さいごのかぎ / Quest for grandmaster key

「TYPE-MOON」「うみねこのなく頃に」その他フィクションの読解です。
まずは記事冒頭の目次などからどうぞ。

ローズガンズデイズ Last Season 感想・竜騎士トラップのつくりかた、その他

2014年01月20日 20時15分14秒 | ローズガンズデイズ
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ローズガンズデイズ Last Season 感想・竜騎士トラップのつくりかた、その他
 筆者-Townmemory 初稿-2014年1月20日


     ☆

 ローズガンズデイズのseason4(最終巻)を読みました。以下、思ったことを書き付けます。

 お話の結末などについて全部ぺらぺら明かしますから、まだ本編をお読みでない方はお気を付け下さい。

 これまでの感想記事は、こちら。
 ローズガンズデイズ体験版/勝手な感想/勝手な予想
 ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち
 ローズガンズデイズ season2 感想・チャイナの日本人
 ローズガンズデイズ season3 感想「理想の日本人」とヤクザたち



●お話の閉じ方

 全体的には、特に大きなどんでん返しはなく、順当にお話が終わったという感触です。開いた扇子を、閉じました、といった感じで、スマートに着地しています。大仕掛けはない。トリプルアクセルを飛ばない浅田真央ちゃんの演目みたい。

 こういう着地になるのは無理もないのであって、前にも何度か書いていますが、竜騎士07さんのキャリアは「渾身の大仕掛けを、ユーザーが理解しない(あるいは、できない)」ことのくりかえしですから、「どっちみち評価につながらないなら、ぶっぱなさないほうが良い」という判断になってるものと個人的に想像します。他の作品と比べて、だいぶん大人しいですよね。


●ガブリエルのトラップ作法

 今回、一番おもしろかった部分は、ガブリエルがリチャードをほいほい誘導していくところです。

 米軍の高級将校ガブリエルは、マフィアによって妹を殺された過去を持っており、「マフィアというもの」そのものを激しく憎んでいました。
 GHQに派遣された彼は、
「なるべくむごたらしくみじめな方法でマフィアを壊滅させよう」
 と考え、それを実行に移します。

 具体的には、日本人マフィアのプリマヴェーラと、中国人マフィアの金龍会のあいだに全面戦争を発生させ、双方を壊滅させようともくろみます。
 そのきっかけとして、暗殺者を放って、プリマヴェーラの要人リチャードの妹ステラを殺します。
 同時に、金龍会の李梅九(だめだ、どうしても「うめきゅうさん」としか読めない)の妹、梅雪を襲い、これも殺そうとします(しかしこれは失敗しました)。

 妹を殺されたガブリエルは、あいつらの妹も殺してやれ、と思ったのですね。

 誰だって、肉親を殺されたら激情します。そこで、「ステラを殺したのは金龍会だ」「梅雪を殺したのはプリマヴェーラだ」という方向に誘導し、全面戦争を引き起こさせ、それを高みで見物しようと目論んだわけです。

 が、梅雪の殺害に失敗したこと、そして梅九さんが冷静だったことにより、金龍会はうまく踊ってくれませんでした。やむなくガブリエルは、うまくひっかかってくれたプリマヴェーラのリチャードだけに目標を定めます。

 まずガブリエルは、悲嘆にくれているリチャードに、「実は僕も妹を殺された過去があるんだ」と打ち明け、迫真の演技で、同情しまくってみせます。
「同じ境遇だから気持ちがわかる。同志みたいなものだ」か何か言って、ちょいと泣いてみせたりするわけです。
 リチャードは賢人ですから、ふだんだったらそんな三文芝居には乗らないわけですが、実の妹を失って、気持ちが弱り切っているもんですから、「ああ、なんていい人だ」かなんか思ってうっかりハートをまるごと明け渡してしまいます。
 つまり「この人は味方だ、善人だ!」と思いこんでしまうのでした。

 そこにもって、「この事件は金龍会のしわざだよ」というのを、段階的に吹きこんでいきます。段階的なところが、いやらしい。

 最初に「どうも金龍会のせいらしいよ」と吹きこんだ段階では、リチャードもまだ踏ん切りが付かない部分がありました。何しろ、金龍会は大組織ですから、そこと戦争になるというのは大ごとです。
 リチャード自身も、「金龍会がいちばんアヤシイ」と思ってはいるのですが、彼にはまだまだ冷静な部分が残っていて、「様子を見なければ」というふうに身をこなしている。

 ガブリエルはそこに、もう一撃喰らわすわけです。
 目に入れても痛くない甥っ子の祐司を、毒で暗殺する。
 しかも、中国マフィアにしか手に入れることのできない特殊な毒で殺す。
 毒で苦しみ抜いて命が消えるさまを、リチャード自身が目撃してしまうようなタイミングで殺す。

 更にだめ押しで、「李梅九がステラの暗殺を命じた」という書類を偽造して、「GHQの鑑定の結果、この書類は本物だと判明した」というふうに、真実性を「保証」する。

 段階をふむごとに、リチャードの心の中から、「冷静に判断しなければ」という部分がしりぞいていく。じわじわと「金龍会め、金龍会め」という気分が増殖していく。
 もう、確実だ。もう、許せん。

 リチャードはついに、金龍会との全面戦争を決意します。そのために、穏健派のマダム・ローズを地方に監禁するという方策までとります。


 これは、もしわたしが実際にやられたら、この誘導にはたぶん抵抗できないなと思いながら読んでおりました。


●感情のぶつけどころが欲しい

 ポイントとしては、本文にも書いてあることですが、リチャードは「この襲撃事件の真相を知りたい」のでは「ない」のです。

 彼は真実を知りたいのではなくて、
「犯人がいて欲しい」
「敵が存在して欲しい」

 その敵を討ち滅ぼすことによって、心の辛さを少しでも解消したいのです。

「肉親を失った辛さ」を、辛さのままずっと持ち続けなければならないというのは、拷問に近いのです。
 この辛さを、何らかの形に変えて、外部に発散したい。
 そうでなければ、自分というものが壊れてしまう。

 だから、この心の中にわだかまった激情をぶつける場所が欲しい

 そこにガブリエルは、「ほら、あそこですよ」とささやく。「あなたが欲しがっているものはあそこですよ」と指さす。

 そうなるともう、リチャードは、その指さす方に向けて突進せざるをえない。そこに向かって拳を振り下ろさずにはいられない。普段の冷静さは鳴りをひそめてしまう。というか、その普段の冷静な思考力のすべてが、「金龍会のせいだ」という方向で、自分自身を説得してしまうのです。

 このガブリエルの手口は、「人の動かし方」として巧妙です。
 そして、この手口って、竜騎士07さんの得意技なのです。


●竜騎士さんの得意技

 竜騎士07さんは、この手口がどうもお好きらしくて、頻出します。『うみねこ』なんかには、わりあいしょっちゅう出てきます。

 ひとつ簡単な例でいえば、
「真相を知りたいというよりは、憎むためのはっきりした敵の姿が欲しい」
 というのは、『うみねこのなく頃に』における、兄を亡くした縁寿の心理状況とほぼ同一です。

『ひぐらし』の方から例を挙げれば、これに相当するのは大石警部です。彼は連続殺人事件について、「はっきりした、わかりやすい、憎むべき犯人がいてほしい」という願望にとらわれ、「わかりやすい犯人像」として園崎組犯人説にとらわれつづけていました。
 真相を見れば、園崎組はほとんど何もしていなかったのですが、大石は「全部のことを、園崎組がやったんだ」という観念から、どうしても逃れ得ませんでした。そのせいで結果的に、いくつもの悲劇を誘発してしまいました。
 園崎詩音もこのパターンかもしれませんね。

 具体的なシーンで述べれば、『うみねこ』のEp5が、好例です。終盤あたり、古戸ヱリカが、
「犯人はあの人です、そう、右代宮夏妃さん!」
 と「指さした」とたん、その場にいる全員が、聡明な霧江なども含めて、全員がその結論に飛びついてしまうという凄いシークエンスがありました。

 ここでのポイントは、悲嘆にくれる絵羽の姿です。絵羽という人は家族愛のかたまりなのですが、このエピソードで夫と息子を一度に失ってしまう(殺されてしまう)のです。
 いつもは気丈な絵羽さんが、あられもなく、外聞もなく、子供のようにオイオイ泣きじゃくって悲しむ姿を、右代宮家の一同は、何も言えずに見守ることしかできなかった。それで、彼らの心中は、やるせなさでいっぱいになっていました。

「絵羽さんがあまりにも可哀想すぎる」
「やるせなくて、心が痛んで、どうしようもない」
「このどうしようもない気持ちを処理するために、誰か悪い奴を罰したい」


 という気分が醸成されたところに、「犯人はあなたですね、夏妃さん」。

 冷静にひとつひとつ見ていけば、夏妃犯人説は穴ぼこだらけです。でも、感情的になっている人々には、そんなものは関係なくなる。

 感情をゆさぶり、可燃化したところに、「あそこだ!」と指を指して一方向に誘導し、スタンピードを作る。
(スタンピードとは、パニックや激情に基づく殺到のことです。元の意味では、バファローの群れが拳銃の音に驚いて、一方向に雪崩をうって突進する現象のことなのですが、転じて、人間の群衆が突発的な行動をとるときにも使われるようになりました)

 これで、筋を見ていけば無茶だらけの夏妃犯人説を、「感情的に押し通す」ことが可能になっていました。もちろん、絵羽は夏妃犯人説に飛びつき、「あんたがやったのね!」などと怒鳴って、夏妃に殴りかかっていました。

 同様のスタンピードの作り方が、『おおかみかくし』でも使われていました。
 ちょっとうろおぼえなのでアウトラインだけ書きますが、
「この街には怪物がひそんでいる」
 という疑心暗鬼で人々がいっぱいになっているときに、
「あいつだ、あいつが怪物だ!」
 という「指さし」が発生し、群衆が暴徒と化し、襲いかかるという場面がありました。
 恐怖から逃れるために、わかりやすい、少数の「敵」がいてほしい。そいつをみんなでつるし上げて血祭りすることで、恐怖から逃れ、安心したい。そういう集団心理があり、暴徒が発生したのです。


 言葉を飾らずにはっきり言うと、これは竜騎士さんがしょっちゅう使う、常套手段なのです。


●信じさせる最良の方法は、信じたいと思わせること

 ポイントとして注目したいことは、こうです。

「相手に嘘のストーリーを信じ込ませたいとき、どうするか」

 他人に、とある物事を信じ込ませたいとき。いっしょうけんめい汗を流して説得するよりも、スマートな方法があるということです。

 相手本人に「これを信じたい」と思わせること。そういう感情(状況)をつくること。

 リチャードは、妹を亡くした痛みを消化するために、拳の振り下ろしどころを必要としたのです。だから、金龍会が犯人で「あってほしかった」
 内心で「金龍会が犯人であってほしい」という感情がある相手に、「金龍会が犯人である」ということを信じ込ませるのは、簡単。

 人間は、他人による説得はなかなか受け容れにくいのです。プライドもありますしね。
 しかし、人間は、自分自身の声にはたやすく説得されます。

 大石警部は義憤にかられており、殺人の犯人をこの手で捕まえなきゃおさまらん、という気持ちでいっぱいでした。だから、「手近な悪い奴」である園崎組が犯人であってほしかったのです。
 大石警部自身の声が、「園崎組が犯人にちがいない」と自分を説得し続けるので、どうしても、かたくなに、園崎組犯人説にこだわりつづけたのです。

