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カトリック情報

katorikku jyohou

リベラリズムは教会を空にする 世に迎合したメインラインは衰退、聖書に忠実な保守のエバンゲリカルは成長 いづこも同じ秋の夕暮れ

2017-01-12 | プロテスタント

Similar rapid decreases are seen among the Presbyterian (PCUSA), United Methodist, and Lutheran (ELCA) churches.  Episcopalians, Presbyterians (USA), Lutherans (ELCA) and United Methodists represent historical or mainline Protestant Churches in the USA,

The much more evangelical Southern Baptist Convention, because of its age, is similarly situated. Numbers are better in the large Southern Baptist Convention (SBC) than in the Mainline. But membership in SBC congregations has not been keeping track with population increases.

In contrast, evangelical denominations, such as for example the Assemblies of God, while still individually smaller than mainline Protestant congregations, have seen significant growth. The Assemblies of God had only about 300 thousand members in 1950 (about 2.1 per 1,000), swelling ten times to 3.1 million last year (9.8 per 1,000).

Broadly speaking, and using the colloquial understanding of the terms, conservative Protestant churches have had increases this past half century, and liberal churches have had decreases

As for the anti-climatic conclusion of his study, Haskell blandly writes, “Conservative Protestant theology, with its more literal view of the Bible, is a significant predictor of church growth while liberal theology leads to decline.”

Apparently theological liberalism empties churches.

https://stream.org/why-mainline-churches-are-emptying/


宣教を陰謀論で説明するこのような無知と偏見を聞くと嫌な気持ちになる

2016-12-23 | プロテスタント

しかしながら、当時のカトリック、イエズス会は何のために海外布教をしていたのでしょうか。

それは純粋なものだったのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。ローマカトリックが人々の魂の救いのために殉教してまで布教なんて、それは表向き。裏では世界を支配下にいれる計画があったのです。日本幕府は自国を守るために受け入れなかった。それで無理やりにでもやめさせるしかなかった。

http://biblestory.jugem.jp/?eid=1544


左派プロテスタントによる「キリスト教原理主義者」の定義 

2016-04-15 | プロテスタント

1910年にアメリカの長老派会議(General Assembly of the Presbyterian Church)では、次の5つの全てを信じる人々をキリスト教原理主義者として規定し、極端なキリスト者の例としているようです --;・・・

その5つとは?

1)聖書が神の霊観を受けた書物であること
2)イエスが処女マリアから生まれたこと
3)イエスが罪の代価となって十字架上で死んだこと
4)イエスの復活
5)イエスの行った奇跡が事実であること

http://zaakai.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-400f.html


カトリックの印象

2016-01-02 | プロテスタント
1.カトリックはマリアを拝んだり、聖人を拝んだりしているのではないか。
2.迷信が多いのではないか。
3.聖書に付け加えをしているらしい。(煉獄とかプロの聖書にないことを言っている)
4.歴史上さまざまな罪を犯している。
5.教皇制って理解できない。
6.神父が信徒と神の間に入っているらしい。(罪の告白をなぜ神父に?)

