはいけない。一人称ならギリギリOK」というお約束に、うみねこは明確に反しています。
 でも、三人称の地の文だって、「誰かがそう書いた」ものじゃんか。「誰かがそう書いた」ものである以上、「誰かの一人称」と同等のものでしかない。このお約束って意味あるのか?
 という問いかけとして「うみねこ」を読むことは可能と思います。


 長くなってきてすいません、あとひとつ。
「赤字が体現する真実とは何かについて」(ミラー「魔女の証明方法について」ミラー)を読みました。

 ほぼ全編にわたって同感しました。
 とくに、「上位ベアトリーチェも盤上の物理的事実を知らない場合」。これを検討されている方がいるとは思わなかったので、心強いです。

 赤字を破るために、真実の定義を問うというアプローチが素敵です。
「赤字とは(無限に並列できる)仮説ではないか」
 という考えには、とても触発されました。
 ほとんどむくげさんが提示された説の言い換えになってしまうのですが、
 わたし的には、仮説ということばを「願い」に置き換えると、すんなり心に落ちてきます。(意味は同じで、表現が違うだけです)

 ある人がいて、
「魔法がこの世に存在してほしい」という願いを持つ。
 そのために、「マスターキーは5本までであってほしい」という願いを持つ。

 願うことが魔法である、という発想は、作品の中にかなり色濃く提示されていると思うので、これだとわりに理解されやすいのかなと思いました。



●bouncebackさんへ

 こんにちは。問われたからには答えます。
(でもこの話題めちゃめちゃ疲れるので、正直フェイドアウトしたい気満々です)

 青字ルールが存在する状態では、「ベアトリーチェが切り返せない」は、「ベアトリーチェの敗北」と同じ意味だと思うのですが、どうでしょうか。
 仮に、犯行が本当に魔法で行われていたのだとしても、「赤字に抵触しない魔法以外の未知の方法Xで行われた」のほうが事実として採用され、ベアトの負けが確定するのだと思うのです。そういうルールじゃなかったでしたっけ。

 この「赤字を信じる信じない問題」って、うみねこを「真実って、いったい何なのだろう」という(真実の定義を問う)物語として読んでいるかいないかの差から発生している気がしますね。

 赤字が疑う余地のない真実、だとするためには、個々の発言が真実かどうかを判定するシステムか、判定者が必要です。裁判だったら裁判官がそうでしょうが、このゲームには、そんな存在がいるのでしょうか。
 もし「竜騎士07さん」をその存在として想定するのなら、「ベアトリーチェが欺瞞を言っている」が、「竜騎士07さんが欺瞞を言っている」にスライドするだけなんです。
 つまり、「真実を認定する特定の誰か」を想定するかぎり、「真実とはあくまで主観的なもの」になり、意識的なウソも、無意識的なウソも、想定可能になってしまう。無意識的なほうは特にまずいですな。

 さて、そこで、
「真実とは、その場における合意である」
 という考え方を導入します。これはうみねこでは頻出している考え方ですから比較的受け入れられやすいんじゃないでしょうか。
 ep1のお茶会なんかそうですね。
 その場の全員が合意すれば、「魔女はいる」が真実になる。みたいなこと。

 たとえば、キリスト教原理主義者の集会においては「神は実在する」が真実。
 イスラム教過激派テロ組織の集会では、「異教徒は滅ぼすべし」みたいなことが真実として通用しているでしょう(よく知らないがたぶん)。
 そして真里亞とベアトの2人きりの逢瀬では、「さくたろうはここにいる」が真実だったのでしょうね。楼座に殺されてしまうまでは。

     *

 さて、そこまできて、「戦人が赤字を使ったときのいくつかの現象」の話になります(長かったですね、すいません)。

 戦人は、自分が右代宮明日夢から生まれたと思い込んでいるのに、どうして「俺は右代宮明日夢から生まれた」と赤字で言えないのか。
(ここから先、以前書き込んだ赤字論を加筆修正したものになります。重複で読んだ方ごめんなさい。でも前より相当わかりやすくなってると思いますから、良かったら再読してみて下さい)

「魔女は赤字を使える」と、誰かが言ってましたね。
 つまり、赤字とは魔法であるということ。さくたろうを顕現させたのと同じシステムであると言うこと。
 赤字とは、さくたろうのようなもの。
 仮に、そう考えるとしましょう。そういう仮説を提唱するのだと思って下さい。

 真里亞とベアトリーチェが2人きりでいる状態で。
 真里亞が「いる」と信じて、ベアトリーチェが「いる」と信じれば、さくたろうは存在する(その場における合意)。
 そしてベアトリーチェは、「さくたろうはいる」と赤字で言える(その場における真実)。
 この部屋に、突然楼座が入ってくる。
 そして「さくたろうなんていません!」と言ったとする。
 さくたろうは消える(楼座にとっては存在しない)。
 楼座にとって存在しない以上、「さくたろうはいる」は真実ではない。
 だからベアトリーチェは「さくたろうはいる」と赤字で言えなくなる。

 真里亞とベアトリーチェが2人きりでいる部屋で、
 真里亞が「赤字は真実だよね」と思い、ベアトリーチェが「赤字は真実であるぞ」と思えば、赤字は真実を語るということになる(その場における合意)。

