さいごのかぎ / Quest for grandmaster key

「TYPE-MOON」「うみねこのなく頃に」その他フィクションの読解です。
まずは記事冒頭の目次などからどうぞ。

疑うという“信頼”(下)・古戸ヱリカの見た地獄

2010年03月09日 07時26分18秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


疑うという“信頼”(下)・古戸ヱリカの見た地獄
 筆者-初出●Townmemory -(2010/03/09(Tue) 07:23:17)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=41812&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


     ☆


「疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい」という記事の、直接的な続きです。(上)をあらかじめ読まないと、理解できない場所があるかもしれません。


●真偽が分からないから苦しい

 ヱリカは、「浮気をしていない、ヱリカを愛している」という恋人の主張を論破し、しりぞけたようです。
 でも、ヱリカが本当にしたかったことは「論破」ではないはずです。
 ヱリカは相手に、浮気を認めさせたいのではなく、
「私はあなたをこんなに愛しているのだ、それを認めて欲しい」
「私のほうを向いてくれることで、それを表して欲しい」
 と願っていたはずなのです。
 外面的には、「恋人の浮気を詰問する」という行動を取ったわけなのですが、そこにこめられている感情は、
「愛して欲しい」
 であったにちがいないのです。

 ヱリカが、恋人に求めていた答えは、
「浮気をしていたことを認める。その上で浮気相手とはきれいに別れ、ヱリカだけを愛すると約束する」
 といった落としどころだったであろう、と思います。

 ところが、恋人の答えは、
「浮気なんてしてねぇ~よ、おまえのことは愛しているし」
 でした。
(状況からいって、たぶん)

 ヱリカから見れば、浮気をしているというのは物証のある確実なことなのです。ということは、彼のこの答えは、
「俺は今後も“ふたまた”を続ける」
 という宣言であるも同然です。

 だからこれでは、たとえ「愛している」というセリフを聞いても、額面通り受け取ることができません。この答え方では、ヱリカは「ちがうでしょう、浮気をしているでしょう!」という詰問をやめることができないのです。

 彼は「愛している」と言っているのに、それを真実として受け取ることができない。
 そういう状況が発生しています。

 欲しくてたまらない「愛している」という言葉。なのに、その言葉の「真偽」が判定できない。

 古戸ヱリカは、きっと、「真偽が判定できない言葉」に苦しめられたのです。

 ドラノールも言っていますが、彼の「愛している」という言葉を、ヱリカは真実とは思えない。でも彼は、それ以上の「真実を証明する方法」を持ち合わせていません。
 古戸ヱリカは、「その真実」が欲しくてたまらないはずなのに、それを真実だと思うことができずにいる。

 もし、人間の世界に赤い文字があったら、赤い字で「愛している」と言って、それで真実になるのに。

 だからヱリカは、こんなことを言うのでしょう。


「………私は今、幸せです。………仮とはいえ、真実の魔女になれて。
 ……今の私は、もう、赤くない言葉に苦しめられなくて済むのだから。」


 ヱリカは、「赤」に強く執着しているような印象があります。
 人間の世界には、真実が保証される赤い文字はありません。
 ヱリカにしてみれば、魔女の世界の赤い文字にこめられた「疑問を抱く必要がない信頼性」は、救いのように感じられた……のかもしれません。

 真実の「赤」さえあれば、真偽不明の言葉に煩悶することはないのです。


●古戸ヱリカの「か弱い真実」

 ドラノールは、2回にわたって、「古戸ヱリカのか弱き真実」のことを口にします。

 …………あなたのような男が世界にいてくれたナラ。
 どのような傲慢からも、か弱き真実を守ってくれたに違いナイ。
 もっともらしい一つの真実が、か弱き真実たちを駆逐し、唯一の真実であると語る横暴から、……本当の真実を守ってくれたに違いナイ…!!
(Episode5)

「……傲慢を、お許し下サイ。……私は、守らねばと思いマシタ。……あなたがどんなか弱い真実で生き、それをよりもっともらしい虚実の横暴で虐げられてきたか察したとき。……あなたを守りたいと思いマシタ。」
(Episode6)


 たとえば。
 疑う余地がないとされる赤い文字が「力強き真実の言葉」だとしたら、赤い文字を使うことができない人間たちの主張はすべて、「か弱き真実の言葉」といえます。

 Ep5でドラノールは、戦人を見て、「か弱き真実の守護者だ」という感想を抱きました。
 このとき戦人が何をしていたかというと、
「赤い文字を使えないがために、殺人犯の汚名を着せられそうになっていた夏妃を、たった1人で守り抜いた」
 のでした。

「自分は犯人ではない」という夏妃の主張は、赤い文字を使うことの出来ない「人間のか弱き真実」でした。
 だからたとえば、「ヱリカを愛している」という恋人の主張は、赤い文字を使うことのできない「人間のか弱き真実」であるといえます。

 ところが、その「彼氏のか弱き真実」を、嵐のような論証でボコボコに打ち砕いたのは古戸ヱリカその人だったわけです。
 古戸ヱリカは、か弱い真実どころか、それを打ち砕く「横暴な真実」の側じゃないのか? という疑問が生じます。

 でも、ヱリカと恋人のエピソードを読み直してみると、以下のようなことが言えそうなのです。

「そんなに疑うってことは、おまえは俺を愛してないんだろ」という「青」
 を、ヱリカもまた、つきつけられている。


 人間であるヱリカは、この「青」を赤で斬ることができません。

「ヱリカは彼を愛している」のです。それが真実であるにも関わらず、真実性を証明できないため、「真実でない」ことにされてしまいました。
 それで、「お前が俺を愛さないなら、俺もお前を愛するのをやめる。別れよう」という論法が発生し、ヱリカは振られてしまうのです。

「私はあなたを愛している」
 という「か弱い真実」は、
「お前はもう俺のこと愛してないんだよ」
 という、もっともらしい横暴な真実に打ち負かされてしまったのです。

 たぶん、ヱリカが「か弱い真実で生き」てきたというのは、これひとつのことではないと思います。
 これに類することが、いくつもあったのだろうと推測します。
 守りたい小さな真実が、ヱリカにも、いくつもあった。それらは、より強くてもっともらしい「大きな真実」に押しつぶされてしまった。
 その繰り返しが、今のヱリカを作ったのだろうと想像します。


●ヱリカが落ちた「真実しかない」地獄

 ヱリカは、自分の体験した地獄は、ラムダやベルンが経験した地獄よりも深い、と言っています。
 彼女の経験した地獄とは、
「ただ、真実があった」
 というものである、と語られます。

 その真実に「耐える」力を持ち得たから、ヱリカは「真実の魔女」であるのだ、とヱリカ本人が言っています。

 でも、「ただ、真実がある」ということが、どうして「地獄」なのだろう?
 この問題を、これまでの話の延長上で考えてみます。

     *

 ヱリカの願望は、
「恋人が、私を愛してくれている」
 という「真実」があってほしい、というものでした。(と、思います)

 だから、恋人が浮気をしていないか気にして、確かめようとしたのです。

 確かめた結果、彼が浮気をしている証拠が84点、発見されました。

 それを発見したのは、ヱリカです。
「彼は浮気をしている」という結論を導いたのは、ヱリカです。
 俺は浮気をしていない、という「か弱い主張」を打ち負かし、「あなたは浮気をしている」という力強い真実を打ち立てたのは、ヱリカでした。

 つまり……。
「恋人が、私を愛してくれている」という真実が欲しくてたまらなかったのがヱリカなのに、
「恋人は、私以外の人を愛している」という真実を打ち立てることで、それを蹂躙してしまったのはヱリカ本人なのです。

 地獄というのは、これじゃないかな……と思ったのです。

 ほんとうに大切にしたい「小さなか弱い真実」を、打ち負かして泥にまみれさせてしまう「より強力な真実」。それをどうしても自分自身で発見してしまうこと。

 必ず自分で見つけてしまうので、小さな願いを打ち負かす冷酷な「真実が、いつもある」こと。

 たぶん、古戸ヱリカは頭が良すぎるのです。それが、きっと、彼女の地獄の正体です。

 頭の回転がにぶければ、冷酷な結論にたどり着くのを、えんえん引き延ばして遅らせることができます。
 あまりたくさん考えない人は、「思考停止」することで、いやな感じがする方向にはものごとを考えない、ということができます。

 でも、目が良すぎ、感覚が鋭すぎ、頭の回転が速すぎる古戸ヱリカにはきっとそれができない。自分でも「あっ」と思った瞬間には、もう「否定的な、冷酷な真実」にたどり着いている。

 こうして、彼女が手に入れたい「か弱き真実」たちは、常に、必ず、いつも、より大きく強い別の真実によって駆逐される。
 それはまさに「ただ、真実があ」る世界です。
 冷酷な事実だけが常にあることによって、
「願いはひとつも叶わない」世界である。
 そう言えると思うのです。
 それは地獄かも知れない。

 ベルンカステルの地獄は「奇跡が起これば、願いが叶う(脱出できる)」ものでした。
 ラムダデルタの地獄は「絶対の意志があれば、願いが叶う(脱出できる)」ものでした。

 古戸ヱリカの地獄は「願いは、叶わない」ものかもしれません。
 必ず冷酷な真実が立ちはだかるので、「願いは叶わないのだ」という条件。それに「耐える」ことが真実の魔女の資格なのだとしたら、
「彼女は、まだ地獄から抜け出ていない」
 のかもしれない。
 地獄から決して抜け出せないという事実を受け入れることができる。それに耐えることすらできる。
 そんな力が彼女にあるのだ、と仮定すると、
「いまだに地獄がトラウマになっているベルンカステルを、少しヱリカは見くだした」
 という描写にも、納得がいくような気がします。

 ヱリカは、主ベルンカステルに愛されたいと願っています。
 でも、ヱリカは、ベルンカステルが自分のことをゴミ程度にしか思っていないという「真実」を、ちゃんと知っているはずです。知っていて、それに耐えているのです。


●自分の声に、耳をふさぐことはできない

 Ep6では、真里亞とヱリカの対決が描かれます。
 真里亞は、
「クラスにはヱリカみたいなことをいう男子がいっぱいいる。そんな言葉にくじけているようでは魔女にはなれない」
 という意味のことを言いました。

 真里亞が大事に守りたい「か弱き真実」は、
「魔女ベアトリーチェは“い”る。魔法はほんとうに“あ”る」
 というものです。
 彼女はきっと学校で、「そんなものいない、魔法なんてない」という横暴な真実に、毎日さらされ続けているのでしょう。
 彼女は日々、それに「耐えて」いる。だからヱリカは「グッド、根性は悪くないです」と、真里亞を部分的に認めるのだと思います。

 けど、真里亞には悪いけれど、「他人から突きつけられる真実」に耐えるのは、そう難しいことではないのかもしれない。
 聞こえてくる声には、耳をふさげばいい。耳に入ったとしても、とりあわなければいい。「お歌を歌うから、何も聞こえない」。反発心を支えにすることもできます。
 たとえすべてを論破されたとしても、「それでも私はこの弱い真実を信じるのだ」と言いつづければ良い。

 初期の戦人は、「密室トリックとかはひとつも説明できないけれど、それでも魔法なんてありえないんだ」と居直りのように主張していました。その態度が正解なのです。それで十分、彼の「魔法なんてない」という真実を守ることができます。

 でも戦人は、Ep3での「ベアトリーチェってやつを、魔法ってものを、ちょっとぐらい認めてやってもいいかな……」という「自分の心」には、まったくの無防備でした。

「恋人は私以外の人を愛しているんだ」という強力な真実は、ヱリカ本人が見つけ出し、組み上げたものなのです。
 耳をふさいでも、自分の声は聞こえます。「自分の考え」を、考えないでいることはできません。横暴な真実も「ヱリカの真実」なのです。そこから目を背けたり、「とりあわないでいる」ことはできない。
 相反するふたつの真実を、ひとりの人間が同時に持ち続けることは、困難です。
 よって、どちらか一方が必ず選ばれ、どちらかは捨てられるさだめになります。
(何だか家具の決闘みたいだ)
 強い真実のほうが勝つので、か弱い真実は、「真実の座」を失います。
 ヱリカの本心が望んでいたのは「か弱い真実」のほうだったのに、それはどんどん、奪い去られていく。

(この推理における)ヱリカの世界では、「温かい、か弱い真実」は常に敗北し、「冷酷な強い真実」が常に勝利します。

 それが何度も何度も繰り返された結果、古戸ヱリカは、「そういう世界観を受け入れた」のだろうな、と想像します。

「より強い、より冷酷な、揺らぎのない真実」が、常に勝利するのだ。
 そういう世界観のもとで、彼女は生きるようになった。そうでなければ生きていけない、というべきかもしれません。「か弱い」側を完全に断念し、「強い」ほうに意識的に属することで、彼女はようやく生きていくことができる……。

 古戸ヱリカがそういう内面を持つのだとしたら、
「魔法がある」なんていう、今にも壊れそうな弱々しい真実を、だいじにだいじに持っている真里亞みたいな少女に出会ったら、そんな真実は断固として破壊しなければなりません。
 自分が断念してしまったものを、他人が持っているべきではないからです。
 自分の真実が「強く、正しい」ことをきちんと証明しなければ、世界観がゆらいでしまうからです。

 ドラノールが疑問に思った、「なぜ真里亞の幻想をむきになって破壊するのか」「そこには負の感情が感じられる」ということの答えはこれではないかな、というのが、ひとまずここでの結論です。


●矛盾した願望を並列させる世界

「相反するふたつの真実が存在したとき、“か弱い”ほうは常にうち捨てられ、強いほうが“唯一の真実”となる」
 という冷酷な世界観を「受け入れさせられ」、そのことに耐えてきた古戸ヱリカ。
 そういう人物解釈をしました。

 この世界観は、先にも書きましたが、「家具たちの決闘」に酷似しています。

「相反するふたつの願望を、ひとりの人間が同時に持ってしまったとき、どうなるか」

 という状況を、執拗に描いているのが『Ep6』なのかもしれません。

 だから、
「相反するふたつの真実(クローゼットの中/ベッドの下)が、両方同時に、等価に存在していい」
 というゲーム盤に、彼女は涙したのかもしれません。わたしは初読のとき、「泣くほどのことかな」という印象だったのですが、今回の人物解釈にしたがえば、少し納得がゆくのでした。


●赤文字再び

 わたしたちの世界に「赤字」があったらどうなるだろう、と、ふと考えてみました。

 ヱリカは、赤字が使えなかったから、自分の愛を相手に納得させられなかった。ヱリカの恋人は、赤字が使えなかったから、自分の愛をヱリカに納得させられなかったのです。赤字さえあれば、すべてが問題なかったような気がする。

 でも本当にそうだろうか?

 誰かから、赤い字で「あなたを愛しています」と言われたら、わたしはそれを信じるだろうか。
 どうもピンとこないのです。
「字を赤くするかどうかで済ますんじゃなくて、もっと他のことで表わしてよ」
 って、わたしは言いそうな気がする。

 赤字を使って、それを言われるということは、
「白い字で“あなたを愛しています”と言われても、そう額面通りには受け取れない」
 という状況が発生しているはずです。
 そういう気持ちでいるとき、「字が赤いから、“あなたを愛しています”には信憑性があるな」という判断になるかなあ。

 そうは思えないのです。
「コトバでしかない」のは、白も赤も変わらないからです。

 ベアトリーチェは、戦人のことを愛していたらしいのです。でも彼女は、「あなたを愛しています」なんて、赤い字で決して言いませんでした。
 戦人は「赤は真実を語る」と信じているのですから、赤で「愛してる」と言ってしまえば、いくつもの事柄が、スムーズに運ばれたはずなのです。
 でも彼女は、そんなことはしなかった。

 わたしは個人的に、赤字を信じてない、という立場の人なのですが、それとはちょっとニュアンスの違う話だと思って下さい。
 ものごとの真実性とは、文字が赤いか白いかといった「外部からの保証」に左右されるべきではない。
 ……といったことを、わたしの皮膚感覚は訴えかけています。

(了)



■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■


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疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい

2010年03月06日 08時24分03秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


疑うという“信頼”(上)・ベアトリーチェは捕まりたい
 筆者-初出●Townmemory -(2010/03/06(Sat) 08:21:02)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=41583&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


     ☆


 いくらか、こみいった話を。


●赤を「信じない」けれど、作者を「信頼する」

 わたしは、
「赤字で言われたことの中には明確な(意図的な)嘘がまじっている」
「このゲームはノックス十戒には準じていない」
「赤字やノックスは、存在しないルールを存在するかのように誤認させるトリックだ」
 という考えを主張しています。


 Ep5の中に、「探偵小説は、作者と読者の間に信頼関係があってこそ成立するジャンルだ」といった主張が語られています。
「Ep1~4のベアトと戦人の間には、恋愛に似た信頼関係があった」といったことも語られました。
「ベアトは、俺に解いて欲しいと願って、解けるようにこのゲームの謎を生み出した」
 という赤もありました。

 このことを引いて、
「ベアトの赤字は信じるに足る、ということが示されたのではないか」
「信頼のツールとしてノックス十戒は適用できるのではないか」
 というご意見を複数の人からいただいています。


 わたしは、相変わらず「赤で真実でないことを言える」と思っていますし、「このゲームはNo Knoxだ(ノックスに準じていない)」と考えています。
 でも、「探偵小説は作者と読者の信頼関係を前提としたものだ」というのは、その通りだと思っています。このあたりは竜騎士07さんの本音らしきものが出たシーンだと思います。
 ベアトと戦人のあいだには、ほとんど共犯にも似た信頼関係があったと思います。ベアトは戦人に解いてほしいと願って謎を生み出していたとも思います。

 でも、それでありながら「ベアトの赤字は事実でないときがある」と思っているのです。

 わたしの中では、これらのことはまったく矛盾をきたしていないのです。
 そのことについて、いくつか例を出して説明してみたいと思います。


●きちんと疑ってあげるという信頼

 わたしは、ちょっと感覚が変なのかもしれないのですが、恋人に嘘をつかれてもわりと平気なのです。
 ウソをつく権利は誰にでもある、というのが、わたしの基本的な考え方です。人には嘘が必要なときもあります。
 だから、わたしに対して嘘をつく権利があってもいい。そんな考え方です。

 ただ、わたしは、けっこう嘘を見抜くのが得意なほうだと自分で思っています。じっさいにどのくらいの打率なのかは判断する方法がないので、ひょっとしてうぬぼれかもしれません。でも、わりと「見抜き」の腕前はいいほうなんじゃないかな、と勝手に思っています。嘘はきちんと見破ってあげたい、というのが、わたしのスタンスです(めんどくさい人ですね)。

 この、
「一方が嘘をつく」
「他方が、それを見破る」

 というやりとりって、それ自体が「愛の確認」じみていないかな、ということを言いたいのです。

 相手のことを良く知るから、相手に興味があるから、そして、相手に対して「愛がある」から、見破れるのです。

 このことを、さらに一歩進めて、こう言いたいのです。

「相手の愛を確かめるために、嘘をついてみる」
 そういうアクションは、ありうる。成立しうる考え方ではないだろうか。

 だとしたら、
 この場合の、「愛」は、「あいつは嘘なんかつかないはずだ」と、額面どおりに受け止めることではありません。
 逆説的ですが、
「きちんと疑ってあげること」
 が、信頼を示すことであり、「見破ってあげること」が、愛を示すことなのです。

「きちんと疑ってあげるという信頼」

 これをキー・フレーズとして、設定したいと思います。


●「つかまえてごらんなさい」という「信頼」

 おおむかし、何十年か前の少女漫画や恋愛ドラマには、こんな類型的なシーンがあったそうです。

 お花畑か、波打ち際といったムードのいい場所を、恋人同士が歩いている。
 女の子がとつぜん、
「ウフフ、つかまえてごらんなさーい!」
 といって、笑いながら走り出す。


 この類型的場面では、女の子は、男から逃げだそうとするのです。
 これを見て、
「女の子は、男のことが嫌で、一刻も早く彼の手から逃れたいのだな」
 と「額面通りに」受け取る人って、どのくらいいるのでしょうか。

