二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

久間事件・戦後を問い直す(3b)

2007-07-07 07:34:35 | Weblog
日本大学・紅野謙介教授が、1946/7に永井龍男の書いた「竹薮の前」を読んで、戦時中の人々はこんな事まで話していたのか、と驚いている話が、2007/6/26毎日新聞に載っている。
敗戦の数ヶ月前の湘南の町で、その少し前のドイツの敗北の状況に付いての会話が行なわれていた描写、を文中に読んでの驚きである。

湘南は、文化圏だから、有り得る話かも知れない。 しかし、私共の郷里の田舎でも、★Y君の遠州旅行、に書いてあるように、「1945年の8月11日頃には既に、日本が米国に降伏する交渉が纏まりかけている事を、この町の何人かは知っていた」、のであった。
そのために、8月13日に艦載機攻撃を受けた時には、消火活動もせずに山中に逃げ込んだ。
後2日で戦争終結なのに、こんなところで命を落としてはつまらない、と考えたのであった。
若しも、紅野謙介教授がこのことを知ったら、更に百倍も驚いたに違いない。

紅野謙介教授が驚くのは、その事が、当時の一般大衆には常識外のことなのを、日本近代文学を専門とし、当時の世相には詳しい筈の紅野氏には、理解出来るからである。

永井龍男の書いた「状況」が、一般大衆には(常識外で)理解し難い、という認識は、ある年配の人々ならば、そう感じるであろう。
もっと若い年代の人は、逆に、「ああ、そうなの」とすんなりと受け入れて、別段驚いたりしないかも知れない。

これ等の話を、「戦時中の人々がこんな事まで、・・・→・・・理解し難い」、と感じる人は、戦争中の社会に、ある程度の知識を持つ人である。
それが無い若い人、メデイアが雑情報を猛然と垂れ流す現代社会しか知らない人は、別に驚きもしないであろう。

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毎日新聞論説委員が1945/8/10 の時点で既に、終戦が決まったとの情報を入手していた、との話が2005/8/7の毎日新聞に掲載されている。
上記のとおり、ほぼ同時期8/11に、私の田舎の村でも同様な情報を得ていた。
それは決して、8/15の終戦を保障するものではなかった。

田舎の一民間人にさえもその様な情報が漏れる状況の中で、尚且つ、8/15の午前まで実際の終戦の行方が不確実、であったのが現実である。
特攻隊員だった私の親友は8/16に、なお、一旦飛行機で飛び立った。 彼の母も姉も、復員後の彼をかなり永い間、腫れ物に触るように扱っていた。

資料に依って歴史的事実の断片が判明してくる事と、
それを正しく理解する事との間には、可也大きな距離があるのである。

原爆を使われても未だ、日本は降伏するに決まっていたのではなかった。
物の弾みでどの様なことが起るか分らぬ中で、天皇でさえ決死の覚悟で、終戦に持って行ったのだ。
『風にそよぐ葦』を書いた石川達三は「葦をなぎ倒した風」を軍部ではなく、大衆世論だと考えていた。


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広島原爆60周年(3) 、に書いてあることを、補足する。

日本側に一億玉砕に持って行こうという戦争継続派と、和平を企む一群の人達が居るのと同様に、
米国でも原爆を実験しようと考えるグループと、それに反対するグループがあった。
決して単純な模式では表せない。


1945の日本だけでなく、何時の時代でも、世界の何処ででも、戦争終結時に双方の陣営内部での不統一、ゴタゴタは存在する。
現在だって、パレスチナでも、イランでも同様である。
1945の中国でも、北朝鮮でも、日本に向かう引揚げ避難民を襲撃する連中も居たが、また、食料を恵んだり宿を与えたりして助けた現地人もいた。
ワンパターンで、あの国の人間はこうだ、などと気楽には言えないのが、当時を知る人間である。

1945,に、米国中枢に在って、その原爆使用を避けようとするグループのギリギリの努力が「ハイゼンベルグの手紙」であった。

20世紀も末になって、初めて、(変人キャズ氏と同一の情報源、M大先生から聞いて)、この話を知ったY君は、原爆投下の経緯を当時報じていたA新聞の記事を補完する意味で、情報提供をしようとして、A新聞社に電話した。

新聞社の交換台は、広報係に電話を回した。
しかしA社で電話を受けた広報係の男は情報の重大さを理解出来なかった。
理解出来なかった広報係は大層失礼な態度で対応した。
彼は馬鹿馬鹿しくなって、A社への情報提供を止めることにした。


