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うみねこに選択肢を作る方法(と『黄金の真実』)
筆者-初出●Townmemory -(2009/10/11(Sun) 07:24:15)・(2009/10/12(Mon) 22:37:19)・(2009/10/13(Tue) 21:13:06)・(2009/10/27(Tue) 02:21:04)
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=34006,34091,34113,34815&no=0 (ミラー)
[Ep5当時に執筆されました]
●再掲にあたっての筆者注
公式掲示板で、「赤字で嘘っぱちが言える、と主張している人」といえば「Townmemory」というふうに、代表選手のようになりつつあります。望むところです。
赤字でまるっきりの虚偽が言えるのなら、規準がなくて推理のしようがないんじゃないか、という反応は、常にいただいてきました。その疑問に対する回答、というか、「自分はこういう思考モデルをとっていますよ」というのを、一度まとめておきたいな、と思っていました。
ちょうど都合よく、掲示板アクティブユーザーの藤井ねいのさんがその話題を振ってくださったので、これを機会に書き込んでおくことにした次第です。
4つの書き込みを1記事にまとめてお送りします。
文中の引用文(青字)は、藤井ねいのさんの書き込みです。以下に原文のURLを示します。これをもって出典明記とします。
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=33993,34037,34110,34115&no=0 (ミラー)
実際のやりとりを時間軸に沿って読みたい方は、以下のURLからご覧下さい。
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=33993,34006,34037,34091,34110,34113,34115,34815,34817&no=0 (ミラー)
本論と関係ない世間話を省略しました。
以下が本文です。
☆
ちょうどその件について、考えをまとめていたところなので、便乗するのです。
便宜的に藤井ねいのさん宛てにしますが、不特定多数を相手に一般性の話を語っている、と思っていただけると、ありがたいところです。木のウロに向かってぶつぶつ独り言を言ってる人がいる、というイメージで見ていただくとめやすになるでしょう。
多くのひとが、赤字があやふやなものだったら推理が困難になる、という印象を語っていますけれど、わたしの感覚では逆なんです。
赤字がほんとに全部真実だったらとても推理なんてできないなーという印象なのです。
たぶん、統一感のあるストーリーを構成するのは、自分には無理かも、です。
あくまで一例として、わたしの考え方を挙げるのですが、
赤字を疑いつつの推理というのは、たとえばこういう思考形態なのです。
ep5で、「金蔵はゲーム開始前に死亡している」という赤字があるのに、金蔵と夏妃
がテラスで談笑していた、おかしいではないか、というツカミの謎がありました。
描写と赤字が矛盾をおこしているのです。
戦人はここで、「描写に幻想がまじっている」(つまり描写が嘘である)という解をみちびきましたが、赤字のほうを疑うなら、
「金蔵は生きている。赤字は嘘である」
という解を提出することもできるのです。
(おお、くしくも金蔵生存説ですね)
ここではあえて、わかりやすくするために「嘘」という用語を使いますけれど……
すなわち、描写と赤字とがコンフリクトをおこしていたら、
「描写で嘘がつかれている」
か、
「赤字で嘘がつかれている」
か、
どっちかだ、というように、モデル化することができます。
「赤字が嘘だとしたら、可能性がほとんど無限じゃないか」と思えていたものを、なんと二択にまで収束することができました。
あとは、ひとつひとつの謎に対して、
「この場合は、描写のほうが嘘かな」
「こっちの謎は、たぶん赤字のほうが嘘かな」
というように、配分してあげるのです。
イメージとしては、一本の線路を、列車が走っているようなものです。
線路には、ところどころ分岐点があって、ふたまたにわかれています。