https://plaza.rakuten.co.jp/zazenneko/7001/

アウグスブルク信条(1530)も採点してみたから

2015-12-29 | プロテスタント
第1部 主要信条
◯ 第1条 神について 
  神は三位一体の神であって、ニケア信条を正しいものと認める。
◯ 第2条 原罪について 
  原罪とは人がもって生まれた「神を神とせず、悪と欲とに満ちている」ことであり、例外なく人に永遠の死をもたらす。
◯ 第3条 神のみ子について 
  イエス・キリストは真の神であり、真の人である。これを告白する使徒信条を正しいものと認める。
否 第4条 義とせられることについて 
  信仰によって、代償なく、神の恵みによって義とされる。
否 第5条 教会の役務について
  教会の務めは福音を説き聖礼典を執行することであり、それによって聖霊が与えられる。聖霊は御心のままに、福音を聴くものに信仰を起こさせる。
否 第6条 新しい服従について
  信仰による義認が先にあって、この義は良い実と行いをもたらさずにはいられない。
否 第7条 教会について
  真の教会は信仰者の共同体であって、福音が説かれ聖礼典が正しく執行される。教会の一致にはこの2つ(福音説教と聖礼典)があれば足りる。
否 第8条 教会とは何か
  聖礼典とみ言葉の権威はキリストが設定された命令の故に存在するのであって、人の権威によるのではない。
◯ 第9条 洗礼について
  洗礼は救いに必要であり、洗礼によって神の恩恵が提供される。またそれ故に幼児洗礼を認める。
◯ 第10条 主の晩餐について
  聖餐において、み言葉の故にキリストの体と血がパンとぶどう酒という形態の下に実在し、わけあたえられる(実在説)。
否 第11条 懺悔について
  個人の赦罪宣言は諸教会内で保持されるべきであるが、懺悔においてすべての罪過を列挙することを義務としてはならない。
否 第12条 改悔について
  洗礼後罪を犯した者は悔い改める時はいつでも、罪の赦しを得る。また教会は、赦罪宣言を与えるべきである。
否 第13条 聖礼典の使用について
  聖礼典はわれらに対する神の御心であり、罪の赦しを確信させ、その信仰が加えられるように用いなければならない。
否 第14条 教会の職制について
  (全信徒は祭司の性格を持つが)教会内で公に教え、あるいは聖礼典を執行するには、教会の正規の召しを必要とする。
否 第15条 教会の儀式について
  福音に反しない限りにおいて、古くからの教会の益となる伝統は守られるべきである。
◯ 第16条 公民生活について
  キリスト者は、為政者や法律に従わねばならない。ただし彼らが、罪を犯すことを命令する時は、この限りではない。
◯ 第17条 審判のためキリストが再び来り給うことについて
  この世には終わりがあり、その時イエス・キリストは「生ける人と死にたる人」を審判される。
◯ 第18条 自由意志について
  人間は、この世に関していくらかの自由意思を有する。しかし神に関する事は理解できず、ただみ言によって聖霊を受ける時、このことが理解される。(奴隷意志論)
◯ 第19条 罪の原因について
  罪の原因は、悪魔の意志であって、神に背き、神の助けを拒む。
否 第20条 信仰と善き業について
  行いが人を義とするのではなく、信仰から善き行為が必然的に生じる。
否 第21条 聖徒崇拝について
  聖徒たちの信仰や善き業に倣うように聖徒を敬うべきであるが、聖徒をよび求め、助けを求めることを教えない。

第2部 改正せられた悪弊を詳論した条項
否 第22条 主の晩餐におけるパンとぶどう酒について
  聖餐はパンとぶどう酒の二種陪餐であるべきであって、一種陪餐は聖書と矛盾する。
否 第23条 司祭の結婚について
  神の特別の賜物と恩寵なしには、独身生活を送ることは難しい。故に独身生活に適しない人は結婚すべきである。
否 第24条 ミサについて
  ルター派はミサを廃したのではなく、ミサに付随していた悪弊を取り除いたのである。
否 第25条 告解について
  ルター派は告解を廃したのではなく、告解の条件として罪を数えあげることを廃したのである。
否 第26条 食物の区別について
  食物に関する諸規定が義のために定められているとするのは悪弊であり、これを廃する。
否 第27条 修道士の誓願について
  修道士の誓願は義認や聖化の手段ではない。
否 第28条 教権について
否 結論
  本信仰告白は既存の教会(カトリック教会)との対立を意図して記されたものではなく、ルター派の信仰はむしろ聖書に忠実にあらんとすることを大胆かつ率直に告白したものであると総括している。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E5%91%8A%E7%99%BD


http://www.wjelc.or.jp/office/credo/augsburg/


95ヵ条の論題(1517)の採点結果をネットに張り出しといたから(2015)