 もちろん、そんな解釈は、あきらかに間違っています。
 女の子の発しているメッセージは、
「私を追いかけて、つかまえてほしい」
 です。
「つかまえてほしい」だから「逃げる」のです。逃げなかったらつかまえてもらえませんからね。

 この場面では、女の子は、彼氏が自分をつかまえてくれることを確信しています。
「彼は、わたしを逃がさないよう、きちんとつかまえてくれるはずだ」
 と、彼を「信頼」しているのです。
 だから、安心して逃げられる。愛を試すことができる。彼の愛を試して、彼がきちんと自分を抱き留めてくれることを確認して、みちたりた気持ちになれるのです。

 そして、男の子のほうは、逃げ出した女の子を、きちんと追いかけてつかまえてあげるべきなのです。それが「彼女の信頼に応える」ことであるわけです。

 もし、逃げ出した女の子を、男がまったく追いかけず、つかまえるそぶりも見せなかったとしたら、きっと女の子のほうはひどく傷つき、ショックを受けるでしょう。それは信頼への裏切りであり、「あなたの愛を表現してみて」という要求に男が応えなかったということだからです。

 この例の場合、
 女の子が逃げ出すというのは、「応えてくれることを信頼したうえで愛を試す」ことであり、
 それをつかまえてあげることが、「愛に(信頼に)応える」ことであるのです。

 波打ち際で女の子が「ウフフ、つかまえてごらんなさーい」と逃げだし、男の子が「こいつーう、アハハハ」といって追いかける。
 これは「信頼関係」のやりとりである、というのが、わたしのいいたいことです。

 つまり……
「妾をつかまえてごらんなさい」
(私の嘘を見破ってごらんなさい、そして私の正体を言い当ててごらんなさい)
 といって、蝶のようにひらひらと逃げていたのがベアトリーチェで、

 それに対して、あれやこれやと難癖をつけて、なかなかまともには謎に挑もうとしなかった(ベアトリーチェを見破ってやろうとしなかった、彼女を追いかけてあげなかった)のが、Ep5までの戦人くんであった……

 というのが、わたしの基本的な受け取り方であるのです。右代宮戦人くん、しょうもない人ですね。

 わたしの理解のしかたでは、
「ベアトリーチェは、戦人に謎を解いてもらいたいから、本当のことを言ったはずだ」という受け取り方は、
「少女は、彼につかまえてほしいから、“逃げない”
 というのに相当します。

 でも、それだと、信頼が確認されないのです。

 愛を確認したいのなら、
「少女は、彼がきっとつかまえてくれると信頼して、“逃げる”」
 べきなのです。
 だから、
「ベアトリーチェは、きっと戦人が見破ってくれると信頼して、嘘をついた」
 この解釈のとき、むしろ「嘘が介在するからこそ」信頼関係がある、といえるのです。

 この場合、「ベアトリーチェをきちんと疑ってあげること」が、「信頼を示すこと」になるのです。

 ここには、金蔵翁が提唱していた「分の低い賭けに勝ってこそ、大きな配当が得られる」という確率魔術の影響もあるのかもしれないですね。
「波打ち際で、ふざけて逃げる」のをつかまえるかつかまえないか、というのは、たいした賭けではありません。
 だから、それで確認される信頼や愛は、その程度のものです。
 が、
「塔の上に幽閉され、悪い伯爵との結婚を迫られ、しかも命まで危ういクラリスを、危険を冒して大アクションのすえにルパンはさらうことができるかできないか」
 というチャレンジによって確認される信頼と愛は、波打ち際の他愛ない例とは、おのずとレベルが異なっているはずです。

 あとは、ベアトリーチェが、
「ちょっとしたミステリークイズが戦人に解けるか解けないか」
 というレベルの信頼や愛を要求していたのか、
「設問自体が卑怯だから、ほとんど正答不可能な謎を、それでも戦人が解けるか解けないか」
 というレベルで確認されるものを求めていたのか、そういう「程度の評価」をどこに置くかという問題になります。わたしは後者をとっているわけです。


●「作者を疑う」という信頼

「ベアトリーチェを疑ってあげること」「彼女を見破ろうとしてあげること」が、信頼の行為なのだというお話をしました。
 ここでの「ベアトリーチェ」を「作者」に置き換えても、そのまま通用すると思うのです。

 わたしは、竜騎士07さんという人を、「ミステリー作家」だと認識しています。
(そうでない人には、この項は意味がないかもしれないですね、すみません)

 ミステリー作家によく似た職業に「手品師」があります。どちらもトリックを駆使して、観客の頭の中に誤認を発生させ、それをエンタテインメントとして提供する仕事です。

 手品師への信頼というのは、「タネも仕掛けもありません」という常套句を額面通りに真に受けて、
「ああ、タネも仕掛けもないんだ」
 と思うことでしょうか。

 違います。それはほとんど侮辱に近い。
「不思議なことが起こった。タネも仕掛けもあるはずなのに、それがまったく見破れない。凄い」
 というのが、手品師への正しい尊敬のありかたです。
 タネと仕掛けと不断のトレーニングの成果を駆使して、とても不思議な現象を見せてくれるにちがいない。
 というのが、「手品師を信頼する」ということであるはずです。

 この話の「手品師」を、「ミステリー作家」に置き換えても、同じだと思うのです。

「このお話のこのへんは、疑わないで真に受けてあげるのが、作者への信頼というものだ」
 という態度は、ミステリー作家への侮辱になりうる、とわたしは考えています。

 ミステリー作家への信頼とは、
「いや、ここにだって騙しが入ってるかもしれない。油断できない。ひっかけてくる可能性がある」
 というように「きちんと疑ってあげる」ことではないでしょうか。

「この作家は手なんか抜いてないはずだ。わたしたち読者をあなどらず、あらゆるアイデアと方法を使って、全力でわたしたちを騙しにきているはずだ」
 という「構えていてあげる」ことが、作家へのリスペクトであり、「信頼」である、とわたしは強く思うのです。

 作者インタビューから根拠をひっぱってくるのは好きではないけれど、そのものズバリの言及を見つけてしまったから、やむをえず、引用します。
 Ep2で描かれた、嘉音の光の剣や、紗音のバリアの描写を見て、「推理不能なファンタジーだ」と受け取った人と、「描写のトリックだ」と受け取った人の差についての話題です。

竜騎士07:地の文の信憑性まで作品の仕掛けとして信じられるかどうかというのは、結局のところ筆者と読者の信頼関係で決まるのだと思います。だから「竜騎士07は『Fate』(編注:TYPE-MOONのノベルゲームシリーズ)が好きだから、単純にこういう要素を入れたのだろう」と考えた人はシンプルにファンタジーと受け取り、「これはトリックで、竜騎士07がオレたちを騙そうとしている」と、地の文に仕掛けがあると信頼してくれた人はマジカルバトルを乗り越えた。
(【うみねこ対談】『EP3』は当初の予定よりも大幅に難易度を下げています(電撃オンライン))
http://gameinfo.yahoo.co.jp/news/dol/107667.html


「筆者と読者の信頼関係」というズバリのキーワードを口にした上で、竜騎士07さんは「作者が騙そうとしている」という受け取り方を「信頼」の態度であるというのです。


●愛しているからヱリカは見破る

「きちんと疑ってあげるという信頼」
 という、逆説的なフレーズを思いついたとき、連想したのはヱリカのことでした。
 Ep6では、ヱリカの過去の恋愛の顛末が明かされました。

 いい加減にしろよ、俺のこと愛してんなら信じろよ。それができないなら、お前はもう俺のこと愛してないんだよ。
(略)
 つかさ、そこまで俺が信用できないんなら、もう俺たちは終わってんだよ。


 これってちょっと、「赤字を信じられないってことは、作者との間に信頼を結ぶ気がないってことじゃないの?」というのに近いかもしれない、なんて思っちゃったのです。

 ヱリカが恋人の浮気を問い詰めたのは、ヱリカが相手を愛していないからでしょうか。
 逆です。
 愛しているから疑って、
 愛しているから見破ったのです。

 愛してなかったら気づきません、責めもしません、私だけを見て欲しいと願いもしません。
 つまり、愛してなかったら追いかけてつかまえはしない。愛しているから嘘を見破り、愛しているから離れつつある恋人を追ってつなぎとめようとした。

 でも、忌避されてしまった。ヱリカは「波打ち際で走り出した恋人を、つかまえてあげた」のに、それは恋人の望むことではなかった……。たぶん、あつくるしい束縛だと受け取られたのでしょうね(可哀想に)。
 ヱリカの恋人だった男にとっては、愛はそういうものではなかった。もしくは、この男は、愛や信頼について、その確かめ方について、なにもわかっていない男だった。


 ベアトリーチェと古戸ヱリカ。この2人の魔女は、
「追いかけて欲しくて逃げたのに、つかまえてもらえなかった女の子」
 と、
「愛のために恋人をつかまえたら、憎まれてしまった女の子」
 というふうに、対比で見ることができそうなのです。

「逃げて、つかまる(つかまえる)」
 というやりとりを、「愛の確認行為」とみるとき、2種類の「不成立のかたち」をあらわしたものが、ベアトリーチェと古戸ヱリカであるといえそうです。「逃げる」側と「つかまえる」側、両側から見た「不成立」を描いている、とみるのですね。

     *

 この話の延長上に考えを進めたら、古戸ヱリカに関して、いくつか気づいたことがありました。
 次回、そのことについて書きます。


 続き→ 疑うという“信頼”(下)・古戸ヱリカの見た地獄


■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■


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島の人々が嘉音を認識している理由/「お父さんの罪」とは?

2010年02月28日 04時36分55秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


島の人々が嘉音を認識している理由/「お父さんの罪」とは?
 筆者-初出●Townmemory -(2010/02/28(Sun) 04:23:08)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=41090&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注

「【第32回】皆さまの推理、集計させてください!」(通称、皆集)への回答です。

「嘉音が存在しないとしたら、どうして島のみんなは存在するように振る舞っているのか」
「紗音と嘉音の会話に出てきた“お父さんの罪”とは何か」

 についての即興的な推理です。

 舌足らずな部分が多々あると思います。本文中に指示したリンク先をそのつど読んでいただけると嬉しいです。

 引用部は、以下の書込みからコピー・ペーストした問題文です。
 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=41030&no=0 (ミラー


 以下が本文です。


     ☆


 いくつかあらかじめ注釈しておきます。
 紗音と嘉音について、たとえば「多重人格」といった解釈はしていません。ただし、嘉音は実体的な存在ではない、とは思っています。

 多重人格のような解釈ではなくて、
「嘉音は、想像された幻想である」
 という受け取り方です。

 真里亞は、ぬいぐるみをモデルにして「さくたろう」というキャラクターを生み出しました。
 それと同様に、紗音は、「嘉音」というキャラクターを生み出して、頭の中で動かしているのだ、という仮説です。

 さくたろうは、ベアトリーチェに認めて貰うことで立体的な存在になっていました。
 それと同様に、紗音は、
「私の頭の中には、“嘉音くん”という架空の男の子がいて……」
 というような打ち明けごとを、朱志香に対してしたのだと考えます。
 幻想上の人物は、複数の人間に共有されればされるほど立体化していくのだという仮説です。朱志香が“嘉音くん”役になって紗音としゃべったり、紗音が“嘉音くん”役になって朱志香としゃべったりする。そういうやりとりのなかで明確なキャラクター性が造形されていく、といった解釈です。

「嘉音は、紗音が創造し、朱志香が承認した、共有幻想である」
 というのが、わたしの基本的な見方です。

 駆け足で説明したので、わかりにくいと思います。詳しい推理はこちら↓
 「ep6初期推理1・紗音嘉音問題/八城十八と「ふたつの真実」」をどうぞ。

     *

> 【第32回】皆さまの推理、集計させて下さい!
>  【B:紗音と嘉音について】
> B-1:紗音=嘉音だとすると、なぜ登場人物達はどちらも存在するように振舞っているか?(Daedalus)
>  ※紗音と嘉音を完全に別人だと考える場合は、その旨を回答してください。


 紗音と嘉音は、イコールでむすべる存在ではないと思っているけれど、この設問は「嘉音か紗音のどちらかに実体がないとしたら」という意味だと思うから、そういう意識で答えます。
 わたしは、嘉音には物理的な実体がないと思っているので、だとしたら周囲の人々――特に右代宮家の人々はなぜ嘉音がいるように振る舞っているのか。そういう設問だと読み替えます。

 基本的な考え方として、
「嘉音が右代宮一族と接触しているシーンは、すべて幻想描写である」
 というスタンスをとります。

 Ep4で、嘉音が手から光の剣を出して、鉄格子を切断し、地下牢獄を脱出するシーンがありました。その様子を蔵臼と霧江が目撃しています。
 この場面を、
「嘉音が実際に光の剣を出して鉄格子を切った」
 と見なしている人はほとんどいないでしょう。
 すなわち、
「嘉音による鉄格子切断は、描かれはしたが、実際には存在しなかったシーンである」
 と、多くの人が考えていることになります。

 このことを、もう一歩進めても良いと思うのです。つまり、
「蔵臼や霧江が、嘉音を認識している場面は、描かれはしたが、実際には存在しなかったシーンである」
 というふうに考えても、かまわないはずです。どちらにしても、「描かれたけど実際にはなかった」という処理が発生しているのですからね。
 あとは、「虚」と「実」の境界線を、どこに引くかっていう程度問題にすぎなくなります。
(■参考→ 「探偵視点は誤認ができる」

 よりわかりやすく言い換えれば、
「嘉音というキャラクターは、現実的な人物のように描かれているけれども、実際にはワルギリアやロノウェのような扱いのキャラクターである」
 という感じになります。

 Ep2の夏妃の部屋で、郷田は、「存在しないはずの」煉獄七姉妹の声を聞き、その手で撫で上げられています。
 それと同じように、戦人や秀吉や右代宮家の人々は、「存在しない嘉音」の姿を見て、話をした。
 この2つはまったく同じ現象だというとらえ方です。

 要は、
「明らかに魔法っぽいシーンは幻想であり、現実っぽいシーンは現実である」と「思いたい我々の心理」を逆用した描写系トリック。
 作中の全描写の中で、どれが幻想であり、どれが現実であるか。その区別に何の保証もないのです。にもかかわらず我々は、自分の中の勝手な常識にてらして、「非現実っぽく思う」ところだけを幻想と判断し、それ以外は「実際にあったこと」と考えたくなってしまう。
 その心理が逆用され、ひっかけに使われているという理解のしかたです。


 この説で、ちょっとひっかかりそうなのはヱリカの存在ですが、
「ヱリカも、嘉音の姿を見たことはない」
(嘉音を目撃したことがないまま、“嘉音という人がいる”という伝聞情報をうのみにしている)
 これで、いけてしまいそうです。

 Ep5、Ep6の中で、下位ヱリカが嘉音と会話をする場面は、ひとつもないのです。
 おなじ空間に同席している場面はあります。けれどもそれは、ヱリカがいる空間に、嘉音をそっと「描き足して」おくだけでよいのです。

 下位ヱリカが嘉音の存在を認識するのは、Ep5、Ep6合わせて以下の一カ所だけです。


「さすがに、1部屋に12人もの人間では窒息します。そして、もっとも注意すべき人物だけを隔離したいという思惑もあります。使用人の頭である源次さん、一番体格のいい郷田さん。若輩とはいえ、嘉音さんも男性です。」


 これはEp6で、2部屋に分かれてゲストハウスで籠城しよう、と相談しているシーン。
 この唯一のシーンも、「ヱリカが嘉音に質問したり」「嘉音の疑問にヱリカが答えたり」といったことではないのです。
 この描写では、
「嘉音を目撃したことがないまま、“嘉音という人がいる”という伝聞情報をうのみにしている」
 という解釈が、問題なく通ってしまいます。


 なお、現在わたしは暫定的に(この推理では)、
「右代宮家の人々は、“嘉音”という人物が存在するとは思っているが、誰も姿を見たことがない」
 という解釈をとっています。
 死んでしまったはずの金蔵が、誰も姿を見たことのないまま1年以上生きていることにされていたのと同じ現象ですね。

 けれども、もっと幻想の侵食を進めて、
「右代宮家の人々は、そもそも“嘉音”という人物が存在するとも思って“いない”」
「嘉音という人物が島内に存在する、という認識すら幻想である」
(例えば、使用人名簿に嘉音なんて名前は載ってない)
 という考え方もできます。

 これは、どっちかなというのは、まだハッキリとは決め込んでいません。後者を取るほうが整合感は増すかもしれないですね。

     *

> B-2:紗音=嘉音とした場合、何人の人がそれを知っているのでしょうか?(美雨)
>  ※紗音と嘉音を完全に別人だと考える場合は、その旨を回答してください。


 嘉音という人物が物理的に存在しないことを知っている。なおかつ、存在するかのようにお芝居をしている。そういう人々がいるとして、それは誰と誰か。
(という設問だと読み替えて答えます)

 まず朱志香と紗音。この2人が嘉音というキャラクターを創造した張本人たちだと見ています。
 そして源次、熊沢。この2人は朱志香による殺人計画の共犯者だと考えており、朱志香の命令に従う立場です(朱志香犯人説)。当然「嘉音という人物がいることを認め、そのように振る舞え」と命令されているはず、という理解です。
 南條。この人も共犯で、彼には「存在しない嘉音の検死」をしてもらわなければなりません。
 最後に真里亞。嘉音という人は、「“朱志香と紗音の黄金郷”でうまれた魔法存在」という理解です。朱志香犯人説(朱志香=ベアトリーチェ)の立場をとるとき、真里亞にとって朱志香は、さくたろうを認めてくれた恩人ですから、同様に「朱志香にとってのさくたろう」である嘉音を認めてあげているはず。

 以上です。郷田は知らないだろうと思います。

     *

> B-3:紗音と嘉音は、「生まれた時にすぐに死ねれば良かった」といっています。そして、紗音は「そしてそれが、お父さんの罪」といっています。この台詞に関して、以下の回答をお願いします。(村正)
> B-3-1:何故、「お母さん」ではなく、「お父さん」なのでしょうか?(村正)


 男性だからだと思います。

     *

> B-3-2:「お父さん」は、誰だとおもいますか?(村正)

 戦人かな、と思っております。
「お父さんの罪」という発言があります。これまでの物語で、罪が云々されたのは、
「戦人の罪」
 だけだからです。つまり、「戦人の罪」と「お父さんの罪」は同一のものではないか、という仮説を立てます。
 以下、「お父さんの罪」発言は、「戦人の罪」を理解するための補助線ではないか、というラインでいろいろ考えてみることにします。

     *

> B-3-3:「お父さん」は具体的に何をしたと思いますか?(村正)

「お父さんの罪」の内訳は、
「嘉音は、生まれた時にすぐ死ねればよかったのに、それができなかった(できなくした)」
 ことである、と、素直に理解します。

 嘉音は約3年前から右代宮家につとめている、という情報がありますから、嘉音の発生を約3年前と仮定します。

 この(わたしの)推理では、嘉音という存在を最初に生み出したオリジネーターは、紗音です。彼女の「忘れっぽさを克服するためのメモ」が擬人化されたものが嘉音である、という仮説です。(→ 「ep6初期推理1・紗音嘉音問題/八城十八と「ふたつの真実」」
 紗音がメモをとるようになった(もしくはメモが擬人化された)のが、ちょうど3年くらい前なのかな、と想像します。

 さて、忘れっぽい紗音が、メモを取るようになって、つまりメモの擬人化である嘉音が、
「ここ、忘れてるよ、しっかりしてよ姉さん」
 と心の中で助言するようになったとする。

 それによって、紗音は仕事上の忘れ物をしなくなります。つまり「忘れっぽいという弱点を克服した」というわけで、やがてメモは必要なくなり、嘉音という幻想存在も必要なくなる日がやってくるはずです。
 つまり、その日がやってきたら、嘉音は「死ねる」はずだった。

