トリエント公会議は近代に向けて教会を刷新したと近代主義者はいうが、あくまで反宗教改革的姿勢に基づいたカトリックアイデンティティによる教会改革であるからオーセンティックで反近代的である。
コンスタンツ公会議では、諸侯つまり聖職者を含む諸国の大使が「オラトーレス」と呼ばれ、すべての会議に出席する権利を与えられており、会議の決定に大きな影響力をもっていた。しかし、ともかくも、コンスタンツ公会議に比べて、トリエント公会議は、聖職者が主導権をもった公会議であった。教皇はローマに在住し、枢機卿たちを集めた枢密院会議を定期的に開いていたので、教皇代理としてトリエントに派遣されていた数人をのぞいて大部分の枢機卿はローマにとどまっていた。教皇代理たちは、トリエントからローマへ議事録を送ったり、教皇から指令を仰いだりするために、多くの日時を要した。
18年もかかった公会議は、教皇にとって財政的に重い負担を背負わされる、結末の見えない事業であった。だから、彼らは教皇代理にしばしば強い調子で議事促進の指令を出した。それで「昔の公会議は聖霊が天から司教たちに降って進行したが、この公会議では聖霊がローマ教皇の指令の郵便袋によって到着する」と皮肉をささやかれたものである。
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トリエント公会議は、ヨーロッパ内の不安定な状況に加えて、中央ヨーロッパと地中海へのイスラム(オスマン帝国)の進出による脅威の中で続けられた、教会刷新をめざした公会議であった。J.H.ニューマン(生没年1801〜90)が長い間、ローマ・カトリックへの改宗をためらった理由は、彼自身の言葉によれば、トリエント公会議がそれまでのキリスト教の伝統を捨てて、教会が昔の姿とは似ても似つかない代物に変わったと考えたからであった。
しかし、カトリック教会はまさにトリエント公会議によって近代への対応ができる教会になったのである。トリエント公会議は「祭具室の中での話し合い」では決してなく、近代に向かいつつある社会に対応する教義と制度に基づいて教会生活を確立しようとしたものであった。