2015-12-28 | プロテスタント
◯ 1、私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ……」〔マタイ4.17〕と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。
否 2、この言葉が秘跡としての悔悛(すなわち、司祭の職によって執行される告解と償罪)についてのものであると解することはできない。
◯ 3、しかし、それは単に内的な悔い改めだけをさしてはいない。否むしろ、外側で働いて肉を種々に殺すことをしないものであるなら、内的な悔い改めはおよそ無に等しい。
◯ 4、そのため、自己憎悪(すなわち、内における真の悔い改め)のつづく間は、すなわち、天国にはいるまでは、罰(poena)はつづくものである。
否 5、教皇は、自分自身または教会法が定めるところによって課した罰を除いては、どのような罰をも赦免することを欲しないし、またできもしない。
否 6、教皇は、神から罪責(culpa)が赦免されたと宣言し、また確認するか、あるいは、もちろん自分に留保されている事項について――これらの事項を軽侮したら、罪責はまったく残ることになろう――赦免する以外には、どのような罪責をも赦免することはできない。
◯ 8、悔悛についての教会法は、生きている人にだけ課せられていて、それによるならば死に臨んでいる人には何も課せられてはならない。
◯ 10、死に臨む人に、教会法による悔悛を煉獄にまで留保するような司祭たちは、無知で悪い行ないをしているのである。
否 11、教会法による罰を転じて煉獄の罰とまでしているあの毒麦は、疑いもなく、司教たちの眠っている間にまかれたと思われる〔マタイ13.25〕。
否 12、かつては、教会法による罰は、真の痛悔を試みるものとして、赦罪の後ではなく前に課せられていた。
◯ 13、死に臨む人たちは、死によってすべてを支払うのであり、教会法規に対してはすでに死んだ者であり、それらの法からは当然解放されている。
◯ 14、死に臨んでいる人たちの不完全な信仰や愛は、必ず大きな恐れを伴う。そして愛が小さければ小さいほど、恐れは大きいということになるだろう。
否 15、この恐れとおののきは(他のことはいわずとも)、それだけでも十分に煉獄の罰をなしている。なぜなら、それは絶望のおののきにもっとも近いからである。
◯ 16、地獄、煉獄、天国の異なっているのは、絶望、絶望に近いこと、救いのたしかさ(securitas)の異なっているのと同じように思われる。
◯ 17、煉獄にある魂にとって、おののきが減ぜられるに応じて愛が増し加えられるのは、必然のように思われる。
否 18、また、煉獄にある魂が、功績や増し加わる愛の状態の外におかれているということは、理性によっても、聖書によっても証明されているとは思えない。
◯ 19、また、私たちはいかに強く救いを確信しているとしても、煉獄にある魂、少なくともその全部のものが自分の救いについて確信し、安心しているということが証明されているとも思われない。
否 20、したがって、教皇は、すべての罰の完全赦免ということによって、これをただもうすべての罰の赦免と解するのではなく、ただ彼自身によって課せられた罰の赦免とだけ解するのである。
◯ 21、したがって、教皇の贖宥によって、人間はすべての罰から放免され、救われると述べるあの贖宥説教者たちは誤っている。
◯ 22、否むしろ、教皇は、煉獄にある魂が、この生において教会法にのっとって課しておかねばならなかったような罰を、煉獄にある魂にたいして赦免することはない。
否 23、とにかく、もしすべての罰の赦免がだれかに与えられうるとするならば、それはもっとも完全な人にだけ、すなわち、ごく僅少な人にだけ与えられることは確かである。
否 24、このことから必然的に、大部分の人は罰の免除についてのあのけじめなく、壮麗な約束によって欺かれていることになる。
否 25、教皇が一般的に煉獄にもっている権限と同じ権限を、どの司教も主任司祭も、その司教区、聖堂区に特殊的にもっている。
否 26、鍵の権限によってでなく(彼はそうしたものをもっていない)、代祷の方法によって魂に赦免を与えることが、教皇として至当なことをしているのである。
◯ 27、箱の中へ投げ入れられた金がチャリンと鳴るや否や、魂が煉獄から飛び上がると言う人たちは、人間を宣べ伝えているのである。
◯ 28、金が箱の中でチャリンと鳴ると、確かに利得と貪欲とは増すことになる。しかし、教会のなすところはただ神の御心にのみかかっている。
◯ 30、自分の痛悔が真実であることについては、だれも確かでない。まして完全赦免を得たかどうかについてはなおさらのことである。
◯ 32、贖宥の文書で自分たちの救いが確かであるとみずから信ずる人たちは、その教師たちとともに永遠に罪に定められるであろう。
否 33、教皇のするあのような贖宥は、人間を神と和解させる、あのはかり知れない神の賜物なのだという人たちは、大いに警戒されねばならない。
否 34、なぜなら、あの贖宥の恵みは、人間によって制定された秘跡による償罪の罰にだけかかわるからである。
◯ 35、魂を《煉獄から》買い出し、あるいは、告解証を買おうとしている者に、痛悔が不必要であると教える人たちは、非キリスト教的なことを説いている。
◯ 36、真実に痛悔したキリスト者ならだれでも、贖宥の文書がなくても彼のものとされているところの、罰と罪責よりの完全赦免をもっている。