 ところが、嘉音は死ねなかった……わけです。

 真里亞がお人形遊びから卒業すれば、さくたろうも消えます(という説明がありましたね)。必要なくなれば存在しなくなる幻想存在。
 ならば消えなかった嘉音には、別の必要性が与えられた、と考えられます。

 その、「嘉音の新たな必要性(役割)」ってなんだろな、と考えたときに、やっぱりそれは朱志香がらみじゃないかな、という発想になってきます。

 すなわち、本来なら消える(死ぬ)ことができたはずの嘉音だが、
「朱志香にとっての恋愛対象」
 という新たな「お役目」が発生したので、死ぬことができなくなった。
 と考えると、これは綺麗な説明になっているような気がするのです。

 ということは、「お父さんの罪」とは、
「朱志香が、嘉音という恋愛対象を必要とするようになったこと」、その「原因を作った」ことではないか、という推測が立ちます。

「お父さん」が戦人だとすると、たとえば以下のようなことが考えられます。

「朱志香は戦人が好きだったが、何かの事情で、戦人のことをあきらめざるを得なくなった。そこで代償行為として、“代わりの恋愛対象”を必要とした」

 この場合、「ベアトリーチェの“お母様”」が戦人をあきらめ、その代わりに自分の思いをベアトリーチェに託したのと、まったく同じ構図になることに注目します。
“お母様”は、
「私には、もう戦人を愛することが出来ない」から、「私の代わりに彼に恋をしなさい」と雛ベアトに言っています。

 ベアトリーチェとは、“お母様”が創造した幻想存在である、と考えることにします。
 そして、“お母様”の正体を「右代宮朱志香」だと仮定します。

 すると、

1.“お母様”=朱志香は、何らかの理由により、戦人を愛し続けることができなくなった。
2.なので、自分の分身であるベアトリーチェに恋心を譲り、彼女に戦人を愛し続けさせることにした。
3.そして自分は、失った戦人の代わりに、嘉音を愛することにして、慰めを得た。

 という、「幻想と実体の間に発生した、恋愛対象のスワップ(入れ替え)」として、現象が理解できるようになります。

 戦人が「お父さん」と呼ばれるのは、この場合では、「お母様の恋した相手だから」という理解になります。

 そうなると、「お父さんの罪」「戦人の罪」とは、
「朱志香が戦人を愛し続けられなくなった何らかの理由」
 と、イコールで結べそうです。

 これについては、現状、2つほど考えがあって、

1.戦人が六軒島に来なくなってから3~4年が経ち、朱志香は「戦人がもう二度と島には来ない」ことを納得した。
(この場合、右代宮家を捨てたことが罪)

2.朱志香は、戦人が「金蔵と九羽鳥庵ベアトの実子」であることを知ってしまった。朱志香と戦人は「姪と叔父」の関係になるため、恋愛の進展はありえない。
(この場合、戦人の出生そのものが罪)

 という感じで考えています。この2つは、どちらか一方を取らねばならないようなものではなくて、両方あってかまわないものです。


 この推理に関するより詳しい解説はこちら↓
 「ep6初期推理2・姉ベアトの正体と雛ベアトの“お母様”」

     *

> B-4:嘉音は、上記の会話の後、「だから、あいつも死ね。みんな死ね。」といい、紗音は、「みんな死ぬ。」といっています。この意味は?(村正)

 直接的な答えを言えば、「六軒島爆発事故」がもうすぐ起きるので「みんな死ぬ」ということで良いと思います。

 ただし、下位世界の紗音が「六軒島爆発事故」の発生をあらかじめ知っている、という考え方はしません。彼女は基本的に、何も知らないと思います。

 根本的な解釈としては、「幻想描写内の発言である」で良いのですが、
 この「みんな死ぬ」発言は、
「“メタ紗音”の発言である」
 という表現のほうが、ひょっとして通りがいいかもしれません。

 下位ヱリカが、メタ世界の知識をぽろっと発言するのと同じ現象、といった受け取り方です。下位存在の彼女はほんとはそんなこと知らないはずなんだけれど、上位世界の知識が意図的に上書きされている、というような扱いです。
 Ep5~6は、下位キャラクターと上位キャラクターを意図的に混同させるような表現がなされているよなあ、と思います。

     *

> B-5:「決闘」は何を意味するのか?(Daedalus)

「嘉音」という幻想キャラクターの「持ち主」を、紗音と仮定します。
「ベアトリーチェ」という幻想キャラクターの「持ち主」を、朱志香と仮定します。

 紗音は、譲治に恋しているのに、自分の分身である嘉音と朱志香との恋も同時進行させようとしています。
 朱志香は、嘉音に恋しているのに、自分の分身であるベアトリーチェと戦人との恋も同時進行させようとしています。
 自分の恋と、自分の分身の恋を同時進行させるということは、1個の恋心を2分割して、半々ずつで恋しようとしているということです。
 霧江も好きだが明日夢も好き、だから両方取ろうとした留弗夫みたいなもので、それはあかんやんという話が作中でもありました。

 だからどっちか片方にしなさい、片方の恋をあきらめて一個に集中しなさいっていうことだと理解しています。

 もし、将来、真里亞にボーイフレンドができて、さくたろうにガールフレンドができたとしたら、きっとゼパルとフルフルが現れて、
「ダメだよそれは魂が1つにみたないから」
「決闘してどっちが成就するか決めよう」
 と言いだし、真里亞とさくたろうはあの拳銃を持って決闘するんだろうと思います。

     *

> B-6:紗音が島を出て行くと嘉音が島を出て行かなくてはいけないのは何故か?(Daedalus)

 嘉音は、紗音が作り出した「幻想上の人物」であると考えるので、紗音がいなくなれば嘉音もいなくなる、という道理だと思います。

 わたしは、朱志香も嘉音を「共有」していて、(ベアトリーチェがさくたろうとお話できるように)朱志香も嘉音を存在させたりお話したりできるとも考えています。
 ゲーム上のルールとしては「朱志香も嘉音を名乗ることができる」ということで、その意味では「紗音が去っても、嘉音は島に残れる可能性がある」とも思うのですが、たぶん、「ひとりで遊ぶお人形遊びは、つまらない」のだと思う。朱志香が好きなのはたぶん、紗音の中にいる嘉音なんでしょうね。……という想像です。

     *

> B-7:嘉音と紗音は、「同時に撃ち合って二人とも死んでも、必ず僕らの恋は成就される」という主旨の台詞を言っています。これは何故でしょう?(村正)

 嘉音は決闘に負けたけれど、黄金郷にて、きちんと朱志香とむすばれました。そういうハッピーな結末がEp6のおしまいに描かれました。そのことを予見していたのでは?
(さすがに長くなりすぎたので詳細は割愛。「駒の動きその1・南條(大爆発説)」からこのシリーズを順繰りに読んでいただけると「チェックメイト・金蔵翁の黄金郷」という記事にたどり着きます。そこにだいたい書いてあります)

     *

> B-8:嘉音と紗音の決闘の決着時、雛ベアトは、試練に脱落し、戦人を愛する資格を失ったため存在目的がなくなり消滅(?)しました。なぜ、愛する資格を失うのでしょうか?(村正)

 B-5にて回答しました。
 けどこの推理だと、朱志香が嘉音をあきらめたぶん、ベアトリーチェが「ひとつの魂」を得て戦人とむすばれてもかまわないよね。実はそのへん、きれいに説明がついていません。
 でも説明つかなくてもべつにいいやって思っています。何か、メタ世界の人物特有のルールか何かでもあるのでしょう。そのようにして、現状で説明がつかない部分は「未知の理由X」を代入してしばらくほっぽっておく、というのがわたしのよくやる手法です。

     *

> B-9:他の音の名を持つ使用人達も、紗音と嘉音の「決闘」を知ったら参加したがると思いますか?(ケイト=リン)

 思いません。でもこの方向の発想は面白そう。



■目次(全記事)■
コメント (6)
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六軒島殺人事件は本当にあったのか?(あった論)

2010年02月15日 22時14分29秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


六軒島殺人事件は本当にあったのか?(あった論)
 筆者-初出●Townmemory -(2010/02/12(Fri) 06:15:45)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=40224&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注

「【第31回】皆さまの推理、集計させてください!」(通称、皆集)への回答、2分割の第2回です。
 第一回はこちら→ 「ep6イメージ密室の「謎の人」は誰?(密室解法まとめ)」

「六軒島爆発事故」が示唆されて以降、「殺人事件は本当にあったのか」という論点が発生しています。それに関連して、「(このゲームにおける)現実とは何なのか」ということを語っています。

 引用部は、以下の書込みからコピー・ペーストした問題文です。
 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=39564&no=0 (ミラー


 以下が本文です。


     ☆


>  【M:世界の構造について】
> M-1:EP1~6の1986年10月4~5日に、実際に殺人事件は(描写とは違ったとしても)起こったと思いますか?(藤井ねいの)
>  ※5日24時の「事故」以外に、故意であっても事故であってもいいので「誰かが誰かを殺した」という状況が創作ではなくあったかどうかをお聞きします。
>  ※「六軒島で爆発(?)事故が起こった」という1つの世界に対して、ボトルメール作家達がEP6などを創作しただけ、という場合は「①全部なし」か「③全部あり」で回答願います。
>  ①全部のEPで殺人事件はない(ほぼすべて狂言)
>  ②一部のEPでは殺人事件があった
>  ③全部のEPで殺人事件があった
>  ④その他(記述)


「3・全部のEPで殺人事件があった」を回答として提出します。

 すべてのエピソードは、パラレルワールドとして並列的に存在し、すべての事件が等価に発生しているという考え方です。

 猫箱の中は、無限の可能性がある。箱を開けた結果との整合があれば、どんな過程があってもいい。
 ということは、六軒島という猫箱の中で、事件が起こらなかった可能性もある。猫は生きてても死んでてもいいし、事件は起こっても起こらなくてもいい。
「殺人事件が起こらなかった。ただ爆発だけがあった」
 という可能性は、猫箱の中に存在する。だから、「殺人事件があった」という主張をうたがうことができる……
 この設問は、そういう趣旨だと勝手に受け取って、そのラインで答えます。

 注意したいのは、箱の中の猫は自分自身を観測できるので、猫にとってはべつだん可能性は無限などではないのです。
 箱の中にガスが充満したら、猫はそれを知覚しますし、猫は死ぬので、猫にとってはその事実が確定するのです。

 観測できなければ、何が起こったか起こらなかったかはわからない。ということは、「観測できたことは、起こったこと」だと、まず言って良いと思うのです。

 そしてわたしたちは、「全部のエピソードで、殺人が起こった」ことを「観測」しています。
 われわれは箱の中を観測できる存在なのであって、われわれが観測したことは、すべてわれわれにとっては起こったことである。
 これでいいと思います。

 あの、なんというか、虚無的に聞こえるかもしれないけれども、
「現実」というのは、
「わたしは、これを現実と認識するが」
 という意味だと思うのです。常に。

 この物語はつきつめると、「現実って、いったい、何なのよ」というところにまで行くと思います。
 わたしたちの生きているこの現実だって、
「映画マトリックスみたいに、みんな揃ってまぼろしを見せられている」
 のかもしれないですし、そうでないことを誰ひとり証明できないと思います。
 わたしたちのこの現実が、ほんとうに現実なのかどうかは、わたしたち自身には証明できません。
 けれど、わたしはこの現実がたしかに現実であると「思って」いますし、「信じて」います。つまり現実の定義とは、「われわれが現実だと信じるもの」ということになると思います。

 で、わたしたちの多くにとって、大切なのは、このいくつも並列する殺人事件を目の当たりにして、興味を持ったり、楽しんだり、怒りを感じたり、恐怖を感じたり、いろんなことを考えたりしたこと、つまり、「見た過程で生じた心の動き」ではないのかな、と思うのです。
 それが大事であるのなら、その心の動きのもととなる「描かれたこと」は、「あったことだ」と認識すればいいんじゃないかな。

 ちょっとごちゃごちゃしてきちゃったけれど、
「殺人事件は、あったかなかったか」
 という疑問は、
「“わたしたちにとって”殺人事件は、あったかなかったか」
 という補助線を引いて考えるべき。という主張だと思って下さい。あとは「わたしたちにとって、何が大切か」という個々の問題だと思います。世の中には、相対性理論が間違っているという考えを大切に思う人がいますし、宇宙人が極秘裏に地球に来訪しているというアイデアを大切に思う人もいます。わたしにとっては両方とも「それはない」といえるもので、つまりそれらはわたしの現実ではぜんぜんないけれど、その人たちにとってはきっとたしかな現実です。
 うみねこ世界にかぎらず、この世界のわれわれにとっても、現実というのは並列的に複数存在しているのだ、という認識をもちたいと思うのです。

 もっと引いたいいかたをすれば、『うみねこ』はそれ自体がフィクションなわけです。つまり、竜騎士07さんという人が、
「六軒島っていう島があることにしようよ」
「そこには右代宮家っていう大富豪がいることにしようよ」
「戦人、ラムダデルタ、ベアトリーチェという人物がいることにしようよ」
 と「提案」して、わたしたちがその提案に「合意」した結果、このうみねこ世界はまるで存在するかのようにふるまいだしているわけです。
 本当はないんだけれども、まるで実在するかのように「この殺人事件はほんとうにあったことなのか」なんて疑問を立ててみんなが考えている。
 この設問においては、「『うみねこ』それ自体がフィクションである」という現実は、背後にしりぞいてほとんど忘れ去られている。
 考えてみれば、奇妙なことですよ。
 でも、その奇妙なことがまかり通っているのだから、
「存在しないかもしれない殺人事件だけれど、存在するってことにしようよ」
 という提案に、「合意」してあげたらいいんじゃない? そのほうが楽しいし気分が豊かではないですか、というようなことだと思って欲しいです。
『うみねこ』は、竜騎士07さんとわたしたちの黄金郷のなかで生まれたさくたろうのような存在で、偽書メッセージボトルは、八城十八と彼女の読者のあいだに発生した黄金郷の産物で。あとは、「わたしたちは、どの黄金郷に属したいのか」で良いと思います。

 ちょっと余談。
「見たことをそのままあったことだとするのなら、ベアト対ワルギリアの魔法大戦とか、生きているかのように描かれた金蔵も“あったこと”とするのか」
 という疑問が生じると思うんだけれど、Yes。基本的に、それで良い。

 では、魔法を認めて屈服するのか、といえば、No。

「金蔵はあのときすでに死んでいた」という事実が、われわれに「認識された=観測された」瞬間に、過去までさかのぼって、そういう事実が上書きされたのだと認識すれば良い。

 かなり極論に聞こえるだろうけれど、
「生きている金蔵が描かれ、われわれが金蔵の生存を信じていたとき、金蔵は本当に生きていた」
 で良いのです。

「ゲーム開始時、金蔵はすでに死亡している」
 という信頼できる事実が判明し、われわれがそれを受け入れた瞬間、

「あのときから、金蔵はすでに死んでいたんだ!」

 というふうに、時間をさかのぼって、現実が「訂正」された。そう考えればよいと思うのです。
 いま、わたしたちは基本的に、「金蔵はすでに死亡している」という観測にもとづく世界を見ています。だからいまのわたしたちにとっては、金蔵の死が現実です。
 ですが、
「やっぱり金蔵は生きていました」
 という情報が、再度、上書きされる可能性もゼロではないのです。
 この場合、いまわたしたちの中では確実に死んでいる金蔵が、時間をさかのぼって、あのときからやっぱり生きていたんだ、と情報訂正される(現実が訂正される)ことになります。

 そういえばEp6では、「時間をさかのぼって、ゲーム条件を書き換える」というアクションがフィーチャーされていましたね。

 八城十八(大好きだ)は、
「天動説が否定された瞬間に、太陽は動きを止めたのか?」
 という反語的な疑問を呈していましたが、わたしはこれを読んだ瞬間、「そうですよ」と心の中で言いました。
 天動説が信じられていたころ、地球は象が支える巨大なお皿であり、太陽は地球の周りを回っていたのです。
 天動説が否定され、それが広く認知された瞬間、時間をさかのぼって、「人類発生前のはるか昔から、実は地球が太陽のまわりをまわっていたのだ」という新たな現実が世界を書き換えたのです。
 その瞬間、現実はガチャッと音を立てて変更された。
 いや、実際にはそうでないのだけれど、「そうであっても良い」のです。

(「天動説が否定された瞬間に…」という設問と、「遡り手」のフィーチャーは、無関係ではあり得ないですよね)

 で、この「時間をさかのぼっての現実の書き換え」が、いわゆる竜騎士07さん用語としての「後期クイーン問題」とまったく同一の考え方であるという点は、当然注目してよいことだと思います。


 さらにちなみに。さらなる余談。

「現実の定義とは、“われわれが現実だと信じるもの”」
 という考え方をしました。

 それとまったく同じ理屈で、『うみねこ』における真相の定義とは、
「われわれが(わたしが)真相だと信じるもの」
 だと思うのですが、そのへんは積極的に賛同表明してくれる人があまりいません。
 まあ、それももっともな話で、やっぱり素直な欲望として「自分が命中させたい」ですからね。やっぱり自分だけが当たりくじを引きたいわけで、全部のくじに当たりと書きこんで良いのだったら興ざめだという気持ちは、わかるのでした。

 要するにオーソライズの問題。でも、自分で自分をオーソライズすれば良いと思うのですよ。
「自分で自分をオーソライズする力があなたにはあるか?」
 ということを、『うみねこ』は問いかけている、とわたしは感じます。
 ベアトリーチェは、世界の誰一人として認めないけれど「それでも魔法はあり、自分は魔女である」という自分の個人的真実を、自分自身でオーソライズする力を持った人でありました。真里亞もそうです。

     *

> M-2:1986年の親族会議は、複数の世界(複数のカケラ)で行われていると思いますか?(白右鎖璃月)
>  ①複数のカケラが存在する
>  ②EP1と2の分、2つのカケラが存在する
>  ③1つのカケラしか存在せず、ボトルメールで複数パターンがあるように見せられているだけ
>  ④その他(記述)


 ちょっと質問の意味がわからないです。いま、Ep6までが描かれて、そのすべてで親族会議が発生しているのですから、「6つの平行世界で、6通りの親族会議が行なわれた」でいいと思います。1か4にあたるのかな?

