『奇跡の丘』
原題: il vangelo secondo matteo (マタイによる福音書)
監督・原案・脚本: ピエル・パオロ・パゾリーニ
1964年イタリア、モノクロ映画
パゾリーニは1963年にロッセリーニやゴダールなどの監督作品との
オムニバス・コメディ映画で、『ラ・リコッタ(意志薄弱な男』という題の短編で
イエスの生涯を描いたが、イタリア当局の検閲で、
「国家の宗教にとって不愉快な物」とされ、没収された、という。
しかしその翌年1964年、前作とは全く別の、イエスの生涯を描いた
映画を製作した。それがこの『奇跡の丘』である。
原題は「マタイによる福音書」と聖書そのまま。
新約聖書の福音書は「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」と四編あるが、
パゾリーニは、「ヨハネ」は曖昧すぎる、「マルコ」は凡庸すぎ、
「ルカ」はあまりに感傷的だ、として、マタイの福音書を選んだ、という。
(英語版Wikipediaによる)
映画の冒頭のタイトルではアフリカ系の太鼓のリズムが賑やかな
音楽がかかるが、これはMissa Lubaというアフリカのコンゴの
ミサ曲から「グロリア」という題名の歌であるという。
そして若い女の顔が大写しになる。彼女は妊娠している。
男がやってきて、女を見る。そして男は去っていき、
道にうずくまる。すると、神の使いの天使があらわれ、
こう言うのだ。
恐れずマリアを妻として迎えなさい。彼女は聖霊により
子供をさずかったのだ、と。
こうしてヨセフはマリアを妻として迎え、マリアは男の子を産み、
イエスと名付けた。
と、いうように、マタイの福音書のとおり、イエスの誕生から
話が始まるのだが、登場人物たちのほとんどが、プロの俳優ではなく、
しろうとである、という。
聖書の舞台である聖地はあまりに商業化されすぎている、というので、
ロケは南イタリアで行われたそうだ。
マタイの福音書では、イエスが馬小屋で生まれた、というお話はないので、
岩窟住居がマリアとジョセフ、そしてイエスの家である。
そこに東方の博士三人がやってくる。
このマリアを演じている若い女性の顔が実に印象的である。
また、彼らを導く主の使いは、よく絵画にあるような羽をつけた天使ではない。
若い女性なのだが、顔つきはどこか男性のようでもある。
さて、成長したイエス、細面の顔で、やせた小柄な感じの男性が
演じているが、彼は実はスペイン人の学生で撮影当時19歳だった、という。
よく西洋絵画で見るイエス・キリストとはイメージが違うが、
眼力するどく、静かに語る。
声は別の俳優が吹き替えしているから、太い力強い声であるが…。
悪魔との対決で、出てくる悪魔も悪魔らしくない、普通の男性である。
バプテスマのヨハネも、イエスの弟子となる人たちも、
イタリアやスペインではよく見かけるような普通の感じのひとたちだが、
それだから余計にリアリティが出て、宗教色が抑えられている。
すごい、と思ったのは、イエスがマタイの福音書にでてくる主要な
言葉のほとんどすべてを雄弁に演説するのであるが、
福音書の章の順番はかなり入れ違っているが、
物語としてうまくつながっており、
イエスという人物の存在感が映画の進行とともに
どんどん重く感じられてくる。
イエスの説く言葉がすらすらと心に入ってくるように思えるのは、
やはり聖書の言葉が映画の中のイエスによって発せられ、
音による言葉として聞くからであろう。
もっとも、この映画はイタリア語なので、
日本語字幕で理解するしかないのだが、
聖書の言葉で、それも話し言葉である。
手持ちの「バイリンガル聖書」でイエスの言葉を確認しながら
映画を再見すると、英語表記のほうが日本語よりずっと
わかりやすい。
しかしイエスという人は、実際に存在した、
実に頭脳明晰でよほど弁が立つ人で
あったのだ、とつくづく思う。
そして「律法」に精通していた。弟子たちは読み書きができたかどうか
疑問である。彼らは漁師であったから、おそらくできなかったのだろう。
民衆だって文字を知っている人はほとんどいない時代であっただろうから、
イエスはたとえ話をあげて話をしたから、実にわかりやすい。
しかしその語気は時に荒く、演説調でもある。
弟子を演じた人の中には、イタリアの作家や哲学者がいる、という。
そして年老いた母、マリアにはパゾリーニの実母が熱演している。
また、作家のナタリア・ギンズブルグ!
イエスが弟子たちと食卓についているとき、高価な香油をイエスの頭に
注ぐ役をしている。
映画を通して流れるモーツアルトの協奏曲、そしてバッハのマタイ受難曲、
黒人霊歌、タイトルにも流れた今後のミサ・ルーバ。
さまざまな文化や信仰形態から寄せ集めた、世界の宗教曲、また聖なる曲を
映画に使用するのがパゾリーニの意向であったらしい。
最後はイエスの磔刑、そして復活で終わる。
全体を通じて、新約聖書の「マタイの福音書」に忠実な筋書きである。
福音書にないセリフはない。
このマタイの福音書が、実に客観的にイエスの誕生から復活までの
エピソードを再現し、言葉として表したものであることがよく理解できる。
最後、復活したイエスが言う。
あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
父、子、精霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなた方に命じておいたすべてのことを守るように、
彼らを教えなさい。見よ、わたしは、世の終わりまで、いつも、
あなたがたとともにいます。
(訳は「バイリンガル聖書」から引用しました。)
父、子、精霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなた方に命じておいたすべてのことを守るように、
彼らを教えなさい。見よ、わたしは、世の終わりまで、いつも、
あなたがたとともにいます。
(訳は「バイリンガル聖書」から引用しました。)
この作品が、無神論者、同性愛者、そしてマルキスト、として
知られていたパゾリーニ監督作品、とは信じがたい。
英語のWikipediaによると、1966年のインタビューで、
不信心者のパゾリーニがなぜこのように宗教的な映画を
てがけたか、という質問に、パゾリーニはこう答えた、という。
私が不信心者である、ということを知っているのなら、
私よりあなたがたのほうがよくわかっているではありませんか。
私は不信心者であるかもしれない、しかし、私は信仰と言うものに
ノスタルジアを持っている不信心者なのです。
私よりあなたがたのほうがよくわかっているではありませんか。
私は不信心者であるかもしれない、しかし、私は信仰と言うものに
ノスタルジアを持っている不信心者なのです。
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