■タイプ別スーパー鑑賞ガイド
2)映像を使った芸術を堪能したい―言語文化から映像文化へ。映像は都市のいたる所にあふれ、人々の意識は浸されている。芸術は敢然と、その本質を浮かび上がらせる。
:テーマ別に整序されたこの鑑賞ガイドで、映像関連の作品だけを集めて一項目を設けたのには、それなりの理由がある。それは、映像が数ある表現媒体の中の一つではなく、新しい表現の模範を提起している、つまり現代芸術において、それを代表する特権的な位置にあるように思われるからだ。確かに、映像が巷に溢れる現代社会では、映像を用いた作品はあふれて見える。また現代芸術に映像が多くなるにつれ、それに反対する者も増えてくる。しかし、それぞれ説明の仕方は異なるものの、言語文化が映像文化に道を譲るという歴史的シナリオを力説する媒体論者の言葉を信用するなら、むしろこの現象は当然だと考えた方がよかろう。
ところで、映像自体が持つ特異性を考える時、それ尾を一過性の流行として軽んじる事ができない。例えば、物資と比較した場合の映像の軽やかさは、些末な属性などではなく、世界の存在論的転換を告知する重要な指標のように思われ、また主体と客体の間に挿入される映像の地位は、その両極を吸収して相対化する事で、世界の認識論的な組み替えを予言しているように見える。そこまで根源的な変動を期待しなくとも、映像の可能性は、ハイテクの驚異的な発達にともなって飛躍的に増大し、未知で新規な素材で観客の目を絶えず魅了し続けるだろう。
このように映像が一般に抵抗なく受け入れられるのは、大衆伝達媒体の力による所が大きい、とりわけTVは、20世紀の後半瞬く間に大衆社会に浸透した。実はそれに並行して、芸術の世界で映像芸術の実験的関係を強いられる事になった。媒体として人々に受容されるためには、TVの絶対的な影響力を頼らなくてはならないが、それが流布する表象の通俗性に対しては反発するという両面的な感情に呪縛されるからだ。
少数の例外を除けば、90年代に到るまでTVの発信する映像を借用するのは、大衆伝達媒体の不当な粗暴さを批判する場合に限られた。90年代、芸術の世俗的映像に対する視点は変化してくる。種々の映像媒体の攻勢に、芸術家も圧倒されたのようだった。ヒッチコック監督の映画を引用したダクラス・ゴードンの名前を出すまでもなく、映像の表現の強度を反省的に認めるようになったのだ。90年代以降、映像作品は、その力を最大限に引き出す増幅する方向で映像を活用する事になった。それは、単一の映像ばかりではなく、二重や三重の映像を対比的に並置したり、他の非映像的要素と共に作品にはめ込んだり、三次元の空間内でスクリーンを複合的に組み合わせ、映像環境と呼ぶべき空間を構築したのである。
【映像理解のための三つの構成】
トリエンナーレの参加芸術家の作品を取り上げ、最近の映像の内容に関していくつかの目立った傾向に整理してみよう。
≪実存的な生のあり方を垣間見せる作品―その他者の不透明性と主体の存在証明の探求を通して、実存が透かし見える≫
≪独特のユーモアを漂わす作品―その帰結する事は、強さと弱さの全て含めて人間の存在を肯定する事である≫
≪ポスト植民化の風景へ想像的な促す作品ーそれらは、国際的な関係(交流/交通)に置かれた地方的な文化状況について、人々の意識を覚醒させる事を目指している≫