     *

> M-3:1998年の縁寿のいる世界(カケラ)は複数存在すると思いますか?(白右鎖璃月)
>  ①EP4と6など、複数ある
>  ②EP6→EP4は同じ世界であり、時系列的に繋がっている
>  ③EP4だけしかなく、EP6は「実際にはなかったこと」である
>  ④その他(記述)


 ちょっと選択肢からうまく選べないな。どうしよう。

 とりあえず全部ことばで言います。

 まず、絵羽が生き残ったEp3の12年後という世界に、孤独でひねくれた右代宮縁寿という人がいて、事件を調べまわり、六軒島巡礼をはたし、何らかの事情で死亡した。
 これは現実として存在したとみて良いと思います。実体として、そういう縁寿がいるということ。

 で、ふたつのメタ世界が存在している、と考えることにします。

 わたしたちがふつう「メタ世界」とか呼んでいるのは、ベアトリーチェ(か、もしくはラムダデルタ)が主催しているメタ世界。
 それとは別に、「フェザリーヌが主催しているメタ世界」が存在しているという考え方をします。

「死んだ人は、メタ世界に呼べる」というルールがあると考えます。
 死んだ人は、「自分は生きてて、ここにいる」という自己観測をしないので、猫箱の中にいるような存在です。つまり死んでいなくなった人は観測不能なので「生きているかもしれないし死んでいるかもしれないしどこにいるかもわからない」。ということは「生きててここにいるかもしれない」。
 その可能性をうまくつかまえて、「あんたは生きててここにいるわよ」と「観測」してやれば、縁寿は生きてて、このメタ世界にいる「ことにしてしまえる」。やったのはベルンカステルです。
 存在するはずのない悪魔たちが存在するかのように振る舞っているのとおんなじりくつだと思って下さい。

 そういうメカニズムを使い、実体として存在した(そして死亡した)Ep3アフターの縁寿を「連れてきた」のが、Ep4のメタ縁寿。そういう理解です。

 で、Ep6の縁寿。これも、フェザリーヌが同じ方法を使って、自分のメタ世界に、同じEp3の縁寿を「連れてきた」もの。という理解。
 すでに死んでしまったEp3縁寿を、「そなたはここにいるだろう、人の子よ」と「観測」することで、ここにいる「ことにしてしまった」のが、Ep6で描かれた縁寿だと考えます。
 八城十八の家で原稿を読む、というシーン。あれは下位世界ではなく、すでにメタ世界である、という理解です。

 縁寿には、Ep3アフターの世界できっちり死んでいただかないと、「ここには呼び出せなかった」ことになってしまうので、フェザリーヌは縁寿に、近いうちに死が待っていることを決して伝えない。そしてエピローグでは縁寿の死の運命がほのめかされる。

 ちょっとうまく説明できたか自信ないです。
 このへんの理屈について、もうちょっと教えろという方は、「カケラ世界」シリーズという一連の書込みを順繰りに読んでみて下さい。
 http://blog.goo.ne.jp/grandmasterkey/e/127497cc6c3a6fbf199e00715195f5ef

     *

> M-4:TIPSのExecute後のヱリカの項目で書かれている六軒島爆発事故は、天災だと思いますか?人災だと思いますか?(らいた)
>  ① 天災
>  ② 人災(事故)
>  ③ 人災(仕組まれた)
>  ④ 爆発事故は起きていない
>  ⑤ その他


「3・人災(仕組まれた)」を回答として提出。
 今のところ、爆発事故は全エピソードで発生していると見なしてよさそう。必ず起きるイベントは、「必ず起こすという人の意志」が介在している、というのが『ひぐらし』以降の基本的な世界観だと思います。
 そういえばEp6では、真里亞の薔薇消失が起こってないなあ。どうしたんだろう。Ep6にだけ発生していない何かの要因があったら、薔薇消失と関係している可能性があるけれども……。



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Ep6イメージ密室の「謎の人」は誰?(密室解法まとめ)

2010年02月12日 06時28分31秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


Ep6イメージ密室の「謎の人」は誰?(密室解法まとめ)
 筆者-初出●Townmemory -(2010/02/12(Fri) 06:15:45)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=40224&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注

「【第31回】皆さまの推理、集計させてください!」(通称、皆集)への回答を再掲するものです。
 公式掲示板では、このように、「共通のお題に対して、推理をつのり、その数や方向性などを検討する」企画がほぼ常時おこなわれています。

 とても長い書込みになってしまったため、2回に分けて掲示します。今回は第1回です。

 Ep6密室解法の現状でのまとめと、Ep6内で印象的に描かれる、戦人とも誰ともつかない「イメージ的に閉じこめられた人」の正体についての推理です。

 引用部は、以下の書込みからコピー・ペーストした問題文です。
 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=39564&no=0 (ミラー


 以下が本文です。


     ☆


> 【第31回】皆さまの推理、集計させて下さい!
>
>  【F:戦人の密室について】
> F-1:戦人のロジックエラー密室の脱出法(トリック)は?(Daedalus・村正)


 要点だけいいますと、

1.戦人、客室バスルームに熱湯トラップを仕掛ける。
2.留弗夫(か誰か)、番線カッターで客室のチェーンを切る。
3.戦人、客室を退室。
4.ヱリカ、検死にやってくる。存在しない戦人の死体を「存在する」と誤認。
5.ヱリカ、窓と扉を封印。
6.ヱリカ、上位戦人に「被害者6人が発見現場に今も存在する」ことを復唱要求。
7.上位戦人、沈黙する(答えない)。
8.ヱリカ、「この程度のことで復唱拒否ですか?」とつっこむ。
9.上位戦人、復唱拒否であることを「認める」。
10.ヱリカ、扉の封印を破って客室に侵入、チェーンロックにガムテープ封印をし、チェーンを掛ける。戦人の死体がないことを確認する。

 単純な脱出方法としては以上です。チェーンロックにガムテープ封印がほどこされた時、すでに戦人は客室の外にいたというほどき方です。

 嘉音関係の整合のつけかたはこれ以降の設問にて。

     *

> F-2:EP6の密室は、かつてのベアトリーチェが過去に作った密室の焼き直しだと言っています。どのEPのどの晩の事でしょうか?(村正)
>  ※上記は、ロジックエラー発生前の台詞です。


 基本は、Ep1の第二の晩だと思います。そこに、Ep3第一の晩の要素がトッピングされているような形です。

 わたしはEp1第二の晩は、
「チェーンがかかっていた。それを切って入室したら、死体だけがあり、犯人はいなかった」
 ということを、
「第一発見者が言い張る」
 というトリックだと思います。第一発見者熊沢を共犯と見ることで、解くわけです。

 犯行自体は、
「犯人が番線カッターを使ってチェーンを切って強引に押し入った」
 か、もしくは
「「内密の話がある」みたいなことを言って被害者本人たちに招き入れさせた」
 か、あるいは
「チェーンロックはあらかじめ取り外しておいた。2人を殺してから扉にチェーンロックを取り付け、鎖を切っておいた」
 か、そのへんだと考えます。

 さて、Ep6の密室の作り方ですが、
「チェーンがかかっていた。それを切って入室したら、妻たちと戦人と真里亞が死んでいた。犯人はいなかった」
 ということを、
「第一発見者である留弗夫、蔵臼、秀吉、郷田が言い張る」
 ことで成立しています。

 これはわたしがEp1第二の晩のトリックとして想定している解き方と、まったく同じです。ですから基本アイデアとしては、戦人はEp1第二の晩を焼き直したのだと思います。

 余談、というか、ちょっと思い上がったような言い方になるんだけれども、竜騎士07さんは、
「真相がわかった人には、それが正しいことがちゃんと伝わる。そういう描き方をしたい」
 という趣旨の発言をしていらっしゃいますね。
 たとえば、Ep1第二の晩にわたしのような解法を想定していた人は、Ep6第一の晩の様子を見て、また「それが過去の密室の焼き直しである」という情報を見て、
「あ、Ep1第二の晩の自分の推理はやっぱ正しかったんだ」
 と確信できそうです。竜騎士07さんの発言の趣旨は、このような描き方を指しての言及である可能性があります。
 だとしたら、今後のEpでも、「過去の密室の焼き直し」が使われ、そのことが「解答編」の代わりとして機能する。そういうことがあるかもしれません。


「Ep3第一の晩の要素がトッピングされている」と先に書きましたけれど、Ep3第一の晩は、犯人が使用人たちに呼びかけて、「殺人ドッキリをしよう」と持ちかけ、各部屋に被害者を配分したところで、ひとりずつ殺していく……という形だったのかな、と考えます。
 その点がEp6と同じ。

 でも、違うのは、Ep6では戦人は被害者たちを殺すつもりはなくて、本当にただのドッキリのつもりだったのです。が、犯人役をヱリカがつとめたことで、最終的にはほんとうに全く
「Ep3第一の晩とおなじ」
 状況になってしまいました……。

 かってな想像だけれど、ヱリカも、Ep3第一の晩をわたしと同じような方向性で考えてるんじゃないかな? で、「じゃあ、私がまったく同じにしてあげましょうか」みたいなことを考えたかもしれない。
 ……みたいなことも想像したりしますが、このへんは基本的に、自分の考えを正解だと思いたいわたしの心理の問題です。

     *

> F-3:あなたの考えるEP6戦人の密室のロジックエラー解消後の「戦人脱出方法」はEP1長女夫婦密室の犯人脱出方法と同じ方法ですか、違うものですか(あやにゃん)

 戦人が想定してた密室「構成方法」はEp1長女夫婦密室(第二の晩)と同じ方法だと思いましたが(上の設問参照)、脱出方法はどうだろう……。

 Ep1長女夫婦密室(第二の晩)のトリックを、
「犯人が脱出時にチェーンを切った」
 という、ざっくりした理解をするのなら、ほぼ同じともいえますね。はい、同じでいいと思います。

 それにしても、このF-1~3の質問の流れはきれいだ。答えやすい。

     *

> F-4:客室の密室の「救出者」についての質問です。(村正)
> F-4-1:ヱリカの推理通り、「救出者」はいると思いますか?(村正)
>  ※この問いでは、戦人が自力でチェーンをクリアし、脱出した場合は、救出者はいないとしてください。


 F-1の回答のとおり、戦人は誰かに身代わりになって客室に入ってもらうことなく、密室から消失したと考えるので、
「救出者はいない」
 が答えになると思います。この定義においての救出者はいないということですね。

     *

> F-4-2:「救出者」は誰でしょうか?(村正)

 さて、上の設問で「いない」と答えたんだけれども、
「戦人の外したチェーンを掛け直した者。救出の意図は問わない」
 という、「ベアトリーチェの定義」にもとづく救出者は、いないと困りますね。そしてその定義における救出者は嘉音でないとまずいですね。

(いや、わたしは「赤字は必ずしも真実ではない」という立場をとっているから、本当は困りません)

 ここでは、「ベアトリーチェの定義」にもとづく救出者について語ります。それは嘉音であるわけなので、嘉音はいったい何者かということについて。

 密室化された隣部屋から嘉音が消えてくれなければなりません。わたしは基本的に一貫して「嘉音は存在しない人」という主張をしてきました。嘉音は体のない人なので、隣部屋から消えることができます。「いないということを確認された」瞬間に消滅するという考え方です。

 で、わたしは、嘉音と紗音が二重人格だとは思っていません。
 このへんは微妙な(定義による)ことなんだけれども、真里亞はぬいぐるみのさくたろうに対して人格を認めていますね。これは外から見れば一種のひとり芝居です。これを「二重人格」とするのなら、嘉音と紗音も二重人格といえますが、どうもちょっとニュアンスがちがいそうだ。

 わたしの解釈では、
「嘉音は、紗音と朱志香にとっての“さくたろう”である」
 という考え方です。

 イメージとしては、紗音と朱志香が、嘉音人形というぬいぐるみを使って、お人形遊びをしているという感じです。
 たとえば、黄金郷に真里亞とベアトリーチェとさくたろうがいて、3人で楽しくおしゃべりをしているシーンがあるとする。
 このシーンで、真里亞とさくたろうがお話をしている局面があるとする。

 この局面、外部の第三者から見ると、
「ベアトリーチェがさくたろう縫いぐるみを持って、手や頭を動かしたりしながら、さくたろうのセリフを後ろからアテている」
 ということになるだろう、と考えます。
 さくたろうはベアトリーチェに認知されてから、人間の外見を得たりして、急激に立体化していったのです。

 それとおなじで、紗音が嘉音を演じたり、朱志香が嘉音を演じたりすることによって、嘉音という架空存在は、とっても立体化されていったんじゃないかなという想像。
 お人形遊びって、やってみたらわかりますけど、自分ひとり、お人形1体でやっていても、長続きしません。やっぱり、ひとり以上のアイカタがいります。あの、まったく詳しくないので想像で言うしかないのですが、ひとりでテーブルトークRPGって成立しないんじゃないかしら。

 そういうわけで、「嘉音とは、紗音と朱志香の頭の中に共有された、架空のキャラクターである」という考え方をします。これは完全に、『うみねこ』における魔法のシステムであって、二重人格解釈よりも作品にマッチしていると自認しているのですよ。

 まとめると、紗音と朱志香が同室している状況で、
「紗音と嘉音が会話するとき、朱志香が嘉音役である」
 同じ状況で、
「朱志香と嘉音が会話するとき、紗音が嘉音役である」
 とします。

 ルールとしては、
「紗音と朱志香は、ふたりとも“嘉音”を名乗ることができる」
 という感じ。

 なので、以下「嘉音が何々した」と書かれていたら、紗音か朱志香かのどっちかが、その行動をとった、と考えて下さい。


 まず、ゲストハウスというのは蔵臼が建てたリゾートホテルです。いとこ部屋はそのホテルの「客室」なのです。当然、ベッドルーム、バスルーム、クローゼットがあるでしょう。ゲストハウスの各室にチェーンロックがあることはEp3で描かれています。

 1日目の夜。嘉音は、トランプをしに、いとこ部屋という「客室」に「入室」します。
 戦人は急に、「ヱリカをドッキリにはめてやろう」と思いつき、真里亞をつれて、大人たちを巻き込むために屋敷へと向かいます。その際、いとこ部屋という「客室」を「退室」しますが、ここで、掛かっていたチェーンロックを「外します」。
 嘉音が用心のため、そのチェーンロックを「掛けた」とします。

 これで戦人の外したチェーンロックを嘉音が掛けた=嘉音が戦人を救出した、が成立します。

 このトランプシーン以降、次に嘉音が下位世界でまともに認知されるのは、いとこ部屋で急に頭から血を流して消えていくシーンなんです。
 つまり、トランプシーン以降、嘉音がいとこ部屋から「外に出た」描写はないとみなせる。描写がない以上、あれからずーっと嘉音はいとこ部屋にいた=「嘉音は入ったのみ」が成立します。
(厳密には、廊下で朱志香と嘉音が話し込んでいる場面があるのですが、このシーンで嘉音は朱志香ごと魔法でワープしてしまい、ワープアウト先はゼパルとフルフルがいる異次元なので、ぎりぎり無効とみなしたい)

 あの、2部屋に分かれて籠城することになったとき、嘉音や源次といった「あやしい面々」を押し込める部屋が「いとこ部屋」なのはちょっと不自然なのです。
 だって、いとこ部屋には譲治と朱志香の荷物が置かれているはずなので、あやしくない譲治たちをいとこ部屋に籠城させ、嘉音たちあやしいほうは隣部屋に押し込める、というのが自然なんです。
 なのになぜその不自然な部屋配分になったか、それは「嘉音をいとこ部屋に入れたままにしておきたかった=嘉音がいとこ部屋から隣部屋へ移動したことにしたくなかった」というトリック上の制限だと思います。
「蔵臼のそばにいたい」という理由をつけて、朱志香をいとこ部屋にいさせたままにしたのも、同様の事情かもしれません。朱志香がいとこ部屋にいないと、嘉音がいとこ部屋にいることにはならない、のかな。

 このことからすると、戦人が外したいとこ部屋のチェーンロックを掛け直したのは「嘉音を名乗れる朱志香」ということになるかなと思います。まあ、そうですよね。トランプのとき、紗音は使用人室にいたわけです。


 この推理の問題点は、
「そなたの入室からロジックエラー時まで、客室を出入りしたのは、そなたと戦人と嘉音のみだ」
 という赤字。客室を「屋敷の客室といとこ部屋両方」と定義するとしても、いとこ部屋に源次や蔵臼や留弗夫が入室したのは明らかなので、赤にひっかかります。
「そなたの入室」を「屋敷客室への入室」とは受け取らない、という手を考えているんだけども、それでもむつかしい。ここをうまく外せれば、わたしとしては大喝采です。

 まあ、わたしには「この赤字を真実とは認めない」という伝家の宝刀がありますから、いざとなったらそれで切り抜けてしまいます。

     *

> F-4-3:「救出者」が、ヱリカがバスルームにいる間に客室に来たようですが、このタイミングは偶然でしょうか?(村正)

 上で書いた答えのように、救出者は屋敷の客室には現れていない、というのがわたしの考えです。

     *

> F-4-4:「救出者」は何が目的だったとおもいますか?(村正)

 わたしの推理における救出者とは、戦人がいとこ部屋を出て行くときに開けていったチェーンロックを掛け直した朱志香、ということなので、えー、なんか、なんとなく用心のためにチェーンをかけた、くらいのことです。

     *

> F-5:EP6作中にて何度も挿入された密室に閉じ込められていたのは誰か?(Daedalus)
>  ※戦人ではない、という可能性はあるでしょうか?


 あれはですね、わたしの解釈としては、
「戦人を含めた、“八方ふさがりの状況に追い込まれてしまった人”の心理」
 を、ああした形で現してるんだと思います。

 なので、戦人だけでなくて、いろんな人の気持ちを、あそこに閉じこめられたあの人の声が代表しているんだと思います。

 たとえば朱志香。
 彼女は子供のころ、しばしばお仕置きでクローゼットに閉じこめられたそうです。
「自分はこんな寒い暗いところに閉じこめられているのに、廊下の向こうからは楽しげな談笑や、あったかいごはんの雰囲気がする」
 という描写は、朱志香の体験じゃないかなと思います。

 たとえばベアトリーチェ。
 ゲームマスターになった戦人は、雛ベアトに、「奇跡が起こって、おまえが元のベアトの記憶を思い出してくれたらいいな」みたいなことを言います。
 雛ベアトは元のベアトのクローンみたいなもので、つまり遺伝子が同じなだけの別人ですから、雛ベアトは絶対に元のベアトの記憶を思い出しません。絶対に思い出さないことが確定だから、もしそれでも思い出したとしたらまさに奇跡なわけです。

 以前はベアトが戦人に何かを思い出させようとしていた。今は戦人がベアトに何かを思い出させようとしている、という対比は、作中で何度か念押しされています。

 戦人の中の幻想のベアトリーチェも、「戦人が思い出したら奇跡」みたいなことを言っていました。
「そなたがいつかはきっと気付く、思い出す、奇跡が起こる。そう信じてゲームを繰り返した」
 戦人がド忘れしていて、それをふっと思い出した。これはよくあることで、奇跡でもなんでもないと思うのです。
 戦人が「最初から知らないこと」を、それでも「思い出した」りしたら、それはさすがに奇跡だといっていいと思うのです。

 で、ここで、
 戦人が、ルールを元にして、雛ベアトを再構成しました。それと全く同じようにして、
「ベアトリーチェは、(ルールか何かから)上位戦人を再構成した」
 としたらどうだろう、と仮定します。
 すると、上位戦人は、「罪を持った本来の戦人のクローン」みたいな存在です。

 雛ベアトが、元のベアトの記憶を持っていない(だから何も思い出しようがない)ように、上位戦人も、本来の戦人の記憶を持っていない。だからベアトリーチェが期待するようなことは思い出しようがない。
 そういう状況があったとする。

「もともと知らないから、何も思い出しようがない」戦人が、それでも「何かを思い出す」こと。
 それがベアトリーチェの勝利条件だとしたら、ベアトリーチェは最初からロジックエラーに陥っています。
 伏せた空のカップの中から、タネも仕掛けも使わずに飴玉を取り出してみろと言われているようなものです。

 だから、Ep1から4まで描かれてきたベアトリーチェのゲームは、それ自体が、
「ベアトリーチェがロジックエラーから抜け出そうとしてもがく過程であった」
 のではないか、と推理するのです。

「絶対に思い出さない戦人から、何かを思い出させてみろ」という矛盾した条件。
 それは、
「出られない部屋から、それでも出てみろ」
 というのと同じではないか。

 その八方ふさがりの心理が、Ep6のあの「閉じこめられた人物」に、こめられているという推理です。

 なので具体的には、あの人物の内訳は「戦人、朱志香、ベアトリーチェ」ということになるでしょうか。
 ちなみにわたしは、ベアトリーチェの創造主は朱志香だと考えていますので、実質でいうと2人かもしれません。

「奇跡が起こって、戦人は何かを思い出したのか」ということについては、思い出したのではなく、
「ちりばめられたさまざまなヒントから、何が起こったのか(何を思い出すべきだったのか)を推測し、確信した」
 のである、という理解のしかたです。


 続き→ 六軒島殺人事件は本当にあったのか?