     *

 そして、『うみねこ』の戦人とベアトリーチェのやりとりの中にも、この手口は何度も繰り返されます。

 ベアトリーチェは、Ep2において、「赤い字というものは真実のみを語るので、赤い字で書かれたことは疑わなくて良い」というルールを提案しました。
 ベアトリーチェは、このルールを戦人に信じてもらいたかったのですが、戦人は当初、
「なんかうさんくせぇ。ウラがあるんじゃないか?」
 という態度を見せました。つまり、簡単には信じなかった

 そこでベアトリーチェは、
「楼座が、使用人たちを殺人犯だと決め付け、汚い言葉で非難しまくる」
 という展開を用意して、戦人に見せつけました。

 戦人は、使用人のみんなのことが大好きなので、犯人だとはとても思えませんでした。というか、「彼らが犯人だなんて思いたくなかった」のです(そう書いてあります)。

 右代宮邸に、マスターキーは5本しかない(ということになっている)。そしてその5本は楼座によって完全に管理されています。
 だから、使用人たちを追い出して、部屋に閉じこもって鍵をかけてしまえば、仮に使用人たちが犯人だったとしても、楼座たちに危害を加えることはできません。マスターキーがなければ、鍵のかけられたドアを明けることができませんからね。
 実際に楼座は、マスターキー5本を全て取り上げ、使用人を部屋から追い出し、鍵をかけて閉じこもりました。

 それだけのことをして、なお、楼座は使用人たちを信用しないのです。
「何も信用できないわよ、家具どもが」
 おまえらの言うことなんか信じられるもんか、ばーかばーか。くらいのことを吐き捨てたのです。

 何で信用しないかというと、「マスターキーが5本しかない」という条件を、楼座は認めていないからです。
 どうせ、複製された6つめの鍵があるに決まってる。使用人たちがマスターキーを提出して部屋から出て行ったからといって、安心できない。6本目の鍵を使ってこのドアを開け、私たちを殺しにくるにちがいない!

 戦人が「マスターキーは5本しかないんだよ!」と一生懸命訴えますが、楼座は「6本目があるに決まってる」と言い張ります。
 マスターキーが5本しかなく、その全てが楼座の手の内にあれば、使用人には犯行ができないのですから、使用人の疑いは晴れるのです。
 でも「マスターキーが5本しかない」という条件を楼座が信じないので、使用人の疑いが晴れないという状況です。

 そこでベアトリーチェは、憎ったらしい顔をして、赤い字でこう言うわけです。
赤:マスターキーは5本しかない

 ついに戦人はベアトリーチェにすがりつくようにして、
「頼むからその赤い字を楼座おばさんに言ってやってくれ! 真実を語る赤い字で《マスターキーは5本しかない》って楼座おばさんに教えてやってくれ!」
 そんなふうに絶叫するのでした。

 おや。戦人は「赤い字が真実を語るなんて、うさんくさい話だ」と思っていたのに、いつのまにか、「真実を語る赤い字を使って楼座さんを説得してくれ!」と言い出し始めていますね。

「使用人のみんながこんなに疑われてるなんて、我慢ならない!」
 という激情があるところに、
赤:マスターキーは5本しかないという赤い字をポンと置いてやるのが、「指さし」なのです。

 使用人たちの疑いを晴らすために、マスターキーの本数は5本だけであってほしい。
 マスターキーが5本しかないことを証明するために、赤い字が真実であってほしい。

 いつのまにか、戦人の中に、「赤い字で語られることは真実であってほしい」という「願望」が発生しているのです。

 もう一度繰り返しますが、相手を説得するときには、相手自身の願望を誘発することで、「自分自身を説得させる」方向に持って行くのが上策なのです。

 この手口に、戦人くんは何度も騙されます。これは、戦人が馬鹿だというより、この手口が強力すぎるのです。

 Ep3の「北風と太陽作戦」も、これと同じです。『うみねこ』の前半エピソードは、「戦人が、《魔女》というものの存在を認めるか、認めないか」ということが、重要な論点になっています。
 魔女ベアトリーチェは、「妾が魔女であることを認めろ! 認めろ!」と強要してくるのですが、戦人は強情なので、絶対に認めようとはしません。

 そこでベアトリーチェは作戦を変えます。改心したフリをして、紗音や譲治や嘉音のことを、身を挺してかばい、善意を尽くす姿を戦人に見せます。
 すると戦人は、ふらっと、
「こいつ、案外いいやつじゃないか。こんないい奴だったら、魔女ってやつを、ちょっとくらい認めてやってもいいかな
 と思ってしまいます。

 他人から強要されたストーリーは頑なに拒んできたくせに、戦人は、「ちょっとくらい認めてやってもいいかな……」という「自分が自分を説得してくる声」には、まったく無防備だったのです。


●「読者の願望」を拾う作者

 ……さて、このように、「他人の心をうまいこと誘導する」という手口を頻出させる竜騎士07さん、という作者がいるわけです。

 竜騎士07さんは、ミステリ作家です。読者をうまいこと誘導して騙してなんぼ、というご商売です。

 この手口を、「わたしたち読者」に対して使っていないとしたら、そっちが不思議というものです。是非とも、騙されないように注意したいものですね。

 たとえば。
 またうみねこの例ですが、わたしは以下のように思っているのです。

『うみねこのなく頃に』は、難しいミステリでした。何しろ、幻想描写だとかいって、「嘘が堂々と描写される」という作品なのでした。
 普通、ミステリは、正しい描写がなされ、それを材料に推理していきます。ところが『うみねこ』は、「嘘が書かれる。そして、どこが嘘でどこが本当かは、わからない」という形になっています。
「どれが信頼できる情報なのか、わからない」
 のですから、雲をつかむような話で、真相が解析できませんでした。

 あまりにも手掛かりが薄いので、ユーザー間で話し合いがなされていくうちに、
「戦人が見たものについては、嘘や幻想は混じっていないのではないか」
 というアイデアが、自然発生してきました。

 これは、わたしが見る限りでは、理論的に導き出されてきたというよりは、
「この物語が解読可能なものであってほしい
「解読可能なものであるために、疑わなくて良い明確な手掛かりが存在してほしい
「明確な手掛かりとして、戦人の見たものくらいは実在したものであってほしい
 という、
「願望」
 であったように思うのです。

 もちろん、ネット上でのユーザー間の議論を眺めることのできる竜騎士07さんは、
「ほぉ、読者のみなさんにはそういう願望があるのか」
 というふうにリサーチするわけです。

 そこで竜騎士さんは、「探偵視点」という特別な視点かあるかのような描写を、後続のエピソードに書き足してくる。

「探偵役が見たものは、正しく存在し、見間違いや虚偽の記述はない」
「そして、戦人は基本的に探偵役である」


 というルールがある「かのように読める」描写を繰り出してくる。

 読者たちは、潜在的に持っていた願望が充足されたので、「やっぱりそうだったか!」と満足する。「思った通りだ」と受けいれてしまう。

 しかし、ようく注意深く読めば、「探偵視点があっても見間違いを起こすことができる」のです(「探偵視点は誤認ができる」を参照のこと)。つまり「探偵の視点は見間違いを起こさない」というルールは存在しないのですが、ユーザーの大勢は、そういうルールが存在するように思いこみました
 そういうルールが存在して欲しいという願望があったからです。

 竜騎士さんは、これによって、「存在しないルールを存在するかのように思いこませる」ことができました。

 竜騎士さんという人は、ネットでの読者のやりとりをわりとじいっと見ていて、そのように「願望充足によって、読者をミスリードする」ということを、丹念にやる人だと思うのです。

 この手は竜騎士さんの得意技で、「竜騎士トラップ」の基本のひとつだと思うのです。多少気に留めておくと、以降の作品を読むときに何かと便利かもしれませんよ。


●三者会談と家族会議

『うみねこ』にことよせた解説が続いたついでに、もうひとつ拾っておきます。

 season3に、
「ローズ、バトラー、梅九の三者会談の苛烈さを目の当たりにして、ステラが絶句する」
 という場面がありました。
「そこで行なわれていたのは言葉での殺し合いだった」
 くらいのことが書いてありました。

 しかし、ステラがさらに驚いたのは、その「言葉の殺し合い」が終わったとたん、この三人はサッとにこやかな表情に戻り、「ああ、有意義な話し合いができた」かなんか言って、笑顔で談笑し、乾杯しあい、ふだんの友好的な彼らに戻ったということです。
 その変貌ぶりに、何なのこれ、とステラは呆然としていました。

 さて、それで思い出したことは、『うみねこ』で毎回行なわれる、「親族会議」というやつでした。
 親族会議では、右代宮家の大人たちが、父の遺産を争って、それはもう、聞くに堪えない醜い争いあいをするという、「言葉の戦争」の場でありました。

 この会議のあんまりな争い方が有名になって、
「右代宮家の一族は、全員が全員、金の亡者で、自分だけに利益を引っぱろうと必死で、ほんとにどうしようもない人間の屑だよなあ」
 といった後世の世間的な評価が発生していました。縁寿なんかはその評価を完全にうのみにしていました。

 が、『うみねこ』のEp8では、「しかし、それでもなお、右代宮家の一族は、お互いを想い合っていて、仲良しで、絆があったのだ」という主張がなされます。

「親族会議はひどい言葉の暴力が飛び交う聞くに堪えないものだったが、同時に、右代宮一族は深い絆で結ばれていて、楽しくパーティしたりなんかして、プレゼントしあったりして、幸せな一族でもあった」
「《ひどい親族会議》と、《愉快で楽しい右代宮家》は、矛盾することなく同時に成立するのである」

 という、ちょっと不思議な主張がEp8にはあるのです。

 この矛盾めいた関係性の正体が、ローズガンズseason3に描かれた三者会談の姿ではないでしょうか。

 利害は利害としてきっちり守り、相手から取るべきものはきっちり切り取る。そのためには交渉相手をそうとう強い言葉で攻め立てたりもする。神経をヤスリでこすりあうような神経戦をガマン大会のように繰りひろげる。

 が、交渉が終わったあとは、ぱちんとスイッチを切りかえて、友人同士に戻り、馬鹿話に興じたりもする。

 そういう洗練された関係性が、ローズ・梅九・バトラーの間にはあった、というわけです。

 こういう洗練された関係性が「右代宮一族にもあった」と想定することで、「ひどい親族会議」と「仲良し右代宮家」は、矛盾ではなくなります。

 利害は利害。家族愛は家族愛。そこにはきっちり区別がなされていて、一方が他方をバイオレートすることはない。遺産や将来についてきっちり戦ったあとは、お互いの健闘をたたえあって乾杯する。

 こういった大人の社交のしかたは、百戦錬磨のステラにとってすら珍しいものだったのですから、戦人やら、縁寿やら、まして興味本位の世間の人々が想像しえないのは当然でした。

 でも、そういう姿を「あえて想像する」「あえて想定する」ことで、「不幸ではない右代宮一族」「心豊かな親族たち」という姿を見いだすことができる。手に入れることができる。

 そういう例示として受け取ることは可能だなと思って読みました。


●キースとの相互承認が憎悪を高める

 話をちょっとリチャードのところに戻しますが、リチャードのそばにキースという人物を置いたところが、お話として(誘導として)ニクいところです。

「ステラという家族を奪われた憎しみ・悲しみ」

 を背負っているのが、もしリチャード一人だけだったら。どっかの段階で、
「あれ、なんかおかしくね? もうちょっと冷静になって考えた方がよくね?」
 というふうに、我に返った可能性が高いように思うのです。

