【産経ニュースの引用】(渡辺惣樹氏)
≪「地球温暖化」先導した人物≫
地球温暖化について論議する上で1人の人物の歩みを取り上げたい(以下文中の敬称は略す)。
1929年4月、モーリス・ストロングは、カナダ・マニトバ州の田舎町オークレイクに生まれた。この半年後にニューヨーク証券取引所を舞台にした株価の暴落が始まった。20年代、第一次世界大戦で潤った米国は「狂騒の20年代(roaring 20’s)」と呼ばれる未曽有の好景気に沸いた。行き過ぎた信用拡大は、29年10月24日(暗黒の木曜日)の株価暴落をきっかけに一気に収縮した。
米国は長い不況に陥り、カナダをも巻き込んだ。両親も財産のすべてを失い借金に苦しんだ。ストロングは学業優秀で14歳で高校課程を終え大学奨学金を得たが、そのお金は父の借金の返済に充てた(43年)。
この時代の一部知識人の典型である「資本主義嫌い」を心に深く刻んで成長した。紙幅の関係で彼のその後の生い立ちは省くが、ストロングはカナダ石油開発業界の重鎮となった。富を築いた彼が近づいたのはカナダ政界だった。63年、都合のよいことに首相には左翼思想を持つレスター・ピアソンが就いた。ピアソンを通じてカナダエリート社会と強い結びつきを持った。
69年、地球環境保全に熱心なスウェーデンがストロングにアドバイスを求めた。スウェーデンは世界規模での環境会議を開きたかったが、開発途上国は環境保全どころではなかったし、先進国も競争に打ち勝つことに精いっぱいの時期だった。スウェーデンの訴えを聞く国はなかった。
ストロングは環境会議(ストックホルム会議)の議長に就任すると、先進国による工業化支援を約束することで開発途上国を納得させた。ソビエトの科学者を科学アドバイザーに迎えてモスクワも籠絡(ろうらく)した。彼を過激社会主義者と疑う先進国(とりわけ英国)の説得には米マサチューセッツ工科大学(MIT)の科学者グループの研究「成長の限界」(72年)を利用した。
ストロングは地球環境をモニターする国連組織(UNEP)の立ち上げに成功した(72年)。本部は意図的にアフリカ(ケニアのナイロビ)に置いた。
≪美しきスローガンに沈黙≫
92年、国連はリオデジャネイロで地球サミットを開催した。
議長はストロングだった。各国の保守派は、社会主義者による究極の大きな政府(世界政府)づくりの一環だと警戒したが、美しきスローガン(地球環境保全)の前に沈黙した。生物多様性尊重、気候変動(温暖化)・砂漠化防止をテーマにしたサミットは成功した。
ストロングは、環境保全を「梃(てこ)」にして、国連に米国以上の権限をもたせられると確信した。彼の理想は、豊かな先進国(とりわけ米国)から開発途上国への富の移転だった。そのためには米国内にも協力者が必要だった。彼はアル・ゴアに目を付けた。
そしてシカゴに開設される(二酸化炭素=CO2)排出権取引所(Chicago Climate Exchange 民間企業)を利用した。ゴアはこの取引所の株主となった(2003年)。二酸化炭素を、地球温暖化の悪者に仕立て上げたのは、それによって取引所の株主が儲(もう)けられるからだった。
06年、ゴアはドキュメント映画「不都合な真実」を製作し、優しい心を持つ世界の人々を怯(おび)えさせた。京都議定書(1997年調印)の発効(2005年)1年にタイミングを合わせた公開だった。10年、排出権取引所は売却されたが株の3%を所有するゴアには十分な利益があった。
京都議定書では、狙い通り先進国だけに二酸化炭素排出削減義務を課し、工業化を求める開発途上国の義務は免除された。富の再分配スキームの完成である。
≪中国に逃げたストロング≫
06年、ストロングは国連石油食糧交換プログラムの資金100万ドルを横領し有罪(米連邦裁判所)になると中国に逃げた。彼は、共産主義国家中国こそが米国に代わって世界覇権を握る理想の国と信じていた。
だからこそ京都議定書策定プロセスで中国を開発途上国に分類し、30年まで削減義務を負わせなかった。中国共産党が彼を歓待したことはいうまでもない。ストロングは、米国の訴追を逃れながら故国カナダに戻り、15年11月オタワで死去した。
彼の亡くなった年、パリ協定が締結された。この協定でも中国には30年まで二酸化炭素削減の義務はない。ゴアが「洗脳」に成功した米民主党は、脱炭素社会実現の旗振り役に変貌した。
米大統領のトランプは、「地球温暖化(CO2悪玉説)は、米国製造業から競争力を奪うために中国が創造した概念(嘘)である」とツイートしたことがある(2012年11月6日)。彼はここに書いた地球温暖化二酸化炭素悪玉説創造の経緯をうすうす気づいていたに違いないのである。(わたなべ そうき)
