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ロッキーと信疑一如

2010年09月02日 | 仏教
【今日の仏語】は『信疑一如』です。




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仏教に『信疑一如』という言葉があります。





【信ずる】と【疑う】ということは、一つの如し、



という意味です。





普通は、【信ずる】と【疑う】は、



対句と思われているでしょう。





「私はあなたを信ずる」



と言った場合、



「あなたを疑っていない」



と意思表示しているのですし、



「どうもお前のその言動は疑わしいな。」



といった場合は、



「お前のこと信じられない」



ということでしょう。





しかし、仏教では、




【信ずる】と【疑う】は「一如」と説かれます。





なぜでしょう。





私達が「信ずる」のは、




「疑いがあるから」です。









「私の夫は男と信ずる」



という奥さんはいないでしょう。





明らかだからです。





時々歌舞伎町など歩きますと、



男か女かわからない人が歩いています。





「あれは女だと信じたい。」





こういう発言の裏には、



「ひょっとしたら、男かも」



という疑いがあるからです。





あるいは、



「昨日の天気は晴れだと信ずる」



という人はないでしょう。





今日のことはハッキリしているからです。





「明日の天気は晴れだと信ずる。」



これはよく聞く言葉です。





天気予報では言われてはいても



明日の天気ははっきりしないからです。





あまりにも明らかな時に



私達は知っているといいます。





「今朝の天気は晴れだと知っている。」



「日本の首都は東京と知っている。」



疑う余地のないことは、「知っている」です。





『ロッキー』というボクシングの映画があります。








最強の挑戦者と、老体をむちうって戦うロッキーに



親友アポロが、体をゆさぶって涙ながらに言います。





「おれはお前を信じているぞ。




 お前が勝つことをオレは信じているぞ。」




と叫びます。





これ、相当疑っているということになりますね。





ボクシング始めたばかりの弱い研修生を相手に



スパーリングする時に、
 
「お前の勝利を信じているぞ」と力みません。





「2ラウンドくらい遊んでやれ」とか、



「自信つけさせてやってくれ」というものでしょう。





「信じている」と力説するのは、




「今回は負けるかもしれない」




という疑いがわきあがってくるのを、




押さえつけようと力んでいる心なのではないでしょうか。










そうなると、「私は神を信じます」というのは、




「神を疑わないように、疑わないように努めています。」




と表明していることになります。







本当の幸せを獲得したならば



「真に知んぬ」(教行信証)




「今こそ明らかに知られたり」(御文章)



と叫ばずにおれないでしょう。





歎異抄ならば、それを『摂取不捨の利益』と説かれています。



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