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ep6幻想祝福論・虚実境界線は引けない

2010年01月19日 15時58分15秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


ep6幻想祝福論・虚実境界線は引けない
 筆者-初出●Townmemory -(2010/01/19(Tue) 15:52:46)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=39076&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注

 ある人とメールのやりとりをしていて、突然思いついた「虚実境界線不可能説」です。
 基本的に、「●勝利条件論」の欄でいつも言っていることの焼き直しです(目次からご覧下さい)が、ep6の情報を加えて、ドラマチックに飾ってみました。

 鏡砕きの儀式魔法による幻想の侵食……というたとえ話は、かってなストーリーですが、わりあい気に入っています。

 以下が本文です。


     ☆


 竜騎士07さんは「虚実」という単語を独特の意味でつかいます。これは辞書的には「虚構と現実」「ウソのこととホントのこと」「実体のないこととあること」。つまり文字通り「虚と実と」という意味なのですが、竜騎士07さんはほぼ「虚構」の意味で使うようです。「否定されなければ、虚実すらも、真実」という言い回しが典型的ですね。

 さて、本稿でも以後、「虚実」ということばを使いますが、これは辞書通りの意味だと思って下さい。つまり「虚構」の意味ではなく、「虚と実と」という意味です。


『うみねこ』という物語において、「虚と実と」の境界線って、いったいどこに引けばいいんだろう、というお話をこれからしてみます。

     *

 そもそも『うみねこ』は
「魔女が犯行をやったのか、人間が犯行をやったのか」
 という設問から始まっているわけで、つまりはじめから、
「どっちが虚でどっちが実なのか」
 というのを問う物語であったわけです。

 その後、いくつもエピソードが公開されて、いくつもの論点が追加されていきました。
 それらも、つきつめれば、「虚実の境界がどこにあるのか」を問うものだったんじゃないかな、という気がしてきたのです。

『うみねこ』の難しさって、
「どっからどこまでが確かな情報なのか、わからない」
 ということにつきると思うのです。

 エピソードが進むにつれ、現実的だと思えていた領域に、どんどん幻想的なものが侵食してきている。


 例えば。

 下位世界のキャラクターであるヱリカが、上位世界の情報を持ったうえで行動しているかのように描かれたり。

 猫箱の外なのだから、現実的なことしか起こらないはずの1998年の世界で、縁寿が、現実的には存在しないはずのベルンカステルに出会ったり。

 現実的に起こっている殺人事件が、上位世界では「ゲーム」として扱われ、これはいったいゲームであるのか、それとも現実の事件であるのか、ごっちゃに思えてきちゃったり。

 下位世界の駒キャラたちが、上位世界(らしき場所)に呼ばれて、
「今から親たちを殺しておいで。大丈夫これはゲームで本当じゃないから」
 みたいなことを言われたり。


 そういうのを見るたびに、わたしなんかは、
「えっ、こっち側のこのへんって、現実じゃなかったの?」
 と、わりあい素直にビックリしていました。

     *

 そのへんのビックリの、最たるものが、今回Ep6での、八城十八の登場でした。
 小説家・八城十八先生は、「Ep3以降のお話は私が書いてネットに流したものだ」と言い出しました。

 それならば、
 Ep3以降の展開は、八城十八が勝手にこねくりだして作ったもので、ベアトリーチェと戦人のはげしい推理合戦などは、「実際には起こっていない」ことなの?
 わたしたちは、どこでどうやって、というのはさておいて、とにかく一応「見たエピソードは、何かの形で、起こったこと」だと認識してきた(そういう人が多数だろう)と思うのです。
 でもそれが「第三者の創作」であるのなら、Ep3以降にはベアトリーチェの意図は介在していないということになるの?

 と思っていたら、今度は、「八城十八の正体は、魔女フェザリーヌ」ということが示唆されました。
 魔女フェザリーヌは、ベアトリーチェのゲーム盤をのぞき見ることができる立場らしいです。
 ということは、Ep3以降の物語は、やっぱりベアトリーチェがきちんと起こしたことであって、それを忠実にフェザリーヌが「書き写した」ものであるのか? それを「伊藤幾九郎なにがし」という名義で発表した、ということなのか?

 と思っていたら、次には「魔女フェザリーヌとは、八城十八が書いた偽メッセージボトルに登場する架空の人物である」という情報が追加されるのです。Aだと思ったらB、Bだと思ったらA。コインの表を裏返したら裏。裏をまた裏返したら表。


 そもそも、Ep6の縁寿は、「Ep4で描かれた新島や六軒島の顛末」に関する記憶を持っているという、不可解な状況です。
 Ep6の縁寿は、「ほとんどの場合で、八城十八には会えない」という、平行世界的な認識すら持っているのです。
 ということは、「いるはずもないベルンカステルに、1998年の縁寿が出会う」というシーンが幻想であるのと同じように、「会えたはずのない八城十八に1998年の縁寿が出会う」というシーンも幻想なのであろうか。これは特に無理のない想像です。

 でも、「ほとんどの場合で、八城十八には会えない」ということは、
「すべての場合で、縁寿は八城十八に会見を申し込んでいる」
 と見なせます。
 縁寿が八城十八に会見を申し込むためには、「伊藤幾九郎が書いた偽書メッセージボトル」が評判になってないといけないので、やはりEp3以降はネットに流されていないと困るのです。ということはやはり八城十八という人物はいる……?


 この堂々巡り。
 頭のいい右代宮縁寿は、たった一言で要約してみせるのです。

「あんたがフェザリーヌなの? フェザリーヌがあんたなの?」

 素晴らしい。そういうことなのです。
 八城十八が現実で、フェザリーヌが幻想なのか。
 フェザリーヌが現実で、八城十八が幻想なのか。

 どっちが虚でどっちが実なのか。

 はっきりしてほしい。

 これを「はっきりしてほしい」と思うのは、読んだ人の素直な実感でしょう。

 しかし、この物語は、それをはっきりさせない。
 それどころか、むしろ、
「はっきりさせない、というのが、このお話のコンセプトです」
 ということを、Ep6で明確に打ち出してきた。そんなふうに感じるのです。

     *

 縁寿が別れ際に放った、
「八城十八がフェザリーヌなのか、フェザリーヌが八城十八なのか」
 という問い。
 これは、「八城十八が物語を創作したのか、それとも、フェザリーヌが実際にその目で見聞きした現実を、八城十八の創作だという建前で公表したのか」という意味に受け取って、かまわないと思うのです。
 八城十八はそれに答えませんでした。

 八城十八がそれに答えなかったことによって、
「その虚実は、永遠に確定されないことが明言された」
 というふうに、わたしは受け取りました。

 これもまた、「左目と右目のリドル」だと思うのです。

 古戸ヱリカが到達した認識。
「クローゼットの中に人がいる」のか、
「ベッドの下に人がいる」のか、
 どっちか片方だ、と思った瞬間、真実はその手をすり抜け、決してつかむことができなくなる。

「八城十八とフェザリーヌ、どっちが虚でどっちが実なのか」

 これもまた、「クローゼットとベッド下のジレンマ」だと思うのです。
 どっちか片方に決めようと思うかぎり、真実はその手をすり抜けていく。

 どっちか片方には決められない。
 だから、両方を、こう、「もやっと」つかんだ気になるしかない。

 ここからここまでが現実で、ここから先は幻想……というような、境界線は「引けない」。
 引けそうになってしまったら、「引かさない」ように煙幕が張られる。

 この作者は、どこからが虚でどこからが実なのか、という問いに対して、
「どっちかには決められない物語」
 を描こうとしている。
 そういう強い意志を、わたしは感じるのです。

     *

 同じことを言い換えますが、
 八城十八とフェザリーヌの例にしろ、下位世界と上位世界のことにせよ、

「どこからが現実でどこからが幻想なのかが、意図的にぼやかされている」

 ということなんだと、わたしは思います。

 境界線が隠されている、というよりは、
「作者にすら、どっちかハッキリとは決められないような構造がつくられている」
 と受け取るのが妥当だと思います。

「現実と幻想の境界線なんて、いったい誰が決められるというの?」

 という着地点(主張)にむけて、物語構造がつくられている。
 そういう受け取り方です。

「ここからここまでがハッキリした価値のある現実で、ここから先は意味のない作り事(幻想)です」
 というような線引きをしちゃうのって、「愛がない」のではないの……?
 という物語が、「うみねこ」なのではないか。
 そういう構造が感じられるのです。

 だから、「ベッド下」という推理が幻想なのか、「クローゼットの中」という推理が幻想なのかは、「線引きができない」という主張がなされる。
 ゼパルが男の子なのか、フルフルが男の子なのかという「線引き」はなされない。

 どうしても線を引きたければ、読んだ人が勝手に引けばいい。
 決めたければ、決めればいい。
 でも、決めなくても、べつにかまわない。
 右目で見た世界。
 左目で見た世界。
 どっちが「本当の」世界なのかなんて、決めなくてもいっこうにかまわない。でも、どうしても決めたい人は好みで決めたらいい。

 ラムダデルタという多世界転移能力を持った超人がほんとうにいて、その人がベアトリーチェを魔女の位に引き上げてくれたのか。
 それとも、ベアトリーチェの中の人が、「ラムダデルタという架空の超人」を夢想して、その人によって魔女認定してもらえたという「夢を描いた」のか。

 その区別は、きっと、永遠に断定されない。そう思うのです。

 どこからが現実で、どこからが虚構なのか。
 それは、「決められない」が答え。
 それを絶対に決められないような世界構造を作ろう、というのが趣旨であるのだろう、とわたしには思えるのです。


 でも、どうしてこの物語は、その断定をしないのだろう。虚実の線引きを、断固として拒否する、その理由はなんだろう。


 それは、この物語が、
「現実は優位であり、虚構は劣位である」
 という、世間の思いこみに対する、反旗だから。

 というふうに、わたしは、読みました。
 というか、そういう反旗であってほしいとわたしは願望します。


 この物語の構造においては、現実を虚構化することができ、虚構を現実化することができます。
 そういう条件下においては、「現実は優位、虚構は劣位」というひきくらべは、まったく意味をなさなくなるのです。

 そもそも、「現実と幻想の区別を、はっきりさせたい」という欲求は、「現実には価値があり、幻想はそれほどでもない」という無意識の基準線に基づくものではないでしょうか?
 その無意識のひきくらべに、痛烈な一撃を食らわせたい。
 そういう趣旨があるのだとしたら、理解できそうじゃないでしょうか。


 Ep6では、「六軒島の爆発事故」が、はじめて明言されました。
 各エピソードで、必ず爆発事故が起きて全滅するのだとしたら、ボトルメールさえ発見されれば「実際には殺人事件が起こっていなくても全然かまわない」。
 だとしたら、いったい、事件は起こったの? 起こっていないの?
 6エピソードあるうちで、どの事件が起こって、どの事件が起こっていないの?

 それを確かめたいという欲求がある。
 なぜなら、ほんとうにあったことと、まやかしのウソッパチを選り分けたいから。
 それは、素直な、自然な感情です。

 だけど、見方によっては、そこにあるのは。
 起こってないなら、それはウソゴトだ。
 という、一種の差別意識。

 たとえば、Ep3というお話が、実際には存在しない虚構だとしたら、それを読んだことで我々が感じた恐怖とか怒りとか、悲哀とかは、価値を減じてしまうのか?

『フランダースの犬』を見て自然に流れた涙は、『フランダースの犬』の物語がフィクションであることをもって、価値を減じるのか?

 虚構の経験に価値がないというのなら、「他人の体験を聞いて、それを自分のことのように共感する」能力にも価値がないってことになります。
 だって、「他人から聞いている」時点で、「他人に起こった現実」と「他人に起こったという設定で語られる虚構」との区別は、本質的には存在しないですからね。
(そう、まるで、秀吉の武勇伝のように)


 もう一度。
 この物語は、「人間による殺人事件」という現実的解釈が、魔女幻想によってじわじわと侵食されていく物語です。
 なんと、あの右代宮戦人君は、6エピソードを消化した結果、「人間犯人説」なんてものを、たったひとことも口の端にのぼせることのない人になってしまいました。
 それで良いのです。

 そして、『うみねこのなく頃に』は、
「この物語は幻想に決まっています」
 という前置きから始まるのです。

『うみねこのなく頃に』という幻想を見ている、現実のわたしたち。
 ほんとうに、その境界線は明確なのか?
 わたしたちが、彼らを見ているのか。
 彼らが、わたしたちを見ているのか。
 古戸ヱリカは誰に向かって「いかがですか、皆様方」と語りかけたのか。

 わたしたちが、鏡を見ているのか。
 鏡が、わたしたちを見ているのか。
 鏡を叩いて割ってみても、それは永久にわからない。なぜなら、鏡の向こうにいるわたしも、鏡を殴りつけるからです。

『うみねこのなく頃に』は、魔女幻想が現実を侵食する物語。
 その現実、とは、作中の現実にかぎらないと思います。
 我々が、自分の手を触って、肉体を感じる、この現実そのものすら、侵食されうる。
 そういう構造が――つまり「魔法儀式」が、組み立てられていると思います。

 われわれは、鏡のこちら側を現実、鏡の向こう側を幻影だと思い込んでいます。
 この、「鏡」が「虚実の境界線だ」という思いこみ。
 それを、こなごなに割ってみせる物語。
「鏡砕き」の儀式魔法。
『うみねこのなく頃に』は、そんなふうに、ある意味において、虚構世界の悪魔たちが現実に攻め込んでくるための魔法陣そのものなのでは? という、ちょっと先走ったような推理なのです。


     *


 先ほど、
「どうしても虚実の境界線を引きたければ、読んだ人が勝手に引けばいい」
 というつきはなした言い方をしました。

 けれども。
 これは見方を変えれば、
「この手にペンを持って、好きなところに線を引ける自由」
 ということにもなると思うんです。

 わたしは先ほど、「この物語はあえて、なにひとつ確定的ではない」ということを言いました。
 それは言い換えれば、
「何が確かなものなのか、好きに決めて思い込むことだってできる」
 という「可能性」でもあるんだと思うのです。

 わたしはこの物語は、「確定的なことと不確定なことを選り分けて真実をさぐる」物語では「なく」、
「なにひとつ確定的ではない世界の中で、自分(あなた)という人はいったい何を真実として選び取りたいのか」
 という「意志を問う」お話なのだ、というふうに受け取っています。


 大好きだから、何度も引用するのですが、Ep5のこのセリフです。

「あぁ、そうだ。俺の真実に関係なく、お前の真実も同時に存在する。……それが、この世界だ」
「ここでは、想像の数だけ真実があっていいんだ。それを、誰も一方的に否定してはならない…!」


 これは我々にも適用されていいと思うのです。

 うみねこという物語には、「それぞれの人が選び取ったものを尊重したい」という姿勢があるように思うのです。
 同じお話を見ているのに、それぞれが想像する「真相」がまるでちがう。
 その違いを「良いこと」として扱いたい。
 そんなケハイがするのです。
 同じアニメを見ているのに、そこから派生した同人誌の内容は、それぞれまるで違う、みたいなことです。

 何度もこの例を出しますが、竜騎士07さんは、同人出身の作家です。
 原作というひとつの物語から、同人誌という「無限の」偽書がひろがっていくさまを、肌身で感じてきた経験をもつ作家なのです。

 そんな竜騎士07さんには、
 生み出されゆく無限のヴァリエをよろこびたい、
 祝福したい、
 そんな気持ちが、ひょっとしてあるんじゃないかな? という勝手な想像なんです。

 だから、インタビューなどを見ていると、「オフィシャル的にこれが正解で、これ以外は不正解です」みたいなことをハッキリさせたくないという姿勢があるように、わたしなどは感じる。
「赤字が本当に真実であるか」は、竜騎士さんは「はっきりさせない」。
「ノックスがほんとうにゲームに適用されているか」は「はっきりさせない」。
 その姿勢のあらわれの最たるものが、「犯人は誰、とハッキリさせて終わるような終わり方にはしないつもり」という趣旨の発言になっていく……。そういう解釈です。

 卑近な言い方をすれば、「なるべくぼやかしたものにしておくから、そのへんは好きなように決めて空想したり同人誌作ったりすればいいじゃん」って感じ。

 前にも別の記事で例に出しましたが、Ep2の文化祭で朱志香が扮装するのは「東方シリーズ」の魔理沙というキャラクターです。東方シリーズの中でも、最も二次創作設定の多いキャラのひとりだと思います。
 ニコニコ動画の東方ファン動画などでは、「アリス(という女の子)からすごく好かれている」という二次設定がものすごく人気で、たぶん、そうじゃない設定の動画を探す方がかなり難しいんじゃないかな。東方の原作者ZUNさんは「そんな設定はない。むしろアリスは魔理沙が嫌いだ」という趣旨の発言さえしている(そうな)のですが、にもかかわらず、ファンから自然発生した二次設定のほうが圧倒的に支持されているのです。たぶん、これが二次設定だということを知らない人ってかなりの割合にのぼるはず。

 これってうみねこ風に言えば、
「そんな設定はない」という反魔法の毒すらも克服して、ファンたちが錬成した「黄金」
 なのじゃないかな、という気がします。
『うみねこ』という物語からは、
「そういうユーザーたちの錬金術を、言祝ぎたい」
 という意志が、なんとなく、感じられるような気がするんだけど、どうでしょう。


 なにひとつ確定的ではないという「無限」。
 その中から好きに選び取っていいという「黄金」。

 それを自覚し、みずからの幻想をつむぎはじめたとき、わたしたちひとりひとりが「無限と黄金の魔女」なのだ……というようなこと。
 そういう受け取り方をすれば、虚構が攻め込んできて、魔女幻想に支配されるというのも、あながち悪いものでもないな、というフィーリングなんです。



■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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ep6初期推理4・戦人脱出その2/金文字/一なるトリック

2010年01月07日 09時59分16秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


ep6初期推理4・戦人脱出その2/金文字/一なるトリック
 筆者-初出●Townmemory -(2010/01/07(Thu) 09:53:30)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=38528&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注

 チェーンロック密室からの脱出法・その2です。
 今回は「ガムテ封印を破らずに脱出する方法」です。


 ep6初期推理1・紗音嘉音問題/八城十八と「ふたつの真実」
 ep6初期推理2・姉ベアトの正体と雛ベアトの“お母様”
 ep6初期推理3・密室解法/戦人は単騎で脱出できる

 以下が本文です。


     ☆


●ガムテープ封印を割らない単騎脱出

 前回で提案した、いくつかの「戦人がひとりで密室を脱する方法」のひとつに、「外からチェーンをガムテープでつなぐ」というものがありました。
 これは、実のところ、かなり細かい条件を必要とします。

 戦人が予備のガムテープを持っていて、
 さらにマジックを持っていて、
 封印の割り印は、よく見たら書き写すことが可能

 でなければならない。

 これは実のところきびしい。
 この方向性で、本気でトリック破りをするのだとしたら、やはり、「認める」系の復唱をいくつかキャンセルする必要があるでしょう。
 たとえば「客室」の定義をキャンセルすることで、「戦人は客室内にいるが、戦人のいる場所を客室には含めない」みたいなへりくつを弄する必要が出てきてしまいます。

 これでもいいんですが、正直、美しくはない。


 なので、チェーンロックにほどこされた封印を割らずに、戦人を脱出させたいと思います。

 以下のようなかたちで、良くはないか?

