二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

戦争を知らないわが孫に(2)

2008-03-12 07:26:00 | 歴史
1945/8までの日本には、自分の生命を犠牲にして
          部下の生命を救おうとした上司が居た事を、
  我々は語り継いでいかなければならない、と前記事に書いた。

あの時代を生きた人間は、自分では真似は出来なくても、
          その様な人が居る事を知っている。
その後の世代の人達には、
          その様な人の存在は、信じられないと思う。

多少赴きは異なるが、大西滝次郎中将も、そうであろう。
前記の”東条英機暗殺の夏”には、無謀な戦争を早く終結させようと
   尽力する人達が大西中将を仲間に入れようと、説得するのだが
   功を奏さなくて、些か大西中将を分からず屋のように
   書いている箇所がある。
が、実は違うのではないかという疑問もある。


大西中将と言うと、一般の人は特攻隊の産みの親ということから、
   好戦・乱暴のイメージで見る。 けれども、

実は特攻という非常手段を考え出したのは、
無謀な戦争の継続で、非常に多数の日本人の
生命が失われているのを止めさせるために、
「そんな事までしなければならないのならば、
戦争を止めよう」、と昭和天皇に言って頂く
     のが目的であった、


と言う話が、週間新潮1993.11.25号に可也詳細に載っている。


また、奥宮正武・元海軍中佐・大本営参謀の著書「真実の太平洋戦争」
の186頁に、大西中将が副官に語った言葉として、神風特攻戦法に付いて、
「棺を覆うて定まらず、百年後にも知己を得られないかも知れない」
と言ったと書かれている。

結局、大西中将の目論見は外れ、昭和天皇の反応に失望することになり、
神風特攻隊で2517名の若者の命が失われた。
最近の新聞で知ったのだが、昭和天皇にとって最も大切な事は、
“伊勢神宮に祭られている三種の神器の保全”であった
そうだから、
“多くの日本人の命が失われる”では説得力を持たなかった。
大西中将はその価値観の相違に気付かずに一人芝居を踊った事になる。
中将は終戦の翌日に、割腹自殺したのであった。

尤も大西中将は、「最初の特攻出撃の命令を出した時に自分は死んだ」、
と語っていた話も、上記の週刊新潮誌に載っている。

大西中将が高松宮と終戦の方策に付いて話した時に、高松宮が
和平を実現する手立てを考える時に皇室のことは考えなくて良い、
       と話されたことが残っている。
高松宮も三笠宮も、早期終戦に向けて
   いろいろと運動をされたことは良く知られているし、
最も熱心であった秩父宮は、そのために昭和天皇と
   大層険悪な関係になっていたことも知られている。

結局、天皇家のご兄弟の中で、昭和天皇以外の何方かが
皇位に着いていられたならば、戦争は起こらなかったかも知れないし、
或いは戦争になったとしても、内地の空襲とか原爆の被害に遭う前に
終戦になっていただろう、と思われる。

昭和19年10月19日の台湾沖航空戦の大戦果の「情報があった」ことは事実である。
但し、他の状況から判断して、「その様な情報」を鵜呑みにするか、
     一応の検討を考えるかが、その人の能力である。
日本の近代史では、昭和に入ってからの20年間、
その様な能力の欠如した人に依って、国政の舵取りが
行なわれてきた。
そして、最も象徴的な“誤報を信じる咎め”が形になったのが、
昭和19年の年末2ヶ月であった。


そして、昭和20年2月19日の米軍の硫黄島上陸、
    3月10日の東京大空襲、8月の原爆投下を齎したのだった。


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