 この部屋に、とつぜん戦人が入ってきて、
「やっぱ俺、赤字が真実だとはとても思えねえ!」
 と強い信念で言ったとする。
 するとベアトリーチェは急に、「赤は真実を語る」と赤字では言えなくなる。
 なぜなら、戦人にとっては赤字は真実でないので、「赤は真実を語る」は真実とは言えなくなるから。

 ベアトリーチェは、1人きりでいるときには、「魔女はいる、魔法はある」と赤字で言える。
 ただし、そこに戦人がいる場合、急にそれを赤字で言えなくなる。
 なぜなら、戦人にとって魔法は存在しないものなので、「魔法はある」はその場の真実ではなくなるからです。
 だが、
 戦人が魔女に屈服し、「やっぱり魔法ってあるらしい……」と思ったとき。
 その瞬間、ベアトリーチェは、戦人の目の前で「魔女はいる、魔法はある」と赤字で言えるようになる。と、わたしは予想します。
 ベアトリーチェが信じ、戦人が認めた以上、その場では「魔女はいる、魔法はある」が真実として振る舞うからです。

 自分は右代宮明日夢から生まれたと、戦人は信じている。
 けれど、目の前にいるベアトリーチェが、
「コイツが右代宮明日夢から生まれたワケない」
 と思っていたとする。
 この条件のとき、「たとえ戦人が実際には右代宮明日夢から生まれていたのだとしても」戦人は赤字で言えない。


 というふうにまあ、「魔法現象」を上記のような解釈で受け入れている場合、赤字関連の現象も説明できるというこころみでした。


     *

 さて。わたしは思うのですが、
「真実とは、外部にあらかじめ存在しているものではない」
 というのが、基本的な考え方です。
 真実のモノサシ、みたいなものがあって、それにあてはめれば真実か真実でないかがわかる、というような種類のものではない。

 真実とは、各人の意志と、合意によって、その場その場で作り出されるものだと認識しているのです。
 つまり、強く願って、努力すれば、その願いを真実に変えることができる。

 むくげさんとのやりとりの中で、今日思いついたことなのですが、うみねこって、ひょっとして、こういうお話なのではないかなあ?

「魔女がほんとうにいてほしい」と願う誰かがいる。
 みんなが認めれば、それは真実になる。だから、魔女がいることをみんなに認めてもらおうとして必死に努力する。
 魔女を認めてもらうには、マスターキーが6本以上あったらだめだ。
 だから「マスターキーが5本までであってほしい」と願う。
 その願いを真実にするために、目の前の人に「マスターキーは5本しかない」ことを信じてもらおうとして一生懸命になる。
 目の前の人が、「マスターキーは5本しかない」と信じてくれれば、それは真実になるんだ。
 目の前の人は、赤い文字を信じてくれた。「マスターキーが5本しかない」ことも信じてくれた。
 あとは、魔女を信じてくれるまで、魔女が真実になるまで、ずっとがんばりつづけるだけだ……。


 こういう物語だったら、わたしは、魅力的だと思います。そしてこの魅力は、赤字に欺瞞があることを認めないかぎり、発生しないのです。



■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■


■関連記事
●赤文字論・密室を解く

 なぜ戦人は赤字で「明日夢から生まれた」と言えないのか
 グランドマスターキーの発見・もう謎なんてない
 ラムダデルタはなぜベアトリーチェに強いのか
 赤字問題は「神」や「メディアリテラシー」に似ている
 ep5初期推理その2・ノックス十戒と赤字への疑問
 ep5初期推理その8・赤で語るプレイヤーと赤い竜
 うみねこに選択肢を作る方法(と『黄金の真実』)
 疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい
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ラムダはなぜベアトリーチェに強いのか

2009年06月27日 00時02分16秒 | 赤文字論・密室を解く
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


ラムダはなぜベアトリーチェに強いのか
 筆者-初出●Townmemory -(2009/06/24(Wed) 23:50:29)・(2009/06/26(Fri) 22:58:30)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=27569&no=0 (ミラー
 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=27668&no=0 (ミラー
 Ep4当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注
 公式掲示板に投稿したふたつの書き込みをひとつにまとめて掲載します(一部、書き足しています)。
 ラムダはベアトリーチェに強く、ベルンはベアトリーチェに弱い、といった設定について、「問題解決アプローチの違い」から起こるものとして説明したものです。

「謎(問題)とは、理論と現実とのギャップである」
 という考え方は、わたしオリジナルのものではなく、森博嗣さんのとある小説に出てきたテーゼです。ゾクゾクするような発想です。
 その考え方を、そのまま当てはめました。「うみねこ」を読んでいると、森博嗣さんからの影響がかなりあるな、と感じます。

 引用部は公式掲示板・発言番号27558からです(わたしへの問いかけです)。

 以下が本文です。


     ☆


(引用)ありゃ? マスターキー6本目ですか。「マスターキーは5本しかない」の赤字回避は、なにがしかの方法でしているわけですね。(引用終了)