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実は彼は少し前に専門的に知り得た、他の重大情報をB社に提供しようと考えて、B新聞に連載の「科学◎◎」という欄を担当している記者に連絡を取ろうとしたことがあった。
 それには経緯があった。

現在は大物ジャーナリストとして高名なK氏が嘗て昔、B社の記者であった時代に、Y君の関係の極秘情報を得ようとして夜討ちを掛けた事が有った。
その時Y君は旧知の間柄であったのに、M氏への情報提供を断ったことに、その後も申訳なく感じ続けていた。

それで今回は面識も無いが、以前と同一テーマなるが故に、B社の担当者に連絡を試みたのであった。
その時、「科学◎◎」欄担当の女性記者の熱意の無さに呆れて、情報提供を止めたのであった。

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その様な諸々の経緯があって、
M大先生からこの話を聞いてY君は、ハイゼンベルグの手紙の件は、A社への連絡を考えたのであった。


確かに新聞社に垂れ込まれる情報らしきものの99.99%は意図的なガセネタであったり、不確実なものであろう。
が。10万~100万個のガラクタ石の内から光り輝く一個の宝石を見出すのが、新聞記者の、仕事であろう。
今迄に接した99万個の情報が無価値であっても、次の一個はダイアかもしれない。

Y君自身はそれを取上げて貰っても、個人的には何の利益も無い。
 ただ真実を世間に伝えようとしただけであったが、馬鹿らしくなって止めた。 Y君も変人キャズ氏と全く同じ体験をした訳である。

私も、新聞、ラヂオ、雑誌など多様な媒体の取材者にも、何人かと会っている。
昔の記者は可也荒っぽい人も居たがこちらの話を熱心に良く聞いて理解した。
最近の記者は興味の範囲の幅が極めて狭くて、自分の興味範囲を外れた箇所には、全く感度が無い。
恐らく、日本人全体の幼児化の中で、この分野もそうなったのだと思うが、残念な事である。

B社時代のK記者は友人であるY君に夜討ちを掛けたが、現在のB社は逆にY君が持ち込んだ情報を無視した。

昔は政治家は井戸・塀と言われたのが、現在は収入の良い職業の一つに変質し、
  志でなく打算を表面に出して愧じなくなっている。
本音は兎も角として、建て前だけでも繕おう、という所さえ無くなっている。


TVも新聞も現在は、単に収入の良い職業の一つ、に変質している。
こうして、マスコミ人種も全て、職業意識がゼロになり、これ等に較べて遥かに経済的に低い処遇の中での、ボランテイアや、勤務医、介護士、専業主婦などの自己犠牲の上で社会が辛うじて動いてきたのが、20世紀後半の日本であった。


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1 コメント

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マスメデイアに公正な報道を望む (東郷 幹夫)
2007-07-12 04:28:52
二人のピアニスト様
貴殿の記事「久間事件・戦後を問い直す(3b)」http://blog.goo.ne.jp/gookyaz/e/9ff93bca5e60d636ae365f505d79f27f
を小生の記事にTBしていただき、有難うございました。1945に、米国中枢に、原爆投下を避けようとして必死の努力をしたグループがあったのに、それがトルーマン一派による政治の力によって圧殺されてしまったことは、人類史上極めて残念なことです。米国は人類史上で人道上の稀有の大罪を犯したわけですが、その裏にそれに反対する米国の良心があったことを示す「ハイゼンベルグの手紙」は貴重ですね。
M先生からこの情報を入手されたY氏が、その情報を新聞に伝えようとされたのに、新聞の情報入手への対応が悪く、旨く行かなかったそうですが、これは矢張り新聞に正しい情報を伝えようとする正義感のようなものが欠けけているためだったと思われます。
最近の新聞には、人のあら捜しばかりをやっており、最初は誉めそやしていたのに、少し旗色が悪くなると、よってたかって苛め抜く、全体を見ないで言葉の端々の落ち度を探し回って、一寸したミスを誇大に宣伝するような嫌いがあります。またニュースの対象者にも新聞の好き嫌いがあって、嫌いな相手は、正しかろうと何であろうと、よってたかって悪に仕立て上げてしまうような所があります。最近はTVもそういう傾向がありますね。マスメデイアはもっと公正であって欲しいと思います。
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