・戦人、客室を内側から施錠し、死んだふりをする。
・チェーンロック、切断される。事件が発覚する。
・戦人、バスルームに熱湯のトラップを仕掛ける。
・戦人、客室を出る。
・ヱリカ、5人を殺害する。
・ヱリカ、戦人の客室を封印する。
・ヱリカ、戦人の客室の封印健在を確認する。
・ヱリカ、戦人の客室に入室する。
・ヱリカ、チェーンロックを掛け、切れたチェーンに封印をほどこす。



 いみじくもヱリカが言っていました。いとこ部屋からどうやって嘉音を脱出させるかではなく、どうやって封印時に嘉音を外に出しておくかだと。

 その発想を戦人の密室にも使ったら良いというほどき方です。

 この脱出方法を採るために、抜けなければならない赤字は、以下のひとつだけです。

「“第一の晩の犠牲者6人の所在は、発見場所のとおりである。夏妃は自室、絵羽は貴賓室、霧江は蔵臼の書斎、楼座と真里亞は客間で、あんたは客室”!」
「……………………。」
「まさか、この時点でもう、この程度のことも復唱拒否ですか?!」
「………いいぜ。それを認める。


 そう、なんと、前回指摘した、
「もっとも自然に、『認める』をキャンセルできる場所」
 でした。

 ここはごく自然に、
「この程度のことも復唱拒否であることを認める」
 と読めるのです。

 これで、チェーンロックの封印も、隣部屋の窓の封印も割らずに、戦人ひとりでの密室脱出が(今度こそ)可能になった気がするんですが、どうでしょうか。


 チーズを8分割するには何回の切断を必要とするか、というクイズがありました。

 戦人を救出するには、戦人を含めて2人の人間が必要、というのは、ひょっとして「チーズは3回の切断が必要」という答えにひとしいのではないか、という疑いを、わたしはep6を読みながら、ずーっと考えていました。
 そこで、なんとか戦人ひとりだけで脱出させたい、というのが、わたしの個人的なテーマになっています。これ以外にもないかどうか、今後も考えていきたいところです。


●戦人のいらだち=金蔵リフレイン

 再生させた雛ベアトが、戦人の望むような人格でなかったために、落胆して、いらだつ。
 これは、「ベアトリーチェの復活を望んでやまなかった金蔵」という姿に重ね合わせたとき、金蔵も同じ苦悩をきっと味わっていたにちがいない。そういう連想は容易におこなうことができます。

 まっさきに思いつくのが、九羽鳥庵にいたベアトとの関係性で、すでに公式掲示板でも、多くの人が指摘しています。金蔵は九羽鳥庵ベアトに対して、そういう落胆を感じていたのかなあと。
 それはわたしは賛同します。そういう「本来のベアトとは違う……」という違和感を感じる局面が、金蔵翁になかったとは、とても思えないです。


 それはOKとして、ちょっとズレたことを言ってみたいと思います。

 戦人は、雛ベアトにとても冷たくあたりました。

 金蔵翁が、そんなふうに冷たくあたっていた相手といえば誰かな? 
 そう考えたとき、「夏妃」の名前が思い浮かんだのです。

 夏妃は、「古い神官の一族」の出だと言われています。金蔵が愛したオリジナルベアトリーチェも、この「古い神官の一族」の出身なんじゃないか?
 という推理を、わたしは展開したことがあります。

 当たっているかどうかはともかくとして、わたしは自分で、いま、いちばんお気に入りの推理です。

 詳しくはこちら→ 「朱志香の喘息・鎮守の祠と鏡・ep5死体移動」

 簡単に要約しますと、

 鎮守の祠は、実質、金蔵翁が建てたものです。
 鎮守の祠には、鏡がまつられています。
 この鏡が、オリジナルベアトの愛用品だったとしたらどうだろう。
 オリジナルベアトの姿を映し続けた鏡を「魂の依り代」として大事にしたかった金蔵翁の気持ちの表れが、あの鎮守の祠だとしたらどうだろう。
 そして、オリジナルベアトの鏡は、実家から彼女に与えられた「霊鏡」だとしたらどうだろう。
 女の子が旅立つとき、守りの霊鏡を与える習慣の一族がある。
 つまり、夏妃とオリジナルベアトは、同じ一族の出身なのでは?
 夏妃は、金蔵翁が必死の経済戦争をして、やっと勝ち取ったトロフィーです。
 夏妃は、オリジナルベアトの姪っ子か、いとこの娘かで、オリジナルベアトを失った金蔵翁は、せめてオリジナルベアトの面影を持つ女の子を身近に置きたかったのでは?

 という、仮定に仮定をかさねた奇怪な理論なのですが、わたしはストーリーとして自分で気に入っているのです。

 仮に、これがOKだとしたら。
 オリジナルベアトにそっくりの長男の嫁が、オリジナルベアトに似ても似つかない性格だ。なんか、違う。フキゲンになっちゃう。

 そんな現象が、「金蔵は夏妃に冷たい」だとしたら、それはただ冷たいのではなく愛の介在する現象だということになります。

「金蔵は夏妃を信頼したことはない」という赤字がありますが、戦人だって、雛ベアトのことを別に信頼なんてしていません。信頼しているのではなくて、「愛憎相半ばの複雑な感情」を持っているのです。

 夏妃は金蔵のことを「お父様」と呼びますが、雛ベアトも戦人のことを「お父様」と呼んでいました。


●0715戦人と1129戦人・再び

「この世界の、本当の領主の、年齢」は19だそうです。

 わたしは最初、戦人が2人いて、内訳は7月15日生まれの戦人と11月29日生まれの戦人なのだろうという説を立てました。
 → 「留弗夫「俺は殺される」と「07151129」」

 その後、戦人は7月15日に生まれて11月29日に崖から落ちて死んだことにされたんだろう、という説にスライドしました。
 → 「ep5初期推理その6・戦人の謎」

 どうもさらにスライドの必要がありそうです。

 戦人は11月29日に九羽鳥庵で生まれ、しかし翌年の7月15日生まれ「だということにされた」のだとしたら、実は戦人は19歳だということになり、それで整ってしまいそうです。


 この場合、なんでわざわざ7月15日生まれにしたのか、という理由が必要で、それはどうも、「霧江の出産予定日も7月15日だった」があやしい感じです。

 赤ん坊(戦人)を何らかの理由で預かった明日夢の、霧江に対する、あてつけ、かな?
 参考→ 「明日夢はいったい誰なのか?」

(でも、ep6の言及をみると、明日夢はべつだん、右代宮家の使用人でなくてもかまわないかもしれないですね)

 明日夢は戦人を育てていたが、霧江が妊娠したことを知ってしまった。このままでは留弗夫と霧江が結婚してしまう。それを避けたい。
 そこで、このタイミングで、「金蔵の愛人との子=戦人」というジョーカーをあなたにあげるから、代わりに結婚して下さいと、留弗夫にもちかける。
 しかし、前年11月29日生まれだとすると、さしさわりがある。11月ごろにお腹が大きくなってなきゃならなかったのに、そうでもない姿が目撃されていたとかね。あるいは、ちょうど「とつきとおか」前のころ、留弗夫は海外にいたので妊娠できたはずがないとか。

 そこで明日夢、その日をもって人前に出ないようにする。そしてある日をもって「出産しました」ということにする。これで「戦人は明日夢と留弗夫の間にできた子ではない」という証拠は、とりあえず、消える。

 ややこしいけれど、ひとまずこういうスライドをしたら、なんとか整うかな。


●「見事な魔法であった」という黄金の文字

「そなたが魔法にて、伏せたカップの中に黄金の花びらを生み出した。見事な魔法であったぞ」

 と、姉ベアトは金文字でいいます。
 このことば。もし赤字で言ったら、ステイルメイトが発生してしまいますね。

 つまり、金字は、
「魔法はある」
「これが魔法である」
 と、言うことができる。そういうことになります。

 ep5のラスト近辺をよく読むと、「金文字で語られたことは真実である」とは、誰も保証していないのです。
 ただラムダデルタやドラノールが、「文字が金色になった」という「現象」を「黄金の真実」と呼んでいるだけのことなんです。


 自分の説を我田引水するようで、少し気が引けますが、

 金文字とは、事実ではないが、そうであってほしい「願い」である。

 というのはどうでしょう。

 戦人は、どうしても金蔵の死体が存在してほしかったし、その死体は判別可能であってほしかったのです。
 姉ベアトは、妹ベアトの魔法を認めてあげたかったのです。

 たとえば、
「この満天の星を、ぜんぶ君にあげる」
 は、物理的に不可能なので赤字でいうのはアレですが、金なら余裕で言える、とかね。

 このあたりに関しては、詳しくは以下をどうぞ。
 → 「うみねこに選択肢を作る方法(と『黄金の真実』)」
 → 「「うみねこのなく頃に」推理・考察ブログです」


●フェザリーヌが示唆した「ベアトの心臓」

 我田引水ついでにもう一題。

「隣部屋の窓以外に、出口はない。……にもかかわらず、隣部屋の窓を推理に組み込むことが許されぬ。…………この密室を解く答えは、恐らく、ない。」
(中略)
「……………………。……いや、一手、あるにはある。……しかしその手は、………二度と使えぬ手だ。……そしてそれは、…ベアトの心臓の一部でもある。」
(中略)
 ………そうか。
 ……この長き物語も、……いよいよ幕を下ろす時が来たのか…。
 その謎を明かすことは、……いよいよ、………ベアトを殺す、ということだ。


 ここでフェザリーヌが示唆する「ベアトの心臓の一部」とは。
 これをゲームマスター戦人があかすということは、物語の終わりを意味するという、それは何か。

 ここでフェザリーヌが想定している「一手」とは、
「隣部屋の窓を推理に組み込むことが許されない」
「にも関わらず、戦人の密室を解くことができる手である」

 という条件です。

 ということは、ここで想定されている「ベアトの心臓」は、「紗音・嘉音同一人物説」に類するものではありません。
 なぜなら、隣部屋の窓を開けないかぎり、紗音は戦人を救出することができないからです。


 わたしは、「このことがホントで、それが明かされたら、この物語はもうオシマイ」となる説を、ひとつ持っています。だいぶおなじみになってきて、そして大不評なやつです。

「赤字は必ずしも、物理的な事実を語っているわけではない」

 この大ナタを、バーンと振り上げてドーンと振り下ろせば、封印を剥がして貼り直そうが隠し通路から逃げ出そうが、お好きな方法で戦人は密室から脱出し、そしてこの物語はおしまいです。


 赤字懐疑論については、もう複雑で、一言では説明出来ないので、以下の目次から「●赤文字論・密室を解く」を順繰りにご覧下さい。→ ■目次(全記事)■


●究極にして一なる原始のトリック

 ベアトリーチェは、あらゆる推理小説を読み漁ったあげく、
「究極にして一なる原始のトリック」
 に気づいた。
 それを魔法体系にして、魔女になった。

 そんなことがラムダデルタから語られます。

 ベアトリーチェが気づいたものが、なんなのか、わたしにはわかりません。

 だから、そのかわりに、わたしの考える「1なるトリック」について、お話します。
 程度の大小はあれ、意識的にか無意識的にかはともかく、ほとんどの探偵小説が使っていると言ってもいい、あるトリックがあります。


 それは。
「不正確、かつ不足した情報しか与えない。にもかかわらず、正しく・十分な情報が与えられていた、と読者に誤認させること」
 です。

 なぜなら、正確かつ十分な情報を読者に与えたら、かかる時間の長短はあれ、必ず解けてしまうからです。

 つまり、解けない条件の謎を与えたあげく、「ああ、よく考えていれば解けたのに」という錯覚を相手に与える。
 わたしは、ほとんどの探偵小説の正体は、これだと思います。

 パズラーというのでしょうか、本当に知恵の輪みたいなものを指向する一派は除いて、ほとんどのミステリーが、このトリックの恩恵にあずかっているのではないかな。

 ミステリーが読者に提供しているものって、じつは、「謎」ではなく、「それが謎解きシーンでみるみる解けていくときの快感」なのではないかな。
 テレビ時代劇の本質が、ドラマや舞台設定にあるのではなく、45分めに始まる剣劇であるように。

 謎に囲まれて、頭脳に負荷がかかる。
 その負荷が、謎解きシーンで急激に解放される。
 そのときの気持ちよさ。

 無理して着ていたきつい服を、家に帰ってきて脱いだときの気分みたいなもの。
 ミステリーが提供しているエンタテインメント性って、それじゃないかな。

「ああ、そうか! 認識がひらけた! ぱぁーっ」
 というときの快感、カタルシス。
 ミステリーとは、このカタルシスを目的としたものであって、
 逆に言えば、カタルシスさえ提供することができれば、「本当に解ける必要はない」。

 わたしは、ミステリーを、そういうものだと認識しているのです。

 だから、赤字ってほんとのこととは違うでしょ、みたいなことも言えてしまう。

 万単位のユーザーが、3年間かかりきりになって、それでも解けない(定説らしきものを成立させられない)パズルというのは、そのパズル性を疑うべきだと思うのです。
 そして、
「パズルでないのなら、これは何なのか」
 を考えていくべき。そういうアプローチを、わたしは個人的にとっています。


 実は最初から宣言されているのじゃないかな。
「No fair.」
「解かせる気が毛頭ない」



■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
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ep6初期推理3・密室解法/戦人は単騎で脱出できる

2010年01月06日 09時00分58秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


ep6初期推理3・密室解法/戦人は単騎で脱出できる
 筆者-初出●Townmemory -(2010/01/06(Wed) 08:54:45)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=38478&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注

 チェーンロック密室からの脱出法です。

 わたしは、「隣部屋の窓が開けられ、人が出入りした」という条件を、どうも信じられないのです。なんでわざわざ窓から出入りを? すごく不自然です。
 よって、「隣部屋の窓が開けられた可能性」をデコイだと判断し、窓を開けずに戦人を救出する方法を考えました。

 コトバ遊び的にはへりくつだらけなのですが、「物理的」には、紗音による救出説よりも理にかなっているつもりです。


 ep6初期推理1・紗音嘉音問題/八城十八と「ふたつの真実」
 ep6初期推理2・姉ベアトの正体と雛ベアトの“お母様”

 以下が本文です。


     ☆


●「認める」は何も認めていない

 もお、何でつっこまないんだよヱリカさん! と、モニターのこっち側から言いたくてしょうがなかったことがあるんです。

 少し、抜き出してみましょうか。

「一つ。“6人の部屋は全て密室でアル”。」
認める。もちろん、郷田たちがチェーンを切断するなどして、密室を破るまでの話だが。」

「一つ。“密室の定義とは、外部より構築不可能であるコト”。」
認める。

「一つ。“密室の定義とは、内外を横断する一切の干渉が断絶されていることを指ス”。」
認める。ただし、ノックや声、内線電話など、一般的な部屋で想定できる干渉方法を否定はしない。」


 もうおわかりになったと思います。これ、復唱要求と回答なんです。
 復唱関係でこんなやりとりになったことって、全エピソードで今回が初めてです。

 復唱要求とは、
「いまからいうのと同じセリフを、赤い字で言ってみろ。真実なら言えるはずだ」
 という意味だったはずです。

 だから、
「6人の部屋は全て密室でアル」
 という復唱を要求されたら、
6人の部屋は全て密室である
 と回答しなければ、意味がありません。

 つまり、ここでの戦人は、
「復唱要求に応じたフリをして、一切応じていない」
 と解釈することができてしまうのです。


 戦人の復唱要求に対する、ベアトリーチェの応答は、例えば以下のようなものでした。
妾が真里亞に渡した封筒と、楼座が開封した封筒は同一のものであるぞ
嘉音はこの部屋で殺された
この部屋には、お前たち以外は存在しない。お前たちの定義とは、戦人、譲治、真里亞、楼座、源次、郷田、紗音のことを指す


 ベアトリーチェによる復唱は、それ自体を抜き出しても、意味が発生するのです。
 ところが、戦人による復唱を、それ自体だけ抜き出すと、こうなります。

認める。
認める。
認める。
それを認める。


 戦人の復唱は、単体では、どう読んでも有意にはならないのです。
 これを意味あるものとして受け取るには、前後の文脈がなければなりません。

 そして、文脈というのは、読み手が「解釈」することによって発生する文意の流れのことです。

 すなわち。
 復唱者である戦人は、当然、
「俺はその解釈で『認める』と言ったわけではない」
 というつっぱね方が、可能です。

 いちばん簡単な突っぱね方は、こうです。

「復唱要求。“6人の部屋は全て密室である”。」
「認」識した。すなわち、あなたから私に対して、そのような要求があったという事実を、私の意識は認める。だがべつに回答はしない」

 サギだ、と思います?
 でも、「こういう解釈をとってはならない理由」がない限り、「認める」がこの意味であっても、ゲーム的にはいっこう、かまわないはずです。

 もし、ベアトリーチェと戦人のゲームで、ベアトが「認める」なんていう手抜きな復唱をしようものなら、
「いっひっひ、どうしたベアト、復唱できてないぜぇ~」
 というツッコミが、即座に入ったんじゃないかな、と、わたしは感じるのです。

 この解釈法を持ったうえで、以下のやりとりをあらためて読むと、ソコハカとない愉快を覚えます。

「“第一の晩の犠牲者6人の所在は、発見場所のとおりである。夏妃は自室、絵羽は貴賓室、霧江は蔵臼の書斎、楼座と真里亞は客間で、あんたは客室”!」
「……………………。」
「まさか、この時点でもう、この程度のことも復唱拒否ですか?!」
「………いいぜ。それを認める。


 もちろん、「それを認める。」は、
「この程度のことも復唱拒否しなければならないふがいない無能な自分、それを認める
 と解釈することができるのです。直前の言及をうけているのですから、この解釈は何ら恥じることがない。


 つまり、「認める」という言い方で受けた復唱は、このゲームでは、一切考慮する必要がない。
 もちろん、考慮したって良いですよ。
 でも、不都合になったら、キャンセルしちゃっても良い。
 それは、戦人が状況によって、つごうよく切り替えてかまわない。
 そう、つまり、これも「左目と右目のリドル」。
 ふたつの真実。
 差し替えロジックトリック。
「クローゼットとベッド下のジレンマ」です。


●チェーンロックはなぜ外部から操作してはいけないのか

 屋敷の客室密室。あの戦人が閉じこめられた密室ですが、ヱリカとドラノールが、何度も何度も、
「外からチェーンロックをかけるのは禁止!」
 という意味のことを、しつこくしつこく念を押します。

 これを彼女たちがいうたびに、わたしは、
「あれー、そんな条件、いつ出たっけ?」
 と、首をかしげたのでした。

 読み返してみたところ、(読み落としがあるのかもしれないのですが)、外からのチェーンロック施錠を禁止する条件は、以下の場所にしか出てこないのです。

「一つ。“6人の部屋は全て密室でアル”。」
認める。もちろん、郷田たちがチェーンを切断するなどして、密室を破るまでの話だが。」
 ドラノールが頷いて合図すると、後ろのコーネリアがやり取りの記録を取る。
「一つ。“密室の定義とは、外部より構築不可能であるコト”。」
認める。
「……つまり、外部からはどんな細工でも、密室を構築できないということ。チェーンロックを外部より、細い針金などで器用に掛け直した、などは認められないということです。」


 部屋の外からの、針金ハンガーでのチェーンロックかけ直しが禁じられているのは、戦人が「外部より構築不可能」の復唱に応じたからで、そしてその復唱は「認める」系の回答なのです。

 すなわち。
「客室の密室は、外部から構築してはならない」
 という条件は、
認める。
 という復唱を、「認識した」という意味だということに「差し替える」ロジックトリックによって、キャンセルすることができる。

 これをキャンセルすることができれば、あとは何も、むずかしくはない。

 1.ドアを開ける。
 2.外に出る。
 3.外からチェーンをほどこす。
 4.逃走する。

 この手順で脱出すれば良い。
 なんと戦人は、嘉音を身代わりにすることなく、密室を脱出することができました。


●文脈通りにとらえた場合

 えーっ、という反応が聞こえてきそうです。(あるいは、ブー!かな)

 それはいくらなんでも、言葉遊びがすぎる、ずるくはないか。
 文脈上、「認める。」というのは、「要求された復唱の内容を認める」以外には解釈できないのであって、差し替えロジックは無効であると考えるべきだ、と。

 では、自然に認識される文脈通りの意味だとして、戦人がひとりで脱出する方法を考えてみたいと思います。

 もう一度、復唱要求シーンを引用します。

「一つ。“6人の部屋は全て密室でアル”。」
認める。もちろん、郷田たちがチェーンを切断するなどして、密室を破るまでの話だが。」
 ドラノールが頷いて合図すると、後ろのコーネリアがやり取りの記録を取る。
「一つ。“密室の定義とは、外部より構築不可能であるコト”。」
認める。


 第1の復唱要求。密室判定に対して、「郷田たちがチェーンを切断するまで」というただし書きがついています。
 このただし書きは白い字ですが、「文脈から判断して」、「郷田たちがチェーンを切断するまでは、6人の部屋は全て密室であった」という意味にしか、取ることができません。

 そして第2の復唱要求。ここで密室が定義されます。この「外部より構築不可能であるコト」によって、外からチェーンをかけなおすことが禁止されるのです。

「郷田たちがチェーンを切断するまでは、密室である」
「密室は、外部から構築不可能である」

 足し合わせると、こうなるのではないでしょうか。

「郷田たちがチェーンを切断するまでは、外部より構築不可能である」

 戦人が閉じこめられた密室は、ヱリカのガムテープ封印によって密室化しているのです。
 ヱリカがほどこした封印は、当然のことながら、郷田たちがチェーンを切断したあとに発生しているのです。

 よって、こうなるのではないでしょうか。
「ヱリカが構築した密室は、『外部から構築不可能』という条件を持たない」

 これは当然の論理ではないでしょうか。文脈からいって、戦人の密室定義は戦人が作った密室に対する言及であるにきまっていますし、ヱリカがガムテープによって「再構築」した密室は、チェーン切断後に再構築されているのです。

 この方法でも、戦人はひとりで外からチェーンをほどこし、脱出することが可能になりました。


内側からしか出来ない!