あのー、トロッコアクション映画に出てくる、レバーをギーッって倒して、右か左か切り替えるやつです。さびついててなかなか動かない、このままだと崖っぷちのほうに進んじゃう! みたいなやつです。
たとえば、右ルートは「描写が本当」(赤字が嘘)、左ルートは「赤字が本当」(描写が幻想)だとすると、
謎という名の分岐点を、右・左・右・左……と進んでいき、うまいことゴールまで走りぬける(統一感のあるストーリーが見える)ことができたら、それはひとつの推理が成立したといっていいのじゃないかな、という考え方なのです。
うまくいかなかったら、それは、どっかで分岐点をまちがえているのです。
そして、そのストーリーを持って、ひとつひとつの分岐点をみていくのです。
「赤字が嘘」とした場所は、それは赤字を言った人物が、その嘘をどうしても信じてもらわなきゃ困る立場だった、とみなすことができます。
「描写が幻想」とした場所は、描写をした人物が、その幻想が事実だったらいいなあ、という願望をもっていた、とみなすことができます。
すなわち、プロファイリングが可能となるのです。
プロファイリングができるということは、犯人を、指名できるということなのです。
赤字を規準にして、描写を疑うことができ、描写を規準にして、赤字を疑うことができる。
もしも赤字がなかったら、片目でものを見るようなもので、立体感がでません。つまり、この思考形態でも、実に「赤字は強力なヒント」なのです。
そして、ここを強調したいのですが、
赤字を破りたくない(赤字は真実だと思いたい)のなら、ゴールしたあとで分岐点に立ち戻って、
「赤字を成立させたまま、ここを通る方法はないだろうか」
と考えるのは、まったく自由なのです。
前にもどこかで書いたのですが、
赤字というのは障子紙でできた壁みたいなものなのだから、ひっちゃぶいてゴールしてしまえばよい、ゴールしたあと、破らないでクリアする方法を考えても、ちっとも遅くないのです。
「赤字がウソなんでしょ?」という立場で、推理を構築できたら、そのあとで、
「古戸ヱリカは(万引きの)犯人ではない」
というへりくつを思いつけばいいのです。「考える場所」が明確だから、考えやすいです。
何人かの人に、誤解されているふしがあるのですが、赤字を疑うというのは「赤字は全部嘘」という意味では「ない」のですね。
たとえばわたしは、「赤字破りは、なるべく最小限にしたいな」と思っていて、それで推理を進めています。
できれば全部の赤字を守ってあげたいけれど、それではストーリーとして整合しないから、しかたなく、ところどころ外す。
(特にベアトリーチェの赤は、できるだけ守ってあげたいですよね。ベルンの赤は、盛大に破ってやりたいという欲求にかられるけれども)
自分では、そのスタンスは悪くないと思っています。
すぐれたうそつきさんは、本当のことをいっぱい言って、ほんのすこしうそを言うものです。
「全部嘘」というのは、うそつき村のたとえ話と同じで、「全部本当」と同じ意味になってしまいます。
ということは、赤字はほとんど本当(たまにウソ)という理解なのですね。
だから、基本的には、赤字を規準にして、描写のほうを動かしていけばOK。それでどうしてもうまくいかないときだけ、赤字のほうを動かす。これでいけそうな感じがします。
この意味でも、「赤字は強力なヒント」なわけで、わたしはこれを非常に頼りにしているのです。
実際には、もうちょっと複雑な変数が入ってきますけれど、思考モデルとしては、おおむねこんな感じなのです。わりあい簡単そうに思えてきませんか? ということで、皆様のご参考までに。ごめんくださいませ……。
---------------☆----------------
それと、たとえ8パターンの終着点があったとしてもそのうち「つじつまがあう」のはたぶん1コか2コだろう、と推定できますので、末広がりに分岐しているように見えるけれども、実は収束しているはずだろう、という決め打ちなんですね。
これ、書いてからあとで気づいたんですが、この2元モデル、あるいはトロッコ分岐点モデル。
分岐点を「選択肢」と読み替えることで、いわゆる「アドベンチャーゲーム」の構造になりますね。
ポートピア連続殺人事件とか、KANONとかFateとかみたいなやつ。
あれらも、
