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カトリック情報

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カトリックのプロテスタント化は災いである

2015-07-30 | プロテスタント
急速にプロテスタント化するカトリック教会

 カトリック教会がプロテスタント化するという言い方は、お堅いカトリック信者さんの中には、ザラッと神経を逆なでされたような気分になる方もおられるかもしれませんが、そこはちょっと我慢して読んで下さい。

 ヨーロッパ中世末期16世紀(その頃も教会は時代の変化への適応が遅れて混迷していた)の宗教改革の結果、プロテスタント教会は独身司祭制度を撤廃し、ミサや告白(懺悔)などを中心に司祭が特権的に仕切ってきた諸々の儀式(秘跡)を廃して、聖書を専らの信仰のよりどころに、妻帯者牧師の説教を中心とした集会・礼拝と、個人的な祈りを通しての神との直接の交わりに信仰生活の重点を移しました。

 それから4‐5世紀、カトリック教会はプロテスタント教会への対抗上、独身司祭が執り行う7つの秘跡(儀式)に固執して教会を支えてきたのですが、近年この「儀式」をとり仕切る司祭不足の深刻化という現実に押されて、ミサや告白などのいわゆる「秘跡」を教会ごとに維持することが困難になってきました。

 それで、心ならずも教会の一部閉鎖を含む統廃合を進めるのですが、それでも司祭の絶対数の急速な減少に追いつかないとあって、司祭が来られない日曜日の「祭儀」を、既婚者の信徒の指導に委ねる聖書中心の礼拝にシフトし始めました。カトリック教会ではそれを新造語の「み言葉の祭儀」と呼びますが、その内容はプロテスタント教会の礼拝と変わるところがなく、むしろ説教に習熟し専門職化した牧師を持たない分だけ、より貧しい内容にとどまっているのが現状です。

 また、プロテスタントの教会は1牧師1教会が原則なのに対して、カトリック教会の新しい「共同司牧方針」は、例えば、5-6か所の教会ごとにブロック化し、どの教会にも敢えて専住神父を置かず、2-3人の司祭のグループが共同で手分けして巡回し、ケアーする方針を導入しました。その結果、「共同責任体制」とは耳触りのいい言葉ですが、実質的には責任の所在が不明確な「無責任体制」に陥っています。これは、400年の経験から生まれたプロテスタント教会の安定した状態にはるかに劣る、混沌とした流動的で不安定な体制と言わざるを得ません。

 そう言えば、私が日本に帰国するときに住む信州・野尻湖の国際村(元来はプロテスタントの牧師村)の人口動態を見ていると、明治以来日本でいい活動をしてきたプロテスタント教会の中には、後継者不足と本国からの支援資金不足で、日本での宣教活動を断念して教団ごと撤退したプロテスタントの宗派もあるようです。背景理由はカトリックと同じ、世俗化と少子化でしょう。

 特に、カトリック教会では、社会の「世俗化」と、その波に呑み込まれたカトリック家庭の「少子化」の煽りを食って、第一世界では一家庭に男の子がいる可能性は平均で65パーセントにすぎないのが実情です。家督を継ぎ、親の老後を見る男の子がいる幸運な家庭の割合がここまで減ると、その貴重な子宝の男子を、終生独身の神父として神にささげようなどという奇特な考えが心に浮かぶほど信仰篤い親がほとんどいなくなるのも当たり前でしょう。また、子供にしても、家を棄て、親を棄てて、生涯を独身を守って自分を神に捧げようという発想法を持つ若者がめったにいなくなるのもこれまた自然の流れです。

 例えば、私が神戸のカトリックミッションスクール(男子校)を卒業したころ(つまり1950年代の終わりごろ)には、135人の同期卒業生の内、洗礼を受けたものは30人以上、神父への道を志したものは確か私を含めて4人(ひょっとして5人だったかな?)もいました。それが、その後僅か10年もしないうちに、キリスト教伝道の場としての「ミッションスクール」から、父兄の要望に押されて「一流大学受験予備校」へと路線を変更した結果、東大入学生の数が増えたのに反比例して、洗礼を受ける生徒数も、まして司祭職を志すものの数も、限りなくゼロに近づいたのは全く驚くに値しません。信仰の熱気に支えられていたミッションスクールが、「世俗化」の毒を食らって死んだ哀れな骸(むくろ)の姿です。

