ヨアンネス23世(在位1958〜63年)以前の歴代教皇は、近代主義が教会に入り込むのを極度に警戒し、信者の社会運動は必ず司祭の指導下にあることを義務づけ、徹底的にローマの監視が行き届くように配慮した。「教える教会」(ecclesia docens)と「習う教会」(ecclesia discens)ははっきりと区別され、後者から司教教書、教皇庁各省の文書を含む教導権への従順が義務づけられた。ピウス10世の時、英国のカトリック司教位階組織に対してこの政策を具体的に実施する務めを担ったのは教皇庁国務長官メリ・デル・ヴァル(1865年〜1930年)であった。彼はスペイン・アイルランド系で英国生まれであったため、
英国のカトリック界に強力な影響力を行使した。
このように、英国カトリック教会の公的姿勢は教皇至上主義的でローマ依存的であったのだが、ベネディクトゥス15世(在位1914〜1922)は回勅『アド・ベアティッシミ・アポストロールム』で、カトリック信者に、使徒座の介入がない領域でのさまざまな意見表明を容認した。一貫して、近代主義の脅威に対する敏感な姿勢が取られたが、社会問題についてはかなり広範な意見表明の可能性が与えられた。司教たちは主要な問題となった社会問題に関心を示し、教会の社会教説の原理を説くことが使命であると考えた。ただし、政治の分野へのカトリックの司教位階組織からの直接的な指導や介入は英国ではみられず、政治に対する関心の表明は信者にゆだねられ、そこではおおむね公正、寛容、自由の原則が容認されていた。ヨーロッパ大陸におけるような、聖職者の強力な指導下にあるカトリック政党は英国では実現しなかった。それはおそらく英国のカトリック教会が一般社会から隔離されていたためであった。
それでも、カトリック教会は近代主義と道徳的、社会的混乱に対して残された最後の砦と考えられ、ロナルド・ノックス司祭(1888年〜1957年。1917年カトリックに転会)に代表されるように、英国教会からローマ・カトリック教会への転会者の数は増加の一途をたどり、1920年には12,621人とそれまでの推移のピークに達した。両大戦間時代の世界情勢と国内情勢は、英国社会に根強かった反カトリック感情を弱めると同時にカトリック教会を社会の主要な潮流に統合させ、指導者たちは、英国社会に属する教会であるという自覚と対外姿勢を明らかにするようになった。