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New Horizon

~紆余曲折の日々の中で...

ジャカルタから戻ってきて

2015-10-03 | お出かけ
インドネシアから成田空港は約7時間のフライトです。早朝に離陸すると、夕方には成田着陸ということになります。機中では、早朝出発ということもあってか、眠りにつく人も多いようですが、PCを開いて、出張報告書の作成に勤しむご仁もおられるようです。一方で、ビデオ鑑賞や音楽を楽しみにしている方も多いようです。食事も関心事の一つです。

ビデオについては、新作ビデオに交じって旧作も色々準備されていましたが、今回は、「ダビンチ・コード」を久しぶりに見てみました。これは、キリスト教(カトリック教会)の所謂、「常識」に挑戦するような内容で、シオン修道会やその「秘密儀式」などが取り上げられています。そのためか、2006年3月には米国カトリック司教会議が、反論するウェブサイトを開設したということです。

第三者にとり、教義の内容は儀式などよりは寧ろ、話の展開に大いに興味を持たせる映画の内容になっていると感じます。

成田からはバスで地元に向かうわけですが、約2時間半かかります。7時間のフライト後の2時間半は短くもあり、また、長くもありということです。今回は、たまたま、数名の外国人が乗り込んで来て、そのうちの1人が横に座ったので、いつもとは違いました。

どこから?と聞くと、米国のアイダホ州からだと返して来ました。アイダホはジャガイモで有名ですね?自分は、海軍の関係で、若い頃(44年前)横須賀にいた。では、Disciplinedだったんでしょうね?と聞くと、und-disciplinedだった、ドラッグもやっていたと...

今はまじめになって、Missionary関係のプロジェクトを進めている。では、「ダビンチ・コード」や、イエスの末裔については?(言外に、イエスはマグダラのマリアと結婚して子供を残したという前提があります)。ザカリヤの事も聞いてみようかと思いましたが、止めておきました。(イエスの父だという話です。処女受胎とは異なり)

それから、ビジネスのこと、ラグビーのこと(WCの4戦目で対戦)、日本の印象・食事・好きなところなどと色々話が及びました。そういえば、オレゴン州のカレッジでmass shootingが起きたが、銃規制についてはどう思っているのか?これについては難しい問題で、米国国民は、政府による管理を嫌っているので、銃規制は良いとは分かっているが、そう簡単な話ではないと。

このような話を2時間あまり。途中駅で多くの乗客が下りていったので、彼も奥さんの席に一緒に座ることになり、会話は終わりました。サンフランシスコから日本に来たようで、サンフランシスコでは飛行機が予定通りに飛ばず、相当待たされ、そのためか奥さんはかなりお疲れのようでした。

分かれ際に名刺をくれましたが、Reverendというタイトルになっていて、牧師さんだったんだと。Missionary関係のプロジェクトというのは、film production for missionariesのことでした。

いずれにせよ、2時間も付き合ってくれて感謝という気持ちでした。




インドネシアで想う

2015-03-27 | お出かけ
2年ぶりにインドネシアに行って来ました。日本とは異なり、ジャカルタの気温は、32℃、むっとした熱気と湿気を感じます。ただ、この時期は雨期らしく、夕方になると、空が暗くなり、激しいスコールが続きました。稲妻の光の帯も日本のそれより太く、数秒後に、それに続く、雷鳴の大きさも呆れるほどです。ここは南国、という印象でした。

ジャカルタ市内の喧騒は相変わらずです。町には車が溢れ、その間を、数多くのバイクが隙間があれば、その間を走り抜けようとします。車とバイクがごちゃごちゃになって、動いているというイメージです。日本人の私では、到底運転できない道路事情です。信号の様子を見ていました。

赤信号になると、バイクが信号の前面に出てきて、多数がテンコ盛りの状態で、並んでいます。車は、その後ろです。というか、停まっている車の前や空いスペースに、バイクが入りこんできて並んでいるという状態です。青信号になると、バイクの群れが一斉に動き始めます。

ジャカルタで、車の中から『スディルマンプラザ』を見ました。そう云えば、インドネシア政府は、独立運動の英雄であるスディルマン将軍の銅像を日本の防衛相に贈っていることを思い出しました。

その背景には、日本とインドネシアの深い歴史的な関係があるということです。インドネシアは、350年間の植民地時代、それを運命だと意識していくようになったわけですが、1905年の日露戦争で、アジア人である日本人がヨーロッパのソ連に勝ったことで、アジア人だからといって、劣っているわけではないことに気づきました。日露戦争3年後の1908年、それまでの武力闘争とは異なる新たな武力闘争を始めます。

そして、第二次世界大戦。日本がインドネシアに進出した時、インドネシア人の多くは日本に期待していたということです。そうでない人々もいたわけですが...長い間植民地として搾取してきたオランダ人の敵である日本は、自分たちの味方という意識もあったのでしょう。

日本は対米戦争のため、強い軍を必要としていて、そのため、ペタ(郷土防衛義勇軍)というインドネシア人の組織をつくり訓練します。日本の敗戦後、インドネシアが独立を勝ち取った独立戦争で中心的な役割を果たしたのがこのペタであり、その司令官がスディルマン将軍でした。インドネシアでは、今でも最も偉大で有名な国軍司令官となっています。市内には、将軍の名前の『ジャラスディルマン』という道路もあるようです。

その将軍の銅像の受け入れを日本政府がOKしたため、インドネシア人としても、大変喜んでいるそうです。その銅像は、インドネシア人のシンボルであり、日本とインドネシアの特別な関係も表しています。