 その結果、司祭を養成する神学校にも閑古鳥が鳴き、新しい若い神父がほとんど育たなくなった中で、司祭たちの平均年齢は日々確実に上昇し、引退と死亡でその数も目に見えて減りつつあります。このままでは今の体制はあと10年と持たないでしょう。しかも、これは何も日本に限った現象ではなく、世界中同じで、ここローマも例外ではありません。教会のムードは沈滞し、宣教の熱意は冷め、親の無関心から子供たちに信仰は伝わらず、教会はこの2000年間かつて経験したことのない重大な危機に直面しています。

 かてて加えて、数の上でカトリック王国を誇っていたブラジルなどでは、極端な司祭不足と信仰教育の欠如のために、信者は程度の低い幼稚な信心がせいぜいで、その間隙をぬって、アメリカ発のプロテスタント系大衆伝道(いわゆるメガチャーチ)の波が襲いかかり、御利益を餌に、年間数百万人単位でカトリック信者を取り込んでいる始末です。これなども、ラディカルなカトリックのプロテスタント化に数えていいでしょう。

 全ては神聖なものに対する価値観を見失った社会の「世俗化」のなせるわざで、その世界的浸透と「グローバル化」は今なお止まるところを知りません。

 しかし、カトリック教会がプロテスタント化することは、単なる伝統とアイデンティティーの喪失以外の何ものでもなく、問題の本当の解決にはなりません。

内村鑑三 余は如何にしてカトリックを勧める者となりしか

2015-07-30 | プロテスタント
内村鑑三試論④
●カトリックへの関心

 内村鑑三はプロテスタント批判を続けていく中で、カトリック信仰に近づく。その証拠は、次のような素晴らしいカトリック教会賛美の言葉となって現れている。一体、カトリックの信者で自らの属する教会を、これほどまでに美しく表現した者がいただろうか。私は、あえて「いや、一人もいなかった」と言いたい。これは「聖書之研究」(一九〇七年五月)に発表されたもので、内村が46歳の時のことである。何が、このような文章を書かせたのだろうか、それも知りたいところではある。次のようである。

 「最も貴むべき教会 ローマ・カトリック教会(教友某と下野太平山に遊びし途中、語りしところ)

 余は今は無教会信者である。しかしながら、もし教会に入るとするならば、余はローマ・カトリック教会(天主教会)に入ろうと欲(おも)う。これは最も古い、最も固い、最も世界的にして、最も完備せる教会である。これは新教諸教会のような成り上りの教会ではない。これは二千年間の歴史に深き根拠をすえたる最も歴史的の教会である。もし信仰を維持するために制度の必要があり教職の必要があるというならば、余輩はかかる強固なる、かかる完備せる教会に入るべきである。

 新教の教師は言う、ローマ・カトリック教会は腐敗していると。しかしもし腐敗の事であるならば、新教の諸教会とてもカトリック教会に譲らない。ことに米国の新教諸教会のごときに至っては、その腐敗たるや実に言語に絶えたるものがある。もし教会をそのおちいりし腐敗によってさばくならば、世に取るに足るべき教会は一つもなくなる。余輩は、カトリック教会が腐敗しておればとて、その荘厳と堅牢とを疑わない。

 また言う、カトリック教会に信仰の自由がないと。しかし余輩はそうは信じない。もちろん教会として立つ以上は多少の束縛のあるのはやむを得ない。そうしてカトリック教会の束縛なるものは、その世界的であるだけ、それだけ寛(ゆるや)かである。余輩は自由を標榜(ひょうぼう)する小なる新教会の中に最も厳酷なる束縛のおこなわれておるを知る。二十世紀今日のカトリック教会はルーテル在世当時のそれではない。カトリック教会の偉大なる理由の一つは、その世と共に変遷進歩するの一事である。

 (中略)