 赤字は、回避というより、
「赤字は必ずしも真実ではない! ドーン!」
 で、ひっちゃぶきました。

 ベアトリーチェは、鍵が6本あるくせに、5本しかないとウソっこをついていると思います。
 いや、マスターキーでなくても、全部の鍵がついた鍵束でも良いし、楼座は4本しか鍵を管理しなかった・楼座たちはマスターキーは4本で全てだと思っている、でも良いですが、ようは、赤字のどこかが嘘。

 赤字がぜんぶ真実だとすると、
「この密室のときは、この人が嘘をついている。この謎のときには、この人が事実を誤認している」
 というふうに、条件が複雑になってしまいますが、
 赤字を信じないことにすれば、
「ひとりの人物が、一個だけ、嘘をついている」(ベアトリーチェが、「赤字は真実」という嘘をついている)
 これだけの条件で、すべての謎を構築できるので、その合理性を取りました。

 わたし、これを「ラムダデルタ式解法」と、心の中で呼んでます。
 小冊子に出てきた、ベルンカステルは迷路を全部マッピングする人、ラムダデルタは壁に穴を開けてまっすぐ通る人、という表現ですね。
 赤字を論理的にかいくぐって、どうやったら謎が解けるか考えるのは、迷路の行き止まりを一個一個チェックしていくベルンカステル式解法。
「でも、この迷路、壁が障子紙でできてるじゃなーい」
 といって、風雲たけし城かウルトラクイズみたいに、ズバンズバンと穴を開けちゃう(赤字なんてないものとして扱う)のが、ラムダデルタ式解法。

 聞いた話では、「障子を破っちゃいけない」というのは、日本人が生活の中で自然に縛られてしまった文化的ルールにすぎなくて、障子を初めて見た外国人なんかは、
「ひゃっはー、これ紙で出来てるぜーいえー」
 なんていって、ずばずば手を突っ込んじゃうそうですよ。

 破れるものが張ってある以上、破っていいんだろ、という発想をするらしく、「破らないように使うものだ」という発想にはならない(ケースが多々ある)らしい。

 赤字って、「なんか破っちゃいけないような気がするから、破らないようにしてしまう」文化的トリックなのではないかという気がしています。


-----------------


 赤字の扱い方について、「ラムダデルタ式解法」「ベルンカステル式解法」という話を、別スレッドでしました。
 そこから連想したことを、もうひとつ。

 ラムダ・ベルン・ベアトの3人で、ジャンケンのような3すくみになる、という話がありました。

 ラムダデルタは、ベアトリーチェのゲーム盤に対して強い。
 ベルンカステルは、ベアトリーチェのゲーム盤に対して弱い。


 この意味を解いてみたい。

     *

 さて、唐突ですが。
「謎」というのは、つきつめると、「リクツと現象が一致しない」ことです。

 たとえば。
 殺人犯は逃亡したのだから、犯行現場のドアは開いているはずだ(というリクツ)。
 しかし、ドアには内側からカギがかけられていた!(という現象)

 このテの「リクツと現象の不一致」のことを「密室」と呼んだりしています。

 だから、「謎を解く」ということは、単純化すると、「リクツを変えるか、現象を変えるか」という二択です。

 すなわち。
「ドアが施錠されててもかまわないことにする(何らかのトリックを使って)」
 か、
「ドアは施錠されてなかったことにする」
 か、どちらかが成り立てば、この密室の「謎は解けた」ことになります。

 前者のアプローチで謎を解くのがベルンカステルで、後者のアプローチで謎を解くのがラムダデルタです。

     *

「ひぐらし」の話をします。

 ベルンカステルは、「ひぐらし」というゲーム盤の指し手だと推測されますね。
 ベルンカステルが、古手梨花という駒を動かし、「古手梨花が生還する」という条件を導ければ勝ち。

「このリクツで駒を動かしたら、梨花が生還できる(という現象が発生する)と思っていたけれど、生還できなかった(リクツと現象の不一致)。つまりリクツが間違っているんだ。別のリクツを試してみよう」

 というアプローチで、「どうして梨花は生還できないのか」という「謎を解いた」のが、ベルンカステルです。リクツのほうを動かしました。


 さて。
 ラムダデルタも、「ひぐらし」というゲーム盤の指し手だと推測されます。
 彼女が指していたキングの駒は、鷹野三四です。

 鷹野三四は、リクツと現実が齟齬をきたしたら、現実のほうを変えてしまえ! という方向性を持った人です。

 雛見沢症候群です。
「雛見沢病原菌の女王感染者が死ぬと、雛見沢症候群の全感染者(全村民)が発狂状態になり凶暴化する」
 という「仮説」を、彼女は持っていました。

 結果的に、この仮説は正しくないことが、作中で実証されます。
 されますが……。

 鷹野三四は素晴らしく高度な知性を備えた人物です。だから、
「この仮説って、ひょっとして正しくないかもしれない」
 という可能性を、想定していなかったはずがないのです。

 でも、彼女にとっては、「仮説が正しいか、正しくないか」なんて、問題ではなかった。
 その仮説は、「絶対に正しくなければならない」ものだったのです。
 なぜなら、養父・高野一二三の名誉がかかっているから。この仮説は、高野一二三が命がけで提唱したものだったから。