◯ 37、真実のキリスト者ならだれでも、生きている者も死んでいる者も、贖宥の文書がなくても神から彼に与えられたものである、キリストと教会とのすべての宝にあずかっているのである。
否 40、真実の痛悔は罰を求め、またこれを愛する。しかし、贖宥の寛大さは《罰を》ゆるめ、これを憎むようにしむける――少なくとも、そのような機会となる。
◯ 43、貧しいものに与えたり、困窮しているものに貸与している人は、贖宥を買ったりするよりも、よりよいことをしているのだと、キリスト者は教えられねばならない。
◯ 44、なぜなら、愛のわざによって愛は成長し、人間はよりよくなるからであるが、贖宥によっては人間はよりよくならず、ただ罰からより自由となるにすぎないからである。
◯ 45、困窮しているものを見て、彼を無視して贖宥に金銭を払う人は、教皇の贖宥ではなく、神の怒りを自分に招いているのだと、キリスト者は教えられねばならない。
◯ 46、人があり余るほどに豊かでないかぎり、必要なものは自分の家にとどめておかねばならず、決して贖宥のために浪費してはならないのだと、キリスト者は教えられねばならない。
◯ 47、贖宥を買うのは自由であって、命ぜられたことではないのだと、キリスト者は教えられねばならない。
否 49、教皇の贖宥は、もし人々がこれに信頼しないのであれば有益であるが、これによって神への恐れを捨てるのであればもっとも有害であることを、キリスト者は教えられねばならない。
◯ 50、もし教皇が贖宥説教者たちのする取り立てを知っていたなら、彼は聖ペテロ聖堂が自分の羊たちの皮、肉、骨で建てられるよりむしろ、灰と消えることを選ぶということを、キリスト者は教えられねばならない。
◯ 55、贖宥が(それは最小のものである)一つの鐘、一つの行列、一つの儀式で行なわれるのであれば、福音は(それは最大のものである)百の鐘、百の行列、百の儀式をもって説教されねばならないというのが、必ずや教皇の考えるところである。
否 62、教会の真の宝は、神の栄光と恵みとのもっとも聖なる福音である。
否 63、しかし、この宝は、第一の者を最後の者とするので〔マタイ20.16〕、当然もっとも憎まれるものである。
否 64、他方、贖宥の宝は、最後の者を第一の者とするので、当然もっとも喜ばれるものである。
◯ 67、説教者たちが大声で最大の恵みだと呼びたてている贖宥は、利得を増大させるかぎりにおいて、真に最大の恵みだと解される。
◯ 68、しかし、それら《贖宥》は神の恵みと十字架の敬虔とに比較すると、実際もっとも小さいものである。
◯ 71、使徒的贖宥の真理に反して語るものには、アナテマと呪いとあれ。
◯ 72、しかし、贖宥の説教者の言葉の欲と放恣とに対して真に心するものには、祝福あれ。
◯ 76、これに反して私たちは、教皇の贖宥は、小罪(venialia peccata)のうちのもっとも小さいものでも、罪責に関するかぎりでは、これを除去することができないと言うのである。
否 79、教皇の紋章をつけて目立つように立てられた十字架が、キリストの十字架と同じであると言うのは、冒涜である。
否 80、このような説教が人々に行きわたることを許している司教、主任司祭、神学者たちは、釈明しなければならないだろう。
◯ 81、贖宥についてのこのような気ままな説教は、信徒のとがめだてや、あるいはいうまでもなく鋭い質問から教皇への敬意を救ってやることが、博学の人たちにさえ容易でないようにしている。
否 82、すなわち、「もし教皇が、大聖堂建設のためのもっとも汚れた金、すなわち、もっともいやしい理由によって無数の魂を贖うとすれば、なぜ教皇はもっとも聖なる愛や魂が最大に必要とするもの、すなわち、すべてのうちでもっとも正しい理由によって煉獄をからにしないのであろうか」。
否 84、また、「不敬虔な者、敵対する者には、金を出せば敬虔で神の愛する魂を買うことを認めながら、敬虔で愛される魂自身の必要のためであるなら、これを無償の愛によって贖うことをしないような神と教皇との新しい敬虔とは何であろうか」。
◯ 90、以上のような信徒のもっとも細心の議論を、力だけでおさえたり、理由をあげて解かなかったりすることは、教会と教皇とを敵の嘲笑にさらし、キリスト者を不幸にすることである。
否 91、したがって、もし贖宥が教皇の精神と意図に従って説教されるとすれば、これらすべてのことは容易に解消するであろう、否存在することもないだろう。
◯ 94、キリスト者はその首(かしら)であるキリストに、罰、死、地獄を通して、従うことに励むように、勧められねばならない。
否 95、そしてキリスト者は、平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国にはいることを信じなければならない〔使徒14.22〕。
   ルター著作集委員会編『ルター著作集 第一集第一巻』(聖文舎刊)所収、緒方純雄訳による
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%80%8C%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%BA%94%E3%81%8B%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%AB%96%E9%A1%8C%E3%80%8D(%E6%8A%84)-1614590