 ローマ・カトリック教会は貴婦人的教会である。その聖マリヤ崇拝はよくその理想をあらわしている。カトリック教会に、新教諸教会におるような鉄面婦人はおらない。婦人らしき婦人を、余輩は最も多くカトリック教会の中に見る。新教諸教会に最も欠けているものは婦人のモデスティー(謙卑)である。マリヤ崇拝をあざける新教諸教会は、その婦徳においてははるかにローマ・カトリックの下にいる。

 聖アウグスティンの母教会にして、聖フランシスを出し、トマス・アクィナスを産み、ニューマン大僧正をひきつけしローマ・カトリック教会は、今日なお尊敬すべき教会である。余輩もまたもし今後教会に入るの必要を感ずるならば、喧々囂々(けんけんごうごう)としてこの世の勢力を得るに日もまた足らざる新教諸教会に入らずして、古き固き広きローマ・カトリック教会に入らんと欲する」
http://yasuraoka.cocolog-nifty.com/toma/2007/04/post_3c02.html

http://yasuraoka.cocolog-nifty.com/toma/2007/04/post_7431.html

内村は一九一二年一月、長女ルツ子を失った。そして、その年の四月の「聖書之研究」には、「無教会かカトリックか、選択は二つに一つ」といった見解が記されている。内村51歳の時である。次のようである。

 「(前略)

 私はこの事についてなお一言言っておきます。すなわち、かつて本誌において唱えましたごとく、もし万一私が教会に入るべく余儀なくせられますならば、私はローマ天主教会に入ります。私の知りますところでは、これが地上唯一の矛盾のなき教会であります。もし地上の眼に見ゆる教会が信者各自に必要であるとならば、ローマ天主教会こそ最も完全にその必要に応ずるものであると思います。

(中略)

 無教会にあらざればローマ天主教会、わたしの選択はただこのニツをもって限られてあるのであります。しかして私は今は前者を選むのであります。後日(あと)の事は知りません。今日はなお私は無教会信者をもって満足するよりほかに善き道を発見するあたわざる者であります」

プロテスタント教会(=異端)への主の御言葉 「実は死んでいる」

2015-07-28 | プロテスタント
3:1 サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。
3:2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
3:3 だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。
3:4 しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。
3:6 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/m244.htm
本日は、サルデスへのことばと題して、黙示録のサルデスの教会への手紙を見ていきたいと思います。

サルデスとは多くの人がいうように「プロテスタント教会」の予表ではないかと私も思っています。
キリストはそのプロテスタント教会を何と「生きているとされているが、実は死んでいる。」
と評価されるのです。これは由々しき問題と思われるのですが、この教会の現状を見ていきたいと思います。順に見ます。

”1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。”

「神の七つの御霊」と書かれています。7は教会を示す数字です。教会は神の霊によってのみ保たれることを覚えましょう。この教会が「生きているとされているが、実は死んでいる。」
といわれるゆえんは、この神の霊の声に従って歩んでいないからでしょう。「七つの星」と書かれています。星はアブラハムの子孫であるクリスチャンをさすことばです。暗い夜に輝くのが星であるように、暗い罪の世界に義で輝くように我々は召されています。

「わたしは、あなたの行ないを知っている」

主は私達の行いがどのようなものかを知っているといわれます。
当たり前のことですが、人と異なり、神、キリストは私達の建て前や信条より、実際にどのように行っているかを御存じだということを思い出して下さい。

多くの間違った偽教師、偽預言者は、「救いは行いによるのでない」からと強調して、「どんな罪を犯しつづけても誰でも天国へ入る」ととんでもない教理を語りますが、主は私達の「行い」によって裁かれることを思い出さなければなりません。偽りに惑わされず、行いが正しいものとなるように私達は求めるべきです。

”あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。”

この教会の信者は、理論的、神学的には「生きているとされている」のです。すなわち、この教会は、神学者によれば、すばらしい命に満ちており、大いなる祝福の中にあり、栄光を受け継ぐ者であるということなのです。

そいういったすばらしい美辞麗句はあくまで人前のものだけであり、ただ盲人どうしのほめあいでは空しいものです。何故なら、キリストははっきりとこの教会に対して、「生きているとされているが、実は死んでいる」と断言しているからです。