 しかし、隣に、すぐそばに、同じ悲しみ・同じ憎しみを抱えたキースという存在がいることで、リチャードとキースは、お互いにお互いの感情を承認しあって、「我に返らなくなる」のだと思うのです。

「犯人が憎い」
「絶対に復讐を遂げてやる」
「全てはそのためだ。俺たちは間違っていない」

 というふうに、リチャードとキースは向かい合わせになって、お互いの激情を承認しあっています。まるで、鏡に映った自分自身に「おまえはまちがってないよ」とうなずくような状況にあるわけです。
 たとえば、リチャードが一瞬、すっと冷静を取り戻しかけたとしても、キースを見ると、キースの激情がうつって、感情の閾値が元の水位に戻る。
 逆にキースが怒りを持続できなくなった場合も、リチャードの感情とシンクロして、また元の高い水位に戻る。

 この二人が互いに向かい合って「俺たちはやるぜ」「うん、やったるぜ」と言い合っていることにより、
「あれ、俺ら、なんかちょっとおかしくなってねぇ?」
 という気づきが発生しないわけですね。この構造は、ちょっと身に覚えがあるし、これは凄いなあ、鋭いなあと思って、読みました。


 以下、余談。


●余談1・林原樹里の正体関連

 なんとローズとレオは、林原樹里のおじいちゃんとおばあちゃんであった、という真相がございました。樹里はこの二人のお孫さんであったわけです。樹里本人がビックリしておりました。

 微妙なところではありますが、ひょっとしたら、この真相は当初から予定されていたものではなくて、シリーズの途中で思いつかれたものなのではないかな、という考えがちらっと浮かびましたので、一応ここにメモしておきます。

 というのも、レオの本名が航太郎であることはseason1で、ローズの本名が美咲であることはseason2で、ごく初期に明かされています。

 もし、マダム・ジャンヌの昔語りの中に、この名前が出てきたのだとしたら、さすがに樹里が気づかないのはおかしい。

 もう一つ。当初の物語では、樹里がジャンヌに呼び出されたのは、樹里が新聞記者だったからであり、「マダム・ジャンヌが昔のことを語りたいと思うので、それを記事にしてほしい」ということだったわけです。インタビューしに来い、それをまとめて公開せよということだったわけです。

 ところが今回のLast Seasonでは、「この話はローズの孫であるあなた一人に教えたかっただけなので、他言してはいけませんよ」というふうになってしまっており、前提条件がまるで変わっています。

 ひっかかかるのは、このインタビューは、半年に1回ずつ、2年ごしで行なわれたものです。樹里は最初の1回目で聞いたことを、その時点で記事に起こして公開するかもしれなかったのです。
「最後まで語り終えるまでは記事にするな」とジャンヌが差し止めていたかもしれませんけれど、その差し止めがちゃんと守られるかどうか、保証はありません。
 ジャーナリストというものは、「これは今すぐ公開して世の中に問わねばならない」と思えば、口止めなど無視して世の中に出してしまうことが往々にしてあります。
 たとえば、樹里の上司が、
「次回のインタビューが取れるかどうかなんてアテにならない。だからこれは今すぐ記事にしろ」
 と命令したのであれば、樹里は断れないように思います。

 ついでにいうと、「林原樹里は稀少な純日本人である」という条件もあやしくなってしまいます。ローズは半分ギリシャ人であって、つまり、容易に辿れる範囲に海外の血が入っているわけです。

 そのへんをうまく消化する理論として「樹里がローズの孫であるという設定は、当初は存在せず、シリーズ途中で思いつかれたのである」という条件をひねりだしてみました。
 Season1が書かれたときには樹里は本当に純日本人であって、ただの新聞記者であった、途中で設定が変更された、というふうにすると、うまく消化できるわけですね。

 が、「灰原」の姓をいじって「林原」にするというあたりは、最初からそういう設定を決め込んでいないとできないつながりかただなあと思いますし、レオとローズの下の名前が初期段階で語られているということについても、「ジャンヌはそこまで詳しく語ったわけではなかった」というふうに思ってしまえばそれで済むことではあります。
 記事をいつ公開するかしないかという論点も、「プリマヴェーラが脅しをかけたので、全部話を聞くまでは記事にしようがなかった」くらいに思えば問題ではなくなりますね。


●余談2・マダムの死、マダムの再生

 マダム・ローズが、23番市の全ての悪の体現者となる。そんな悪のマダム・ローズをジャンヌが打ち倒し、新たな善なる君主マダム・ジャンヌとなる。悪の王を打ち倒し、善なる王が即位する。
 それによって、世の中に希望と活力がよみがえる。

 というストーリーを設定し、みんなして演じた結果、うまいことマダムの交代が成し遂げられた、という形になっています。

 これは、なじみ深い類例で言えば、昔話の「泣いた赤鬼」ですし、もっと大層に言えば、フレイザーの『黄金の枝(金枝篇)』に書かれた「森の王殺し」であって、つまりこれはきわめて神話的な類型です。昔からよくある形ってことです。そういえばローズガンズデイズは、竜騎士さんの作品の中ではいちばん神話っぽい形状をしていますね。

 けど、個人的に、この結末をみていちばん強く想起されたのは、何年か前のテレビアニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』という作品でありました。
 主人公ルルーシュは、物語終盤、世界を力と恐怖で支配する悪の権化と化すのですが、それは、「のちにわざと殺され、この世の全ての悪を一身に背負って滅びることによって、世界を解放する」という意図によるものでした。
 つまりこれも「泣いた赤鬼」であって、マダム・ローズの破滅のしかたとほぼ同一です。

 重要な点は、この『コードギアス』という作品は、「架空の超大国による侵略を受けて、日本が主権を喪失し、植民地と化し、日本人は二級市民となった」という舞台設定を持っていることです。ローズガンズデイズとえらい似ています。
 そして竜騎士さんは、『コードギアス』の脚本を書いた大河内一楼さんと対談をしたことがあります。その対談は『コードギアス』のムックに載ったもので、内容もそれに関することでした。つまり竜騎士さんはこの作品を通しで見ている見当になります。

 おそらく、結構な影響を受けているのではないかな、ということを、一応ここにメモしておきます。


 以下、余談はますますどうでもいい話題になっていきます。


●余談3・謎の大統領夫人

 レオは南の国に行って独立戦争を手助けして、1950年に帰国してきます。

「独立戦争が終わったのはだいぶ前なのに、帰ってくるのが遅かったな」
 みたいなことを聞かれたレオは、
「俺のジョークを聞かないと眠れないって、大統領夫人が引き留めるからさあ」
 といった、洒落と下品を紙一重でまたいだような軽口を言います。

 さて、ここで、レオの行っていた南の国というのは、インドネシアのことである(もしくは、明確にインドネシアをモデルにした国である)というふうに分析できている人は、
「大統領夫人」
 というキーワードにぴくんとして、
「インドネシア初代大統領スカルノの夫人といえば、まさかあのテレビでお馴染みのデヴィ・スカルノ夫人か……」
 というふうに一瞬で想起するわけです。自然ななりゆきとして。

 あのデヴィさんがレオに向かって、
「あっはっは、あーたおもしろいわね」
 かなんか、あのおっとりした口調で言うところまで想像したりしてね。

 が、しかし、デヴィ夫人は1940年生まれですから、このときまだ10歳。史実に準拠するならば、ここでレオの言っている大統領夫人はデヴィさんではありえないということになります。だからこれは第1夫人ファトマワティさんか、第2夫人ハルティニさんのことですね。残念……。


●余談4・自分に当たる弾だけ避ければいい

 レオの馬鹿話を真に受けるシリーズその2。

「どうやったら、何十人もの敵と銃撃戦で渡りあって、しかも勝てるんだ?」
 というふうに聞かれたレオは、
「自分に当たらない弾は避ける必要ないんだから、自分に当たる弾だけ見分けて避ければいいだろ?」
 という、むちゃくちゃなことを言います。

 これっていわゆる、「弾幕シューティングゲーム」の基本的な動かし方ですよね。

 東方シリーズなんかがそれです。

 東方のSTGは、youtubeなんかでプレイ動画を見るとわかりますが、画面全体をぶわーっと覆い尽くすような弾幕が広がります。こんなもん避けきれっこないよ、と、最初は思います。

 が、ようく弾を見てみると、自機に向かってくる弾はほんの少しであって、ほとんどはあさっての方向に飛んでいきます。
「自分のところに飛んでくる弾と、そうでない弾を見分けて、当たる弾だけ最小の動きで避ける」
 ということを覚えるのが、弾幕ゲーを遊ぶための第一歩だそうです。

 で、そんなことを俺は生身でやらかすことができるぜ、とレオは自分で言っているワケです。

 レオという人物は、
「もう伝説的に、超人的に、むちゃんこつおい」
 というふうに描かれるわけですが、書いてる竜騎士さんが具体的にどういう強さを想定しているか、というイメージが、ちらっとここに出てるのかもしれないです。
 つまり、常人の群れの中に、一人だけ「東方シリーズ」の世界の妖怪的超人がいるようなイメージ。
(竜騎士さんが東方ファンなのはおなじみのことですしね)

 たぶん想定として、「レオは博麗霊夢や八雲紫とタイマンが張れるくらい強い」みたいなイメージを核にして「強さ」を描写してるんじゃないのかなー、くらいのことを思いました。
 そのくらいでなきゃ、「伝説の夜」のホテルロビーでの戦いなんて、ありえないですもんね。

 アランやキースは、「ものすごい高度な能力を持った常人」として描かれているのに対して、レオは明確に「超人」として描かれていると思うのです。そういうとらえ方をしてみると、わたしはしっくりきました。


●余談5・マダムジャンヌの正体

 は、クローディアだと想像していたんだけどなァ……。おもいっきり、外しました。


●余談6

 ……は、思いついたらここに追加して書きます。


(以上)



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ローズガンズデイズ season2 感想・チャイナの日本人

2013年01月19日 17時24分17秒 | ローズガンズデイズ
※『うみねこ』推理はこちらからどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


ローズガンズデイズ season2 感想・チャイナの日本人
 筆者-Townmemory 初稿-2013年1月17日


     ☆

 ローズガンズデイズ season2を読みました。
 以下、思ったことを簡単に。


 これまでの感想記事は、こちら。
 ローズガンズデイズ体験版/勝手な感想/勝手な予想
 ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち



●ひとつの結末とひとつの導入

 ローズガンズseason2は、大きく2パートに分かれていました。
 ケイレブ編の結末と、ワンダリングドッグ編の導入。
 そんな感じの構成でしたね。

 ケイレブ編は、順当に風呂敷が畳まれました。わたしの好みをいえば、風呂敷は畳むよりも、広げた勢いでひっちゃぶく方が好きですし、竜騎士さんもおそらく、ひっちゃぶく方が好きではないかと推察するのですが、そういう終わり方を評価する読者はどうやら少ないようですから、そっちに合わせて、さっと綺麗に着地したという印象です。

 season1のときに、いくつか予測したことがあるのですが、それらについて、かなりつっこんだ追加情報がありました。


●拳銃嫌いと心中賛美

 season1発売直後くらいに、「ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち」という記事を書きました。

 そこでわたしは、

・マダム・ローズは「日本人」が持っている属性(特に弱さ、ダメな所)を結晶化したような、いわば「THE 日本人」である。

 といった話をしました。

 ローズという人は、日本人の特徴をかきあつめたような人物造形となっている。
現実的な日本人の弱さ」を持っている者が、「理想的な日本人のあり方」を体現して、「日本的な美学」に即して死ぬ。
 日本人の強さも弱さも、日本人の理想も現実も、日本人の栄光も蹉跌も、すべて含んで呑み込んだ存在に、マダム・ローズはなる。
 そのことで、ローズは、もっとも純粋な「日本人」として完成する。

