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カトリック情報

katorikku jyohou

アメリカニズムという異端:愛国心が信仰にすり代わる

2017-01-04 | キリスト教

 

Americanism is a term that appears to express nothing more than a devotion to America. In reality, however, it teaches principles and a way of life that pose, and always have posed, a threat to the Church of Rome. Indeed, the threat that it poses to Catholicism may be the most dangerous experienced by her in the past few centuries of revolution. Its harmful quality arises from its subtle and effective transformation of the United States into a new religion whose central dogma of “pluralism” cannot be investigated or questioned; a new religion whose creed is said to be purely “practical” and “pragmatic”, but which actually aims at a messianic rebuilding of the entire globe; a new religion that brooks no opposition to its will.

 

The collapse of the Catholic cause in the United States can be attributed in large degree to an understandable error to which patriotic Catholic Americans fell prey. Americanism was presented to them as involving nothing more than a praiseworthy love of country with practical, pragmatic goals. They rushed wholeheartedly into its defense under the assumption that their civic duty demanded it, and that failure to do so would lend support to the enemies of their country. But what they, in fact, received in the name of patriotism and pragmatism was a set of instructions for religious and cultural suicide. Catholics followed these instructions, replacing their true faith with the Americanist religion, generally not even recognizing that they were doing so, and, indeed, generally rejoicing in their self-destruction every step of the way.

http://www.traditionalcatholicpriest.com/2017/01/01/americanism-heresy-dr-john-c-rao/


2017はこんな因縁(摂理)の年 プロテスタント500年、メーソン300年、ロシア革命100年、ファティマ100年、さて

2017-01-02 | キリスト教

The year 2017 is a year of significant anniversaries, many of them ominous. This new year marks:

  • 500 years since the Protestant Reformation (Oct. 31, 1517)
  • 300 years since the founding of modern Freemasonry, archenemy of the Catholic Church (June 24, 1717)
  • 100 years since the Communist Revolution in Russia (Mar. 8 – Nov. 8, 1917)
  • 100 years since Mgr. Eugenio Pacelli (the future Pope Pius XII) was consecrated a bishop (May 13, 1917)
  • 100 years since Our Lady appeared to the shepherd children at Fatima, Portugal (May 13 – Oct. 13, 1917)
  • 100 years since the publication of the Code of Canon Law (May 27, 1917)

http://novusordowatch.org/2017/01/2017-year-of-anniversaries/


最後のカトリック王の戴冠100周年

2016-12-31 | キリスト教

http://orbiscatholicussecundus.blogspot.jp/2016/12/100th-anniversary-of-coronation-of-last.html

オットーがマデイラ島に到着してからわずか2か月後の1922年4月1日、カール1世は肺炎によって死の床についたが、その際、母ツィタは9歳のオットーにこう言った。「お父様は今、永遠の眠りに就かれました。あなたは今、皇帝および王(Kaiser und Könige)となったのです。」と[23]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF#.E7.88.B6.E3.81.AE.E5.8D.B3.E4.BD.8D.E3.80.81.E7.9A.87.E5.A4.AA.E5.AD.90.E3.81.AB


不正義を許せない潔癖な考えの人の論理は熟考を欠いた短絡的な結論に陥る

2016-03-06 | キリスト教
全能の神が、こんなひどいことを黙って見ているはずはないから、神はいない。
王であるメシアが、こんなひどい死に方をするはずはないから、彼はメシアではない。
神の教会が、こんなひどいことをするはずはないから、教会は神からのものではない。
聖なる公会議が、こんなひどいことを決めるはずはないから、この公会議は本物ではない。
聖霊に導かれている教皇が、こんなひどいことをするはずはないから、彼は教皇ではない。

わからなくても心に留めておく例
2:48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
2:49 するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
2:50 しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった
2:51 それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた

ヘイトスピーチという取り締まり手法を使えば言論統制ができる

2016-02-24 | キリスト教
アメリカのHPの「ブレアン パブリッシャー」という名前のレポートで、紹介されていたアメリカの現状について語られていたこと(その7)

オーストラリアでは、hate crime法によりクリスチャンの言動が規制されており、何かを悪く言ったらダメ、ということになっている。日本でいうヘイトスピーチのことである。そして、「同性愛のことを悪く言ってはいけない。」とか「イスラム教徒のことを悪く言ってはいけない。」等規制されている。そんな風に、人の悪口を言ったらhate crime法(憎しみ犯罪法)の法律を犯す、ということになっている。その法律が厳格に施行されるとどうなるか?その結果、オーストラリアの教会では、礼拝中の教会に信者ではない人(ヘイトスピーチを取り締まる人、訴える人)が入って来て、牧師のメッセージをチェックする。そして、牧師の説教の中身を同性愛のことを悪く言ってはいないか?という視点でメモをしていく。そして、たとえ聖書に基づいていようと同性愛に反対したことばを語る牧師は、逮捕されるようになる。

