「神社参拝」受諾へのみちのり ――1932年上智大学靖国神社事件―― ナカイ, K. W.(Kate Wildman Nakai 上智大学) 訳:冨澤宣太郎(東京大学大学院)
1932(昭和7)年5月5日 カトリック信徒であった3人の学生が参拝への参加を見送った。翌日、この一件について将校から問い質されると、上智大学学長へルマン・ホフマン(Hermann Hoffmann 1864-1937)は、確かに教会は信徒に神社への参拝を禁じており、そこには靖国神社、伊勢神宮、 明治神宮も含まれることを認めた。
神社に対して距離を置くのと並行して、日本政府は世俗国家を目指す方向に舵を切り、こ れは1889(明治22)年の大日本帝国憲法公布へ結実する。憲法編纂の最終責任者であった伊藤博文(1841-1909)は、国教を採用すべきであるという、ルドルフ・フォン・グナイスト(Rudolf von Gneist 1816-1895)ら外国人顧問の提案――グナイストは国教として仏教を想定 していた――を容れなかった。
神社・宗教問題に関する議論は、1930(昭和5)年から1933(昭和8)年にかけて、時に白熱しつつも噛み合わないまま延々と続き、結果として、神社政策に関わる人々や、調査会委員の意見がいかに多様であり、また異なっているかを示すものとなった19。
教会指導部は、当初は、神社を単体の問題としては特に認識せず、カトリック信徒にとって迷信として禁じられた日本の伝統的な宗教行為の一部分としてのみ捉えていた。代理区や後には司教区がそれぞれ発行した初期の教理問答書の中には、第一戒律によって禁じられた罪として、「偽神、仏陀抔を信じ其の偶像等を拝み、札、守、禳、卜などを 用 」ことがあげられている。寺社建立への寄付も禁じられた。これらの行為は、1896(明治29)年に日本全国で統一的に用いるものとして採用された教理問答書では「妄信」とされ、同時期の祈祷文では、「糺明の箇条」において更に仏壇神棚の設置も「妄信」に含めている21。
19世紀後半の教会指導部は、日本の習合的な宗教実践の中で、神社よりも仏教と関連した 習慣――特に、親族や知人の葬式への参加に対する周囲からの期待――を、より大きな問題 と見做していたようである。同時に、日本の教会指導者は、もはや明確には宗教的性格を持たない土着の儀礼を、慎重にではあるが、受け入れる用意のあることも表明していた。
ところが、1911(明治44)年以降、内務省と文部省が神社参拝の奨励を強めるに従い、『声』 には神社参拝のもたらす種々の問題や危険性に関する記事が次々に掲載されるようになっ た25。
1917(大正6)年の函館の事件の経緯からも分かるように、教会は神社祭祀への参加を求める圧力に対して、公式声明においても、より強硬な姿勢を取る方向に向かっていった。
同様の強硬な姿勢は、1917(大正6)年に出版された、ベルギー人宣教師エミール・ラゲ (Émile Raguet 1854-1929)の手になる教理問答の解説書にも明らかである。ここでは注を付して、神社参拝に内在する問題を指摘している。
或人は神社参拝は宗教的事でないと言張れど、参拝と云ふ字ばかりを見ても、宗教的業である事解る筈。又神社は神道と云ふ宗教の機関たる事は、恰も寺は仏教の機関、御堂 はキリスト教の機関たることゝ同様である。而して神社に行はれる式は、仮令行政官を以て行はれても、尚神職は神道の礼儀に則り、 重に祓、祝詞、開扉、神饌等を行へば、社会的交際法に甚だ遠ざかつて、宗教的性質を帯びるに相違ない。〔中略〕又招魂祭等が、唯国家の為に尽力した人を社会的に崇敬するに止るものならば、愛国心の為に之に与る事は差支ない筈なるも、現に行はれる所では一種の宗教と成るから之に与る事、又神社参拝等は迷信の罪に成るのである。35
陸軍が上智大学の対応を不満とし、事態がさらに深刻なものとなった以上、より踏み込んだ改善策が必要なことは明らかだった。日本のカトリック指導部の数人は、神社参拝を巡る衝突が日本におけるカトリック教会の存在を危険にさらしていることを認識し、神社参拝に対する方針の変更に動いた。この動きは複数の方面から見られた。その一つは、中国地方 を管轄する広島使徒座代理のヨハネス・ロス司教(Johannes Ross 1875-1969)によるもので あった。イエズス会員であったロスは、6月に文部省が、陸軍の配属将校引き揚げ要求を初 めて上智に伝えた時、たまたま東京に滞在していた。すでに以前より参拝が信者や教会にとって問題となっていることを懸念していたロスは、社会の要請やその他の切迫した状況下で非カトリックの宗教儀礼に参加し得るかを規定した教会法の条項に、解決策が見出せる のではないかと主張した。すなわち、教会法第1258条を引き、「受動的参列」の考え方を神社参拝に適用することを提案したのである。この条項によれば、深刻な理由がある場合には、 信者の関与が純粋に受動的である限り、冒涜あるいは迷信として禁じられた行為も許容さ れることになる49。