「選択肢をあたっていって、最後まで走りぬけられたらクリア」(途中でつっかえたら、バッドエンド)
というゲームですもんね。
ひぐらしやうみねこは、「選択肢のないアドベンチャーゲーム」とかいう言い方をされていて、選択肢がないのにゲームって言えるのか? というような疑問もあるわけですけれど、ユーザーが意識することで、
「選択肢がないけれども、選択肢があるのと同じ」
状態にできる、というのは、考え方としてちょっと素敵かもしれません。
(でもこの手の議論は、いろんなところで既出っぽそうだ)
どうでもいい余談ですが、戦人たちはファミコン世代ですね。ミステリーに詳しい戦人とヱリカあたりは、「ポートピア連続殺人事件」はクリアしたことがありそうでヤス。
---------------☆----------------
ポートピアはコマンド総当たりゲーです。
(いや、コマンド総当たりゲーだと「風の噂に聞いた」ということにしておこうっと……)
コマンド総当たりゲームと、KANONやFateみたいなマルチエンディングゲームの差は、
「バツの選択肢を進んだ先が、行き止まりになってるか、落とし穴になってるか」
の差なので、この場合は本質的な差異ではないとみました。
『うみねこ』の推理は、まちがえてると思ったら、戻って考え直せるわけですから、どっちかというと、ポートピアモデルのほうが近いかもしれないです。
コマンド総当たりゲームは、コマンドを総当たりしたら解けてしまうという構造的欠点を抱えているわけで、それを避けるために製作者はいろんな工夫をこらしているわけですけど、
「そもそも選択肢をユーザーに作らせてしまえばよい」
という割り切りによって、『ひぐらし』『うみねこ』は、この構造的問題をあっさり解決している、そこが斬新なんだ……なんていう評論が一本書けそうですね。そういう感じの冊子が文学フリマかどこかで売ってそうだ。
そうなんです要はそういうことで、無限の可能性に思えてしまうから、そんなの考えきれないよってゲンナリしますけれど、適当にモデル化してあげて、可能性を有限個にしぼってやって、あとはコマンド総当たり。
これで、解けるんじゃないかなあ……という、これは「解法の仮説」です。
当初の話にもどると、要はモデル化することができれば、思考範囲はいくらでも狭められるのだから、赤字を疑うか疑わないかと、推理構築の難易度の高低は、必ずしも関係あるとはいえない。信じたいか信じたくないかは、実はほとんど「趣味の問題」なんじゃないかなー、というのが、わたし的なフィーリングです。趣味というか、「気持ちの問題」というか。
さらなる余談。いまウィキペディアにあたってみたところ、ファミコン版のポートピアが1985年発売。ドラクエ1の発売が1986年5月でした。六軒島連続殺人事件は、ドラクエブームに火が点いたちょうどそのころに発生したのですね。そういえばあれも、鍵をもとめてさまようゲームだけれど……。
---------------☆----------------
間が空いてしまったけれど、アドベンチャーゲーム理論、トロッコモデル解法説の補遺をちょっとだけしていいですか?
この話に関連して、
「このことがちょっと広く理解してもらえるといいなあ(別に賛同はされなくても)」
と、思っていることをちょうど都合良く語れるのです。
例によって便宜上藤井ねいのさん宛てですが、不特定多数の聴衆にむけて、ジェネラルな話をしている、という受け取り方をしていただけると、わたしはシアワセな気分です。
このことなんですが、これって、
「何がベストで何がトゥルーで何がグッドで何がバッドなのか、を決める権利は作者にある」(作中に定義されているものである)
と思うから、発生する問題ですね。
でも、今のこの話って、
「ありもしない選択肢を、ユーザーが勝手に作って、勝手に選んでいって、その結果、ある結論にたどり着いてしまってもよい」
という設定のうえでのお話なのでした。
だから、たどりついたエンディングも、その延長上にあると考え、
「きっとこれがベストエンディングである」
と、ユーザーが勝手に決めてしまえば良い。
と思っているのです。
選択肢をユーザーが勝手に設定できるのだから、エンディングの価値もユーザーが設定しちゃえばいい。作者が何といおうとも、
「これがわたしのベストエンディングです」