こんな風に・・・思った以上に時代は進んでいる。みことばのゆえに、逮捕、苦難に会うということが欧米の教会に来ている。きっとそのうち日本においても、ヘイトスピーチに対する規制や同性愛者の権利が拡大解釈され、同性愛を悪く言うクリスチャンが非難、排斥のターゲットになると思われる。このように悪い意味合いで、時代は進んでいる。そして聖書に書かれているすべてのことはいずれ成就する。

このような時代に対して、我々はどう対応するべきなのか?このことに関連するのか、この記事(bereanpublishers)を書いたアメリカのクリスチャンは、「もう、これからは(公の教会でなく)家庭で集会を持つようにしましょう!また、その際は、集会をどの家庭で開いているのかバレないために、場所&曜日も変えましょう!」ということを言っている。そのとおり、アメリカにおいて、心あるクリスチャンたちはすでに、かつての共産主義時代のクリスチャンたちのように、地下教会化しているのである。
そして、このことは、聖書でかねてから預言されている「仮庵の祭り」に通じる。
日本に住んでいるクリスチャンである私たちも他人事と思うべきではない。その日はいずれ、日本にも来る。聖書には「全世界に来ようとしている試練の時」と書かれているからである。終わり

http://whattopics.at.webry.info/201602/article_41.html

岩下壮一批判 

2016-01-24 | キリスト教
岩下壮一の理解するカトリック信仰とは、簡単に言うと「神に直結したカトリック教会の保証する、唯一絶対の真理と救いを独占的に保持する信仰」だとでもいうことになるだろう。「唯一絶対的に正しい」という主張である。
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岩下壮一の言う「カトリックの客観性」に話を戻すと、それは「近代思想の主観性」とその影響下にある「プロテスタントの主観主義」に対しての「優位」を保証するものだと主張されるが、これは端的に詭弁である。
たしかに「近代思想(現代思想)」も「プロテスタント」も、結果としては「主観主義」的である。なぜならば、それは「人間の認識の過渡的限界性」を正しく自覚して、私たち人間が「過渡的・暫定的真理」しか把持し得ないと、「謙遜」かつ「客観的」に考えるからである。
それに対し、岩下の言う「カトリック信仰の客観性」とは「カトリック教会の権威による保証」ということでしかない。「近代思想」や「プロテスタント」には、カトリックのような「真理を保証する権威」が「客観的に存在」しない、と言うのである。
しかし、非信仰者ならば誰でも「カトリック教会(ローマ教皇と司教団)」の「権威」と言えども、所詮それは「人間(組織)の権威」でしかなく「主観的」でしかあり得ない、ということなる。「権威」主義的な組織が「客観的(政治組織的)」に存在しようと、それは「真理保証の権威とはなり得ない」と、当然のごとく考える。カトリック教会においても、結局のところ、判断するのは、主観的でしかあり得ない「人間」だからである。したがって、岩下式「(我々)カトリックだけは別格」という主張は、「客観性のない自慰的強弁」でしかない、ということになる。

では、岩下はこの「カトリック教会の主観性」という批判に対して、どう答えるだろう?
岩下の説明を要約すると「カトリック教会は、神の子であるイエス・キリストによって建てられ、彼に指名された教団の首位である使徒ペテロ、その後継者であるローマ教皇と司教団による公会議によって、神の真理を保持教導し続ける権能が与えられている。たしかに彼らも、個人としては可謬的な人間だが、公会議には神とキリストから発出した〈聖霊〉が下るので、その決定は絶対的権威を有する無謬の真理である」ということになる。
しかし、この「正統性」主張の中には、いくつもの「信仰における主観的判断(妄信的断言)」が含まれているという事実は、カトリックの「妄信者」以外には、自明であろう。岩下壮一の言う「カトリック信仰の客観性」とは、かくも子供騙しな「自己中心的で自己満足的主張」でしかないのである。
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この種の岩下壮一的「欺瞞」は、「第二バチカン会議」によって決定的に打ち砕かれたのだが、しかしこの重要な公会議の決定事項について、聞きかじり程度にしか学ばなかかった「現代の一般信徒」の中には、その歴史的展開の「重み」を理解できず、単なる「時代迎合的なリベラル化」であると反発し、内心にそのナイフを抱え続けていたのであろう。
彼らが「なぜ公然と教会(公会議)に反発しなかったのか」と言えば、岩下壮一も書いているとおり、「カトリックの信仰」においては「公会議の決定事項」は「無謬の神の(聖霊による)決定」であり、それに従わない者は「異端」として「破門」の対象にもなり得たからである(つまり「地獄」行きだったからだ)。
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端的に言って、いま現在において「岩下壮一のカトリック信仰観」を肯定することは、現在における正統的「カトリック教会」の教導に反する(歯向かう)行為であり、それは取りも直さず、自身を「異端」の立場に措くことにほかならない。
「第二バチカン公会議」は、岩下壮一が信奉していたような「第二バチカン公会議以前」のカトリック信仰の在り方、つまり「閉鎖的で独善的な権威主義」を改めて、プロテスタントを含むキリスト教各派との合同を目指す対話の推進とともに、あらゆる宗教宗派や思想的立場に開かれた対話路線を打ち出して、これを「決定」した。そしてこの方針は、すみやかに末端信者まで伝えられ、実践へと移されることを要求するものである。だからこそ、それに反するようなものを信奉することは無論、推奨することも認められない。