 しかし、以上のようなへりくつを一発で吹っ飛ばしかねない赤字があります。

しかしこの扉にはチェーンロックが掛かっています。外すも掛け直すも自由ですが、それは内側からしか出来ません

 これ、ヱリカの赤字です。
 内側からしか掛け直しちゃダメ、と、赤字で言い直されてしまいました。

 これを抜けてみます。
 というか、単純な言葉遊びで抜きます。
 このことが、チェーンロック密室に対する、わたしの根本的な疑問。わたしの出発点でした。
 状況を頭の中で再構成してみると、どう考えても「物理的には単独脱出が可能」であるのに、どうして不可能のように扱われているの? というのが、すごく不信感だったのです。

 以下の形でよくないですか?

 1.ドア開ける。
 2.外に出る。
 3.チェーンをガムテープでつなぐ。
 4.逃走する。

 ロノウェふうに言うと、
「外からチェーンを掛けてはいけない、とは言われましたが、掛かった状態でちぎれているチェーンを、外から修復してはならないとは言われておりませんもので

 ましてやあの部屋には、針金があるのです。
 切れたチェーンを針金で延長し、それをたぐってチェーンの先端をドアの外に引き出し、ガムテープでつないで、針金を除去する。
 これは簡単で、1分でできます。

●筆者注
 少し修正・別案を用意しました→ 「ep6初期推理4・戦人脱出その2/金文字/一なるトリック」



●嘉音が介在する赤字について

 以上が、わたしが真っ先に考えた、ep6密室解法ですが、終盤で問題が発生してしまいました。
 戦人を救出したのは嘉音だと、ベアトリーチェが赤字で言ってしまいました。つまり、「嘉音を使って密室を解かねばならない」という条件が生まれてしまいました。

 ベアトリーチェとしては、それは当然の選択かもしれません。
 というのも、ヱリカやドラノールが「外からチェーンをかけちゃダメ」「ダメ」「ダメ」というアピールをするのが、どうにも、しつこすぎるようにわたしには感じるのです。

 つまり……ヱリカは、「外からチェーンをほどこしてはならない」という条件が、ほんとうは存在してない、欺瞞であることを、自分でわかってるんじゃないか。
 わかっていながら、「外からは構築不可能」であるかのように、戦人をミスリードしているんじゃないか。
 わたしは、それを疑っているのです。

 だとすれば、「外からチェーンを掛けた」という解は、ヱリカの手の内です。
 つまり、ヱリカはこの密室問題に正答することができます。
 この場合、ベアトリーチェは、
「戦人は外からチェーンをつないで脱出したのだが、それ以外の方法で脱出したかのようにヱリカに思わせなければならない」
 のです。

 そこで、
「戦人は密室を単独脱出したのだが、嘉音の救出によって初めて脱出できたように見える」
 というかたちを、無理してつくってみたいと思います。

 とりあえず、大きな赤字は以下です。

 戦人を救出したのは、間違いなく嘉音本人である。
 戦人救出時、客室に入ったのは嘉音のみである。
 そなたと嘉音は入ったのみ、戦人は出たのみ。

 客室に、嘉音は存在しない。………もちろん、クローゼット、ベッドルーム、バスルーム、この全てにおいてである。


 だいたいまとめると、

・嘉音が戦人を救出しなければならない。
・嘉音は客室に入らなければならず、出てはならない。
・嘉音が客室に存在してはならない。


 と、なります。

 まず、嘉音に戦人を救出していただきます。

 救出の定義が決められています。

救出者とは、戦人の開けたチェーンロックを、再び掛け直した者、ということにする。戦人を救う意志があったかどうかは、問わないことにしておく。

 こういうのはどうですか。
「戦人の開けたチェーンロックとは、屋敷本館客室のものでなくともよい」
 だってそんな条件はありませんものね。

 想定としてはこうです。
 1日目の夜。日付が変わるか変わらないかのころ。
 いとこ部屋でトランプをしていた戦人が、こんなことを言い出します。

「いっひっひ、おもしろいこと思いついちまった。いけすかねえ探偵気取りの女に一泡吹かせるのさ。真里亞、おまえもそうしたいだろ。よし、ちょっくら2人で屋敷のほうに行ってこようぜ」

 ゲストハウスは、リゾートホテルとして建てられたもので、いとこ部屋はその客室です。つまり、いとこ部屋のドアにはチェーンロックがある見込みなのです。

 戦人が、そのチェーンロックを開けます。

 嘉音(を名乗ることができる肉体を持つ誰か)は、「お気をつけて、戦人さま、真里亞さま」などといって、玄関先まで2人を見送り、いとこ部屋に戻る。つまり「客室に入る」。
 そして嘉音は、戦人が開けたチェーンロックを、再び掛け直す。

 これで、嘉音は客室に入り、戦人を救出し、「屋敷本館の客室には」嘉音は存在していません。
「嘉音に戦人を救出する意図があったかどうかは問わない」という素敵な条件を、フル活用した解き方です。

 この密室破りのメイントリックは、「いとこ部屋」も「客室」である、という点です。
 異なる2つの名を持つ部屋が存在してはならない、なんていう条件はないのです。

「紗音」が、「嘉音」という別名を持っていても、この密室は解けますが、
「いとこ部屋」が「客室」という別名を持っていても、解けるのです。

「客室内とは、ベッドルーム、バスルーム、クローゼット内の3区分である」
 という定義が、ヱリカとベアトリーチェによって確認されています。
 いとこ部屋には、当然、ベッドルーム、バスルーム、クローゼットがある見込みですから、客室の定義をみたすのです。

 だめ押しで、こんな描写はどうでしょう。

 紗音と嘉音は、ゲストハウスの準備に追われていた。
「……親族の方々を泊めるなら、お屋敷の客室で充分だろうに。」
「そうね。こっちのお掃除、大変だもんね。……でも、ゲストハウスのお掃除は、好き。」
「奥様や、他のムカつく使用人もいないから静かでいいもんね。」
 紗音は苦笑いしながら、客室の細部を点検していく。


 ここでは、「ゲストハウスの」「親族の方々を泊める部屋」を、「客室」と呼んでいるのです。
 つまり、ここに伏線がありました。
 伏線が存在する以上、「いとこ部屋」が「客室」との「一人二役」を演じていても、ノックス違反にはなりません。


 地味なところで、少しひっかかりそうなのは、以下の赤字でしょうか。

そなたの入室からロジックエラー時まで、客室を出入りしたのは、そなたと戦人と嘉音のみだ。

 これをそのままのめば、ヱリカの入室からロジックエラー発生時までの短い間に、「嘉音が客室に入る」という現象が発生しなければなりません。

 ひとつの抜け方としては、「そなたの入室」を、「事件が起こった屋敷本館客室への入室」とは受け取らない場合。
 この場合、たとえば、「ヱリカにあてがわれたゲストハウス客室への入室」からロジックエラー発生時までという、数時間のあいだに、「嘉音が客室に入る」という現象が発生すればよいことになり、いとこ部屋の入退室で問題なくなります。

 もっと派手にひっちゃぶくなら、こうでも良いです。

「復唱要求。“出入りの定義とは、客室と外部の境界を跨いだかどうかである”。」
認めようぞ。
「復唱要求。“客室とは、ベッドルーム、バスルーム、クローゼット内の全てを含む”。」
認めようぞ。クローゼット内を客室でないと言い逃れる気などさらさらないわ。」


 そう、ここに、「認める」系の復唱があるのです。
 つまり、ベアトリーチェは、この2つの条件を、「差し替えロジックトリック」によって、任意にキャンセルすることができます。
 よって、

「出入りの定義とは、客室と外部の境界を跨ぐことだとは限らない
「客室とは、ベッドルーム、バスルーム、クローゼット内の全てを含むとは限らない

 これで、「客室の定義」と「入室の定義」をうたがうことが出来ます。ここで問題になっている赤字は、「客室に、どのタイミングで入室したか」ですので、事実上、何の意味もない赤字へと変えることができました。
 これってあたかも、「王子様をカエルに変える魔法」ですね。


 さあ。これで。
「戦人は単独で密室を脱出した」という現実の上に、
「戦人は嘉音に救出された」という幻想描写を書き加えることができました。


 以上のような密室解法が、わたしの提案する、「チーズを1切断で8分割する方法」です。


●続き・密室解法に修正あります→ ep6初期推理4・戦人脱出その2/金文字/一なるトリック
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ep6初期推理2・姉ベアトの正体と雛ベアトの“お母様”

2010年01月05日 11時33分19秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


ep6初期推理2・姉ベアトの正体と雛ベアトの“お母様”
 筆者-初出●Townmemory -(2010/01/05(Tue) 11:27:18)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=38408&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注

 姉ベアトって何者? 雛ベアトって何者? どうして雛ベアトは恋の勝負に参加できるの? という疑問に対する、この時点での考えです。

 シリーズになっています。
 ep6初期推理1・紗音嘉音問題/八城十八と「ふたつの真実」

 以下が本文です。


     ☆


 前回、自分で書いたことだけれど、
「左目と右目のリドル」
 というネーミングは、自分でかなり、気に入ってしまいました。「狼と羊のパズル」みたいに、この問題(真実が2つある問題)を語るときのデファクトスタンダードにならないかな……。


●姉ベアトが蜘蛛とサソリを恐れる理由

 姉ベアトには、いくつかの弱点と、特性があります。

・霊鏡によって力が封じられる。
・蜘蛛の糸によって焼かれる。
・サソリの護符に焼かれる。
・肉体を持たない。

 この条件を考えたとき、答えはひとつしかありません。姉ベアトの正体は悪食島の悪霊です。

 姉ベアトは、「自分は悪霊などではない」と言っていますが、たぶん、自分で自分のことがわかってないだけだと思います。
 いや、でも、彼女の自己認識に敬意を表して、こう言い直しても良いです。

「姉ベアトは、元・悪食島の悪霊である」
(悪食島の悪霊が、変質したものである)

 霊鏡によって封印されてしまう。蜘蛛の糸に弱い。これらは悪食島の悪霊が持つ特性です。そして当然、悪霊には肉体がないはずです。体があったら悪霊じゃなくてゾンビーです。


 では、六軒島には、「悪食島の悪霊」が実在するというのか? 


●おちゃめな金蔵翁

「悪食島の悪霊」が実在する/しない、というよりは、
「悪霊が実在してくれたら嬉しいから、実在させてしまう魔法を使った」人がいる。
 と考えるのが適当であるように思います。

 その人物は、たぶん、右代宮金蔵翁です。

 嘉音の回想によると、金蔵翁は「おかしな悪戯の片棒を頼んできたりする」人です。
 そして姉ベアトは、「施錠したはずの窓をいつも開けておいたり」「厨房の調理道具をうずたかく積み上げたり」といったいたずらをする存在です。

 このふたつの観測を、足し算すると、こうなります。

 金蔵翁は、夜中にこっそり、特定の窓を開けたり、鍋やら薬缶やらを積み上げたりすることで、「この屋敷には悪食島の悪霊がいる!」という怪談を作って、使用人たちをおどかそうとした。

「悪食島の悪霊」の実在は、時間をかけて、じょじょに、使用人たちの間で信じられていった。
 その「悪食島の悪霊現象」を擬人化したもの。
 それが、姉ベアトの「素体」です。だと思います。

 言い換えれば。
「悪食島の悪霊」は、右代宮金蔵翁が作り出した、幻想存在です。

 ちょっとニュアンスが違うんだけれど、あえてわかりやすくすれば、
 真里亞にとってのさくたろうに相当し、紗音にとっての嘉音に相当するものが、金蔵翁にとっての「悪食島の悪霊」。そのくらいに認識しても、大きく間違ってはいないのかもしれません。


 金蔵翁は、自分の書斎のドアノブに、魔除けのサソリを刻みます。
 このせいで、魔女ベアトリーチェは書斎に手出しができない、という説明がなされます。
 でもおかしいでしょう。
 ベアトリーチェに会いたい金蔵翁が、ベアトリーチェを書斎から閉め出すような真似をするはずがありません。

 だから、あの魔除けサソリは、きっと、「悪食島の悪霊」が書斎に入ってこないようにするためのものです。
 金蔵翁としては、悪霊が屋敷に混乱をもたらすのは愉快ですけれど、自分の部屋にやって来られるのは迷惑だったのでしょう。
 だから、自分が解き放った悪霊が、自分にだけはあだをなさないように、防御をした。


●時間経過とベアトリーチェ化

 悪霊よけのサソリの護符が、魔女ベアトリーチェを撃退してしまう理由は、魔女ベアトリーチェが元・悪食島の悪霊だからです。

 熊沢が内心の言葉で白状していますし、ヱリカもそのことを看破しています。
「右代宮家で元々信じられていた怪談は、悪食島の悪霊だった。それがいつしか、魔女ベアトリーチェという名前にすりかわっていった」と。

 真夜中にいたずらがなされるという現象を、昔の使用人は「悪霊のしわざ」と認識していたが、時代が下るにつれ、「ベアトリーチェのしわざ」と認識するようになった。

 これは誰のせいというのではなく、自然な変遷と見てかまわないと思います。かつては「コックリさん」と呼ばれていたものが、今は「エンジェルさま」と呼ばれるようになったりするようなものです。

 さて、姉ベアト。
 彼女は、「悪霊」が「ベアトリーチェ」に変遷した、ちょうど直後くらいの存在とみてよいように思います。

 彼女はもはやベアトリーチェなのですから、本人が言うように、「妾は悪霊などではない」のでしょう。でも、元・悪霊だったことは、とくに否定的な材料はなさそうです。

 姉ベアトは、現在(1986年)の存在ではありません。

 なぜなら、姉ベアトの世界に、ホールの肖像画がありません。これによって、最低でも2年以上前の存在であることがわかります。
 もうひとつ。
 姉ベアトは右代宮戦人のことを、「年に数度しか訪れぬ稀な客人」と認識しています。戦人は過去6年間、いちども島を訪れなかったのですから、最低でも、6年以上前の存在であることが確定できます。


●姉ベアトと雛ベアトは決して合身できない?

 雛ベアトの“お母様”と目される人物が、とてもとても長い、リグレットを語ります。
 その中から、いくつかのポイントを抜き出してみます。

「あなたは今日より、悪戯をするだけの、六軒島の亡霊ではありません」
「あなたは今日より、この島の主」
「あなたは今日より、黄金の魔女、ベアトリーチェ」
「私はあなたに、右代宮戦人に恋する心を、譲ります」


 そして、ここにあらわれた条件を、以下のように整理します。

・「あなた」は、昨日までは、六軒島の亡霊であった。
・「あなた」は、今日からは、ベアトリーチェである。
・「あなた」は、右代宮戦人への恋心を持つことになる。


 ベアトリーチェという名を持ち、「右代宮戦人への恋心」という条件を持っている人物は、「雛ベアト」ただひとりです。
 そして、この推理では、姉ベアトは「過去の存在」であり「悪食島の悪霊」であるとしています。

 足し算をするとこうなります。
「昨日まで姉ベアトだったものは、今日からは雛ベアトである」

 つまり、
「姉ベアトとは、雛ベアトの過去の姿であり、2人は同一人物である」
 という解がみちびかれるのです。

 姉ベアトと雛ベアトは、合体したら完全体になれるような気がするのに、どうしても合体できませんでした。
 この推理では、それは当然なのです。
 なぜなら、彼女たちが持っている「魂のカケラ」は、まったく同じものだからです。
 2つに割ったクッキー。右半分と左半分をくっつけたら、1個になりますが、「右半分」と「右半分」をつなぐことはできません。ましてや、「過去の右半分」と「現在の右半分」をつなぐなんてこともできない。


●“お母様”の正体

 姉ベアトと雛ベアトが同一人物だとすると、雛ベアトの“お母様”は、姉ベアトの“お母様”でもなければなりません。

「姉ベアト=悪食島の悪霊」を幻想した主は、この推理では、右代宮金蔵翁です。
 そして、“お母様”は「右代宮戦人に恋していた」という条件があります。
 このままいくと、金蔵翁は戦人に恋していた、というとんでもない足し算が発生してしまい、そういうのが好きな人もいるでしょうが、わたしは趣味ではないので、そこをずらしましょう。

 ずらすのは簡単で、「悪食島の悪霊」という幻想を、金蔵翁から受け継いだ人がいればいいのです。

 ようは、金蔵翁はさすがに歳を取った。もう、夜中に起き出して窓をこっそり開けるでもない。
 そこでおじいちゃん、ちょいちょいと手招きします。おもしろい遊びを教えてあげよう。みんながビックリして楽しいのだ。「悪食島の悪霊」がいることにしてしまうのだよ。

 そして、「その人物」は、いたずらを受け継いだ。夜中に特定の窓を開けるいたずら。魔法陣をラクガキするいたずら。片付けたはずの場所をちらかすいたずら……。

 ファンタジックに言えば、
「召喚術師・大ゴールドスミス卿が召喚した『悪食島の悪霊』という使い魔を、譲り渡され、使役している者がいる」
 という感じになります。

「右代宮戦人に恋していた」のは、その人物です。

 右代宮金蔵翁の大魔術を受け継いだ人物。
 悪食島の悪霊に、ベアトリーチェの名前と美貌を与えた人物。
 幻想存在ベアトリーチェを使役している「主」。
 そしておそらく、六軒島連続殺人事件の、犯人。

 それを、わたしの趣味で、「右代宮朱志香」とみたいのです。


(『朱志香犯人説』の詳細は以下にまとまっています。犯人特定→「朱志香=ベアトリーチェ」説・総論からご覧下さい→ ■目次(全記事)■


●どうして朱志香は戦人に恋してはいけないのか

「“お母様”のリグレット」では、こんなことが語られます。

私はあなたに、右代宮戦人に恋する心を、譲ります。
(中略)
そして、……私の代わりに恋をしなさい。
そして、許されるなら、彼に恋されなさい。
私には、…………もう彼を愛することが、出来ないのです。
どうか、私には遂げられなかった想いを、……私には堪えられなかった想いを、……あなたが遂げて。


 素直に読めば、“お母様”は右代宮戦人を愛しているし、愛し続けたかったけれども、それができなくなってしまった。
 そこで代償行為として、自分の分身、自分が生み出した幻想存在であるベアトリーチェに、彼を愛してもらうことにした。

 もし、“お母様”を朱志香だとするなら。
 どうして朱志香は、恋する戦人を愛し続けることができなくなったのか。
 その理由がなければなりません。


 その理由を、こちらに用意しました。
 → 「ep5初期推理その6・戦人の謎」

 リンク先は、
「戦人は19年前の赤ん坊である」
「19年前の赤ん坊は、金蔵翁と九羽鳥庵ベアトリーチェの間にできた子である」

 という推理と、それに関する論証です。

 この推理のとき、
「右代宮戦人は右代宮金蔵の実子である」
 という条件がみちびかれます。

 もし、何らかの理由で、朱志香がその事実を知ったとしたら。

「右代宮戦人と右代宮朱志香は血縁的には叔父・姪の関係である」

 という条件が、恋する右代宮朱志香に襲いかかります。
 インセスト・タブー。

 この推理の場合、朱志香がそうとう葛藤しただろうことは、容易に想像できます。法的にはいとこなんだからいいんじゃないかみたいな議論も、自分の中で闘わせたでしょう。

 でも、結局、断念することにした。
 上のリンク先の推理に、「九羽鳥庵ベアトリーチェは、金蔵翁とオリジナルベアトの実娘かもしれない」という、ひどい推理も展開していますが、これがOKで、そのことを朱志香が知った場合、
「これ以上、血を煮詰まらせたら、たいへんだ」
 という判断をはたらかせたかもしれません。

(ちなみにわたしには「夏妃はオリジナルベアトの血縁」というヨタ推理もあります)


 この場合、
「大好きな戦人と結ばれてはいけない。せめて私の分身には、彼を愛し続けさせてやりたい」
 という思いを、ごく自然に設定できそうです。

 いや、「私の分身」といいましたが、
「私は今日より、あなたではなくなります」
 と、“お母様”はいいました。
 朱志香はベアトリーチェであってはならないのです。同一人物であったなら、インセスト・タブーが有効になるからです。あくまで、別人ということにしなければならない。


●魂の分割/3つの魂の戦い

「私たちは一つの魂を割いて、分け合おう」
 と、“お母様”はいいます。

“お母様”=朱志香とする場合、1個の魂を、朱志香とベアトは、半々に持つことになります。

 魂の分割といえば、ゼパル・フルフルの恋の決闘。

 ゼパルとフルフルは、家具には恋を成就させる資格がないといいます。
 なぜなら家具は、1個の魂を持っていないから。

 それは、「人を愛するんだったら、全身全霊で愛しなさいよ」という意味のように思います。
 自分の「全霊」を半々に分けて、半分はあっちの女、もう半分はこっちの女を愛するようなマネはするなっていう、そういうことのように読みました。まさにこの例示を、ゼパルとフルフルが出していました。

 つまり、自分自身を2つ以上に分割して、複数の恋を同時進行することはできない。
 自分自身の魂を2個以上に分割しているもののことを「家具」と呼ぶ。
 そういうことになりそうです。

 このep6初期推理シリーズでは、「紗音は、嘉音という幻想存在を生み出して、存在させている」という推理を展開しています。
 紗音は、自分の魂を分割して、半分を嘉音に分け与えている。
 だから、自分の半分でしか譲治を愛していない計算になる。
 嘉音にあたえた半分の魂を奪還して、「全霊」で恋愛できるようになれるかどうか、という試練だったと考えられます。
 嘉音にとっては、紗音が持っている半分の魂を奪い取って、「全霊」の存在になれるかどうか、という試しだったといえます。

 さて、その勝負に、なぜか雛ベアトが参加してもよいことになっていました。
 なぜ?