と、言い張っちゃえば良いのではないの? というのが、わたしの常々の考え方なんです。
暴論かしら。
ありもしない選択肢を自分で作る、というゲームプレイにおいては、何が価値あるエンドなのか、という規準も自分が作る。
そんな考え方を採れば、
「これはベストな終わり方なのか?」
「これは正解なのか?」
ということについて、悩む必要は、ほぼなくなります。少なくとも、作者という名の他人におうかがいを立てる必要はなくなる。
天草十三が、とても示唆的なことを言っていまして。
誰にどれだけ(例えば作者に)認められればいいのか? と煩悶するよりは、自分で自分を認めれば良い。何が正解か、と思い悩むのも良いけれど、これが正解だ、と自分で納得して満足するのも良い。
これってそういう話かなと思いまして、こういうことをさらっと言う天草十三は確かにクール。
自分にとって、何が価値あるものなのかは、自分が決めればよい。
月にうさぎの文明がある、という夢に、価値があると思うのなら、誰がなんといおうと自分の中で真実として抱き続ければ良い。
子供たちって、きれいな石を探し集めて、その石を価値あるものとして珍重したり、集めた数を友達に誇ったり、勝手にレートを決めて取引したりするものです。
それは社会的には、ただの石ころですから、価値はゼロですね。
大人たちは、「何だ、その変な石ころは」と言うのです、きっと。
でも子供たちにとっては、それは宝石で、黄金とおなじ価値があるのですね。子供たちは、「こういう石には価値がある」と、自分たちで決めて、大事にしたのです。
石ころを黄金に変える……。
よくよく考えたら、大人たちが珍重している「日本銀行券」とかいう紙っきれだって、なんと「金」との交換が可能なのです。
ハタから冷静に見たら、そんなの、幻想なのです。だって、紙っきれですもの。でも、みんなが、「この紙にはとてもとても価値があるんだ」という幻想を、だいじにだいじに、心に抱いて守り続けているから、その幻想は今もって破られてはいないわけなのです。
つまり彼らも、紙っきれを黄金に変える魔法を使っている……。
ならば。それと同じメカニズムで。
自分の頭の中だけで、勝手にたどりついた、ある一個のエンディングを、
「最も価値のあるエンディング」として、
黄金だと見なしたって良い。
たとえ作者や、周りの誰しもが、
「あなたの後生大事に抱えているものは紙切れと石ころだよ」
と言おうと、それが黄金であることは、決して揺るぎはしない。
誰もが認めなくても、自分には(あなたには)価値があるもの。他人には石ころに見えても、自分にとっては黄金の輝きを放つ、ある結論。
それには、こんな名前が付けられそうですね。――「黄金の真実」。
以上のような暴論により、「たどり着いたエンディング1」は、「ゴールデン・エンディング」であることが確定されました。元は石ころだったかもしれませんが、魔法により、今は黄金になりました。
そんな感じのことを、思っています。
すなわちこれが魔女タウンメモリーの黄金の魔法なのです。
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筆者-初出●Townmemory -(2009/10/11(Sun) 07:24:15)・(2009/10/12(Mon) 22:37:19)・(2009/10/13(Tue) 21:13:06)・(2009/10/27(Tue) 02:21:04)
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=34006,34091,34113,34815&no=0 (ミラー)
[Ep5当時に執筆されました]
●再掲にあたっての筆者注
公式掲示板で、「赤字で嘘っぱちが言える、と主張している人」といえば「Townmemory」というふうに、代表選手のようになりつつあります。望むところです。
赤字でまるっきりの虚偽が言えるのなら、規準がなくて推理のしようがないんじゃないか、という反応は、常にいただいてきました。その疑問に対する回答、というか、「自分はこういう思考モデルをとっていますよ」というのを、一度まとめておきたいな、と思っていました。
ちょうど都合よく、掲示板アクティブユーザーの藤井ねいのさんがその話題を振ってくださったので、これを機会に書き込んでおくことにした次第です。
