二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

久間事件・戦後を問い直す(4)

2007-07-08 05:27:20 | Weblog
久間章生防衛相が千葉県柏市の麗沢大学で講演した6/30に、マスコミには直ちに、問題視した形で発言が取り上げられ、語句についての追求の文章や発言が数多く出てきた。

発言の流れの中で使われた単語や、文章の一部だけ、を切り離して批判の対象にすることは、マスコミの得意芸であり、これまで、どれだけ多くの人がその被害に逢い、犠牲になったか分らない。

現実に講演の録画を見るとか、録音テープを聴くとか、をしていない身には、良く分からない事が多い。
その辺に気をつけないといけないと思っていると、
(毎日新聞7月1日)に発言要旨として纏めたものが掲載されて、初めて、概要が理解できた。
これだって、講演の速記録ではないから、ひずみが有るかも知れないが、一応、大筋の流れは摑める。
それを更に要約すると、次のようなことになる。



★ ★  ★ ★  ★ ★ ★ ★

[防衛相発言要旨の要約]
   (久間章生防衛相が麗沢大学で講演した内容)

『米国は日本が負けると分かっているのに、ソ連に参戦してほしくない。 ところがなかなか日本はしぶとい。
しぶといと、ソ連が参戦して、ドイツを(東西)ベルリンで分けたみたいになりかねない。
だから(米国は)日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。
これなら必ず日本も降参し、ソ連の参戦を食い止める事が出来ると言う考えだったが、8月9日に、ソ連が満州その他の侵略を始めた。
幸い8月15日で終戦となり、(日本は)占領されずに済んだが、間違えば北海道まではソ連に取られてしまう。
その意味で、原爆を落とされて長崎は悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったのだ、と言う頭の整理で今、しょうがないなと思っているところだ。
米国を恨む気は無いが、勝ち戦と分かっているときに原爆を使う必要があったかどうか、と言う思いは今でもしているが、国際情勢や戦後の(日本の)占領を考えると、そういうことも選択肢としては、戦争になった場合はあり得るのかなと(思う。)』

★ ★  ★ ★  ★ ★ ★ ★

なるほど、これでは、狙い撃ちにされたらひとたまりもない、というのが、最初の感想である。
発言が不用意であり、表現が不注意であり、隙だらけである。

私は久間章生氏という人物を全く知らないので、断定的なことは言えないが、唯、これだけの文章から推測すると、
少なくともこれを奇禍として噛み付いている、多くのマスコミ人よりは、勉強している事が感じられた。

「米国が原子爆弾を投下したことで終戦が早まった。間違えると北海道までソ連に占領されていた。」
「あれで戦争が終わったのだ、と言う頭の整理で」
「今、しょうがないなと思っている」
「そういうことも選択肢としては、戦争の場合はあり得るのかなと(思う。)」

この辺りの内容だが、精密な表現をして、揚げ足を取られないようにすると、聴き手には非常に分り難くなる。
講演などでは、相手を見てこの手の乱暴な表現になる、のが仕方ない。
 また、其処がマスコミの狙い処になる。

私が前回の記事で詳細に書いた、歴史経過に照らして、
この発言では、誤りもあり、不正確な箇所もある。
だが、大筋で言いたいことの方向性は分る。


久間章生氏という人物が、何処まで心得て、計算して、モノを言ったのか、或いは些か自身がお粗末な為こうした発言をしたのかは、私は分らない。

只、批判する側の言い分として伝えられるところを見ると、
こちら側は明らかに不勉強、乃至は不誠実である。




現在の知識を元に、モノを言うのは、極めて安直である。
しかし、1945/8/15の時点で、原子爆弾なるものを知っている人間がどれだけ居たであろうか。
竹槍でB-29爆撃機を落せ、などといっていた日本国内に、原爆についての僅かな知識でも持つ者は、多く見ても100人いなかっただろう。
原爆の破壊力、その怖ろしさを知る現代人が、これから先の人類の歩みの中でどうしなければならないかを議論する事は非常に大切である。
が、その標準で当時の人の挙動を批判するのは、気をつけねばならない。

また、殺される一人の人間にとっては、30万人の中の一人として殺されるのも、戦場で一人だけの死者として殺されるのも、同じである。
数が違う、というのは、人ごとと思っている、想像力の不確かな人間である。
原爆以外で死ぬ者もいることを思うと、原爆投下の決定者よりも戦争開始の決定者の方が罪が深い。

戦争を開始したA級戦犯には甘い(小泉方式)のに、終戦にもって行く方法論については厳しいのも妙である。
日米が闘った事さえ知らない人間が40%近く居る現在である。
久間発言を批判する人々の多くが、1945時点の原爆の認識はおろか、当時の国際関係も国内情勢も、全く理解していないのを見ても、私は今更驚かない。
マスコミ人がバカを言っても、毎度の事である。


唯、私が許し難く思うのは、
その辺は充分に心得ている筈の政治家達が、
  党利党略のために利用している事。

これでは、世の中は何時まで経っても良くならない。


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『風にそよぐ葦』を書いた石川達三は、
「葦をなぎ倒した風」を軍部ではなく、大衆世論だと考えていた。
今回の世論を見ていて、私は、
 人間集団というものは変わらないなあ、と思う。


私は今回の事件についての幾つかのブログ記事について、それに対する、やや詳細な議論を纏めてきた。
が、考えて見ると、バカらしくなって、公表することは止める。


嘗て、私の「日本海海戦100周年」の記事に難癖を付けてきた京大教授のように、こちらの記事を読みもしないで発言するようなバカは、最初から相手にしない。
平素、従来からの交流で、充分に論理思考の出来る人と見極めの付いた相手に限定するが、それでも、どうせ、一度では納得しないであろうから、何度かの往復の討論になる。
そのようにして、膨大な時間とエネルギーを費消して、その人物の過ちに気付かせたところで、一億人の中の一人である。
世の中を変える事にはならない。

伝統文化と常識の変遷(1) 、に佐久間氏が書いている、Y君の発想、の正しさを30年掛けて上司が納得しても、その人一人だけ、のことである。 人類の進歩に有効なわけでも、Y君の名誉にもならない。

「日本海海戦100周年」の記事に難癖を付けてきた人物は、京大教授という社会的にはインテレクチュアルエリートと見られる人物であった。
余りの馬鹿馬鹿しさに私が放置したら、佐久間氏が叩いてくれた。
然し、それに対して先方は「御免なさい」でもない。
発言の訂正等、全くしない。
社会的地位の高い人物でもこの程度である。
一般の民間人の一人の思い違いを正したところで、どうなるものでもない。

まして、私が別に好きでもない、久間氏や安倍総理に代わって、その発言の注釈をしてあげても、何一つ得るところもない。

只、何年後かにもっと理性的な議論が行なえるような環境になった場合のために、一応今回の発言要旨を記録して資料として残しておく。

然し、その時が来ても、今回バカを言っている連中は謝らないで何を言うかは見えている。
あの時代のことは「一億総懺悔」すべきである、と言うだろうことは、歴史を見れば分る。

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