いくら親や友達がほめそやかして、「貴方は天才」といわれてもいざ試験の評価が0点では意味がありません。結果として希望の学校にも入れないし、自分も大いに恥をかくからです。
回りの人の無責任なほめことばより、肝心なのは、判断する立場にある試験官の評価なのです。
同じようにいくら神学者が良いことをいったからといって、彼らは判断したり、裁く立場にはいません。全ての人を裁き、判断するのは唯一の方、私達の主、キリストだということを思い起こさなければなりません。そしてこの教会は、他でも無い、このキリストに「死んでいる」といわれているのです。

注目すべきことはここには2種類の異なった評価が暗示されているということです。

1. 一つは人からの評価であり、これは教師、預言者を通して来ます。彼らのこの教会に関する評価は、「生きている」という評価です。別のことばでいえば、命にあふれている、永遠の命にふさわしい、神に喜ばれているというような評価でしょうか。しかし、はっきりいいますが、こんなことをいう教師、預言者は「偽預言者」です。何故なら、これらの評価は主の評価とは全く正反対だからです。
彼らは「主からは遣わされていない」のです。

2. もう一つの評価はキリストからの評価であり、彼らは「死んでいる」すなわち、罪の中にいる、命は失われている、永遠の命は危ないというものです。これらの言葉は、人の耳には厳しいものであり、耳に心地よいものではありませんが、しかし、他ならない唯一正しい評価をされる方からのものであることを覚えて下さい。

ですから、結論としてこの教会、プロテスタントの教会に対して、その現状を警告する者は主から遣わされた者達であることがわかります。

死は罪と関係しています。この教会は罪とはっきりと決別していない教会です。

”2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。”

「目をさましなさい」と書いてあります。逆にいうと、この教会が眠った教会であることがわかります。
眠る人は無防備であり、回りで獣が歩き回ってもわかりません。

”そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。”

「他の人達」とは、他の箇所では「残りのもの」と訳されています。「残りの者」とは、聖書の中で特別な意味あいがあることばなのです。
これは、たとえば、バビロンの日にイスラエルへ戻ってエルサレムを再建した人々に通じます。
彼らは神のみこころの民です。しかし、この教会においてこの小数の「残りの者」さえ死にかけていると言われているのです。大変危機敵な状況であることがわかります。

わずかに残る「残りの者」でさえ、死にかけている、すなわち、罪に巻き込まれていく瀕死の教会、それがサルデスだというのです。

”わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。”

今のキリスト教会では「信仰」さえあれば、行いなどどうでもいいことになっているようですが、
しかし、他ならぬキリストは「行い」について語り、叱責していることを覚えて下さい。

偽教師や偽預言者がどういったか知りませんがそんないい加減なことばに騙されずに、私達はその行いが「神の御前に全うされ」るよう求めるべきです。

”3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。”

このように語られているということは、この教会が、かつて受け、聞いたことばから離れているということを暗示するのでしょうか。

”それを堅く守り”

神のことばを守ることが大事です。

”また悔い改めなさい。”

悔い改めるとは「方向転換」をするということだそうです。方向転換せよということは、、この教会が間違った道を歩んでいることを暗示します。

ですから、もし私達プロテスタントのクリスチャンがサルデスならば、今のプロテスタントの教会の歩み、方向、方針を「遵守」することは正しくないことがわかります。
どの道が正しいのかということは私にはいえませんが、しかし、主は明確にこのサルデスの方法、歩み、方針に対して、「悔い改める」ように、すなわち方向転換するように語られていることをとらえて下さい。

”もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。”

「もし、目をさまさなければ」というように、主はこの教会に対して「眠っている」ことを前提にして忠告しています。私達が電話をかける時、それが昼の2時なら、「相手の人が寝ている」ことを想定する必要はまずありません。しかし、それが夜中の2時なら「相手の人は寝ている」ことを前提に電話をすべきです。それが常識というものです。それと同じ意味あいで、主はサルデスの教会に対して、多くの信者が眠っていることを前提にしたかのように、「もし、目をさまさなければ...。」と語りました。