 彼女のとった方法は、
「この仮説が正しい、という“現実”を作ってしまう」
 ことでした。

 女王感染者・古手梨花を殺し、雛見沢村民を完全虐殺する。
 これで、仮説は「正しかった」ことになる。
「間違いだったかも」などと言い出せる者はいなくなる。言い出した瞬間、大量虐殺の責任を負わねばならなくなるからです。よって、社会的に「高野一二三は正しかった」という認定がなされる。

 リクツと現実が一致しなさそうになったら、「現実のほうを動かした」のが彼女なのです。

     *

 さて。
 自分の考えと目の前の現実が一致しない。現実を変えるわけにはいかないから、自分の考えを変更しよう。
 というのが、ベルンカステルでした。

 このアプローチは、常識的です。
 ですが、
 現実というものが、固定されていて、そうそう動いたりしないものだからこそ、このアプローチは成立するのです。

 わたしは自分が太ってないと思う(そういう理論)。
 けれど、体重計に乗ったら、3キロも増えてた(そういう現実)。
 10回体重計に乗って見たけど、10回とも3キロ増だった(現実の固定)。
 ああ、じゃあわたしは太ったんだ(理論の変更・真相への到達)

 でも、こうだったらどうでしょう。

 わたしは自分が太ってないと思う(そういう理論)。
 体重計に乗ったら、3キロも増えてた(そういう現実)。
 2回目を計ったら、4キロ減ってた(新たな現実)。
 3回目を計ったら、5キロ増えてた(さらに新たな現実)。
 4回目を計ったら、7キロ減ってた(さらに新たな現実)。
 わたしは太ったんだか痩せたんだかわからない(真相へたどりつけない)。

 そして、このように、「計るたびに結果が変動する」のが、ベアトリーチェのゲーム盤なのです(毎回ちがう現実が観測されるから)。ベルン式のアプローチで真相にたどり着くのは難しい。


 ところで、ラムダデルタは、
「自分の考えと目の前の現実が一致しない。じゃあ私の考えに合うように現実を変えちゃおう」
 という人ですから、現実が変動するベアトリーチェのゲーム盤への対応力があります。

 私ってば最近けっこう痩せたのよ!(そういう理論)
 体重計に乗ったら、3キロも増えてた(そういう現実)。
 2回目を計ったら、4キロ減ってた(新たな現実)。
 3回目を計ったら、5キロ増えてた(さらに新たな現実)。
 4回目を計ったら、7キロ減ってた(さらに新たな現実)。

 1回目と3回目の結果は、ノイズだから、採用しないんだからね!つーん!(現実の変更)

 体重が減ってるという結果しか残らないから、やっぱり体重は減ったのよ!やっぱり私ってば絶対ね!(理論の確定・真相への到達)

 というように、ラムダデルタ式のアプローチを使えば、ベアトリーチェのゲーム盤でも「真相に到達」できるのです。

 ベアトリーチェのゲーム盤には、都合のいいことに、「幻想描写」というイイワケが用意されています。
「私、こんな仮説を用意したわ。仮説を否定する現象があるけど、それはぜーんぶ幻想描写だからかまう必要ないの。それ以外の現象はみーんな私の仮説を裏打ちしてくれるわ。よって私は正しい! 正しい答えを言い当てたんだからベアトの負け!」

 こんな暴論をぶっぱなして、ラムダデルタは勝利してしまいます。

 いや、これって、
「勝手な想像を真相だと言い張って、勝手に勝利宣言してるだけで、“ほんとにあったこと”を言い当ててないじゃん」
 というふうに言えそうですけれども……。

 でも、このゲーム盤には、
「否定されないかぎり真相だと言い張って良い」
 という特殊ルールが設定されてますから、なんと、これでいっこう構わないわけです。
 鷹野三四が、仮説が合ってるか合ってないかなんて、全然構う必要がなかったのと、同じ状況なんです。

 まとめると、
 ラムダデルタは「現実をムリヤリ固定させる」ので、現実を変動させてケムに巻くベアトリーチェに対して強い。
 ベルンカステルは、「固定した現実を基準にして正しい理論を探る」ので、現実を変動させてケムに巻いてくるベアトリーチェに弱い。
 ベルンカステルは、「固定した現実を基準にして正しい理論を探る」ので、現実を固定して基準値を作ってしまうラムダデルタに対して強い。

 誰が誰に対して強い、というあの設定は、
 ラムダデルタ(が得意とする問題解決アプローチ法)は、ベアトリーチェ(が得意とする謎構築法)に対して強い、
 というように、ことばを補って理解すると、筋が通るように思うのです。

     *

 ついでに。
 ほんとうにラムダデルタがベアトリーチェに対して強いかどうか、想像力でかってに検証してみましょう。

 たとえばこんな設定で。
「事件の日の六軒島に、“住み込み家庭教師・鷹野三四”という登場人物がいたとしたら?」

 わたしの想像では、「この屋敷のどこかにいる誰かは殺人犯だ。自分も狙われてる」と判断した瞬間、彼女は屋敷にいる全員を皆殺しにかかるのではないかな?
 全員殺せば、その中には犯人・犯人グループがいる道理です。自分の安全が確保できれば良いわけで、べつに犯人特定の必要なんてない。
 あとは、一晩かけてゆっくりと、自分が罪に問われないようにする言い訳と、その証拠を捏造すれば良い。
 犯人の望んだ真相ではなく、彼女が捏造した真相が「真相」となるのです。ベアトリーチェはこれに異議をとなえられない……。