聖書には聖書をもって反論する

2015-12-20 | プロテスタント
祝福されたパンは、文字通り体、血、霊、神性になったなどとは、主は一言も言っていない。繰り返そう。福音書どれ一つをとってもその件に関し、聖書全体のどこかにでも、主イエスが祝福されたパンは、主の文字通りの体、血、霊、神性になったなどと教えている箇所は見当たらない。

最後に、多くのカトリック側の反発を覚悟して言うが、聖書のどこにおいても、聖霊は祝されたパンが主イエス・キリストの文字通りの体、血、霊、神性になったなどと教えている箇所は、残念ながら見当たらない。化体の支持者は彼らの教理の根拠として、唯一つたりとも、はっきりとした聖書的教えすら示すことはできない。
http://remnant.jimdo.com/no14-%E8%81%96%E9%A4%90%E5%BC%8F-%E3%81%9D%E3%81%AE%E8%81%96%E6%9B%B8%E7%9A%84%E8%A6%8B%E8%A7%A3-%E5%8C%96%E4%BD%93%E8%AA%AC%E3%81%AE%E8%AA%A4%E3%82%8A/

マテオ26
26 イエズスはパンを取り、祝し、裂き、それを弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ。これは私の体である。」

マルコ14
22 イエズスはパンをとり、祝してそれを裂き、一同に与え、「これをとれ。これは私の体である。」と言われた。
24 また杯をとり、神に感謝の祈りをとなえ、彼らに与えて飲ませ、「これは私の血である。....」

ルカ22
19 パンを取り、感謝して裂き、弟子たちに与え、「これはあなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれを行え。」と言われた。
20 食事ののち、杯も同じようにし、「この杯は、あなたたちのために流される私の血による新しい契約である。」

カトリックはこういう潮流の影響を受けている

2015-12-20 | プロテスタント
 聖餐式は、キリストが制定された大切な儀式として、キリスト教会が、伝統的に重んじてきたものです。お問い合わせの未受洗者の陪餐については、日本基督教団の教会では、意見が二つに分かれています。

 一つは、伝統的な教会(カトリック教会、聖公会、ルーテル教会など)の受けとめ方に則っている、受洗者のみに限る、という考え方です。特に、カトリック教会では、司祭が祝福したパンとワインは、キリストの体、血そのものになる極めて神聖なものだから、はっきり信仰を告白している信徒のみが、これに与るべきである。そうでないと、キリストの体と血を汚したことになる、と信じています。だから、聖餐式(カトリック教会では、聖体拝領と言います)で、祝福したワインが余った場合、司祭は、それを飲み干さなければなりません。そうでなければ、聖なるキリストの体を放置することになるからです。パンも同じです。プロテスタント教会では、パンとワインは、キリストの体と血のシンボルと考えるのですが、カトリック教会と同じように、この式を聖なるものと考える教会は、受洗者のみに限るとします。

 これ対して、聖餐式は、すべての人が招かれているものだから、受洗者のみに限ることはないとする教会が次第に増えてきています。生前のキリストがお示しになった愛(生き方)から、キリストが最も嫌われたことが差別だった。だから、聖餐式においても未受洗者を排除することは、キリストの御心に反する、と受けとめて誰でも聖餐式に与ってよい、という考え方です。

 こうなると、では、洗礼とは、何なのか、という問いが、あらためて出されてくるでしょうし、さらに、教会とは何か、という根源的な問題にも遡ることになります。

http://fukuinn.info/txtPage/000100.html

プロテスタントからカトリックへ 「ローマ・スイート・ホーム」 ←お気をつけて!