 その理由こそが、「私たちは一つの魂を割いて、分け合おう」なのではないか。

 すなわち、雛ベアトも、半分しか魂を持っていない。
 残りの半分は、“お母様”、すなわち朱志香が持っている。
 という条件を設定してみるのです。

 この恋の勝負は、表向きには、「紗音と嘉音、どっちが魂を手に入れて恋の資格を得るか」というものでした。これは、ep6を読んだ全員が解析できると思います。

 その裏に、もうひとつ、魂の勝負があったとしたら、どうだろう。
 それは、朱志香と雛ベアトの勝負。
 朱志香も、雛ベアトに魂の半分を譲り渡しているので、半分の魂しか持っていない。
 だから、恋の資格がない。
 この定義では、朱志香もまた「家具」になるのです。

 魂を半々に分けて、半分は嘉音を愛し、もう半分は戦人を愛するような真似は許されない。

 だから、勝負が必要になる。だから、雛ベアトの参戦が認められる。


 単純な足し算に置き換えると、以下のようになるんじゃないかと思えるのです。
 以下、「1」とか「1/2」とかいうのは、「魂の数」です。

 1紗音 = 1/2紗音 + 1/2嘉音
 1朱志香 = 1/2朱志香 +1/2雛ベアト


(そして 1/2雛ベアト = 1/2六軒島亡霊(姉ベアト))

 だから、あの恋の勝負の場所には、

 1譲治
 1/2紗音
 1/2嘉音
 1/2朱志香
 1/2雛ベアト
 1戦人


 がいたのだ、と考えるのです。

「3人を2人にする恋の勝負はわかる。しかし4人を2人にする勝負は意味がわからない」
 という指摘が、作中にありました。
 この指摘がなされたとき、すでに戦人は脱落して不在でした。
 残った人数の魂を足し合わせると、1+1/2+1/2+1/2+1/2 = 3。
 この推理では、3つの魂を2個にする勝負なので、帳尻があうのです。


 じつはもっと厳密にみていくと、ちょっと整わない部分があるので、そのあたりは宿題なのですが、最初のステップとしては、なかなか面白い線をついているのじゃないかな? と、自分で驕っておきます。(ep6は「驕る」という単語がちらついたなあ)



●続き→ ep6初期推理3・密室解法/戦人は単騎で脱出できる



■目次1(犯人・ルール・各Ep)■
■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
■目次(全記事)■
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ep6初期推理1・紗音嘉音問題/八城十八と「ふたつの真実」

2010年01月04日 08時23分55秒 | ep6
※初めての方はこちらもどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


ep6初期推理1・紗音嘉音問題/八城十八と「ふたつの真実」
 筆者-初出●Townmemory -(2010/01/04(Mon) 08:13:36)

 http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=38348&no=0 (ミラー
 Ep6当時に執筆されました]


●再掲にあたっての筆者注

「どうして家具の恋は実らないのか(紗音嘉音問題)」を論じていくと、ヱリカの到達した「ふたつの真実」につながり、そして八城十八の目的にまでつながっていく。そういうほどき方です。
 これがep6のメインテーマだといっても、ほぼかまわないんじゃないかな、という気がします。

 以下が本文です。


     ☆


●紗音嘉音問題

 わたしは、ep6発表前までは、

・嘉音は存在しない架空の人物である。
・嘉音は、朱志香が創造した幻想存在である(さくたろうのようなもの)。
・嘉音と紗音は同一人物ではない(一人二役ではない)。

 という推理を持っていました。
(犯人特定→「朱志香=ベアトリーチェ」説・総論からご覧下さい ■目次(全記事)■


「ヱリカを含めても島の総数は17人である」と言明されました。これをOKだとすると、
「金蔵と同様に、いると見せかけているけれど実はいない人」
 が、金蔵以外にもう1人、いなければなりません。

 その「1人」とは、嘉音でよろしいと思います。

 そして、わたしはこれまで、「嘉音は朱志香による幻想」だと思ってきたのですが、推理を修正し、
「嘉音は、紗音が創造した幻想存在である」
(紗音にとってのさくたろうのようなもの)
 というかたちに、考えをあらためたいと思います。

 箇条書きにすると以下のようになります。

・嘉音は存在しない架空の人物である。
・嘉音は、紗音が創造した幻想存在である(さくたろうのようなもの)。
・嘉音と紗音は同一人物ではない(一人二役ではない)



 以下、説明を加えます。


●どうして家具の恋は実らないのか

「譲治・紗音ペア」と「朱志香・嘉音ペア」。
 どっちか片方の恋しか実らないことになっているので、決闘でもして決めたまえ。
 そういう話になっていきます。

 嘉音と紗音は、自分たちで、こういう条件を設定しています。

・嘉音が勝ったら、お嬢様を愛し、姉さんも大切にする。
・紗音が勝ったら、嘉音と島を忘れて、ここを永遠に出て行く。
・嘉音「姉さんがここを辞めることがあったとき、自分も辞めると決めていました」

 これは、彼女と彼の「意志」であるように描かれていますが、どうしてもそうならざるをえない「条件」だと考えたらどうでしょう。

 整理しましょう。

・紗音は、島を出て行くことができる。
・紗音は、嘉音を忘却することができる。
・嘉音は、紗音が仕事を辞めて出て行ったとき、自分も辞めて出て行かねばならない。
・嘉音は、朱志香を愛するので、島から出ていかない。
・島から出ていかない嘉音が、紗音を大切にするためには、紗音が島から出ていってはならない。

 この条件から考えると、
「主=紗音」「従=嘉音」
 であるとするほかはないのです。
 同格の存在ではありえない。

 嘉音だけが仕事を辞めて島を出て行き、紗音は島に残る、という状況が、この「条件」からは決して導けない。
 紗音が島から出ていくとき、まるで紐がくくってあってつながってるみたいに、嘉音も島から出て行かねばならない。

 すなわち。決して同格ではないのだから、「一人二役」ではない。
 1人の人物が、紗音と嘉音を使い分けていて、今後どっちか片方だけにしなければならない……といったことでは「ない」。

 また、嘉音が主体であり、紗音が彼の幻想であるといった結論もほぼ導けない。嘉音が紗音のことを忘れて幸せになるという条件がない(逆はある)。
 朱志香は来年以降、大学進学で島を出る見込みにある。にもかかわらず、嘉音は「島を出て、朱志香と幸せになる」という未来図を描かない。


 以上のような思考をたどり、その結果。

・嘉音は、紗音が創造した幻想存在である。
・紗音が勝負に勝ったとき、譲治と一緒に島を出て行き、「お人形遊び」からは卒業するので、「お人形」である嘉音のことは忘却される。(嘉音は存在しなくなるので、嘉音と朱志香の恋は実らない)
・嘉音が勝負に勝ったとき、嘉音が恋を育み続けるために、紗音は嘉音を存在させつづけなければならない(お人形遊びを卒業してはならない)。そのためには島にいつづけなければならないので、譲治について行くことはできず、紗音と譲治の恋は実らない。


●嘉音の依り代

 紗音はもともと、だめな使用人だったのですが、細かくメモを残すようにしてから、忘れっぽさという欠点を克服しました。

 この「メモ」が、さくたろうにおけるぬいぐるみに相当するものじゃないかな、という想像です。

 嘉音は、紗音とちがって、仕事はしっかりできる子です。
 そして「メモ」は、仕事がしっかりできるようになりたい、今のだめな自分を変えたい、という、紗音の「願い」がかたちになったものです。

 若い紗音のやわらかい心は、いつしかそのメモを核にして、自分を励まし、支え、助言してくれる、「もう1人の理想の自分」をつくりあげたんじゃないかな。

 だめな自分とは全く違う人。
 それは、自分ではないものになりたいという願望。
 だから、本当の自分とは正反対に。

 皮肉屋で。
 攻撃的で。
 ハッキリとものを言う、
 男の子。

 そんなキャラクターが、生まれた。

 自分が、仕事でミスをしそうだという予感があったとき、嘉音くんに、
「気をつけてよ姉さん」
 と言ってもらう。
 紗音は、
「わかってますっ」
 と、ちょっとむくれながらも、気持ちをあらためて仕事を再チェックする。
「まったく姉さんはドジなんだから」
「最近はそうでもありませんっ」

 内面でそんな自己対話をしながら、紗音は「しっかりした女の子」になっていったんじゃないかな。


●共有された幻想

 両目でものを見ないと立体感は出ません。

 ゲームマスターになったバトラ卿が、自分の好み通りのベアトリーチェを幻視してはみたものの、そのベアトリーチェは自分が許したセリフしかいわない、自分の想像の範囲内のことしかいわないので、幻滅する。
 そういうくだりがありました。

 幻想存在が生き生きと活動するためには、
「自分には想定できなかったようなこと」
 を、言ったり、したりしてくれなければならないのです。

 自分ひとりでお人形を動かしていても、自分の想定範囲内でしか動かない。

 つまり。
 紗音ひとりで嘉音を動かしていても、嘉音という幻想存在は、あれだけ生き生きとしたキャラクターには絶対にならないだろう、と考えられます。

 ではどうすればいいのか。
 お人形遊びをしたことがあれば、それはすぐわかるんじゃないかな。

「自分が創造したお人形を、他の人に動かしてもらうこと」です。

 他の人が、自分では想定もしなかった行動原理でお人形を操ってくれるとき、予定調和は崩れ、そこには意外性が発生します。
 まるで本当の人間のような肌触りが生まれる。
 ペラかった存在に、はじめて、立体感が生まれるのです。


 思えば、さくたろうという幻想も、ベアトリーチェやワルギリアが「共有」してくれたおかげで、あのだぶだぶした人のような姿を手に入れたのでした。

 幻想は、誰かに共有されたとき、はじめて立体的な存在になる。
 と考えましょう。


 だとしたら、嘉音という幻想存在を、「認め」て、共有してくれたのは、やっぱり朱志香じゃないかな。

 嘉音は、紗音が作り出したオリジナルキャラクターだけれど、そのキャラクターを朱志香も共有している。
 朱志香も、嘉音というお人形を動かすことができる。
 朱志香が嘉音を動かすとき、紗音は意外性を感じて惹かれ、紗音が嘉音を動かすとき、朱志香は意外性を感じて惹かれる。それこそ、恋してしまうくらいに。


 紗音がみた嘉音。
 朱志香がみた嘉音。

 そのふたつの嘉音が重なり合わされるとき、
「右目で見た像」と「左目で見た像」が重なったときのように、存在は立体化される。


 だから、より厳密にいえば、
「嘉音は、紗音が創造した幻想存在である」という答えは、ほとんど不正解なのです。
 もちろん、
「嘉音は、朱志香が創造した幻想存在である」という答えも、不正解。

 より正確な答えは、そのふたつを重ね合わせたもの。
「嘉音は、紗音が創造し、朱志香が承認した、共有幻想である」

 これで、良いのじゃないかな。わたしは、この答えで満足できます。


●ベアトリーチェの復活

 さらにいえば、ベアトリーチェも、きっとそう。
 戦人が望んだベアトリーチェを、雛ベアトが共有する。
 雛ベアトが、ベアトリーチェという幻想存在を共有し、その幻想を動かすとき、意外性によって立体化され、「戦人が望んだベアトリーチェ」がそこにあらわれる。


●「ふたつの真実」と、作者・八城十八

 古戸ヱリカは、最後の局面で、「真実がふたつある」という境地を発見します。

「クローゼットに人が隠れている」と答えれば、「ベッドの下に隠れている」が正解になる。
「ベッドの下に人が隠れている」と答えれば、「クローゼットに隠れている」が正解になる。

 どっちか片方が真実だ、と思うかぎり、絶対に正解できない。
 それはあたかも、
「右目で見た世界が本物なのか」「左目で見た世界が本物なのか」
 という問いにひとしい。
 ふたつの答えを重ね合わせたものが、ほんとうの真実なのです。


 さて。
 これまでわたしは、「立体感」「立体視」と言いつづけていますが、このキーワードを作中でほのめかした人たちがいます。
 ひとりは、右代宮縁寿。
 もうひとりは、八城十八です。


 縁寿はこう言います。

 私なりの見方は、すでにしている。
 でもそれじゃ、片目で見ているに過ぎない。
 私と異なる見方も受け入れ、視点を増やさなければ、真実を立体視は出来ない。
 それが、私の解釈する、“愛がなければ視えない”、だ。


 八城十八は以下のように言います。

 あなたに視える真実と、私に視える真実を重ねなさい。
 あなたが片目でものを見るように、私もまた片目で見ている。
 私もあなたを得て初めて、両目で真実を視ることが出来るのだから。


 つまりこういうことでしょう。

 縁寿は、縁寿なりの真実にたどり着いている。
 それはたとえるなら、右目で見た世界のようなもの。
「クローゼットに人が隠れている」という解答のようなもの。

 八城十八は、八城十八なりの真実にたどり着いている。
 それはたとえるなら、左目で見た世界のようなもの。
「ベッドの下に人が隠れている」という解答のようなもの。

 どちらかが正解で、どちらかが不正解だ、と認識するかぎり、絶対に正答できない。

 ふたりが出した、ふたつの解答を、つきあわせ、重ねあわせたとき、初めて立体的な真実が見えてくる。


 だから、八城十八という作者は、右代宮縁寿という読者を必要とするのです。

 作者・八城十八が描いた物語は、それ単体では、八城十八がひとりで演じるお人形遊びのようなもの。
 それを、右代宮縁寿に読んでもらう。
 自分の編んだ物語を、縁寿の解釈で朗読してもらう。
 自分が作り上げた人形を、縁寿に手渡して、縁寿にあやつってもらう。

 そこに意外性が表れ、豊かなノイズが入り込み、物語は立体的になる。
 作者自身ですら気づかなかった「この物語の意味」が示唆されることすらある。


 八城十八は、途中で原稿を縁寿から取り上げ、
「あなたの考えを言わなければ、続きは読ませない」
 などという所行にでます。

 それはある意味、当然の行動なのです。
 八城十八は、自分の真実が、片目で見た真実でしかないことを認識しています。

 だから、他人が編み上げる真実が欲しい。

 同じ材料を与えられた右代宮縁寿が、自分とは異なるどんな真実を編み上げるのかが見たい。
 そのふたつの真実をつきあわせて、差異をたしかめたい。

 ふたつの真実をつきあわせたとき、その狭間に見えてくるものが、「立体的な真実」であるだろう。八城十八が求めているものはそれなのです。
 そして、右代宮縁寿も、原稿の続きを読めば、自分とは異なる真実とのつきあわせを行なうこととなり、自然に八城十八と同じものを手に入れることになるでしょう。


●作者・竜騎士07さんの片目の真実

 この、八城十八と右代宮縁寿との関係性を、
「作者・竜騎士07とわたしたち読者」
 の関係性にそのままうつしかえて見る。これはごく自然な連想でしょう。

 ならば、
 竜騎士07さんは、自ら、
「私の提示する真実は片目で見た真実でしかない」
 ということを、認めていることになります。

「あなたたち読者がいなければ、私でさえ、真実に到達できない」

 と、彼は言っているにひとしい。
(という解釈はできる)

「だから、この材料から手に入るあなたがたの真実を私に教え、私に立体感を与えてくれ」
 という要望のようにも見えますね。推理して欲しい、その推理を知りたい、という要望のようにみえます。


 ちょっと話がずれますが、少し関係ある別の話をします。

 作家さんや、漫画家さんのインタビューなどを見ていて、
「キャラが勝手に動いてしまう。楽な部分もあるけど、思い通りにもならない」
 ということをおっしゃっているのを、読んだことがないでしょうか。

 もし、キャラが勝手に動くのであれば、それは、「意外性」を作者ひとりで生み出せるということ。「豊かなノイズ」を「共有者」ぬきで生み出せるということになるじゃないか。
 そういう主張が可能のようにも思えます。

 でも、それは違うのです。

 ひとりだけで作った、誰にも見せない作品のキャラクターが、「勝手に動き出す」ことって、たぶんないのです。

 あれは、「読者が観測したキャラクター」を作者が再観測することで、立体感が出るからなんです。
 世の中に、その作品を解き放ったことで、キャラクターが共有され、自分が想定もしなかったような、新たなイメージが増殖する。
 作者が設定したキャラクターと、読者が認識したキャラクターの間の、ささやかなズレ。そのズレが立体感として感知されるのです。

 つまり「キャラが勝手に動く現象」は、読者がキャラを共有し、そのキャラでお人形遊びをしてくれた結果、発生するのです。


 竜騎士07さんは、同人出身の作家です。
 同人誌の世界というのは、まさに、「キャラクターイメージの自動増殖装置」だといえます。

 同人出身の竜騎士07さんが、「イメージと真実の、増殖と変形」「それにともなうフィクションの立体化」ということに意識的であるのは、ほとんど当然といえます。


 作品とは、作者の手の内にあるのでも、読者の手の内にあるのでもない。作者と読者の立ち位置のちょうど中間にある空間の立体視なのです。


●ゼパルとフルフル、性別問題

 悪魔ゼパルと悪魔フルフル。
 どっちか片方が女の子で、どっちか片方が男の子だ、という条件が与えられています。
 これは、当てようと思っても、絶対に当たりません。
 あなたが、「ゼパルが女の子」と決め打ったら、「フルフルが女の子」が正解です。

 これも、右目と左目のリドル。立体視の問題。


●続き→ ep6初期推理2・姉ベアトの正体と雛ベアトの“お母様”


■参考→ 「探偵視点は誤認ができる」



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■目次2(カケラ世界・赤字・勝利条件)■
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