■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■


●関連記事
●赤文字論・密室を解く

 なぜ戦人は赤字で「明日夢から生まれた」と言えないのか
 グランドマスターキーの発見・もう謎なんてない
 ラムダデルタはなぜベアトリーチェに強いのか
 赤字の真偽と、「真実」の定義について
 赤字問題は「神」や「メディアリテラシー」に似ている
 ep5初期推理その2・ノックス十戒と赤字への疑問
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 疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい
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グランドマスターキーの発見・もう謎なんてない

2009年05月28日 01時03分27秒 | 赤文字論・密室を解く
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■

 Ep4当時に執筆されました]


     ☆


 このブログにお越しのみなさん、こんにちは。

「うみねこ」公式掲示板のリンクから飛んで来られたのでしょうか。
 それとも、検索サイトから飛んで来られたのでしょうか。

 どちらにしても、嬉しいです。

 推理の本論については、下の方に「目次」がありますから、そこから順繰りに読んでいただけると、わかりやすいようになっています。

(注:迷い込んだ方へ。このブログは、とてもとても難しい推理ゲーム「うみねこのなく頃に」に関する推理をまとめた場所です。おもしろいですから、興味があったら、ここを読むのをやめて、あそんでみて下さい)

 さて。
 せっかく来て下さったのに、掲示板の書き込みと同じものがあるだけというのは、バリューがないですね。
 なので、この書き込みは、ブログに来て下さった人だけの特別版です。

「うみねこのなく頃に」のゲーム内に登場する、
 すべての密室殺人、犯人不明殺人の解き方をお教えします。

 解き方なんてあるの?

 あります。
 すべての殺人事件は、たったひとつのトリックで行われていた、と考えるのです。
 そして、全エピソードの全殺人を、たったひとつの鍵で開けます。

 密室も南條殺しも夏妃殺しも、同じトリックなので、同じ鍵で開きます。


 みなさん、どうやったらep2の南條を殺せるのか、誰だったら可能なのか、必死で考えたでしょう?
 私も考えました。
 そして結論しました。
 ゲーム内で与えられた条件では、不可能です。

 まず、これを認めること。
 これを認めるのは、敗北に思えるかもしれませんが、違います。
 この事実を認めることが勇気であり、攻撃なのです。魔女はこの勇気を恐れます。魔女は「どうせそんな勇気、持っていないだろう」とあざわらっています。

 まず認める。
 ここからが発想なのです。
 では、最低、どんな条件があったら、南條を殺せるだろうか、と考えるのです。
 南條の事件にかぎりません。ep1の絵羽夫妻殺人の密室。6連鎖殺人。朱志香の部屋。いったい何が、不可能に見せているのだろう。何があったら、可能だったろう。

 合い鍵?
 いいセンです。
 でも、「マスターキーは5本しかない」って赤字で言われちゃっています。
 それに、「誰が」という問題が残ってる。全員にアリバイがあるじゃないか。

 そこで。
 以下の2点の条件がもし揃ったら、全部の殺人が可能じゃないでしょうか。
 すなわち。

●「赤字には真実でないものが含まれている」
●「アリバイが幻想シーンで作り出されている」


 南條殺しを不可能にしているのは、死体状況ではありません。
「赤字」です。
 赤字が、「死亡者はまちがいなく死亡している」「生存者には殺害は不可能だった」と言うから、不可能になっているのです。

 密室は、隠し扉でも、鍵を通すスキマでも、いくらでも疑えます。
 それを疑えなくしているのは「赤字」です。
「スキマや隠し扉はない」と赤字が言うから、疑えなくなっているのです。

 つまり、密室を密室にしているのは、ドアの鍵などではありません。
 赤字なのです。
 ドアに鍵がかかっているから入れないのではありません。
 我々の思考に、「赤字」というロックがかかっているから入れないのです。

 では、結論はもう出ているではないですか。

●「赤字を信じない」
●「幻想で上書きされているから、アリバイを信じない」


 これで、すべての殺人が可能になりました。もう謎はありません。


 えーっ、ていう声が聞こえてきそうですね。
 自分は、ベアトを信じたいとか。
 ルールだから守られるはずだろうとか。
 それは、各人の自由です。
 鍵を使わずにドアを開けて中に入りたい、という希望を持って、努力するのは自由です。
 でも、私は鍵を使ってガチャッっと鍵を開けて入ります。だって鍵持ってるし。


 そう、鍵です。
「赤字を信じるか・信じないか」という論点になると、それは信念の問題になってしまい、実証不可能です。赤字がほんとかうそかは、誰にも確かめられない。
 赤字が真実か、真実でないかを知っているのはベアトリーチェだけです。
 つまり証拠はベアトリーチェの頭の中にしかない。
 ところが我々は、ベアトリーチェの頭を切り開いて中身を確かめることはできない。つまり証拠は、彼女の頭脳という「密室」の中に閉じこめられているのです。

 密室?