また別のアプローチとして、1890(明治23)年の司教会議で示された、土着の慣習に対する柔軟な姿勢、特に、もとは迷信的な慣習も環境の変化によってその迷信性を失いうるという見解に沿うことで解決を図る意見もあった。このアプローチの中心人物は、豊富な人脈を持つ海軍少将山本信次郎(1877-1942)であった。
1932(昭和7)年秋、東京のカトリック指導部と文部省は、この参拝とは「教育ノ 一手段」であるという発想に拠ることで、神社で行われる行為は「純粋に世俗的で政治的な」 ものであることを公的に示し、教会が神社参拝を受け容れられるようにする妥協案を捻出 しようとしたのである。
敬礼の意味に対する公的な見解を入手したシャンボンは、次いで10月初めに、この内容を 東京大司教区の司祭に伝達した。この中でシャンボンは次のように記している。参拝は「複合的な問題」(une chose mixte)、すなわち問題性を含む面と許容できる面の両方を含んだものであるが、「深刻な理由がある場合には、受動的参列や敬礼は許容し得る」。それ故、司祭は学校生徒やその親に対して、「(非カトリックの)宗教儀礼への参加は慎むべきだが、生徒が集団で神社へ率いて行かれた時には敬礼をする」ように指導するよう60。シャンボンは更 に、10月18日、文部省に宛てて、カトリック信徒の学生は今後神社参拝に参加すると約束す る文書を送付した。
シャンボンや駐日法王庁使節が1932(昭和7)年の9月から10月にかけて採った姿勢は、カトリック教会の神社祭祀に対する立場の大きな転換点となった。最終的には、1936(昭和11) 年にローマ法王庁が、宣教活動を監督する布教聖省の訓示を通じてこの見解を承認し、神社祭祀は「純粋に世俗的な意味のみ」を持つ、と公式に認めることになる61。
1933(昭和8)年2月に至り、上智と暁星は「愛国心ト忠誠」の表現を特定の範囲内に封じ込めようという暗黙の試みを打ち捨て、さらに踏み込んだ。大司教シャンボンの許可を得て、日本のカトリック信徒の生活における神社参拝の重要性をより広範に認める共同文書を文部省に提出したのである。
その翌月の1933(昭和8)年1月、教会のさまざまな情報発信に携わっていた田口芳五郎 (1902-1978、1973[昭和48]年に日本人として2人目の枢機卿に任命される)は、『カトリッ ク的国家観』と題する冊子を発表し、カトリック教会の立場の変化に対する理論的説明を示 した。この論考の大部分は、聖書からの大量の引用によって、教会が政権に対する忠誠と愛国心の育成に貢献し、正義の戦争を支持することを示す叙述に費やされている。ところが、 最後に神社参拝に関する短い章が付されていた。その中で田口は、まず政府が、神社が宗教 でないという主張を正当化するために、神社の「内容」の問題を議論せず、制度上の管轄の形式的分離に専ら依存していることを批判した。しかし、続けて、神社が世俗的な愛国心と宗教的要素の両方を含み、「此の二分子は、密接なる関係を有するも、或程度まで此の二者は独立的存在を保持し得る」と提案する。そしてその実施方法の手掛かりとして、教会法第 1258条、シャンボンの鳩山文部大臣宛て書簡、それに対する文部省の返答を引用した71。
教会の方針の変化がこのような形で一般信徒へ通達されたにもかかわらず、公教要理ではその後も数年の間、神社参拝が禁止され続けた。しかし、神社祭祀は「純粋に世俗的意味」 を持つものと承認する1936(昭和11)年の布教聖省の訓令の布告を受け、1937(昭和12)年 にこの制限は消えた。改訂された教理問答書は、「迷信」の例として御神籤、偶像崇拝、自然崇拝を挙げているが、神社と守札に対する個別的な言及は全て取り除かれている72。
戦後の研究者は、1932年の文部省回答を、神社参拝を強制しようとした政府の試みの証拠としてよく引用してきた79。確かに政府官僚は、神社に対して崇敬の念を示さないことが問題となるような環境を醸成する上で主要な役割を果し、そして上に引いた岡田包義の叙述 が示すように、上智大学靖国神社事件の結末は、神社参拝は「臣民の義務」に含まれるという彼らの見解を助長した80。けれども、その展開の中で、1932(昭和7)年になされた神社参拝の内容と意味の定義の案出がどのような役割を果たしたかを理解するためには、これが単に上からの一方通行によって押し付けられただけのものではなかったことを念頭に置く 必要があろう。それは相当程度、文部省と東京のカトリック教会代表者による合作であった。 両者の間の協力はどちらの側からも積極的なものではなかったかもしれないが、最終的には、陸軍からそれぞれの利益を守るという共通の必要性が、両者の共闘を促したのであった。
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_jat&data_id=77848