≪「地球温暖化」先導した人物≫
地球温暖化について論議する上で1人の人物の歩みを取り上げたい(以下文中の敬称は略す)。
1929年4月、モーリス・ストロングは、カナダ・マニトバ州の田舎町オークレイクに生まれた。この半年後にニューヨーク証券取引所を舞台にした株価の暴落が始まった。20年代、第一次世界大戦で潤った米国は「狂騒の20年代(roaring 20’s)」と呼ばれる未曽有の好景気に沸いた。行き過ぎた信用拡大は、29年10月24日(暗黒の木曜日)の株価暴落をきっかけに一気に収縮した。
米国は長い不況に陥り、カナダをも巻き込んだ。両親も財産のすべてを失い借金に苦しんだ。ストロングは学業優秀で14歳で高校課程を終え大学奨学金を得たが、そのお金は父の借金の返済に充てた(43年)。
この時代の一部知識人の典型である「資本主義嫌い」を心に深く刻んで成長した。紙幅の関係で彼のその後の生い立ちは省くが、ストロングはカナダ石油開発業界の重鎮となった。富を築いた彼が近づいたのはカナダ政界だった。63年、都合のよいことに首相には左翼思想を持つレスター・ピアソンが就いた。ピアソンを通じてカナダエリート社会と強い結びつきを持った。
69年、地球環境保全に熱心なスウェーデンがストロングにアドバイスを求めた。スウェーデンは世界規模での環境会議を開きたかったが、開発途上国は環境保全どころではなかったし、先進国も競争に打ち勝つことに精いっぱいの時期だった。スウェーデンの訴えを聞く国はなかった。
ストロングは環境会議(ストックホルム会議)の議長に就任すると、先進国による工業化支援を約束することで開発途上国を納得させた。ソビエトの科学者を科学アドバイザーに迎えてモスクワも籠絡(ろうらく)した。彼を過激社会主義者と疑う先進国(とりわけ英国)の説得には米マサチューセッツ工科大学(MIT)の科学者グループの研究「成長の限界」(72年)を利用した。
ストロングは地球環境をモニターする国連組織(UNEP)の立ち上げに成功した(72年)。本部は意図的にアフリカ(ケニアのナイロビ)に置いた。
≪美しきスローガンに沈黙≫
92年、国連はリオデジャネイロで地球サミットを開催した。
議長はストロングだった。各国の保守派は、社会主義者による究極の大きな政府(世界政府)づくりの一環だと警戒したが、美しきスローガン(地球環境保全)の前に沈黙した。生物多様性尊重、気候変動(温暖化)・砂漠化防止をテーマにしたサミットは成功した。
ストロングは、環境保全を「梃(てこ)」にして、国連に米国以上の権限をもたせられると確信した。彼の理想は、豊かな先進国(とりわけ米国)から開発途上国への富の移転だった。そのためには米国内にも協力者が必要だった。彼はアル・ゴアに目を付けた。
そしてシカゴに開設される(二酸化炭素=CO2)排出権取引所(Chicago Climate Exchange 民間企業)を利用した。ゴアはこの取引所の株主となった(2003年)。二酸化炭素を、地球温暖化の悪者に仕立て上げたのは、それによって取引所の株主が儲(もう)けられるからだった。
06年、ゴアはドキュメント映画「不都合な真実」を製作し、優しい心を持つ世界の人々を怯(おび)えさせた。京都議定書(1997年調印)の発効(2005年)1年にタイミングを合わせた公開だった。10年、排出権取引所は売却されたが株の3%を所有するゴアには十分な利益があった。
京都議定書では、狙い通り先進国だけに二酸化炭素排出削減義務を課し、工業化を求める開発途上国の義務は免除された。富の再分配スキームの完成である。
≪中国に逃げたストロング≫
06年、ストロングは国連石油食糧交換プログラムの資金100万ドルを横領し有罪(米連邦裁判所)になると中国に逃げた。彼は、共産主義国家中国こそが米国に代わって世界覇権を握る理想の国と信じていた。
だからこそ京都議定書策定プロセスで中国を開発途上国に分類し、30年まで削減義務を負わせなかった。中国共産党が彼を歓待したことはいうまでもない。ストロングは、米国の訴追を逃れながら故国カナダに戻り、15年11月オタワで死去した。
彼の亡くなった年、パリ協定が締結された。この協定でも中国には30年まで二酸化炭素削減の義務はない。ゴアが「洗脳」に成功した米民主党は、脱炭素社会実現の旗振り役に変貌した。
米大統領のトランプは、「地球温暖化(CO2悪玉説)は、米国製造業から競争力を奪うために中国が創造した概念(嘘)である」とツイートしたことがある(2012年11月6日)。彼はここに書いた地球温暖化二酸化炭素悪玉説創造の経緯をうすうす気づいていたに違いないのである。(わたなべ そうき)
「嫌です」