 そういった展開が想定されているだろうと推測していました。

 今回のseason2でも、そういう展開(仕組み)を想起させるエピソードがいくつかちりばめられていました。
 梅九(どうしても「うめきゅう」と読んでしまう)とのお茶会で出てきた「龍と豚」のたとえ話なんかもそうですね。

 ローズは拳銃嫌悪の傾向がある、という描写もなされましたね。

「……私、銃って、もっと汚らわしいものだと思ってました。」
「引き金を引く度に、……誰かの命が失われる。」

「だから内心は、……銃を持つ人すべてを、軽蔑していたかもしれません。」


 日本人、あるいは日本社会というやつは、おしなべて拳銃アレルギーの体質を持っています(とわたしは思うんだが、どうだろう)。
 例えば1992年にルイジアナ州バトンルージュで起こった日本人留学生射殺事件。当時、アメリカに対して決してNoと言わないことで有名だった日本人たちが、それはもう猛烈な拒否反応を示して抗議の声を挙げました(と、わたしは聞いています)。

 そういう拳銃アレルギーのローズちゃんが、うめきゅうさんにちょいとノセられて、「やったる、自分、やったるでー!」というテンションになった挙句が、ハラにダイナマイトを巻いてケイレブもろとも自爆テロしたろうやないかというこれまた極端な行動であったわけですね。
 こんなのはもう、人間爆弾桜花に乗って敵艦に体当たりする神風特攻隊みたいです。

 一方に「拳銃アレルギー」、もう一方に「神風特攻隊」という、両極端な揺れ幅を(同時に)持っているのが、わたしたち日本人という人々であって、そしてマダム・ローズはまさにそのような性向を端的に示している存在であるわけです。
 ルース・ベネディクト(最近知りましたがこの人女性なのですね)は日本人を「菊と刀」というたとえで説明しましたが、「拳銃嫌いとカミカゼ」というのも、かなりいいセンをついている気がしますね。


●獅子神レオはインドネシアへ還る

 同じく、「ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち」で、

「レオ獅子神が戦中にいた場所は多分インドネシアじゃないかなー」

 と推測しておりましたが、season2でもっと詳細な描写が出まして、やっぱりインドネシアで間違いなさそうですね。東インド会社への言及がちょっと出てきますが、これはオランダ東インド会社とみるのが適当かなと思います。
 いや、まあ、この物語はフィクションなのですから、「インドネシアという国が存在しない架空世界」であるという可能性すら考えることができます。が、「明らかにインドネシアをモデルにした南方の国」くらいのことは間違いなく言ってよろしいでしょう。

 ちょっと長くなりますが、かいつまみつつ、引用してみます。

「俺は、とある南の国で、そこで教官をやっていたんだ。」

     *

「日本が降伏して引き上げになるまで、敵さんは攻めてこなかったからな。」
(略)
「俺はあいつらに、たくさんのことを約束したんだ。」
「あいつらはみんな、純真に信じてくれたよ。」
「理想を語り合いながら、どんな苦しい訓練にも、歯を食いしばって頑張ってた。」

(略)
「俺は、……やつらとの約束を、裏切ったんだ。」
「………え?」
「……俺が守ってやる、俺が叶えてやる。」
「そう約束したのに、………俺が自ら、裏切ったんだ。」


     *

「戦時中。……俺は南の、ある遠い国に行っていた。」
「うん。」
「気の毒な国でな。……東インド会社の時代からずっと数百年間にもわたって、その国は外国の植民地だったんだ。」

(略)
「俺の仕事は、彼らに自分の国を守る方法を教えることだった。」
(略)
「……どいつもこいつも、若々しい、いいヤツばかりだった。」
「彼らにはみんな、郷土への誇りがあった。」
「200年以上もの間、失われていた民族のアイデンティティを取り戻せるかもしれないと、情熱に燃えていたよ。」

 若いレオにとって、そんな若者たちはどれほど輝いて見えただろう。
 レオは彼らと誓い合った。
 彼らの郷土の独立を勝ち取る戦いの日、きっと共に戦おうと。
 レオは、日本軍はその為にここへ来たのだからと胸を張ったのだが……。


     *

 そして1944年4月1日。
 列島規模での激甚大災害が発生。戦争は唐突に終わりを告げる。
 レオたちにも、直ちに武装解除の上、帰国することが命じられた。
 その後には、連合軍として、元の支配国の軍隊が再上陸するという。
 若きレオにとってそれは、これから独立を勝ち取ろうと意気込む彼らを、見捨てろと言われたように聞こえた……。


     *

「日本に帰って来て、……復員局で新聞を読んだ。」
(略)
 彼らはその国の各地で義勇軍を作り、立ち上がっていたのだ。
 彼らにとっての真の戦いの日は、レオが収容所で自暴自棄になっている間に、もう訪れていたのだ。

「あいつらは今、その国の各地で義勇軍を作って、独立の為の戦いを挑んでる。」
「その日を夢見て、汗をぼたぼた垂らして訓練してきたんだ。」

(ローズガンズデイズ season2)


 前の記事にも書いた通り、日本軍のインドネシア駐留軍政府は、インドネシアにインドネシア語での教育体制をつくり、また志願した若者に軍事教練をしたそうです。教育と軍事教練を通じて、
「インドネシアを国として独立させよう! もちろん日本が全面バックアップする。オランダが襲ってきたら一緒に戦うんだ」
 という方向に持っていったわけです。
 が、インドネシアを独立させる前に日本は降伏しちゃったので、インドネシアの若者はハシゴを外されちゃったような状態になりました。
 ハシゴを外されても、インドネシアの人々は独力で独立戦争を始めました。
 もしレオがインドネシア駐留軍政府の士官であったと仮定する場合、彼は「現地の人々に夢を語っておきながら、最後まで面倒見ずに逃げだした男」ということになります。
 そのことにずっと負い目を感じている……。
 というふうに見た場合、描写と整合するので、きっとレオの戦場はインドネシアだったろう……と想像できたわけです。

 だいたい、その通りとみてよろしいかなって思います。

 Wikipediaによれば、オランダ東会社がジャワ島に設立されるのが、ちょうど徳川幕府の開府と同じ頃ですから、「数百年間の植民地」ということになります。また、オランダ東インド会社が「17世紀後半にはマタラム王国を衰退させ、そして1752年にはバンテン王国を属国とすることに成功した」とのことですので、「民族のアイデンティティが200年間も失われていた」も合います。

 ところで、話は急に変わって、しょうもない余談になりますが……

 再びインドネシアに渡ったレオ・獅子神は、きっとインドネシアの義勇軍でも頭角を現したでしょうから、現地の指導者であるスカルノ(のちの初代大統領)との面識を持つ可能性が高そうです。
 ひょっとして、すでに軍政府時代からスカルノと面識があったかもしれませんね。

 そして、わたしたちの現代日本でテレビによく出演してらっしゃるデヴィ夫人。時々知らない方がいるみたいなのですが、デヴィ・スカルノさんはスカルノ大統領の第3夫人であられます。(イスラムなので奥さんを4人まで持てるのですね)

 というわけで……
 インドネシア独立戦争をうまく生き延びた場合、レオ・獅子神はデヴィ夫人と面識ができて、なんと2人は知り合い同士! という可能性が出てくるのでした。
 デヴィさんは国籍はインドネシアですが日本生まれの日本人ですので、ますます知り合う機会があります。

 なんだかそう思うと、うっかり「デヴィさんにレオ獅子神のことを問い合わせたい」という欲求が芽生えてしまうわたしなのでした。あぶないあぶない。

(「日本人なのに西洋名を名乗る人々」という点でも、ローズガンズデイズとデヴィ夫人には共通項があるのですが、これはちょっとうがちすぎですね)

 しょうもない余談おわり。


●ワンダリングドッグ登場

 わたしはワンダリングドッグ編のほうが好きです。
 オリバー、チャールズ、ニーナの3人組。これが、じつにかわいい。

 ゴニョゴニョしたことを先にさっと述べますが、ツェルはちょっとアレというか、まぁハッキリいうと、わたしはあんまり好きじゃないかもしれません。
 なんかこう、見透かしたところがあるというか、「くっくっく、計算通り」キャラに見えるところがありますね。今のところ、ツェルさんは「がんばってるヤツ」ではなく、「がんばってるヤツらをうまく操縦するヤツ」になっており、ふつう、人は、がんばってるヤツを応援したくなるものなので、3人組の隣にいることで、ちょっと割を食っているところがあるように思います。

 3人組のほうは良いですね! キャラクターデザインが良いし、3人の個性のバランスがいい。
 3人が揃ってうだうだしているところがいちばんおもしろいわけなのですが、特に一人を選ぶならニーナが良いかな。


●「あなたは満州に行っていましたね?」

 今回のseason2には、
「ツェルという人は、いったい何者だ」
 という一種の謎があるわけですね。

 断片的に提示された情報を、大ざっぱにまとめると、

・日本語ベースで思考しているが、中国語もすんなり理解できる
・小蘭(チャイナタウンの少女エージェント)に監視されている
・格闘技の動きが体にしみついている


 といった感じでした。

 わたしが、何となく想像したのは、
「満州生まれ、もしくは満州育ちの日本人子女」
 ということではないかなー。ってことでした。以下、想像を自分かってにふくらませます。

(満州でなくとも、中国本国でもいいし、金蔵と同じく台湾でもいいですが)

 ツェルは思考言語が日本語だそうですから、日本人の家庭に生まれ育ったはずです。
 しかし同時に、中国語を「そのまますんなり」理解できると言うのですから、中国語が周囲に飛び交っているような環境で育った可能性が高いのです。
 少なくとも、「大きくなってから、勉強して、中国語ができるようになった」のでは「ない」と考えられます。

 ということを鑑みれば、「満州か中国か台湾で生まれ育った日本人」という結論がごく穏当に、得られるわけですね。
 その中では、満州が有望だろうと思えました。

 われわれの(実在の)歴史を元にするならば、日本は満州を植民地化して「満州国」をつくりました。そして「満蒙開拓移民」といって、希望者をつのって日本人を満州に移民させていったのです。
 これから国を建設していく満州には、仕事もチャンスもいっぱいありますし、今から経済が発展していくのだから早めにおいしい所を押さえておいたほうがいい。しかも現地には日本軍の大軍が駐留しているわけで、軍隊というのはそれ自体が巨大な消費圏ですから、周囲にいればおいしい商売もできそうだ。
 そういうふうにして、「よし、いっちょう満州で一旗揚げようか」という人々が……特に貧困農民層(このまま日本にいてもあまり先がない)を中心に、いっぱいいたそうです。

 そういう日本の開拓移民の家庭に生まれて、中国語の飛び交う土地で育った少女がツェルなんじゃないかな、と想像しました。


●「中国大陸に進出した日本」という背景

 ツェルがもし満州にいたキャラだとしたら、それは、
「中国大陸に進出した日本」
 という要素をフィーチャーするためのギミックだろうと思います。

 前の編の主人公であるレオが、
「日本の東南アジア進出」(日本人とインドネシア人)
 という状況をバックグラウンドとして背負っていたのと同様に、

 今回の主人公であるツェルは、
「日本の中国大陸(もしくは台湾)進出」(日本人と中国人)
 というバックグラウンドを背負っており、

 それにからめた物語が語られることになるのかな……というのが、わたしの想像です。

 ゲーム本編を読んでいる途中の考えでは、わたしは、
「おそらくツェルは、中国で生まれ育ち終戦を契機に日本に引き揚げてきた人で、『現地の日本人から見た日本の満州国経営』みたいなことを語るためのキャラなんじゃないかな……」
 といった想像をしていたのですが、その後、
「あ、違うかも」
 ハタと気づきました。