プロテスタントの人が聞けば異論があるかもしれません。「そんな馬鹿な」という人も多いかもしれません。しかし、どんな時でも私達の常識と食い違う時でもやはり主のいうことが正しいのです。

”あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。”

ここにこの教会に関して以下のことが書かれています。

1. この教会は眠っている。だから目をさますようにいわれている。
2. この教会は主の再臨に遭遇するが、しかし、主がいつ来るか「決してわからない」

さて、同じようなことを警告されている人々がいます。それは、有名な「賢い花嫁、愚かな花嫁」のたとえに出てくる愚かな花嫁です。

彼女は以下のように上記に該当します。

1. この花嫁は眠っている。何故なら、このたとえの最後にこう書かれているから。
「マタイ25:13 だから、目をさましていなさい。」

2.この花嫁は主の再臨に遭遇するが、しかし、主との婚姻の席に入れない。
また、主がいつ来るか知らない。 以下のことばのように。
「マタイ25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」

ですから、他でもない「愚かな花嫁」のたとえはまさにこの教会の上に実現することが理解できます。
ですから、愚かな花嫁に語られた以下のことばはこの教会の上に成就するのかもしれません。

”マタイの福音書 25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。”

主に「知らない」といわれるとするなら、それはどのような教会でしょうか。果たして、天国へ入れるのでしょうか。永遠の命を得られるのでしょうか。まことに危ない教会なのです。

”4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。”

しかし、サルデスの全てが悪いわけではなく、「数人」の衣を汚さなかった者がいます。彼らは義人です。彼らは「白い衣を着」ます。また、「わたしとともに歩む。」すなわち、キリストとともに歩みます。彼らは主につく者たちです。

ですから、まとめると罪、死と関連してこの教会には以下の3種類の人々がいます。

1. サルデスの大部分を占める「生きているとされているが実は死んでいるもの」すなわち、建て前はともかく、主の前には死人、罪人である人々。

2. 小数派である、死にかけている残りの者。彼らはまだ生きている、多少罪から離れている部分はありますが、「死にかけている」すなわち、ほとんど罪にまみれています。永遠の命を得るかどうかは定かではありません。

3. 更に小数の「衣を汚さなかった者」。彼らは主により白い衣を受け、義人として認められます。

ですから、サルデス、プロテスタントに関する主の評価は、彼らの勘違いと教師達の嘘とは対称的に非常に厳しいものであることを覚えて下さい。

決してサルデスの常識に従って歩んではいけないのです。逆に悔い改めるべきなのです。

”5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」”

「 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。」と書かれています。ですから、上記、数人の白い衣を着た人々こそこの教会における例外的な「神のみこころにかなった人々」なのです。
彼らの数はそれこそソドム、ゴモラの町の中のロトの家族のように圧倒的に少ない人々でありそうだということをとらえて下さい。
彼らに関しては、「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない」とのはっきりとした約束が与えられています。彼らは永遠の命を受けるのです。これは上記3種類の人々の中で3番目の人々のことです。しかし、それ以外の人々は一体どうなるのでしょう?

はっきりいいますが、それ以外の人々はあぶないことを覚えて下さい。何故なら、はっきりとした「いのちの書から消すようなことは決してしない」との約束が彼らにないからです。

聖パウロの言葉 (「現代人に理解可能な語りかけ」をするブルトマン信者に向けて)

2011-10-29 | プロテスタント
キリストの恩寵によってよんでくださったお方を、あなたたちがこれほど早く離れて、ほかの福音に移ったについて、私はおどろいている。それは、福音というべきものではない、ただ、ある人々があなたたちを惑わして、キリストの福音を変えようとしている。しかし、私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者には、のろいあれ。私は、前にいったことを、今またくりかえす、あなたたちが受けたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。私は、前にいったことを、今またくりかえす、あなたたちが受けたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。私はいま、人の賛成を求めようとするのか、それとも神のみむねを求めようとするのか、あるいは、人にとりいろうとつとめているのか。私が今も人にとりいろうとしているなら、私はキリストの奴隷ではない。(ガラティア1:6-10 バルバロ訳)