インドネシアの竹楽器について

2012-09-30 | お出かけ
インドネシアのバンドンへ出かけたときのこと、時間が空いたのでウジョン竹楽器小屋に行きました。

この小屋は、ウジョ・ガラゲナとその奥さんとが、アンクルン伝説と謳われたウジョ氏の夢を実現させるために、1996年に設立されました。ここは、ウジョ竹楽器を催す演芸場ですが演芸教育ラボでもあり、また、村民間の相互扶助を精神とする西部ジャワ地方の独特な文化観光地となっています。

アンクルン(竹楽器)はスンダのサレンドロ調(五音階)のもので、唯一の神様への感謝を表し、人々を楽しませる誇り高い芸術であり、文化アイデンティティということです。

上演会では、ゴレック人形劇から始まりました。この人形劇はスンダ地方独特のもので、人形は人間の身体に似せて作られ、そりに衣装が付けられています。この人形劇は、最初、村落清め、鎮守祭などの伝統的儀式の際に操り師によって演じられました。

哲学の見地から見て、ワヤンは影という意味で、人間の憤怒、善、欲などの性質を反映しています。上演の際、ゴレック人形劇には常に創造主に忠誠を払い、人間同士で善行をするようという道徳的教訓が入っているということでした。善行をした者には必ず幸福を得、悪行をした者には必ず災難に遭います。

圧巻はアンクルンの合唱でした。集まった観客全員にアンクルンを1台ずつ渡します。1台が一つの音を表現します。ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドという風に、私が受け取ったアンクルンはファの音でした。これを振動させれば、細工された木がファの音を奏でます。

そこに集まった100名近くの人たちが、指揮者の合図で、自分の音が来たときに、一斉に音を奏でて音楽が進行して行くというわけです。最初は、覚束なかった感のあった演奏でしたが、段々と慣れてきて、合奏にも一体感が出てきました。そこにいる人たち全員が、僅かな時間ではありましたが、同じ気持ちで同じ曲を奏でることができました。

2時間くらいの時間でしたが、多忙な出張の合間の、楽しくゆったりしたひと時でした。

http://www.angklung-udjo.co.id



インドネシア、8・17

2012-05-22 | お出かけ

(Double click to enlarge)


20年ぶりに、所用でジャカルタを訪れました。イメージの中に残っている町の佇まいと目の前の今の姿の間に、大きなギャップがあることを実感しました。

宿泊地の周辺は、欧米の大都会と変わらず、高層ビルが立ち並んでいます。ホテルやビジネスオフィス、ショッピングモールであったりします。モールの中に入れば、高級ブランドののお店が沢山並んでいます。銀座やNYなどと同じような...違いは、インドネシアの人たちが多いということくらいでしょうか。日本と違うのは、警備の人たちが多く、ホテルに入るのにも、その都度、持ち物のチェックがあって、若干煩わしい。

ホテルはゴージャスで、たまたま週末が重なっていたので、披露宴のようなものが開かれていましたが、皆さんドレスアップして集まっていました。宴は夜遅くまで続いていたようです。それだけを見てしまうと、豊かな印象も感じてしまいましたが...

インドネシアらしいところと言う事で、博物館や独立の歴史を展示している場所にも行ってみました。天気もよく、大勢の人が集まっています。独立の歴史についても、少し知ることができました。

日本との関係では、Wikipediaによると、【日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数が、後の独立戦争期に結成される正規、非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった。同時期に日本はインドネシアの独立の方針を推し進め、1944年9月にはインドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁した他、1945年3月には独立準備委員会を発足させ、同年8月19日にスカルノとハッタ、ラジマンによって独立宣言するという方針を決定し、日本もこれを承認した。

しかし、19458月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地で独立を宣言した(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。】などと記載されています。

この1945年8月17日をメモリアルとして、独立記念タワーに纏わる高さや階段の段数などがこの数字に創られているとのことでした。

知るところでは、一時はカウントリーリスクの高い国として出張などの制限もあった国ですが、現在は、アジアの成長しつつある国の一つとして、海外からの注目を集めていることを感じました。




平城遷都1300年祭

2010-05-06 | お出かけ
GWを利用して、平城遷都1300年祭に行ってみました。

近鉄の大和西大寺駅を降りると、かなりの人でした。そこから会場までは、徒歩15分、無料バスに乗ると待ち時間も入れると30分位掛かります。年寄りと一緒でしたので、バスに乗って、会場内のバスターミナルまで直行しました。その周辺は、レストランやフードコートが並んでいます。フードコートでお寿司セットとお茶を買って、座る場所を探しました。同じような人が多く、ちょっと大変でした。何せ、天気も最高、気温も最高で、この周辺には、あまり木立もなく、相当に暑かったです。

お昼を食べて、歩いてぐるりと回りました。朱雀門から近鉄奈良線の踏切を渡って、南門広場、第一次大極殿・前庭へと。結構、広い空間というのかスペースが広がっています。第一次大極殿・前庭には、少し行列ができており、待ち時間30分という表示がありました。でも、行列の動きは速く、15分位で中に入れたように思います。

第一次大極殿は、朱雀門の北800mに堂々とそびえています。高さは、27m。直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦9万7000枚を使った、平城宮最大な宮殿で、当時、天皇の即位式や外国使節との面会など、国のもっとも重要な儀式のために使われていたそうです。

そこから、遣唐使船が展示されている場所まで歩きました。平城京歴史館の外に展示されていました。歴史館は人で一杯で、16:30からの入館の前売り券を13:00から販売していました。一般で¥500でした。

日によって、交流広場でイベントが行われているようでしたが、この日は、そこまでのエネルギーもなく、帰途に付きました。