 こうかもしれない。
「ツェルは中国で生まれ育った日本人少女で、終戦時に、引き揚げ船に乗ることに失敗し、大陸に取り残された

 そっちのほうがドラマチックで、語れることが多そうだ。

 つまりツェルは「中国残留日本人孤児」問題の少女だったりするのではないかな……。そっちのほうが有望そうです。


●残留日本人孤児

 中国残留日本人孤児、という問題が、80年代に取りざたされ、帰還事業が盛んに行なわれていました(行なわれたそうです)。

 太平洋戦争末期、ロシアが日本に宣戦布告して、満州に侵攻してきました。満州は日本人が多数入植しています。
 ロシア軍が攻めてきたら、殺されたり財産を奪われたり収容所に入れられたり強制労働させられたりもっとひどい目にあわされたりそれはもうエライことです。
 ですから日本は、引き揚げ船を仕立てて、満州の日本人を本国に避難させようとしました。

 でも、船に乗れなかった人が、そりゃもういっぱいいたわけです。Wikipediaの「満蒙開拓移民」によれば、満州開拓移民の総数は27万人ないし32万人。うち日本に帰還できたのは11万人あまり。残りは大陸に取り残され、死んだり、シベリア抑留の憂き目にあったりした。

 避難のドサクサで家族と散り散りになって、そのまま二度と会えないなんていう話もザラでした。治安とか秩序とかないに等しかったそうなので、事故やら暴力やらできっと人がいっぱい死んだりしたでしょう。
 そのようにして、親を失って孤児になってしまった子供がいっぱいいた。

 そういった子供たちのうち、多少運の良い子は、中国人家庭に引き取られて養子になり、生き延びました。
 そして何十年もあと、日中国交正常化がなされたのをきっかけに、「満州で離ればなれになった兄弟や家族は今どうしているのか。会いたい」という声が日本国内から上がって、中国残留日本人の捜索が行なわれたわけです。中国人家庭で生き延びた孤児たちのうち一部は、壮年になってようやく、日本の土を踏むことができました。

 そういう話があります。
 それをふまえて、ツェルのことを考える。


●金龍会のエージェント

 ツェルが満州に入植した日本人の娘であり、大連港の引き揚げ船に乗れずに、中国大陸に取り残された境遇である……と仮定した場合。

 ツェルはちゃんと生き延びているのですから、現地で中国人の保護を受けた可能性が高い。

 そこで、「ツェルは小蘭によって監視されている」というポイントを思いだします。
 小蘭はうめきゅうさん……李梅九の部下でした。
 李梅九はチャイニーズマフィア金龍会の幹部です。

 足し算しますと、
「満州で孤児になったツェルは、現地で金龍会に拾われた。そして戦闘技能や様々な知識を教え込まれて、小蘭同様、マフィアの工作員となったのである」
 ……といったストーリーを想像することができそうなんです。

 中国マフィア金龍会は、「戦勝国民として、これから日本に乗りこんでいって、ばんばん権益を切り取ってやろう」という思惑を当然持っていた。
 そんなおり、日本人少女のツェルを拾う。
 日本人少女は、当然のことながら、日本人としての生活習慣を完全に会得しているわけですから、日本社会に完全に溶けこむことが出来ます。

 中国人が日本人のふりをしても、必ずどっかでボロがでます(これは逆でも同じです)。有名なところでは、「タオルを渡して顔を拭かせてみると、日本人か中国人かは一発でわかる」なんて話がありますね。
 ツェルのような人材を手元に置いて、育成し、手先にして、スパイだとか工作員として利用するのは、これは便利にちがいありません。

 だから拾って、スパイとして完全に育て上げたところで、金龍会はツェルを日本に連れてくる。日本の闇社会にまぎれこませて、情報収集や工作活動にあたらせる。

 ところが。
 運悪く交通事故が起こって、ツェルは記憶喪失になってしまい、しかもマダム・ローズの客分に収まってしまった。

 金龍会としては「危険だが、おもしろい」状況になりました。

 ツェルが記憶を取りもどしたとき。
 もしプリマヴェーラが、「ツェルは金龍会のエージェントだ!」と気づいてしまった場合、ツェルの口から金龍会の重要な情報がダダ漏れになる危険性があります。

 しかし、同時に今、
「ツェルはプリマヴェーラの中枢に食い込み、幹部たちから大きな信頼を得ている」
 という、素晴らしい状況にあるのです。
 これを利用しない手はない。うまく記憶を回復させ、ツェルのコントロールを取りもどすことができるのであれば、プリマヴェーラの内部情報を切り取り放題です。
 もっといえば、例えば、
「マダム・ローズを暗殺し、その罪をグランドボスのサイラスに着せる」
 くらいのことだって余裕でできそうです。

 だから、梅九は小蘭を使って、ツェルを注意深く監視させる。
 小蘭は、おそらく年齢的にいって、「ツェルと一緒に育った」可能性が高そうです。だから小蘭は「姉妹分の間柄であるツェルが個人的に心配だ」という気持ちもあって、見守っており、ときどき助力を与えたりする。


●プリマヴェーラにとっての切り札

 そのようなストーリーを(わたしが勝手に)仮定した場合、ツェルは金龍会にとっての強力な切り札なのですが、
 しかし同時にツェルは、「プリマヴェーラにとっての強力な切り札」にもなりえます。

 現在の彼女は記憶喪失です。
 この記憶喪失状態のあいだに、マダム・ローズの世話になっているうちに、ツェルはマダム・ローズに心酔するようになってしまう可能性があります(実際そうなりつつある)。
 彼女の記憶が戻ったとき、「やっぱり私、マダム・ローズの役に立ちたい」とツェルが考えた場合。ツェルは金龍会に対しての逆スパイとして機能するかもしれません。

 例えば、金龍会に戻ったはいいが、金龍会内部でこっそり、プリマヴェーラの有利に働くような工作をしたり。情報を流したり。
(そしてそういう動きが小蘭に見破られて、一対一で小蘭と戦闘になったり)

 そのようにして、
「金龍会にとっても、プリマヴェーラにとっても、ツェルは最後の切り札」
 であるという状況が発生し、

 ツェルはこの物語の「vs.チャイニーズマフィア編」のキーパーソンになっていく……というような物語になるのかな、なっていったらいいなー、というのが、わたしの予測しているローズガンズデイズ次回の展開です。

 どうかしら。


●マダム・ジャンヌの正体

 前回同様、あいかわらずわたしは、「マダム・ジャンヌの正体はクローディアが最有望」と思っています。

 何人かの人に、「ジャンヌはクローディアだと思うんだけど、どう?」といったことを振ってみたら、
「いやー、クローディアはないっしょ」
 という反応が支配的でしたので、ますますクローディアが有望だなと思うようになりました。

     *

 以上です。


■season3の感想はこちら→ ローズガンズデイズ season3 感想「理想の日本人」とヤクザたち

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ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち

2012年08月30日 10時43分07秒 | ローズガンズデイズ
※『うみねこ』推理はこちらからどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち
 筆者-Townmemory 初稿-2012年8月23日



●再掲にあたっての筆者注
 前回は体験版を読んでの記事でしたが、今回は製品版に関する記事です。
『ローズガンズデイズ season1』を、読みました。それで感想や連想や推測を書き付けました。
 この記事の初出は「SugarSync」のフォルダ共有機能を利用したpdf配布です。SugarSyncの容量増加に協力してくださった方々に先行公開しました。

 これまでの感想記事は、こちら。
 ローズガンズデイズ体験版/勝手な感想/勝手な予想


 以下が本文です。


     ☆


『ローズガンズデイズ season1』を読みました。
 思ったことや、推測したこと、ぼんやりと想像したことを、以下に書き付けます。



●ケイレブまわりのエピソードが優れている

 ケイレブ(敬礼寺)のキャラクター造形が素晴らしいと思いました。

 正しいことを行なっている人が、やがて、

「正しいことをしている俺に協力しないとは何事だ!」

 というメンタリティにすりかわっていく。その過程がみごとに描かれていて、うなずきながら読みました。
 こういうの、歴史上にもあるし、現代のわたしたちの現実にも、ありますね。ちょっと身につまされる感じすらあります。むかし、全共闘なんてのは、そういうメンタリティを煮染めたようなものだったと聞きます。はばかりながら申せば市谷駐屯地でアレなさったミシマ先生にもそういった精神の萌芽がみられると思います。
(今気づきましたが、結局左翼も右翼も中身はそれかっていう感じですね)

 強力な求心力によって急速に成立した集団が、やっつけで作った建築みたいにあっという間にぼろを出し始めるさまなども、いい感じに描かれていると思うのです。竜騎士さんはこういうの本当に切れ味が良いなと思って、読みました。アマンダの立ち回り方もわたしは好きです。

 いっそのことわたしは、プリマヴェーラのことは置いといていいから、ケイレブファミリーを内部から描いていく物語を見たい、くらいのことを思いました。
 あのケイレブファミリーというのは、理想を掲げて結集していくとき、組織の内側にいたら、きっとものすごい高揚を感じられたはずです。
 それがやがて、現実に直面して、ずれていく。亀裂が入っていく。理想を追い求めようとすると、理想から遠ざかるようなことになってしまう。けれども理想を掲げて始めたものだから、とまったり路線変更したりすることが決してできない。そうしてやがて組織自体が耐え切れなくなり空中分解していく……。
 といった物語は、どこかせつなくて、魅力的だな、それを見たいなと思いました。

 個人主義の傾向が強いわたしは、「日本人はもっと連帯して、助け合っていきましょう」といったメッセージには、正直あまり共感しにくいところがあるのですが、「大きな目標を抱えてしまった人物が、それゆえに自己崩壊していく」という物語には共感可能なのです。
 いっそレオはケイレブのところに行けばいいのにくらいのことを思ってました(そうすれば、レオが組織内部からの視点になってくれますものね)。


●最も「日本人」であるマダム・ローズ

 この『ローズガンズデイズ』という作品は、架空の戦後日本という舞台を扱っているけれども、じつはわれわれの現代日本のありかたに深く通じる「たとえ話」となっています。
 現代のわれわれ日本人に、「日本人、現状でよろしいのか?」と問いかけるような部分があります。これは読んだ人がおおむね全員理解したところだろうと思います。
 そこのところは、わたしは今のところですが、あまり興味がないのです。でもここからSeason2以降、この側面がより深化していくはずだ、と予測します。期待しております。(たぶん深化していくはずですよね?)。

 それほど興味がない、書いたばかりなんですが、例外的に、一カ所ものすごく感心したところがあります。
 それはマダム・ローズの人物造形です。

 マダム・ローズは全般的に、カマトトのよい子ちゃんで、これは見方によっては「何をブッてんの?」という感じで、嫌う人も出てくるかも知れないな、と思いながら読んでいました。

 わたしも、女の子を身請けするためにお店の大枚をぽーんとはたいてしまうなんていう場面を見て、それはないだろうと思っていました。同様のことを感じた人はきっと多いんじゃないか、と想像します。
 ですが、最後まで読んで、少し評価が変わりました。