4つの書き込みを1記事にまとめてお送りします。
文中の引用文(青字)は、藤井ねいのさんの書き込みです。以下に原文のURLを示します。これをもって出典明記とします。
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=33993,34037,34110,34115&no=0 (ミラー)
実際のやりとりを時間軸に沿って読みたい方は、以下のURLからご覧下さい。
http://naderika.com/Cgi/mxisxi_index/link.cgi?bbs=u_No&mode=red&namber=33993,34006,34037,34091,34110,34113,34115,34815,34817&no=0 (ミラー)
本論と関係ない世間話を省略しました。
以下が本文です。
☆
他のところへの影響が大きすぎ・・・特にTownmemoryさんらの赤字主観論(というか、自分再度の都合のいいことなら何でも言える)だと、推理もくみ上げるのが厳しくなるのです。
(藤井ねいの)
ちょうどその件について、考えをまとめていたところなので、便乗するのです。
便宜的に藤井ねいのさん宛てにしますが、不特定多数を相手に一般性の話を語っている、と思っていただけると、ありがたいところです。木のウロに向かってぶつぶつ独り言を言ってる人がいる、というイメージで見ていただくとめやすになるでしょう。
多くのひとが、赤字があやふやなものだったら推理が困難になる、という印象を語っていますけれど、わたしの感覚では逆なんです。
赤字がほんとに全部真実だったらとても推理なんてできないなーという印象なのです。
たぶん、統一感のあるストーリーを構成するのは、自分には無理かも、です。
あくまで一例として、わたしの考え方を挙げるのですが、
赤字を疑いつつの推理というのは、たとえばこういう思考形態なのです。
ep5で、「金蔵はゲーム開始前に死亡している」という赤字があるのに、金蔵と夏妃
がテラスで談笑していた、おかしいではないか、というツカミの謎がありました。
描写と赤字が矛盾をおこしているのです。
戦人はここで、「描写に幻想がまじっている」(つまり描写が嘘である)という解をみちびきましたが、赤字のほうを疑うなら、
「金蔵は生きている。赤字は嘘である」
という解を提出することもできるのです。
(おお、くしくも金蔵生存説ですね)
ここではあえて、わかりやすくするために「嘘」という用語を使いますけれど……
すなわち、描写と赤字とがコンフリクトをおこしていたら、
「描写で嘘がつかれている」
か、
「赤字で嘘がつかれている」
か、
どっちかだ、というように、モデル化することができます。
「赤字が嘘だとしたら、可能性がほとんど無限じゃないか」と思えていたものを、なんと二択にまで収束することができました。
あとは、ひとつひとつの謎に対して、
「この場合は、描写のほうが嘘かな」
「こっちの謎は、たぶん赤字のほうが嘘かな」
というように、配分してあげるのです。
イメージとしては、一本の線路を、列車が走っているようなものです。
線路には、ところどころ分岐点があって、ふたまたにわかれています。
あのー、トロッコアクション映画に出てくる、レバーをギーッって倒して、右か左か切り替えるやつです。さびついててなかなか動かない、このままだと崖っぷちのほうに進んじゃう! みたいなやつです。
たとえば、右ルートは「描写が本当」(赤字が嘘)、左ルートは「赤字が本当」(描写が幻想)だとすると、
謎という名の分岐点を、右・左・右・左……と進んでいき、うまいことゴールまで走りぬける(統一感のあるストーリーが見える)ことができたら、それはひとつの推理が成立したといっていいのじゃないかな、という考え方なのです。
うまくいかなかったら、それは、どっかで分岐点をまちがえているのです。
そして、そのストーリーを持って、ひとつひとつの分岐点をみていくのです。
「赤字が嘘」とした場所は、それは赤字を言った人物が、その嘘をどうしても信じてもらわなきゃ困る立場だった、とみなすことができます。
「描写が幻想」とした場所は、描写をした人物が、その幻想が事実だったらいいなあ、という願望をもっていた、とみなすことができます。
すなわち、プロファイリングが可能となるのです。