公会議は、それ以前の「強制的権威主義」を批判して「対話」を重視したものだからこそ、「異端」「審問」「破門」「禁書」といったことを自ら放棄したので、公会議の決定に反したことをしたところで、ただちに「異端」呼ばわりしたり「審問」にかけたり「破門」したりすることはない。ただ、派手にやれば「教導的注意」が、当然の「司牧」行為としてなされるだけであろう。
しかし「公会議に決定は、神の決定(意思表示)」であるという「教理」は、すこしも変わってはいない。「強制」しなくなったとしても、カトリック信者にとって、その決定は「絶対」であり、その「絶対」に従わない者は、その内実において、すでに「主観性に毒された、教会の客観性を認めない、異端者」だということになる。
したがって、「カトリック信徒」を名乗りながら「岩下壮一信奉者」を名乗ることは、その「カトリック信仰」にかけて「あり得ない矛盾」なのである。だから、岩下壮一を心から信奉するのなら、カトリック教界を去ってからにするべきであり、それこそが岩下壮一自身も認めていた「正統的なカトリック信徒の論理」であり、正しい態度なのである。
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不勉強な誰もが、自分の「主観的」評価を人前で語れるようになったのは、ネット環境の普及があったればこそである。そのような環境が成立したからこそ、「不勉強なカトリック信徒が、党派的欲望のおもむくままに、不適切なカトリック神学書を絶賛」したり、日本の歴史における「汚点」を直視したくない「自称愛国者たちが、その党派的欲望のおもむくままに、歴史修正主義的なイデオローグを絶賛」したりするようになったのである。
つまり、「岩下壮一信奉者の出現(表面化)」は「ネトウヨの出現(表面化)」と、軌を一にした現象なのだと言えよう。これは、単なる「日本のキリスト教界内」に限られた局所的現象ではなく、広く「日本社会の保守化傾向」の一端であると見た方が正しいのではないだろうか。
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「ネトウヨ」の跋扈、それに出自を持つ「在特会(在日特権を許さない市民の会)」による目に余る「ヘイトスピーチ」の問題、ネトウヨに人気の安倍晋三内閣による「近隣諸国との衝突危機」を煽っての「安保法制の強化」、安倍シンパの作家百田尚樹による「沖縄の民意を伝える地元マスコミに対する愚弄」等々に代表される昨今の「反知性主義」的動向と、信仰的無知に由来する一部カトリック信徒による「岩下壮一再評価」とは、地続きの現象だと考えるべきなのではないか。両者に共通するのは、「正当に保証されてしかるべき自分たちの優位が、(敵によって)不当に簒奪されている」という「被害者意識」である。

「ネトウヨ」の場合だと、日本は中国や韓国から「不当にしつこく、謝罪と賠償を求められている」と考えて、その根拠となる「日本の大陸侵略の歴史」について、その「正当性」を是が非でもアピールしようとする。日本の「侵略者=加害者」としての「負の歴史」によって長らく忍従を強いられてきたという「被害者意識」から、彼らは「自己正当化」による解放を希求している。
そして、こうした心理は、たぶん「岩下壮一賛嘆者」にも多分に共有されている。
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しかし、「第二バチカン公会議以前」の「カトリック教会が、絶対的真理(正義)を独占しており、それ以外はすべて誤り」という「独善的優位性のぬるま湯」に浸かっていた者には、この「公会議」の決定は「天動説信奉者が、地動説を真理として強いられた時」以上の「敗北感を伴う衝撃」であったかも知れない。彼らは「お山の大将」の立場から、一転「すべての人の下僕」の立場への「転落」を強いられたも同然だったのである。
だから、彼らが「被害者意識」と「ルサンチマン(怨み)」に使嗾されて「反動」に走った、というのも理解できないことではない。彼らにすれば、「第二バチカン公会議」以後のカトリック教会(バチカン)は、「欺瞞的なリベラル」であり、「本来のカトリックの教えを歪めた、異端者の巣窟」と化したものと、そう認識されていても何の不思議もない。だからこそ、いまさら岩下壮一を、反動的に「再評価」し、これこそ「カトリックの真髄」だなどと、「教会の教え(公会議の決定)」に反してまで、担ぎ回ってみせるのである。

http://8010.teacup.com/aleksey/bbs/2335