 つまり、マダム・ローズとはどんな人物であるのか、ということをまとめてみると、

・豪腕は持っておらず、
・知恵や知識にもさして優れているわけではなく、
・経営感覚といえばゼロに近く、
・よって、クレバーな選択をしたくてもできない。
・だったら慎重にすればいいのに、やたら発作的な面があり、
・キレると後先考えない行動に出る。
・そのあと、自分が駄目だとわかると、いきなり自分を全否定にかかる。
・ずっしり反省しすぎて、自分自身を縛り、まったく身動きとれなくなり、
・自分一人がすべて悪かった、このまま死んでしまいたいみたいな極論を言い出す。


 という人物像であるわけで、

 これって「日本人」そのものじゃないか。

 そう思ったのです。

 ローズは、はっきり言うと、「日本人の弱さ」「日本人のダメさ」の結晶みたいなキャラクターなのですね。
 少なくとも、戦中~戦後バブル終焉くらいまでの日本人というのは、こんなだったと思います。だんだんそうでなくなってきたのはわたしが思うにここ15年くらいです。

 マダム・ローズという人は、あまりにも「日本人」として造形されています。マダム・ローズは日本人の鏡像です。マダム・ローズを「この人ちょっとなあ」と思うのは、鏡に映した自分を見て、ちょっとなあと思うのに近い。
 たぶんこれ、わざとそうしてるのかなあ、とわたしは思いました。
 マダム・ローズが「ちょっとなあ」というキャラクターなのは、あえてそう描いている部分があるはずです(と推測します)。
 あるポイントでそれをくるっとひっくり返して、「ローズって日本人のアレなトコロそのものじゃん」と気づいたとき、ローズに対して「ちょっとなあ」と思ったそのナマな感覚は、そのまま自分に対しての「ちょっとなあ」として跳ね返ってくる。

 その構造が意図されてるとしたら、純粋にすごいなと思いました。そういえば、竜騎士さんは構造作りの達人でありました(特に「うみねこ」に顕著)。このくらいの構築は朝飯前でしたでしょうね。

 かように、日本人は、日本人独自の「弱さ」を持っています。
 そして、それと同時に「日本人として生まれたからには、かくありたい」という格好良さの理想像のようなものを持っています。
 ですからたぶん、ここから先、「日本人の弱さの結晶」であるマダム・ローズが、何らかの覚醒をして、「日本人だったら誰しもこうありたいと思う活躍」をして、日本的美学に即した散り方で、死ぬ。そういう流れが用意されているのかなと推測します。

現実的な日本人の弱さ」を持っている者が、「理想的な日本人のあり方」を体現して、「日本的な美学」に即して死ぬ。
 日本人の強さも弱さも、日本人の理想も現実も、日本人の栄光も蹉跌も、すべて含んで呑み込んだ存在に、マダム・ローズはなる。
 そのことで、ローズは、もっとも純粋な「日本人」として完成する。

 その「最も日本人である者」の姿を見た周囲の人たちが、刺激され、覚醒して、「自分もこのようにあろう。このようにあれるように努力しよう」と思う。そうした努力が、日本の未来へつながっていく。
 だいたい、そういう構成が想定されているだろうと、なんとなく想像しました。


 以上が、ざっと初読で思ったことです。

 以下、推測とか、予想とか、推理まがいの余談を書き付けます。


●余談1・マダム・ジャンヌは誰?

 お話や画面をすなおに見たら、しぜんと、「マダム・ジャンヌの正体はクローディアかな?」という想像は出てくると思います。わたしも、そう思いました。
 けどもこの作者さんは、裏をかくのが得意ですし、読者が裏を読んでくるのを察知しといて表側に張ったりするのもお手の物ですから、油断できません。


●余談2・ローズの父親はラフカディオ・ハーン?

 マダム・ローズの父親は、

・ギリシャ人の学者で、
・誰よりも日本人らしく振舞おうとしており、
・日本の心を非常に重視した教育をほどこした。
・日本の文化や伝承、昔話や民謡に詳しかった。
・日本語だけはずっと片言だった。
・ローズは晩年にできた娘である。


 ということだそうで。わたしが反射的に思いだしたのはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)のことでした。ギリシャ人で民俗学者で、日本大好きなのはお馴染みです。
 ですので、ローズの父親のモデルはラフカディオ・ハーンかなと思いますし、もうひとつ踏み込んで推測すれば、

「この世界は、ラフカディオ・ハーンが54歳で死なずに、もっと長生きした世界である。そしてローズはラフカディオ・ハーン本人の実の娘である」

 くらいのことを想定してもいいんじゃないかなと思っています。

("ラフカディオ・ハーン""マダム・ローズ"でフレーズ検索しても、わたし自身のツイートしか出てこないんですよね。同様のことを考えた人はいないのかしら)

 そう思って、さらに想像力を展開してみますと、以下のようなことが思いつきました。

 竜騎士07さんは東方シリーズがお好きだそうですが、東方シリーズには八雲紫という、ラフカディオ・ハーンとの関係をほのめかされたキャラがいます。たしか外伝には、ハーンの子孫にあたるキャラクターもいたんじゃなかったかしら(このへんうろ覚えです)。

 つまり、このへんは勘ぐりになりますが、「実在の歴史上の人物」をハブにして、自分の好きな別作品とのリンクを作っている、という想像は、ひとつアリなんじゃないかと思うのです。


●余談3・インドネシアの戦争は終わっていない

 戦争のとき、レオ・獅子神が戦っていた戦場は、ひょっとしてインドネシアではないかな、と想像しました。

 というのは、こんな独白をする場面があるからです。

「俺にまた、……守るものを見捨てろと、……そういうのかい。」
「船に、乗るんじゃなかった。」
「たったひとりでもあの国に残って。……あいつらと最後まで、……戦うんだった……。」
「俺はもう二度と、………守るべきものを、………見捨てない…………。」


 さて、これらのセリフをみていくと、

・レオは、守るべきものを見捨てて船に乗った(日本に帰還した)。
・現地には、今でも戦っている「あいつら」がいる。
・国に残って、その「あいつら」たちと最後まで戦いたかった。


 そういうことになります。

 わたしの狭い知識で、そういうストーリーがあてはまりそうなのは、インドネシアの独立戦争なんですね。

 インドネシアという国はオランダに植民地支配されていたのですが、日本軍が乗りこんでいって、オランダを追いはらったのです。
 オランダを追いはらった場所に日本が居座ったわけなんですが、日本軍の軍政は比較的まともだったみたいで、オランダに拘束されていたスカルノやハッタといった、のちに独立英雄になる人たちを解放して、インドネシアの指導者とし、インドネシア語(と日本語)での教育制度をつくり、とくに「インドネシア史」の教育なんかをすすめたと聞きます(オランダ時代の教育とは、当然オランダ語で行なわれるものであり、オランダ史を教えるものだった)。
 そうして教育水準を上げて、インドネシア人が、「インドネシアは国家として独立しよう」という機運を持つようにしていった。「インドネシアはひとつの国として独立すべきじゃないか」ということを勧めていったわけです。

 もちろん日本としては、親分として日本がふんぞりかえってる、そういう上下関係での「インドネシア独立」を意図していたことでしょう。
 また、これは戦時中のことですから、インドネシアに他国が手を伸ばしてきたとき、「インドネシア人自身が国を守るために戦ってくれる」という状況はきわめて重要だったはずです。そういう魂胆があっただろうことは、もちろん押さえておくべきことです。

 でも、インドネシアの人々にとっては、それは画期的な考えだったと聞きます。なぜならそれまでのオランダの植民地支配というのは、インドネシア人を単純労働力としてしかみなしていなかったからです。「現地の人々に教育をほどこし、自立の機運を高める」なんていうことは、西洋の植民地政策ではまったく行なわれなかった。

 さて、重要なのは、
「インドネシアは独立すべきだ。その独立を日本が保証する」
 と、日本軍はインドネシアの人々に約束した、ということなんです。

 ところが、インドネシア独立より先に、日本は連合軍に降伏してしまいました。日本軍は武装解除します。すると、インドネシアは軍事的に丸裸です。

 オランダ軍がインドネシアに戻ってきて、再占領しようとし始めました。

 インドネシアの青年たちは独立の夢に燃えています。しかし、後ろ盾をしてくれるはずだった日本軍は武装解除して降参してしまいました。もうアテになりません。
 インドネシア人たちは、自分たちだけの力で、オランダと戦い始めます。インドネシアの独立戦争が始まりました。

 さて。ここで仮に、レオ獅子神が、
「インドネシア駐留の軍政府に所属する日本軍士官」
 であったと仮定する場合。

 レオは、インドネシアの人々に、「俺たちで力を合わせて、この国を独立させようぜ!」と熱い夢を語っていた立場ということになります。
「俺たちが命がけで守るから、インドネシアの独立を勝ち取ろう」

 そういって約束していたはずなのですが、日本の降伏により、「彼らを守る」ことなどできない立場になってしまいました。

 インドネシア人たちが、自分だけの力で、竹槍みたいなものを手にとって戦い始めたとき、それを指をくわえて見ていなければならない立場になりました。
 命がけで戦い始めた彼らを置いて、船で逃げ去るようなかたちになってしまいました。
 だから、こういうセリフになっていく……。

「船に、乗るんじゃなかった。」
「たったひとりでもあの国に残って。……あいつらと最後まで、……戦うんだった……。」


 レオはケイレブに部下になるよう誘われたとき、
「俺の戦争は、……少し違うんだ」
 そういって断っています。

 ケイレブの戦争は「最前線で捨て駒にされた旧軍兵士たちにまともな暮らしをさせてやる」ことです。ケイレブはレオに「おまえも士官なら同じ気持ちだろう、俺の戦いに加われ」と言うわけです。
 でも、もしレオの経歴がインドネシアなら、
「俺の戦争は少し違う」
(救いたいのは戦友じゃない、あの国に置いてきた、独立の夢を共に見た仲間たちなんだ)

 そういうセリフになっていきそうです。


(とりあえず、今のところは、以上です。そのうち何か思いついたら、また更新します)


■season2の感想はこちら→  ローズガンズデイズ season2 感想・チャイナの日本人

■ローズガンズデイズ 目次■
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ローズガンズデイズ体験版/勝手な感想/勝手な予想

2012年08月23日 00時36分32秒 | ローズガンズデイズ
※『うみねこ』推理はこちらからどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


ローズガンズデイズ体験版/勝手な感想/勝手な予想
 筆者-Townmemory 初稿-2012年7月10日



●再掲にあたっての筆者注
 本稿は、2012年7月に書かれました。つまり『ローズガンズデイズ season1』が発売されるより前に書かれたものです。

 当時、『ローズガンズデイズ』のダウンロード体験版が公開されていました。チャプター1のクライマックス直前くらいまでの内容を読むことができるようになっていました。
 その体験版を読んで、思ったことや予測したことを書き付けたのが、この文章です。
 この文章の初出は、オンラインストレージSugarSyncのファイル共有によるpdfファイルです。申し込みされた方のみが閲覧できるようにしていましたが、本編も発売され、賞味期限も切れたと判断しましたので、一般公開します。
 製品版の公開によって、無効となった論述もありますが、初出のまま掲示します。

 以下が本文です。


     ☆


『ローズガンズデイズ』の体験版を読みました。
 勝手な感想と勝手な予想とを。


●「何々に似ている」といいたくなる

 07th expansionの作品は、「この部分は○○に似ていて、こっちの部分は××に似ている」みたいなことをいいたくなりがちなんですよね。そういう言及を誘発するようなところがある。
 うみねこのときにも、相当「これのモトネタはあれだ」的なことをいいたい衝動にかられたのですけれども、なるべく自制しておりました。ネタがミステリー関係なので、ネタバレを恐れた(モトネタ側のネタバレになる)というのが、理由のひとつ。
 でもそれ以上に、「これの元はあれ」みたいなことをいくら並べ立てても、並べ立てただけでは何を言ったことにもならないよな、という気持ちが大きかった。その「並び」を有機的につなげて、何か新味のある別のことを言うことができるか。むしろ「元はあれ」ではくくりきれない部分のアリやナシやが重要なのだから、そういう部分に注力して見ていくほうが明らかに建設的だ。そういう考えを持っているわたしです。

 でも『ローズガンズデイズ』に関しては、「これって何々ふうだなぁ」から入っていったほうが、話がはやそうだ。だからそういうとこから話に入っていくことにします。これって、日活無国籍アクション映画だよねぇ。


●無国籍アクションって?