プロファイリングができるということは、犯人を、指名できるということなのです。
赤字を規準にして、描写を疑うことができ、描写を規準にして、赤字を疑うことができる。
もしも赤字がなかったら、片目でものを見るようなもので、立体感がでません。つまり、この思考形態でも、実に「赤字は強力なヒント」なのです。
そして、ここを強調したいのですが、
赤字を破りたくない(赤字は真実だと思いたい)のなら、ゴールしたあとで分岐点に立ち戻って、
「赤字を成立させたまま、ここを通る方法はないだろうか」
と考えるのは、まったく自由なのです。
前にもどこかで書いたのですが、
赤字というのは障子紙でできた壁みたいなものなのだから、ひっちゃぶいてゴールしてしまえばよい、ゴールしたあと、破らないでクリアする方法を考えても、ちっとも遅くないのです。
「赤字がウソなんでしょ?」という立場で、推理を構築できたら、そのあとで、
「古戸ヱリカは(万引きの)犯人ではない」
というへりくつを思いつけばいいのです。「考える場所」が明確だから、考えやすいです。
何人かの人に、誤解されているふしがあるのですが、赤字を疑うというのは「赤字は全部嘘」という意味では「ない」のですね。
たとえばわたしは、「赤字破りは、なるべく最小限にしたいな」と思っていて、それで推理を進めています。
できれば全部の赤字を守ってあげたいけれど、それではストーリーとして整合しないから、しかたなく、ところどころ外す。
(特にベアトリーチェの赤は、できるだけ守ってあげたいですよね。ベルンの赤は、盛大に破ってやりたいという欲求にかられるけれども)
自分では、そのスタンスは悪くないと思っています。
すぐれたうそつきさんは、本当のことをいっぱい言って、ほんのすこしうそを言うものです。
「全部嘘」というのは、うそつき村のたとえ話と同じで、「全部本当」と同じ意味になってしまいます。
ということは、赤字はほとんど本当(たまにウソ)という理解なのですね。
だから、基本的には、赤字を規準にして、描写のほうを動かしていけばOK。それでどうしてもうまくいかないときだけ、赤字のほうを動かす。これでいけそうな感じがします。
この意味でも、「赤字は強力なヒント」なわけで、わたしはこれを非常に頼りにしているのです。
実際には、もうちょっと複雑な変数が入ってきますけれど、思考モデルとしては、おおむねこんな感じなのです。わりあい簡単そうに思えてきませんか? ということで、皆様のご参考までに。ごめんくださいませ……。
---------------☆----------------
なるほど、最終地点とそこに至る筋道はたくさんある、しかし無限とまでは言えない、って言う話ですね。たとえば3回分岐があったら、2の3乗、8パターン(ただし、同じ終着点の場合もあるからもっと少ない)以下ってことですね。
(藤井ねいの)
それと、たとえ8パターンの終着点があったとしてもそのうち「つじつまがあう」のはたぶん1コか2コだろう、と推定できますので、末広がりに分岐しているように見えるけれども、実は収束しているはずだろう、という決め打ちなんですね。
これ、書いてからあとで気づいたんですが、この2元モデル、あるいはトロッコ分岐点モデル。
分岐点を「選択肢」と読み替えることで、いわゆる「アドベンチャーゲーム」の構造になりますね。
ポートピア連続殺人事件とか、KANONとかFateとかみたいなやつ。
あれらも、
「選択肢をあたっていって、最後まで走りぬけられたらクリア」(途中でつっかえたら、バッドエンド)
というゲームですもんね。
ひぐらしやうみねこは、「選択肢のないアドベンチャーゲーム」とかいう言い方をされていて、選択肢がないのにゲームって言えるのか? というような疑問もあるわけですけれど、ユーザーが意識することで、
「選択肢がないけれども、選択肢があるのと同じ」
状態にできる、というのは、考え方としてちょっと素敵かもしれません。
(でもこの手の議論は、いろんなところで既出っぽそうだ)
どうでもいい余談ですが、戦人たちはファミコン世代ですね。ミステリーに詳しい戦人とヱリカあたりは、「ポートピア連続殺人事件」はクリアしたことがありそうでヤス。
---------------☆----------------
ポートピアもそうでしたっけ?