 ということは、「シュレディンガーの猫箱」ということ。

「赤字が真実か、真実でないか」。その答えは、密室の中に厳重に隠されていて、観測ができない。
 どっちかわからない。
 なら両方の可能性が、並列に、ならんで存在できるということ。
 ということは、どっちか好きな方を取ればよい。
 その権利がある。

「何が起こったのかわからない」という六軒島の密室状況の中で、
「魔法で殺人が行われた」という説と、
「人間の犯人が殺した」という説と、
 両方が同時に主張できて、どっちが間違いとは決められないということ。
 戦人は、「人間犯行説」を、「信念」だけに基づいて信じて良いということ。

 じゃあ、「赤字は真実とは限らない」を、信念に基づいて信じたら良いじゃないですか。

 でも、これだけでは、戦人とベアトがやっていることと同じで、水掛け論になってしまいますから、「赤字は真実とは限らない」ことを、ベアトに認めさせることにしましょう。
 その方法があります。
 カンタンです。
 みんな、うすうす気付いているでしょう?
 気付いていて、「それはやだなあ」と思って、みずから封印しているだけでしょう。

 その方法とは。
「赤字で語られることは、真実とは限らない」と、青字で言えばよい。

 ゲームのルールにより、ベアトリーチェは、戦人が青字で言ったことを否定できなかった場合、敗北になります。
 そこでベアトリーチェは、
「赤にて語ることは真実」
 と、赤字で言うでしょう。

 ところが、その赤字が真実かどうかが問われているわけです。
 つまり、赤字で「赤は真実」と言ったとしても、「赤字は必ずしも真実ではない」を否定したことにならない。
「赤字は真実」と赤字で言ったら、その赤字を真実であると証明しないかぎり、「赤は真実」にはならないからです。
 赤字は真実だと証明しない限り赤字は真実だと証明できない。
 つまり青字を切れない。
 青字を切れなかったら敗北です。

 そこでたとえば、「妾が緑字で語ったことは真実。そして赤字は真実」と緑字で言ったとしましょう。
 戦人は青字で「緑字は必ずしも真実ではない」と言う。
 すると今度はベアトは、緑字を真実だと証明しないかぎり緑字を真実だと証明できず、緑字が保証した赤字を真実だと証明できないことになります。

 つまり、戦人の「無限後退」を阻止するための赤字であったのに、当のベアトが無限後退をさせられてしまう。そういう状況が発生するのです。
 そして、ベアトリーチェが、ショッキングピンクだのペールイエローだの、思いつくかぎりの色の名前を挙げて、思いつかなくなったころ、戦人はこう言えば良い。

「ベアトリーチェが真実を保証する言葉は、必ずしも真実ではない」

 これで無限後退が阻止されます。
 ベアトリーチェはこれを切れません。
 切れなかったら敗北です。

 つまり、「赤字は真実とは限らない」が確定します。
 仮に「赤字は実は物理的絶対的な真実」だったとしても、ベアトの敗北が確定します。

 この戦法の強さは、「仮説を一切使用していない」という点にあります。
「~かもしれない」が入り込む余地が、ないのです。
 ということは、ベアトリーチェはこの戦法から、絶対に逃れられないのです。

 いや……ひとつだけ、逃れる手段がありました。
「妾はルールを守らぬ!」
 つまり、ダダをこねて負けを認めない。
 これでムリヤリ、戦人勝利を失効させる。これでゲームを続行させる……させたとしましょう。

 ところが、ベアトは以前、
「妾は約束を守る」
 と赤字で言っていますよね。
 つまり、「ルールを守らない」宣言をした瞬間、「赤字は真実とは限らない」が確定するのです。


 そう。
「赤字は真実とは限らない」のです。
 この魔法の言葉によって、全ての「赤字ロック」が解錠されます。
 すべての謎が、たったひとつの鍵で開きました。

 これが、「さいごのかぎ」。
「アバカムの呪文」。
 マスターキーよりも上位にある、「グランドマスターキー」です。


 この鍵さえあれば。
 全ての殺人事件が、人間による犯行可能だったことになります。
 戦人は、妹のもとへ帰れます。

 謎はありません。
 6本目のマスターキーで犯行に及んでもいい。隠し通路で出入りしてもいい。糸でかんぬきをかけてもいい。
 生きている人間にも、死んでいる人間にも、アリバイは一切なくなります。
 誰にでも犯行は可能です。


 え?

 じゃあ、犯人は誰なのですか。
 いろんな方法が考えられるうちの、どの方法で犯行に及んだのですか?


 その答えは、「不定」。
 つまり、決められません。
 どうして決めなければいけないのですか?
 戦人の勝利条件は、魔女を否定すること。すべての謎を人間犯行説で説明することです。
 それができました。
 それでOK。
「真犯人を当てる」とか「方法を見つける」とかは、魔女否定の手段にすぎません。手段と目的を混同してはいけない。目的を達成できるなら、方法は何でもいい。

 だって、「推理は可能か不可能か」って銘打った作品ですからね。
 この作品は、「犯行状況を調べ、殺害方法を特定し、それが可能だった人物を消去法であぶりだす」という方法では、犯人を見つけられないのです。
 そういうふうにできている作品なんです。
 そこが新しいんです。


 でも、そんなのキモチワルイじゃないか。
 勝ちは勝ちかもしれないけれど、真相がわからないなんて。
 誰がやったんだよ! どうやってやったんだよ!