「無国籍アクション映画」というジャンルが、かつてありました。
 というか、あったそうです。
 なにしろわたしは、ちゃんと見たことがないので、知識でしかしりません。

 1950年代末から60年代にかけて、大ヒットをした、映画の一ジャンルです。日本で撮られた、日本が舞台の、日本人出演の映画なのですが、やってることはどうみても拳銃ドンパチ西部劇か、ロサンゼルス風暗黒街マフィア抗争もの、という、今から考えると相当変な作品群。そういうものがありました。
 日本が舞台の、日本人のお話なのですが、主人公は「拳銃使いの私立探偵」とか「拳銃使いの殺し屋」とか「拳銃使いの用心棒」とか、そういうの。対する敵は、マフィアのボスやら、対立するギャングやら、敵側の拳銃使いの殺し屋やらで、だれもかれも、メンタリティにしろ吐く台詞にしろ、まったくもって日本人ばなれしている。
 つまり、西洋製の西部劇だとか、暗黒街もの、フィルムノワールといった映画のカッコよさにシビれちゃった映画の作り手や、映画ファンがたくさんいたわけです。
「こういうものを我々も作ろう」
 といって、「そういうもの」を作っちゃった。すると、日本が舞台で日本人が出演してるのに、やってることは西部劇そのものとかいう、ヘンなものができあがる。
「この映画、なんなんだよ、どこの国の話なんだよ」
 というもっともな指摘に対して、
「さあ、それは……」
 といって、何となくとぼけるしかないような、そういう不思議な世界ができあがる。
 そういうのを、「国籍についてはもう考えないことにするアクション映画」というわけで、「無国籍アクション映画」というようになったらしいです。
 このジャンルから、石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、赤木圭一郎といった、そうそうたるスターたちがうまれました。

 一応、ここは日本だということになっているけれども、映ってるものや、やってることが、ひとっつも、日本じゃない。
 でもまあ、カッコいいから、そこはいいじゃんか。

 レオ・獅子神なんて、戦中世代の日本人の名前じゃねぇよ。言動にしたって、いっこも日本人じゃねーじゃんか。日本人が食い詰めたとき、「パスタが食いてぇ」「パンにもありつけねぇ」なんて、絶対いわねーよ。
(「レオ獅子神」という名前は、もう、いかにも、無国籍アクションの主人公っぽいネーミングだ)
 だけども、「そのへんは、まぁ、いいじゃん」で押し通す。

 そういうものとして『ローズガンズデイズ』は生まれてきたようです。(このへんのこと、あとでちょっとしたところにつなげますので、覚えといて下さい)


●中国という「現実」

 といっても、全部が全部「まぁいいじゃん」で押し通すのはさすがに不可能なので、「どうしてこんな日本になったか」という最低限の説明が加えられています。

 敗戦で米中が乗りこんできて、日本各地の都市レベルで権力抗争をした結果、日本全体が何やらホンコンじみたカオス状態になった。国境線を引いて分割統治するのではなく、都市レベルでミニマムなイニシアチブ争いをするような構図になったので、ごちゃまぜになり、暗黒街的な都市が発生した。
 そんな感じでした。

「米ソ」ではなく「米中」としたところが、ちょっとしたみそで、わたしは良いなと思いました。
「米ソ」という枠組みは、わたしたちのこの現代では、終了していますからね。「米ソ」なんていうのは、激しく今更感があります。
 われわれの現代における大国同士の軋轢といえば、これはアメリカと中国です。そこをちゃんと持ってきてる。
(余談ですが、クラークの『2001年宇宙の旅』でも、アメリカと張り合って覇権を競っている大国は、ソビエトロシアではなくて、中国なのです。ACクラーク、素晴らしい先見の明です)
 ついでにいえば、中国を持ってきたことによって、チャイニーズマフィアを容易に登場させることもできそうですしね。ノワール映画にマフィアはつきもの。マフィアといえばシシリーかチャイナかというのが定番です。

 わたしは、ちょっと、『高い城の男』みたいだなと思ったのです。
 フィリップ・K・ディックの『高い城の男』は、「太平洋戦争で日本が勝利していたら」というif世界のアメリカを描いた物語です。それにちょっと似ています。
 けれども、『高い城の男』に似ていると思うのは、よく考えるとおかしいのです。なぜなら、われわれの現実でも、日本は戦争に敗北したのであって、それは『ローズガンズデイズ』も同様ですから、「ひっくりかえしのif世界」になっていないのです。

 ひっくりかえしとして成立していないにもかかわらず、「ひっくりかえしのif作品」である『高い城の男』と『ローズガンズデイズ』を、わたしは似ていると思う。
 ということは、どうやらわたしの中に、
「日本という国は(何らかの意味で)勝利者である」
 という自意識があるようです。それをあらためて自覚しました。それはどうも、わたし的に重要なことのように思えますので、少し気にしておくことにします。


●酒とバラの日々

『酒とバラの日々』という映画があります。アル中になったカップルの物語です。テーマ曲はジャズのスタンダードナンバーとして人気があります。

『ローズガンズデイズ』(Rose Guns Days)というタイトルは、ここから持ってきたんじゃないかな。
 というのも、『酒とバラの日々』の原題は「Days of Wine and Roses」というのです。

 おそらく、本来的に、作者が意図しているのは、
Days of Guns and Roses
(拳銃とバラの日々/用心棒たちとマダムローズの日々/戦いと華やかな宴の日々)
 というタイトルだと思われます。

 しかしながら、そうしてしまうと、この世の中には「ガンズアンドローゼス」というロック・スーパースターがいるのですから、
「(ロックバンドの)ガンズンローゼス(に夢中になった)の日々」
 という方向に、意味がどうしてもひっぱられてしまって、うまくありません。
 そこで『Rose Guns Days』という、英語的には意味不明感がただようものの、やけにリズムが良くて押し出しの効いたカタカナタイトルをひねりだしたわけなのでしょう。
 こういう意味不明感ただよう英文字タイトルは07thにあっては昔からのことで、わたしはもう、『When they cry』という三単語を目にするたびに首をかしげて落ち着かない気持ちになり、いまだに慣れません。それに比べたら『ローズガンズデイズ』はずいぶん良いです。

 ジャズ・スタンダードナンバーの『酒とバラの日々』は、歌詞を追っていくと、

「あのうるわしき酒とバラの日々は、もう過ぎ去ってしまった」
「過ぎ去ってしまったものは、もう二度と戻ってはこないのだ」


 そんなような内容を歌い上げるものです。

 そして『ローズガンズデイズ』は、もはや日本的アイデンティティというものがまったく失われてしまった架空の現代世界で、「かつてあった日本」というものの姿を知る最後の生き証人マダム・ジャンヌが、今はもうない、過ぎ去ってもう二度と戻ることのない時代の美しい姿を、なんとか後世に伝えようとして、もはや絶滅危惧種となってしまった純日本人の記者に対して、昔話をしている。
 そういう枠組みを持った作品なのです。

 おそらくそういうところに、わざと響き合わせているはずです。

     *

 ところで、タイトルにも入っている肝心の「銃」(Guns)は、いつ出てくるのでしょうね。
 体験版では、マフィアのはんちく共が中途半端にちらつかせるばかりで、小道具として、ほとんど「生きて」いませんでした。そのあたりはちょっと気にしておくことにします。


●「民族的アイデンティティ」という名の「フィクション」

『ローズガンズデイズ』が、

「無国籍アクション映画ふうの作品であること」
 と、
「失われてしまった日本というものを回想するスタイルの作品であること」

 この二つは、とても重要なことだと、わたしは認識しました。

 くりかえしになりますが、この物語は、「現代からみた、過去の回想」という形式をとっています。
 アメリカと中国に占領され、アメリカ人とアメリカ文化が押しよせ、中国人と中国文化も押しよせ、それらによって領土的にも文化的にも塗りつぶされてしまった日本。
 そんな状況が何十年も続いた結果、世代が入れ替わって、日本語を喋る人口は激減し、混血が大きく進んで、探しでもしないかぎり純日本人なんてものはいない状態になり、日系であるという自覚くらいはあっても、「自分は日本人である」という自意識はほぼ絶滅している時代。現実におけるアイヌ民族の状況に近い。
「文化的領域としての日本」がほぼ消滅しており、完全消滅までカウントダウン状態にある。そういう時代。
 より端的に言えば、日本的アイデンティティが失われてしまった状況。

 そういう状況下で、
「戦後の激動を生き抜いた、日本人としての自意識を持つ最後の老女」
 が、
「かつて日本人、かくありき」
 という証言を、どうしても後世に伝えたい、語り継いでもらいたいと願って、ついに語り始めたのが、この『ローズガンズデイズ』の物語です。

 それだけ聞けば、まるで村上龍の『五分後の世界』のような、右翼小説、民族小説ですよね。
 ところが、そんなふうに一筋縄でくくれないのが、『ローズガンズデイズ』の面白いところです。

 日本というのはこうだったのよ、ということを知って貰いたくて始めた物語の主人公に、「日本らしさ」が一カ所もない。
「オレが知ってる日本はもうどこにもねぇ……」
 と悲嘆するレオ獅子神本人に、どっこもかしこも日本人らしさがない。

 そういうねじれ。噛み合わなさ。

 そこが『ローズガンズデイズ』を、一筋縄ではいかなくしています。

 混血が進み、
 何が日本人で何が日本人でないのかがあいまいになった世界で、
「かつての日本人というものは、こうだったのよ」といって老マダムが語る物語。
 それがどんな物語かといえば、
 どこもかしこもまったくもって日本ではない「無国籍アクション」という。


 この奇妙なねじれ。

 これを「構図の作りそこない」(作者の失敗)とするのは簡単ですし、読む側の勝手ですけれど、わたしはこれを「見るべきところだ」と思いました。
 わたしはこれを、

「日本の民族的アイデンティティというものが、徹底的にあいまいになるような構造がつくられている」

 というふうに読みます。「日本というのは、いったいどこにあるんだ!?」と読む人に思わせる。そういう作品だと考えるのです。そういうふうに読むことで、この話は、とても「われわれにさしせまった物語」となり、スリリングになる。

 日本人としてのアイデンティティが希薄化しており、しかもそのことをまったく問題だと思っていない日本人の女性記者に対して、
「日本人ってこうだったのよ、それを忘れないで。語り継いでほしいの」
 という願いを持った老マダムの語る物語の中に、われわれが普通にイメージする「日本人らしさ」が、いまのところ、どこにもない。

 たとえば。アニメ『コードギアス』は、架空の超大国に日本が占領され、国家としての主権を喪失するという物語でした。『ローズガンズデイズ』と似ています。
 このアニメで、主権回復のための地下レジスタンス活動を行なう日本人たちは、「私はニッポン人だ!」と絶叫して、民族的アイデンティティにしがみつきます。そして、あまりにもシンボリックなことに「日本刀」型の接近戦武器を使い、サムライ・スタイルで戦い抜こうとします。
 そっちが普通の発想なのです。異国の侵略者に立ちむかうために、民族的イメージを結集する。これは筋が通っています。