1:6我は汝等がキリストの恩寵を以て己を召し給ひし者を遠ざかりて、斯も速に異なる福音に移れるを怪しむ。 1:7是異なる福音あるに非ず、唯或人々が汝等を擾して、キリストの福音を翻さんとするなり。 1:8然れど我等にまれ、天よりの使にまれ、我等が汝等に宣べし所に反して福音を宣ぶるならば、詛はれよかし。 1:9我等曩に言ひしが今又重ねて言ふ、汝等が受けし所に反して福音を宣ぶる者あらば詛はれよかし。 1:10蓋今我人の心を獲んとするか、将神の御意を獲んとするか、人の心に適はんと力むるか、我尚人の心に適はばキリストの僕に非ざるべし。(同 ラゲ訳)
ラゲ訳「我主イエズスキリストの新約聖書」(1910年版)



聖書講話でケリグマとか非神話とか史的イエスとかいってたらブルトマン信者

2011-10-28 | プロテスタント
非神話化

非神話化(ひしんわか、独逸:Entmythologisierung、英:Demythology)とは、聖書から神話的要素を取り除くとする解釈法である。ルドルフ・カール・ブルトマンによって唱えられた。[1]

ブルトマンは、グノーシス主義等の影響を受けた聖書は神話的であり、神話的な聖書の世界観を受け入れることはできないとする。ブルトマンは非神話化によって歴史と信仰を分断しなければならず、ケリュグマだけが必要であるとした。[2]

ブルトマンの翻訳者でNCCの『キリスト教大事典』の非神話化の項目を執筆した中川秀恭はこれを積極的に評価し、非神話化において「教会の宣教の純正ということが問題である」とした。

宇田進は聖書の「非神話化」が、「現代のリベラル神学に共通する発想と基本的論理」であると述べている[3]。

「非神話化とは何か」平岡広志

福音派の方のブログでのやりとりの中で、私がブルトマンの非神話化による聖書解釈の立場に立っていることを伝えたところ、非神話化について簡単に説明してほしいとの要望を受けました。以下は、そのときに私が書いた説明です。非神話化について、聖書を破壊するというような誤解をされている方も多いと思うので、特に、そのような方に誤解を解いていただけるように分かり易く説明したつもりです。

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昨日、ありのパパさんから要望がありました「非神話化」について簡単に説明します。

「非神話化」という言葉は、聖書を単なる神話とみなすという誤解を受けて、福音派では評判が悪いのですが、私の説明で多少なりとも前向きに理解していただければ幸いです。

非神話化という概念は、ドイツの新約学者であり組織神学者であるルドルフ・ブルトマンによって1941年に提唱された聖書解釈の方法です。

ブルトマンは新約学者なので、話は新約聖書を例にとって進めますが、別に旧約聖書においても適用できます。

ブルトマンの主張の背後には、次のような前提があります。

① 新約聖書においては、世界は「天界」「地上」「下界」という三つの階層からなっている。この三つの階層は、現代人が考えるような抽象的な概念ではなくて、実際にそれらが宇宙論的に存在する、という意味で存在する。このような世界観が前提となって新約聖書は書かれている。

② 新約聖書のメッセージの中心である、イエス・キリストによる救いの出来事も、このような神話的な世界像の枠組みの中で語られており、そこでは、「宣教の使信(ケリュグマ)」と「古代の世界観による神話」が分かち難く結びついている。

③ この「天界」「地上」「下界」という世界像の中では、天的な存在と、悪霊的な存在が常に行き来していて、地上に直接的な影響(例えば、様々な病は悪霊が人間にとりついて起きるとか)を及ぼしている。

④ しかし、現代人である我々(ブルトマンは現代人は皆、自分と同じ考えをもっているという前提で議論を進めています)は、このような古代の世界観をそのまま受け入れることはできないし、また受け入れる必要もない。なぜなら、聖書の中で重要なのは、宣教の使信(ケリュグマ)なのであって、古代の世界観ではないからである。

⑤ 古代の世界観に基づく神話的な表象と、ケリュグマを区別しないと、現代人は聖書の記述につまづいてしまう(例えば、「病気が悪霊の仕業だって? 何を馬鹿馬鹿しいこと言っているんだよ。だから聖書なんて信じられないんだよ」みたいな感じ)。