 そんな声が聞こえてきそうですよね。


 それは。
 あなたが好きに決めたら良い。

 それを「自由」と呼ぶのです。


 我々はゲームを遊ぶとき、よく「自由度が高い」とか、「自由度が低い」とか、言うじゃないですか。
 このゲームは、最高に自由度が高いゲームなんです。それを楽しみましょう。



■関連記事
 以下、「赤字」関連のエントリをまとめたアンカー集です。

●赤文字論
 なぜ戦人は赤字で「明日夢から生まれた」と言えないのか
 グランドマスターキーの発見・もう謎なんてない
 ラムダデルタはなぜベアトリーチェに強いのか
 赤字の真偽と、「真実」の定義について
 赤字問題は「神」や「メディアリテラシー」に似ている
 ep5初期推理その2・ノックス十戒と赤字への疑問
 ep5初期推理その8・赤で語るプレイヤーと赤い竜
 うみねこに選択肢を作る方法(と『黄金の真実』)
 疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい

 Ep6紗音による救出は「ベアトを殺す一手」ではない
 Ep7をほどく(11)・そしてアンチミステリーへ
 Ep8を読む(7)・黄金を背負ったコトバたち
 Ep8を読む(8)・そして魔女は甦る(夢としての赤字)
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なぜ戦人は赤字で「明日夢から生まれた」と言えないのか

2009年05月27日 04時28分26秒 | 赤文字論・密室を解く
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なぜ戦人は赤字で「明日夢から生まれた」と言えないのか
 筆者-初出●Townmemory -(2009/05/24(Sun) 06:42:33)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=25593&no=0 (ミラー
 Ep4当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注
「チェックメイト―ー黄金郷再び・金蔵翁の黄金郷」の直前に書いた書き込みです。
 赤字を破るするのはカンタンだ、ということを言おうと思いました。眠いときにさらっと書いたので文体がなげやりです。
 強調して言いたいのは、赤字というのは障子紙みたいなものだということです。なんとなく破っちゃいけないような気がするから、みんな破らずに戸を開けようと必死になっているけど、障子紙なんだから手をつっこんでかんぬきを外せば良い。

 大事なことは、赤字は「字である」ということ。字であるということは、書かれたものであるということ。ということは、書いた人物が、自分に有利なように書き足したり消したりしたかもしれないということ。それを常に疑ってかからなければならないということ。戦人とかベアトリーチェとか、全部「書かれた存在」にすぎません。

 ちなみに、以下に書いた説を、私は全面的には採用していません(部分的にはしています)。こんなリクツをこねなくても、一発で吹き飛ばす方法があります。あるように見えるだけで、密室なんて存在しません。

 少し加筆しました。
(090630追記・さらに加筆し、文末に追記を加えました)

 以下が本文です。


     ☆


 オーラスの書き込みをしたら、そのあと黙ってしまいそうだから、先に大事なことを書いておきます。

 赤字の破り方。

 赤字は基本的に、どんな方法でも破れる。その一例を挙げます。

「赤は真実を語る」と、ベアトは赤字で言ってます。けれど、赤字が真実であることは赤字では証明できない。赤字が真実であることを赤字で証明するには、赤字が真実であると証明しなければならないからです。

 では、「赤は真実を語る」は真実ではないのか?

 それを考えるためには、「真実」を定義しなければならない。
 しかし、その定義は作中にはない。
 つまり、「真実」が何を意味するかは、言ってる各人が勝手に決めてよい。

 極端な話、「私はウソのことを真実と呼ぶ」という定義がなされている人物の赤字は、全部ウソってことになる。

 だいたい、この物語、「真実っていったい何? 証拠もないし、何も証明できないじゃん」という話じゃないですか。
 だから、真実は各自が主観で勝手に決めていいってことになっている。

 赤字だけがそれを逃れえる、なんていう考え方は変だ。いったい誰が「事実かどうか」を判定しているのかという話になってしまう。

 すなわち、ここでの真実とは「主観的真実」。言ってる本人が真実だと信じている内容は、たとえ事実が違っていても赤字で言えるのではないか、という仮説が出てくる。

 ……ここまでは既出の論。

 でもこの論を提唱する人は、重大な反証にぶつかる。

 戦人は、自分が右代宮明日夢から生まれたと思い込んでいるのに、どうして「俺は右代宮明日夢から生まれた」と赤字で言えないのか。

 とりあえずここを破ることにしましょう。

「魔女は赤字を使える」と、誰かが言ってましたね。
 つまり、赤字とは魔法であるということ。
 この作品において、魔法とは何だったか。
 ありもしないものを、「ありもしないと検証できない」状態におくことで、まるで存在するかのように振舞わせてしまうトリックのことです。