コマンド総当たりゲームだったような気もするのですが、気のせいかな?20年以上前の話ですし。
(藤井ねいの)
ポートピアはコマンド総当たりゲーです。
(いや、コマンド総当たりゲーだと「風の噂に聞いた」ということにしておこうっと……)
コマンド総当たりゲームと、KANONやFateみたいなマルチエンディングゲームの差は、
「バツの選択肢を進んだ先が、行き止まりになってるか、落とし穴になってるか」
の差なので、この場合は本質的な差異ではないとみました。
『うみねこ』の推理は、まちがえてると思ったら、戻って考え直せるわけですから、どっちかというと、ポートピアモデルのほうが近いかもしれないです。
コマンド総当たりゲームは、コマンドを総当たりしたら解けてしまうという構造的欠点を抱えているわけで、それを避けるために製作者はいろんな工夫をこらしているわけですけど、
「そもそも選択肢をユーザーに作らせてしまえばよい」
という割り切りによって、『ひぐらし』『うみねこ』は、この構造的問題をあっさり解決している、そこが斬新なんだ……なんていう評論が一本書けそうですね。そういう感じの冊子が文学フリマかどこかで売ってそうだ。
ともあれ、いわゆる「アドベンチャーゲーム」であれば、マルチエンディングといいつつも、結局は選択肢の数だけ広がっているわけではなく、いくつかに帰着するわけですから、これも「有限」ですよね。
(藤井ねいの)
そうなんです要はそういうことで、無限の可能性に思えてしまうから、そんなの考えきれないよってゲンナリしますけれど、適当にモデル化してあげて、可能性を有限個にしぼってやって、あとはコマンド総当たり。
これで、解けるんじゃないかなあ……という、これは「解法の仮説」です。
当初の話にもどると、要はモデル化することができれば、思考範囲はいくらでも狭められるのだから、赤字を疑うか疑わないかと、推理構築の難易度の高低は、必ずしも関係あるとはいえない。信じたいか信じたくないかは、実はほとんど「趣味の問題」なんじゃないかなー、というのが、わたし的なフィーリングです。趣味というか、「気持ちの問題」というか。
さらなる余談。いまウィキペディアにあたってみたところ、ファミコン版のポートピアが1985年発売。ドラクエ1の発売が1986年5月でした。六軒島連続殺人事件は、ドラクエブームに火が点いたちょうどそのころに発生したのですね。そういえばあれも、鍵をもとめてさまようゲームだけれど……。
---------------☆----------------
間が空いてしまったけれど、アドベンチャーゲーム理論、トロッコモデル解法説の補遺をちょっとだけしていいですか?
この話に関連して、
「このことがちょっと広く理解してもらえるといいなあ(別に賛同はされなくても)」
と、思っていることをちょうど都合良く語れるのです。
例によって便宜上藤井ねいのさん宛てですが、不特定多数の聴衆にむけて、ジェネラルな話をしている、という受け取り方をしていただけると、わたしはシアワセな気分です。
問題は、たどり着いたエンディング1が、ベストエンドかどうか全くわからんところですね(苦笑)
(藤井ねいの)
このことなんですが、これって、
「何がベストで何がトゥルーで何がグッドで何がバッドなのか、を決める権利は作者にある」(作中に定義されているものである)
と思うから、発生する問題ですね。
でも、今のこの話って、
「ありもしない選択肢を、ユーザーが勝手に作って、勝手に選んでいって、その結果、ある結論にたどり着いてしまってもよい」
という設定のうえでのお話なのでした。
だから、たどりついたエンディングも、その延長上にあると考え、
「きっとこれがベストエンディングである」
と、ユーザーが勝手に決めてしまえば良い。
と思っているのです。
選択肢をユーザーが勝手に設定できるのだから、エンディングの価値もユーザーが設定しちゃえばいい。作者が何といおうとも、
「これがわたしのベストエンディングです」
と、言い張っちゃえば良いのではないの? というのが、わたしの常々の考え方なんです。
暴論かしら。
ありもしない選択肢を自分で作る、というゲームプレイにおいては、何が価値あるエンドなのか、という規準も自分が作る。
そんな考え方を採れば、
「これはベストな終わり方なのか?」
「これは正解なのか?」
ということについて、悩む必要は、ほぼなくなります。少なくとも、作者という名の他人におうかがいを立てる必要はなくなる。
天草十三が、とても示唆的なことを言っていまして。
「俺が言いたいのは、自己満足、大いに結構ってことなんです。誰に褒められたって、それを納得できなきゃ意味がない。……逆を返しゃ、誰に褒められなくったって、自分が納得できりゃそれでいいってことです」
「吾唯(われただ)足るを知る、っていうヤツですわ」
(『うみねこのなく頃に Episode4』より)
誰にどれだけ(例えば作者に)認められればいいのか? と煩悶するよりは、自分で自分を認めれば良い。何が正解か、と思い悩むのも良いけれど、これが正解だ、と自分で納得して満足するのも良い。