⑥ このように、現代人は古代の世界観を受け入れることはできないし、また仮に、その古代の世界観を無理に受け入れる(例えば、「病気が悪霊の仕業なんてとても信じられないけれど、牧師先生は、聖書に書いてあるんだからそのまま素直に信じなさい、と言っているし、それを信じなければクリスチャンじゃないんだから、信じられないけど信じるぞ」みたいな感じ)とすると、それは知性を犠牲にしなければならない。そのようなことは、「知的なレベルにおける行為義認」となってしまう。プロテスタントの基本的信条は「信仰義認」であって、「行為義認」は否定されている。我々は、行為義認というと、「行動」のレベルでしか考えないが、行為義認は「知的」なレベルでも存在する。このように、我々が古代の世界観を無理やりに受け入れるのだとすることは、「できない」ばかりでなく、「する必要がない」、もっと強く言えば「してはいけない」ということになります。ブルトマンはルター派の神学者ですから、ルターの信仰義認論を、このように知的なレベルでも徹底するのです。

⑦ それでは、我々は聖書をどのように読み、理解すべきであろうか、という問題が残る。19世紀の自由主義神学者は、この古代世界観に基づく神話を排除してしまった。しかし、聖書の記述の中では「神話」と「ケリュグマ」は分かち難く結びついているので、単純に神話を排除してしまうと、肝心のケリュグマも一緒に排除してしまう結果となる。その結果、自由主義神学においては聖書は単なる倫理的な道徳の本になり、イエス・キリストは単なる模範的な人間にすぎないことになってしまった。

⑧ このような自由主義神学的な方法では、我々は聖書を正しく受け取ることができない。そのためにはどうしたら良いか? 聖書の中に書かれている古代的世界観による神話を排除するのではなく「解釈」すれば良いのである。つまり、神話的表現の中に隠されているケリュグマを、「解釈」によって取り出すこと。これが「非神話化」という作業である。

⑨ それでは、どのように聖書を解釈したら、聖書の記述の中からケリュグマを取り出すことができるのだろうか? それは「実存論的解釈」によれば良い。

⑩ 聖書は古代の世界観によって記述・描写されている。それはいわば「宇宙論的」な記述・描写である。しかし、実存論的解釈とは、そのような「客観的」なものではなく、聖書を読む「私」の「実存」に関わる問題として聖書を読み解釈することなのである。

⑪ 新約聖書のケリュグマである、「キリストの出来事」は、史的イエスが、「この場・この時」に生きる我々にとって、どのような意味でのっぴきならない結びつきをもっているのかという、その「有意義性」が明らかにされることによって実論論的に解釈されなければならない。いわば、「史的イエス」+「その実存論的有意義性」=「実存史的なキリストの出来事」という公式で表わされる。

⑫ 歴史には、それが目に見える形で起きた歴史「史実(ヒストリエ)」と、私にとっての意味を伴った歴史「実存史(ゲシッヒテ)」がある。聖書は歴史的に正しいと言うとき、それは「史実」としての正しさよりも「実存史」という意味で歴史的に正しい、と理解すべきものである。

⑬ このような「非神話化」は、実は福音書の中にもその萌芽が見られる。ヨハネ福音書11章でラザロが死んだときの主イエスとマルタとの対話がそれである。マルタは、最初、「終わりの日によみがえることは存じています」という。これは正しい信仰告白と言える。しかし、主イエスはそのようなマルタに対して、「わたしはよみがえりであり命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて私を信じるものは、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と、鋭く問いかける。それに対してマルタは、「主よ、信じます。あなたがこの世に来るべきキリスト、神の御子であると信じています」と告白する。このマルタの実存をかけた信仰告白により、マルタにとって、復活とは、終わりの時という「あの日、あの場」ではなく「この日、この場」における「イエス・キリストの現実」になるのである。

「非神話化」とは、こんな感じです。これを受け入れろとは言いませんが、内容をご理解いただければ嬉しいです。

ブルトマン
学会において新約聖書の非神話化に関する提案を発表(「新約聖書と神話論」)。新約聖書の叙述が前提にしている世界像はもはや現代人には受け入れることができないのでこれを排除し、新約聖書の中核にあるケリュグマを実存論的に解釈することで現代人に理解可能な語りかけとして取り出す聖書解釈の方法論を提案した。