 そうなっていない『ローズガンズデイズ』(おそらく意図的に)は、いったい何なんだ、

 と考えるとき、この作品の見どころというものが、にじみでてくるように思います。


●日本らしさとは、何なのか

 そこで、ふと立ち止まってしまうのですが、この話を「日本らしくない」というときの「日本らしさ」とは、具体的には何なのでしょうか。

 我々が「日本らしさ」というとき、たとえば何が想定されているだろう。

 例えば。
 日本独特の美意識。「和」の心。
 桜。
 菊と刀。
 大和魂。
 茶道や華道。ワビ・サビ。浮世絵の鮮やかさと精密さ。粋(イキ)と心意気。

 そういうキーワードが、ぱっと浮かんだりするのではないでしょうか。

 でもですね、それって本当に、「かつてありし日本」「日本らしいもの」なのか?
 ちょっと立ち止まって、疑問に思ってみても良さそうに思います。

 和の心でまとまり、調和し、独特な美意識をとぎすまし、桜の美しさと潔さ、鍛え上げられた鋼の刃とそれが象徴する忠誠心、華美よりも素朴さと古さを愛し、それでいて職人的意識が高く、ハートで生きている日本人。かつて、昔はそうだった日本人。

 そんな時代や、そんな人間が、本当にあったのか? 
「そういう良きものを備えた人々の、そういう良き時代があった」というフィクションなんじゃないのか。
 いま挙げたようなステレオタイプなイメージは、じつは、
「過去を振り返ったときに、我々の頭の中に捏造された日本
 の姿なんじゃないのか。

 そのように、
「日本らしさ、という名のフィクション」
 というものをいったん仮定してみたとき、

 その「日本らしさ」なるものと「無国籍アクション」とは、まったく平等な、同じ価値になるのです。

 われわれが無意識に「日本らしいもの」と感じるもの。その「感じ」が実はまったくの「幻想」であるのなら、その「架空の日本らしさ」の位置する場所に、同じく幻想である「無国籍アクション映画」を置き換えても、まったく通用してしまう。

 だから、一見「ねじれ」だと見えていたものは、「基準が最初からねじれてた」という条件を設定することによって、ねじれではなくなる。

 そしてマダム・ジャンヌの言葉は、
「あなたたちにとっては、まったく日本的とは思えないであろうこの物語。この物語の中から、それでも《日本なるもの》を見つけだしてみなさい。見つけ出せるかしら?」
 という、一種の禅問答のようなクエストとして、「わたしたちに」(林原樹里に対してではなく)差し迫ってくるのです。

「日本的なるものをすべて取り去った。さあ、この中に日本のありやなしや」

 そのような問いかけとしてこの物語を読むことは、(わたしには)可能です。


●幻想を取り去った後に残るもの

 以上のような、「テンプレート的な日本らしさをいったん取り去ってみたとき、それでも残るものとは何か」という問いかけ。

 これを、こんなふうに言い換えてみると、『うみねこ』との対比が可能になります。

「幻想をすべて取り去ったとき、残るもの」

『うみねこ』は、幻想のうえに幻想を重ね、その上からさらに幻想を塗り重ねていくという作品でした。
『ローズガンズデイズ』は、
「わたしたちユーザーが所与のものとして持っていた幻想を、しょっぱなから破る。幻想を破って無効化したところから始める」
 という作品である。
 ……という言い方は可能かもしれない。

 幻想が消え失せたところに、いったい何があるのか。
 そもそも、本当に「何か」があるのか? ひょっとして何もないのではないか。われわれには本当に「身(実)」があるのか? からっぽなのにそうではないふりをしているのではないか。それでも何かはあると信じられるだろうか……。
 というところまで、行って欲しいというのが、わたしの期待であります。


●「日本って何」と考える日本人たち

 この節は余談。
 われわれの生きているこの現代というのは、中国と韓国の台頭、竹島、排他的水域、日本海問題、尖閣諸島と石原慎太郎知事、インターネットの普及で海外の反応がノータイムで伝わるようになったこと、などを背景にして、

 かつてないほどに、「日本って何?」ということを日本人が考えるようになった時代

 なのではないかな、という気分が、わたしにはあります。
(インターネットユーザーのある種の層がプチ右翼化していくというのも、この現象の一側面です)

 そういう気分をわたしは持っていますので、「フィルムノワールの皮をかぶって、ずいぶん現代的なテーマを取り上げてきたなあ」というのが、わたしの感じた基本的な手触りです。


●ところで「ゲーム」として

 話は急に変わりますが、このゲーム、戦闘部分がおもしろいですね。簡単ですし、爽快感があります。
 シンプルなのに、緊張感があるし、楽しい。

 ちょっと『スナッチャー』とか『ポリスノーツ』の戦闘に似ています。すごく斬新かというとそうでもないけれど、よく考えられていて、気分が良いのです。

 洒落てるなあと思ったのが、リザルト画面に出てくる「ストレートフラッシュ」の項です。これ、きっと、とどめの一撃のときに選ぶトランプを連番にすると、ボーナス点があるんでしょう?
 ……と、思って、最初の2回の戦闘(1戦闘に3回の攻撃があるので、それを2回)のカード選択を、1→2→3→4→5→6にしてみたんだけれど、ストレートフラッシュ判定は有効になりませんでした。おかしいな。製品版にはあるのかしら。

 そういう感じで、けっこう楽しく遊んだのですが、ひとつ重大な危惧があります。

 おそらく……
 ずっとこの調子でおなじ戦闘が続くなら、このままだとわたしは飽きます。

 でも、たぶんそうはならなくて、きっと製品版では、いろんな変化をつけてくるものと想像しています。
 たとえば、ここで話をつなげるのですが、体験版にはパンチやキックの戦闘しかありませんでした。
 そこに、ちょっと毛色の違う「ガンアクションモード」が入り込んでくるとかね。何しろこれは『ローズガンズデイズ』なのですからね。

「どこそこを狙って撃て」だとか、「敵のいる場所を探して仕留めろ」だとか。あるいは「弾をよけろ」とか(^_^)。
 そういった変化があるといいなあっていう、予想っていうか、願望を言ってみました。

     *

 とりあえず、最初の感想は以上です。


■製品版season1の感想はこちら→ ローズガンズデイズ season1 感想その1 マダム・ローズと日本人たち

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【RGD感想一部公開】ローズガンズデイズ、タイトルの出所

2012年07月22日 15時14分20秒 | ローズガンズデイズ
※『うみねこ』推理はこちらからどうぞ→ ■うみねこ推理 目次■ ■トピック別 目次■


●お知らせ(8月29日更新):
 SugarSyncの記事閲覧登録をされた方のうち、以下のメールアドレスの方は、クライアントソフトを未インストールのため、招待が有効化されておりません。インストールしたのに招待が来ない、という方は「grandmasterkey★mail.goo.ne.jp」までお知らせ下さい。(★を@にしてお送り下さい)
・頭三文字「cak」の、gmail.comアドレスの方。
・頭三文字「tak」の、gmail.comアドレスの方。
・頭三文字「tok」の、gamail.com(gmail.com?)アドレスの方。
・頭三文字「drt」の、yahoo.co.jpアドレスの方。



●酒とバラの日々
「ローズガンズデイズ/勝手な感想/勝手な予想」より一部抜粋
 筆者-Townmemory 初稿成立日-2012年7月10日



■再掲にあたっての筆者註
 現在、申し込みをしてくださった方限定で、ローズガンズデイズ体験版に関する文章などをはじめとする未公開原稿を配布しております。
【注:配布申し込み受付は終了いたしました。現在は行なっておりません。詳しくはこちら(リンク)。】

 が、いくらか考えがありまして、申し込み者のみ限定公開のテキスト、「ローズガンズデイズ/勝手な感想/勝手な予想」のごく一部分を、ちょっとだけ、ここに公開することにします。
 すでに申し込みをしてくださっている方には、スペシャル感が多少減ってしまうことになり、すみません。

 一部公開することにした理由のひとつは、まぁいってしまえば、申し込みをしてくださる方々の人数、さすがにちょっと勢いが弱まってきました。ので、ちょっとおためし版的なものを外に出して、興味をひっぱろうという魂胆です。

 ですが、理由はそれだけでもなくて、「ローズガンズデイズ」という、この不思議な作品タイトルの出どころについて、何人かの人が推測をのべておられるのを、ここ数日、目にしました。
 そして、それらの議論のほとんどすべてについて、「そうかなぁ?」と、首をかしげました。

 この件に関しては、ちょっと自分の考えを、広く誰でも読めるように公開しておきたいなという気分になりました。ので、限定公開中の感想文のうちから、タイトルに関する一節を抜粋してここに掲示しておきます。

 ここにあげてあるのは、全文章のほんの十分の一程度です。

 以下に掲示します。


     ☆


●酒とバラの日々
「ローズガンズデイズ/勝手な感想/勝手な予想」より一部抜粋
 筆者-Townmemory 初稿成立日-2012年7月10日


(前段・略)

●酒とバラの日々

『酒とバラの日々』という映画があります。アル中になったカップルの物語です。テーマ曲はジャズのスタンダードナンバーとして人気があります。

『ローズガンズデイズ』(Rose Guns Days)というタイトルは、ここから持ってきたんじゃないかな。
 というのも、『酒とバラの日々』の原題は「Days of Wine and Roses」というのです。

 おそらく、本来的に、作者が意図しているのは、
Days of Guns and Roses
(拳銃とバラの日々/用心棒たちとマダムローズの日々/戦いと華やかな宴の日々)
 というタイトルだと思われます。

 しかしながら、そうしてしまうと、この世の中には「ガンズアンドローゼス」というロック・スーパースターがいるのですから、
「(ロックバンドの)ガンズンローゼス(に夢中になった)の日々」
 という方向に、意味がどうしてもひっぱられてしまって、うまくありません。
 そこで『Rose Guns Days』という、英語的には意味不明感がただようものの、やけにリズムが良くて押し出しの効いたカタカナタイトルをひねりだしたわけなのでしょう。
 こういう意味不明感ただよう英文字タイトルは07thにあっては昔からのことで、わたしはもう、『When they cry』という三単語を目にするたびに首をかしげて落ち着かない気持ちになり、いまだに慣れません。それに比べたら『ローズガンズデイズ』はずいぶん良いです。

 ジャズ・スタンダードナンバーの『酒とバラの日々』は、歌詞を追っていくと、

「あのうるわしき酒とバラの日々は、もう過ぎ去ってしまった」
「過ぎ去ってしまったものは、もう二度と戻ってはこないのだ」


 そんなような内容を歌い上げるものです。

 そして『ローズガンズデイズ』は、もはや日本的アイデンティティというものがまったく失われてしまった架空の現代世界で、「かつてあった日本」というものの姿を知る最後の生き証人マダム・ジャンヌが、今はもうない、過ぎ去ってもう二度と戻ることのない時代の美しい姿を、なんとか後世に伝えようとして、もはや絶滅危惧種となってしまった純日本人の記者に対して、昔話をしている。
 そういう枠組みを持った作品なのです。

 おそらくそういうところに、わざと響き合わせているはずです。

(以下略)


     ☆

 本文以上です。

(以下の位置に、SugarSyncを使った未公開原稿閲覧の方法が記されていましたが、受け付け終了につき、削除いたしました)


■ローズガンズデイズ 目次■
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