二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

昭和の青春(1)

2008-05-14 21:32:24 | Weblog
『わが人生の歌がたりー昭和の青春』(角川書店)、を刊行した五木寛之氏の、思いを語る記事を目にした。
毎日新聞2008/4/21日の「文化欄」“語る”、である。

五木氏の語りでは、自分の作品歌謡曲の中から
自身で選んだ「いい曲」と、世評を勝ち得た曲とは、
   必ずしも一致するとは限らない。

自身で選ぶ曲に、例えば、“有楽町で逢いましょう”のように懐メロ定番となったものも当然あるけれど、世間では忘れられているものもある、という。

その様なことから、思考を深化させていくうちに、五木氏には「歴史への懐疑の念が湧いて」きて、
「定番化している歴史は、
   本当は信用できないのではないか」

とまで思うようになった、と述べている。

これと同様な感想を、私は他の人の回顧録でも幾つか読んだ記憶がある。
例えば、世界的な著名人の伝記を読んでも、また近頃流行の自費出版による個人史などでも、
ご本人の自負する業績は、必ずしも社会的な評価とは一致しないのを目にする。

私のブログでも、
  ▲戦争を知らないわが孫に(2)
  ▲久間事件・戦後を問い直す(2)
に「定番化している歴史」への疑いを述べたし、
  ▲久間事件・(9)・海外の反応
には、世評の危うさ、世間に定着していく歴史評価の危うさ、を書いた。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

また、五木氏の言葉で、
「流れ行く歌、はやりもの、の流行歌が、何十年も生き残っているのに、一世を風靡した文学者の本で今は見当たらないものがあるのは、皮肉」
というのも、共感出来る感想である。
そして五木氏は
『過去の中に、自分の忘れてきた大事なものを見出すのです』
と言っている。


最近、佐久間氏が
  ▲地球温暖化問題と日本
で、日本の国際的評価を心配し、
  ▲人間の評価:(8)春の叙勲
では、「反社会学講座」という刺激的なホームページを紹介して、日本の現状を憂いている。
其処には、自分等の世代の活動した時代は、現在の世相と違っていた、と、後を振返っている気持ちが窺える。  五木氏と同じで、
『過去の中に、自分の忘れてきた大事なものを見出す』
のであろう。

キャズ君が、またもY君のドジをからかった記事:
  ▲わが青春に悔あり
を書いているのは、彼の本音は、Y君のドジ、(わが青春に悔あり)、や、原節子の名演、を口実に、黒澤明監督の名作映画、「わが青春に悔なし」の話を書いて、自身の青春の想いを胸に蘇らせたかったものと推量する。

若い頃に友人達と共有した価値観をもって頑張っていた頃に大事に思っていたものが、現在の世相では全く無視されているので、あのような記事を書きたくなったのであろう。
キャズ君が、自身の青春の想いを胸に蘇らせたときには、あの頃の友人たちの共通した情感があの原節子の演じた令嬢の生きざまに有ったのを書きたかったのだろう。

そして、キャズ君のこのブログ記事にコメントを入れているAlps氏の文章は、このことを直接に述べている。

この人達の気持ちをその様に推し量っていた折しも、五木寛之氏の思いを語る記事を目にして、夫々の守備範囲が異なっても、
この年代の人達の共通した思い
がそうなのだ、と納得した。

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

「過去の中に自分の忘れてきた大事なものをみいだす」とか、
「成長とか、開発でなく、質のいい文化をつくる」のを大切にしたいという思いは、
今引き合いに出した、五木氏、佐久間氏、キャズ君、Alps氏など以外にも、最近見た何人かの人達の言葉に篭められていたのが、記憶に残る。

例えば、平山郁夫氏の「叙情性こそが、日本人のアイデンテテイに繋がる」、もそうである。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。