 赤字とは、さくたろうのようなもの。
 仮に、そう考えるとしましょう。そういう仮説です。

 真里亞とベアトリーチェが2人きりでいる状態で。
 真里亞が「いる」と信じて、ベアトリーチェが「いる」と信じれば、さくたろうは存在する。
 そしてベアトリーチェは、「さくたろうはいる」と赤字で言える。
 この部屋に、突然楼座が入ってくる。
 そして「さくたろうなんていません!」と言ったとする。
 さくたろうは消える(楼座にとっては存在しない)。
 楼座にとって存在しない以上、「さくたろうはいる」は真実ではない。
 だからベアトリーチェは「さくたろうはいる」と赤字で言えなくなる。

 真里亞とベアトリーチェが2人きりでいる部屋で、
 真里亞が「赤字は真実だよね」と思い、ベアトリーチェが「赤字は真実であるぞ」と思えば、赤字は真実を語るということになる。

 この部屋に、とつぜん戦人が入ってきて、
「やっぱ俺、赤字が真実だとはとても思えねえ!」
 と強い信念で言ったとする。
 するとベアトリーチェは急に、「赤は真実を語る」と赤字では言えなくなる。
 なぜなら、戦人にとっては赤字は真実でないので、「赤は真実を語る」は真実とは言えなくなるからだ。

 ベアトリーチェは、1人きりでいるときには、「魔女はいる、魔法はある」と赤字で言える。
 ただし、そこに戦人がいる場合、急にそれを赤字で言えなくなる。
 なぜなら、戦人にとって魔法は存在しないものなので、「魔法はある」は真実ではないからだ。
 だが、
 戦人が魔女に屈服し、「やっぱり魔法ってあるらしい……」と思ったとき。
 その瞬間、ベアトリーチェは、戦人の目の前で「魔女はいる、魔法はある」と赤字で言えるようになる。
 ベアトリーチェが信じ、戦人が認めた以上、その場では「魔女はいる、魔法はある」が真実として振る舞うからだ。

 自分は右代宮明日夢から生まれたと、戦人は信じている。
 けれど、目の前にいるベアトリーチェが、
「コイツが右代宮明日夢から生まれたワケない」
 と思っていたとする。
 この条件のとき、「たとえ戦人が実際には右代宮明日夢から生まれていたのだとしても」戦人は赤字で言えない。

 これで、「赤字の真実とは主観的真実」と、「俺は右代宮明日夢から生まれたと戦人が赤字で言えない」が、両立しました。

    *

 ベアトリーチェが、「マスターキーが5本しかない」と自分で信じていて、
 なおかつ、戦人が「マスターキーって5本だけなのかそれ以上なのかわからない……」と真偽不明の気持ちでいるとき。
 ベアトリーチェは「マスターキーは5本しかない!」と赤字で言える。

 ただし、戦人が、
「マスターキーは絶対6本ある! だって俺見たことあるもん!」
 と信じていたら、ベアトリーチェは「5本だ」と赤字で言えない。
 このとき「戦人は、6本めのマスターキーを見たと思い込んだだけで、実際にはない」状態だったとしても、ベアトリーチェは「5本だ」と赤字で言えない。

 さあここで、「ベアトリーチェ」という存在は、大まかに、2種類いるわけです。
「現象ベアトリーチェ」と、
「魔女ベアトリーチェ」。

「現象ベアトリーチェ」は、ドレスを着て赤字で喋ってる人です。
「魔女ベアトリーチェ」は、下の世界で人殺しを繰り返してる殺人犯のことです。ときどき、ブレザーを着て登場したりする。

「魔女ベアトリーチェ」が6本めのマスターキーを隠し持っていたとしても、「現象ベアトリーチェ」がそれを知らなければ、「マスターキーは5本しかない」と赤字で言えます。

 これで、6本めのマスターキーを存在させることができました。あとは施錠系の密室を開け放題です。


    *

 さて、魔女は赤字が使える、ということでした。
 ということは、赤字は魔法である、ということになりました。
 すると、赤字を使える戦人は魔女であるということになります。

 いいの?

 いいんです。

 この物語の「魔女」ってどういうものでしたっけ。
「真実の上に主観を上書きしちゃう人のこと」でしたよね。
 真実は「殺人犯が殺人を犯した」なのに、ベアトリーチェは「魔女が魔法を使った」という主観的イメージを上書きして、しかもそれを、戦人に「認めろ!」って強要している。
 そういう人のことを魔女といいます。
 でも、「真実」ってのは、主観が決めるんだっていう話だったでしょう?
 ということは、
「魔女が魔法を使った」というのが真実なのに、「殺人犯が殺人を犯した」という主観的なイメージを上書きして、しかもそれを、ベアトリーチェに「認めやがれ!」って強要しているのが、戦人っていうことになります。
 そういう人のことを魔女といいます。

 戦人=魔女、が、成立しました。

 つまり戦人は、自分が魔女なのに、魔女なんていないって言ってる人ということになります。


●追記(090630)
 よく考えたら、上位ベアトリーチェ(現象ベアト)は、「マスターキーは6本以上ある」と知っていてもかまわないな、と思うようになりました。
 ベアトリーチェも真里亞も、存在しないさくたろうを、「いてほしい」と願うことによって、存在させたのですから。
 ベアトリーチェは、魔女を信じてもらうために、「マスターキーが5本だけであってほしい」と願えばいいのです。願って、それを目の前の人に信じてもらえれば、「マスターキーは5本しかない」が真実になるのですね。


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