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カトリック情報

katorikku jyohou

大祭司

2015-12-06 | キリスト教


http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%81%82%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%BF%E6%B7%B1%E3%81%84%E5%A4%A7%E7%A5%AD%E5%8F%B8%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9

*第二の幕屋…至聖所 。ここに入れるのは、『大祭司』ただ一人だけでした。
その『大祭司』は、全人類の中から、一つの民族が、一つの民族から一つの国家が、一つの国家の中から一つの種族が、一つに種族の中から一つの氏族が、一つの氏族の中から一つの家族が、一つの家族からただ一人だけが『至聖所』の中に入れたのです。
その『大祭司』でさえ『至聖所』に入れるのは、年に一度『ヨム・キプール(贖罪の日)』だけでした。
その日、大祭司は少なくとも二回、多くても四回、至聖所に入ることのできた唯一の日でした。
『至聖所』に入るとき、大祭司は『血』を携えずに入ることはありませんでした。
地上の幕屋に仕えるちじょうの祭司たちはみな、同じく『血の護り』を必要としていました。
『至聖所』での務めは年に一度だけでしたが、毎年毎年繰り返されました。
それは、大祭司によってのみ、年に一度だけ、そそぎの血を伴ってのみという、非常に限られた『神に近づく方法』でした。
http://osusowake.hatenablog.com/entry/2015/11/29/075602



自分の社会的ステータスを上げようとしてカトリックになる世俗的な人がいる

2015-09-26 | キリスト教
現在はどうか知りませんが、少なくとも明治期から美智子さん入内頃の日本でカトリック信仰を選択する家庭は富裕層でハイカラ好み、新しいもの好きな環境にある方々だったのでは、と思います。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/6b50cd3da82dd19cab876a1dd3f1bf56

神父同乗の目的はカトリック教徒である機長、ポール・ティベッツが恐れずに原爆投下を行えるよう、いわば神の名のもとの励まし役だったのです。
欺瞞もいいところですが、しかし現代の価値観から(当時のアメリカの)カトリックを裁いても意味はさしてないでしょう。
問題はカトリックに肩入れなさる皇后陛下が、これらの事実をどう受け止めて、アヴェ・マリアを演奏され、修道女たちと交わり、また「A級戦犯」などということを、おっしゃるのかということです。
イラク戦争でも戦車隊には牧師が常に同行、お祈りしていた事実はご存知でしょうか。

現代の価値観で70年前の神父の行動を裁きはしませんが、事実として原爆の大殺戮にカトリックが手を貸していたその事実を、皇后陛下にはお知り頂きたいと思うのです。

そして私たち国民が直視すべきは、美智子さま入内にあたってはキリスト教徒たちが一斉に動き、またカトリック側から昭和天皇への改宗への働きかけがあったことでしょう。そして、雅子妃の周辺には創価の陰がちらつくこと。
近年お二人の皇太子妃は、神道にとっては異宗教である要素に囲まれていらっしゃること。

現在の宮内庁における創価学会員の割合は解りませんが、美智子様入内なさってからの、カトリックプロテスタントの宮中への関わりが増えた、とは言えます。

靖国存続にあたって、カトリックからの働きかけがあったことは事実ですが、それは、神道を一段低い信仰と見做し、いずれ改宗前提の寛容さではなかったかと、疑うべきでしょう。
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1918339.html

ヨベルの始まり

2015-09-22 | キリスト教
これらの律法は、イスラエルの歴史においてあまり守られなかったということに注意すべきです。出エジプトとバビロン捕囚の間に、70回も無視されたため、土地を休ませるために70年の捕囚が課せられたのです(2歴代誌36・21)。 これは、その半分以上、律法が守られなかったということを意味しています。捕囚後、この律法は遵守されるようになりました(しかし、他の律法は破られましたが)。タキトゥス(Hist. v. 4)は、そのことについて言及しています。ユリウス・カエサルは、ユダヤ人の習慣を知っていたので、7年目はユダヤ人から徴税しませんでした(Josephus, Ant. Jud. XIV. 10, 6)。しかし、オーラーによれば、ヨベルの年は無視され、安息年だけが守られたそうです。4

安息年には、刈り入れも種まきも禁止されていました。昆虫を殺そうとしたり、畑における自然の過程を妨害したりする行為がすべて禁止されていました。通行者や召使、主人が食する場合を除いて、果実は実ったままで畑に放置しておかねばなりませんでした。収穫はすべて禁止され、自分たちが食べる分を取ることしか許されていませんでした。安息年に収穫や貯蔵を禁止する戒めは、レビ記25章20節に記されています。5

しかし、土地の安息に関して、律法にはさらにヨベルの年の規定があります。ヨベルの年は、50年ごとに訪れました。「贖罪日」にラッパの音によって開始が宣言されました。49年目が安息年なので、ヨベルの年は2つの安息年の連続でした。


あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。
あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。
あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。
この第五十年目は、あなたがたのヨベルの年である。種を蒔いてはならないし、落ち穂から生えたものを刈り入れてもならない。また手入れをしなかったぶどうの木の実を集めてはならない。
これはヨベルの年であって、あなたがたには聖である。あなたがたは畑の収穫物を食べなければならない。(レビ記25・8-12)

http://www.millnm.net/millnm/institutes/SandLife.html

 聖書には七の生活リズムがある。一週間毎の安息日に加えて、七ヶ月目の贖罪の日、そして七年毎の安息日というように。イスラエル人は、六年間農耕し、七年目には完全に休耕するように命じられた。その休耕の年が安息年である。この年、貧しい者はその土地に自然に生えたものを自由に食べてもよく、イスラエルの奴隷は解放され、負債はすべて取り消された。それは、土地が人のものではなく、「神のもの」であることを教えるためであった。
 安息年を七度重ねた49年目の翌年、つまり50年目はヨベルの年と呼ばれた。ヨベルは「雄羊の角」という意味で、この年の第七月の10日に角笛を鳴り響かせるところからその名がつけられた。この年に、まず畑を休ませなくてはならない。それは、農耕の視点からすれば土地に対する賢明な方策であり、人にとっては喜ばしい余暇であった。しかしながら、安息年を七度重ねた49年目も、畑を休ませなくてはならないから、ヨベルの年には2年連続の安息となる。この定めを聞いて、「何を食べたらよいのか」と不安に思う者に対して、神は、「六年目にあなたがたのため、私の祝福を命じ、三年間のために収穫を生じさせる」(25:21)と約束していることに注意を払わなくてはならない。

http://tudoku.hope8.net/02/2012/04/14/%E3%83%AC%E3%83%93%E8%A8%98%E3%80%80%EF%BC%92%EF%BC%95%E7%AB%A0/

キリストは十字架上で死んではいないという諸説

2015-08-30 | キリスト教
イスラム教
http://www.geocities.jp/ahulal_bayt/islam-questions/islam-f7.html

グノーシス主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E7%8F%BE%E8%AA%AC#.E3.82.AD.E3.83.AA.E3.82.B9.E3.83.88.E6.95.99.E3.82.B0.E3.83.8E.E3.83.BC.E3.82.B7.E3.82.B9.E4.B8.BB.E7.BE.A9.E3.81.AE.E4.BB.AE.E7.8F.BE.E8.AA.AC

ユング
http://www.j-phyco.com/category5/entry62.html

ダビンチコードの著者
http://abcdane.net/archives/001085.html

神学者
http://www.telegraph.co.uk/news/religion/7849852/Jesus-did-not-die-on-cross-says-scholar.html

気絶蘇生説 国連大使 及び 弟身代わり説
http://www008.upp.so-net.ne.jp/k-hime/sinnto.html/5-3.html

チャネリング 錯覚説
http://www008.upp.so-net.ne.jp/k-hime/sinnto.html/5-3.html

キリストはいつ死んだのか

2015-08-30 | キリスト教
4月4日説 
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10116831510

33年4月3日金曜日説 地質学から
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2149750/Jesus-died-Friday-April-3-33AD-claim-researchers-tie-earthquake-data-gospels-date.html
http://ameblo.jp/cometoknow/entry-11263141746.html

33年4月3日金曜日午後3時説 天文学から
http://x51.org/x/03/05/2011.php

33年4月3日金曜日説 聖書から
http://www.firstthings.com/web-exclusives/2014/04/april-3-ad-33

33年4月3日金曜日午後3時説 聖書から
http://www.ncregister.com/blog/jimmy-akin/when-precisely-did-jesus-die-the-year-month-day-and-hour-revealed


キリストはいつ生まれたのか

2015-08-29 | キリスト教

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000137319


When Dionysius Exiguus computed the date of Christ's birth in the Middle Ages, he named the year of the Nativity 1 A.D., and stated that Jesus' birthdate was December 25 of that year. The year immediately before this was the year 1 B.C. Whether from mathematical ignorance or design, he did not include a year zero.

This complicates the calculation of the dates of the Jubilee. Christmas of the year 2 A.D. was the 1st anniversary of Christ's birth, according to Dionysius' calculations; similarly, the second anniversary of that birth fell in the year 3 A.D. Taking this forward a few centuries, we find that the 2000th anniversary of Christ's birth should fall on December 25, 2001.

To complicate matters further, it seems that Dionysius' made an error in his calculations. Herod the Great, who the Bible says was alive at the time of Christ's birth, died in the year 4 B.C., based on the reports of Josephus. According to the Gospel of Matthew, when Herod was unable to trick the astrologers into leading him to the Child, he ordered the slaughter of all the male babies in Bethlehem. Since Herod's command (which is not attested outside the Gospels, but is consistent with his historical character) was to kill all babies under age 2, this event occurred no more than 2 years after Christ's birth. If we assume that this happened near the end of Herod's life (which seems likely), this puts Christ's birth in the year 5 or 6 B.C.

In that case, the 2000th anniversary of Christ's birth has already gone by, having been in 1993 or 1994. Naturally at the distance of years, it is practically impossibile to say with certainty what year Christ was actually born, though sometime between 7 B.C. and 1 B.C. seems all but certain.
http://www.catholiceducation.org/en/controversy/common-misconceptions/in-what-year-was-christ-actually-born.html