学んできた真理に従う司祭、圧力で真理でないことに従う司祭

2011-04-30 | プロテスタント
マインド・コントロールされた体験を持つ信者さんにお伺いすると、はじめはおかしいと感じていたのだが、従うように圧力をかけられ続けているうちに、従うことに疑問を感じなくなったと言うことをよく聞きます。
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カルト化した教会の牧師がよく使う決まり文句である「従いなさい。」の本当の意味はどのようなものでしょうか。
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カルト化牧師が願うのは従順ではありません。
なぜなら信徒一人一人が、何がみこころかよく考えて確信したところに従って歩むようになると、自分の王国は崩れさってしまうからです。
ですから彼らが願うのは、隷従です。
隷従とは奴隷がその主人に従う方法です。
キリストが父である神に従ったのが従順です。
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普段は何も考えないで、いざなにかあると右を見て左を見て(決して上は見ず)他の人がやっているから自分もそうしようというのが盲従です。
考えないで従う。これが戦前の教会を滅ぼしました。
http://arinopapa.arinomamachurch.com/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99/%E5%BE%93%E9%A0%86%E3%81%A8%E9%9A%B7%E5%BE%93%E3%81%A8%E7%9B%B2%E5%BE%93.html

本当の従順と偽物の従順
http://fsspxjapan.fc2web.com/op/op18.html

聖公会(英国教会、アングリカン)の凋落 ブレア元首相のカトリック改宗

2009-02-26 | プロテスタント
http://senese.cocolog-nifty.com/koukishin/2007/12/post_213a.html

 イギリスで、教会に行く人の数において、カトリックが国教徒を越えた(レプッブリカ、12月24日)。
 トニー・ブレアー元首相のカトリックへの改宗は、氷山の一角?だった。少なくとも、日曜日のミサに行く人の数では、カトリックがイギリス国教徒(アングリカン)を上回った。
 3万7千の教会を対象に Christian Research の実施した調査によると、2000年から2007年にかけて、アングリカンの日曜のミサに出席する人は、20パーセント減少した。その結果、国教会の日曜のミサに出席する人は、85万2千人で、カトリックの86万1千人が追い越した。
 信者数では、アングリカンが2500万人、カトリックは400万人に過ぎない。

http://senese.cocolog-nifty.com/koukishin/2007/12/post_213a.html

http://senese.cocolog-nifty.com/koukishin/2007/06/post_d9f0.html

◎米聖公会イリノイ州クインシー教区が離脱3番目

 【CJC=東京】米聖公会イリノイ州クインシー教区が11月8日の年次総会で同派離脱を決議した。聖書や同性愛などについて神学上保守的な教区の離脱が、カリフォルニア州フレスノのサンウォーキン教区とピッツバーグ教区に続きこれで3教区になった。さらにテキサス州フォートワース教区も続くものと見られる。キャサリン・ジェファート=ショリ総裁主教は8日「離脱を嘆き悲しむ」
との声明を発表した。
 離脱を決めた3教区は、アルゼンチンに本拠を置く『サザンコーン(南半球)管区』の管下に入り、世界聖公会共同体(信徒7700万人)との交わりは維持することを図っている。
 米聖公会側は、残留を望む教区民と教区の再編成を進めているが、数百万ドル(約数億円)に上る教区の資産をめぐって複雑な法廷闘争がサンウォーキン教区ではすでに始まっている。
 米聖公会220万人の多くは、神学的な違いでの離脱を考えてはいないが、保守派指導者の中には、もう留まることができず、他国の同じ主張の共同体と関係を築くまでに進んだもの。
 AP通信によると、ナイジェリア聖公会は米バージニア州に『北米アングリカン集会』と言う分離教区の連合体を結成した。離脱したピッツバーグ教区のロバート・ダンカン主教は、米聖公会とは別に、保守派による北米管区の結成に動いている。

http://cjcskj.exblog.jp/7666895/