これってそういう話かなと思いまして、こういうことをさらっと言う天草十三は確かにクール。
自分にとって、何が価値あるものなのかは、自分が決めればよい。
月にうさぎの文明がある、という夢に、価値があると思うのなら、誰がなんといおうと自分の中で真実として抱き続ければ良い。
子供たちって、きれいな石を探し集めて、その石を価値あるものとして珍重したり、集めた数を友達に誇ったり、勝手にレートを決めて取引したりするものです。
それは社会的には、ただの石ころですから、価値はゼロですね。
大人たちは、「何だ、その変な石ころは」と言うのです、きっと。
でも子供たちにとっては、それは宝石で、黄金とおなじ価値があるのですね。子供たちは、「こういう石には価値がある」と、自分たちで決めて、大事にしたのです。
石ころを黄金に変える……。
よくよく考えたら、大人たちが珍重している「日本銀行券」とかいう紙っきれだって、なんと「金」との交換が可能なのです。
ハタから冷静に見たら、そんなの、幻想なのです。だって、紙っきれですもの。でも、みんなが、「この紙にはとてもとても価値があるんだ」という幻想を、だいじにだいじに、心に抱いて守り続けているから、その幻想は今もって破られてはいないわけなのです。
つまり彼らも、紙っきれを黄金に変える魔法を使っている……。
ならば。それと同じメカニズムで。
自分の頭の中だけで、勝手にたどりついた、ある一個のエンディングを、
「最も価値のあるエンディング」として、
黄金だと見なしたって良い。
たとえ作者や、周りの誰しもが、
「あなたの後生大事に抱えているものは紙切れと石ころだよ」
と言おうと、それが黄金であることは、決して揺るぎはしない。
誰もが認めなくても、自分には(あなたには)価値があるもの。他人には石ころに見えても、自分にとっては黄金の輝きを放つ、ある結論。
それには、こんな名前が付けられそうですね。――「黄金の真実」。
以上のような暴論により、「たどり着いたエンディング1」は、「ゴールデン・エンディング」であることが確定されました。元は石ころだったかもしれませんが、魔法により、今は黄金になりました。
そんな感じのことを、思っています。
すなわちこれが魔女タウンメモリーの黄金の魔法なのです。
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この記事で確信しましたけど、あなた人の推理パクってません?
赤字といい、今回のエンディングの話といい、ずっと前から言ってて、うみねこの物語の謎を一つに纏めている人がSNSにいます。
一応その人にメール送っておきました。
このブログに書いてあることは、基本的にわたしの頭の中から出てきたことです。もちろん、ネット上でいろいろな推理を読んではいますが、SNS(とはどこでしょうか?)での情報収集はしたことがないので、そこから影響を受けるということはありません。
他人の推理を採用するということはあります(たとえば台湾説など)。が、その場合は自分の推理でないことを明記しています。
ですので、どこに通報していただいても、かまいません。
人間は、似たようなものを二つ見た場合、最初に見たものをオリジナル、あとに見たものをコピーだと思いこむ傾向があります。その可能性は検討されましたか? わたしの書き込みは、ほとんどが初出の日付と時間を明記してありますので、参考にして下さい(公式掲示板のタイムスタンプをユーザーがいじることはできません)。
ところで、あなたが想定しておられる「SNSの人」とは、どなたでしょうか。どうぞ、URLを提示して下さい。
現状では、わたしのこのブログが「パクリ」かどうかを、わたしも、第三者も、検証できません。
Unknownさんは、現状、検証不可能な状態でわたしを告発しています。疑惑をかけておいて、その疑惑が正しいかどうかを確かめるすべを与えないというのは、フェアではありません。
「SNSで謎をまとめている人」にとってもフェアではないことです。
別に疑うことを悪いことだとは言わないが、嫌な思いをする人を最小限に抑えるようにするべき。特に簡単に書き込めるネットでは。
このブログを応援してる人もいるということだけ書いとく。でわ
ほんとにありがとうございます。
わたしがいま感じているこの「有難い」という気持ちを、形にして取り出してお見せできたらいいのに。
竜騎士さんがインタビューで再三言及してこられた、「何を信じるのか」という問いかけが、急に重く感じられています。
逆にこの考察と同じまたは似通った考察があるということは、それだけ竜騎士さんが事前に用意していたかもしれない解答に近い考察なのかもしれませんよ?
竜騎士さんの描いた展開がネットで支持された考察通りだったぜ!ってことは雛巳沢症候群から由来しているらしい考察などをわざわざ劇中に出してきた時点で確率は少ないのでしょうが、仮にどちらかの考察が有名だとしても何人かが同じ考察に行き着いていたと仮定するならば、それはまさに「真実」たりうる考察になるのでは?