2015-12-12 | プロテスタント
プロテスタントの基本は「sola scriptura(ソラ・スクリプトゥーラ:聖書のみ。カトリックでは“聖書と使徒の伝承”の両方)」です。しかし、その聖書の中で、イエズスは「私の言うことを行いなさい。」とは言っても、一度も「私の言葉を書き残しなさい。」と言っていないのです。それどころか、パウロは、テサロニケ人への第二の手紙2章15節において、「・・・しっかりと立ち、わたしたちの説教や手紙を通して学んだ正統な教えを固く守りなさい。」と言っています。(この箇所は英語では"...stand firm and hold to the traditions which you were taught by us, either by word of mouth or by letter."となっていて、直訳すると、「・・・しっかりと立ち、言葉であれ手紙であれ、わたしたちによってあなたがに教えられた伝統を保ちなさい。」となります。)

もう一つのプロテスタントの重要な教義は、「sola fide(ソラ・フィデ:信仰のみ、カトリックでは“信仰と行い”の両方が必要)」ですが、こちらも聖書をよく読むと、パウロは一言も言っておらず、逆にヤコブの書簡では「たとえ、誰かが自分は信仰をもっていると言っても、行いを伴わないならば、なんの役に立つでしょう。そのような信仰は、その人を救うことができるでしょうか。」と「行い」の必要性を説いています。パウロもコリント人への第1の手紙のあの有名な愛の賛歌の箇所で、「たとえ、山を移すほどの完全な信仰があっても、愛がなければ、わたしは何ものでもない。」と言っています。愛には気持ちや思いだけでなく、行いが伴うのは当然のことです。

この「契約(covenant)」という概念が、旧約の時代から新約にいたるまで、聖書の根幹となっていて、「契約(covenant)」を通して、父親としての責任を果たしている姿が、時代を通して描かれています。アダムとの「契約(covenant)」は、「婚姻」、ノアとの「契約(covenant)」は、「一家」、アブラハムとの「契約(covenant)」は、「一族」、モーゼとの「契約(covenant)」は、「12氏族を通して一つの国となる家族」、ダビデとの「契約(covenant)」は、「王国としての家族」、そしてイエズスは、ユダヤ人も異邦人も関係ない「世界的な家族」とします。しかも、イエズスが「契約(covenant)」と語ったのは、ご聖体を制定されたあの時だけなのです。

ハーン夫妻の改宗へのドラマチックな道のりは、"Rome Sweet Home"に詳しく記載されています。

http://reginapacis.jugem.jp/?eid=65


http://www.donboscosha.com/product/2101

カルバンの予定説 これは最悪の神学説である。

2015-12-06 | プロテスタント
こういった、罪の問題とは救いに直接関ります。
この罪の問題に思い悩んでいた私が、そのとき不幸にも
触れてしまったのが、カルヴァン主義の「二重予定説」です。
カルヴァン主義の「二重予定説」とは、
死んで救われる者と、死んで地獄に行く者とが、
当人が生まれる前から、神によってあらかじめ決められている、
というものです。
どういう割合で決まっているとか、そういうことまで
言っていませんが、カルヴァン主義が聖書から
導き出した救済論がこの予定説なわけです。
この「予定説」はカルヴァン独自のものではありません。
教派を問わずすべての教会が模範としている古代教父の
一人である、ヒッポのアウグスティヌスという人も、
彼の予定論を展開させています。
カルヴァン主義は、それをさらに特化させて、
救いに定められている人は、神の恩寵を受け、たとえば善い
行いを通してますます自分の魂を聖化していき、
神の救いの予定から外れた者は、その定められたところの
悪い行いを積み重ねて、自分の地獄行きをますます確固にするのです。
乱暴に言えば、そういう説です。

私は、最終的にはこの説を拒否しました。
でもこの説が正しいとか、誤りだとかは、誰にも言えないんです。
死んでからでないとわかりません。
私がこの説を初めて知ったときの衝撃と言ったら、
まぁ、成人洗礼特有の熱心さと敏感さからかもしれませんが、
本当にある期間深刻な気持になったものです。

でも、この「二重予定説」をはっきりと、「異端」と
断定した教会がありました。
「異端」とは、キリストの使徒たちに繋がる教えではない教説のことです。
その教会が、カトリック教会だったのです。
この忌まわしい教説に対して、はっきりと、教会全体で
Noと言ったのが、カトリック教会だったというわけです。
私は、このことをも知って、あぁ救われたと安堵したわけでは
なかったですが、カトリック教会に対するある親近感と信頼感を
持つようになったのです。と同時に、プロテスタントに対する、
ある種の不信感と嫌悪感も持つようになっていました。
私の、カトリシズムに対する接点は、こんなことがきっかけでした。
http://blog.livedoor.jp/dick82/archives/51926008.html