あるフォトジャーナリストのブログ

ハイチや他国での経験、日々の雑感を書きたくなりました。不定期、いつまで続くかも分かりません。

ハイチ(14) 2010年3月4日

2010年03月04日 | 日記
モナに再会したのは、ハイチに入国した翌日の2月4日だった。モナが避難していた米国のNGOが管理する孤児院はデルマ地区のはずれにある、まだ舗装されていない凸凹道と建設半ばの建物が多い新興住宅地の一画にあった。そこには、数十名の孤児(震災孤児ではない)と障害を持った子供たちが収容されていた。モナは、地震のストレスからか、食欲がなく、以前よりも痩せていたが、元気そうだった。孤児院の建物は一見すると、被災していなようだが、安全が確認されるまで、みな敷地のテントの中で寝ていた。モナと娘レイカは、子供たちの世話を手伝うという条件で、ここに滞在していた。多くの被災者たちが、空き地や公園に粗末なテントを建てて、不便な生活を強いられているのに比べれば、 食糧と水があり、そして何よりも安全が保障されている。
早速、出発前に頼まれていたモナ用の緊急物資が入った袋を渡した。驚くかもしれないが、袋の中身は、シャンプー、香水、ブレスレットとネックレスとイアリングなどの装身具、T-シャツなど、まるで地震とは関係のない品物ばかりだ。シャンプーなどの日用品が品不足で、値上がりしているとのことだった。
地震時の話を聞いた。モナの話によれば、地震時は最も被災した地区の一つであるポルトープランスの中心部にいた。帰宅するために乗ったタップタップ(乗り合いバス)の中だった。他の乗客と出発を待っていた時、地震が発生した。強い揺れを感じたモナは、どうすることもできず、そのままバスの中で揺れがおさまるのを待っていた。だが、慌てて飛び出した乗客の男性は、落ちてきた瓦礫が頭に直撃し、その場で亡くなったと思われる。揺れがおさまり、バスを降りると、モナは瓦礫の埃を被り、全身が真っ白になっていた。
学校に行っているはずの娘レイカの安否が気がかりだった。電話をしたが、いっこうに繋がらない。
倒壊した建物、負傷した人々、呆然と立ちすくむ人々。変わり果てたポルトープランスの光景に驚かされながらも、急いで家に帰ると、レイカはそこにいた。無事だったのだ。レイカは、前日学校をさぼった。外出前に、モナは「今日は学校へ行くように!」と、何度も注意したが、レイカはその日も、学校をさぼっていた。地震時は家の庭でマニキュアを塗っていたそうだ。その、おかげで助かった。レイカが通っていた学校は地震で倒壊した。もし、その日、母親に言われた通りに、学校に行っていたならば、亡くなっていたかもしれない。学校をさぼったのが、幸いしたのだから、運が良かったとしか言いようがない。
再開したその日から4日ほど、モナには出発直前に決まったテレビ取材を手伝ってもらった。
テレビ取材が終わり、モナと再び合ったのは数日後だった。髪を綺麗にセットし、爪に綺麗なマニキュアを塗り、白いドレスで表れたモナの姿に驚いた。震災のイメージとは、まるでかけ離れたものだったからである。
土産のシャンプーや香水や装身具など、モナは女性らしく、おしゃれをしたかったのだ。テレビ取材で稼いだ数百ドルを持って、美容院で過ごした数時間は、モナにとって、地震後に初めて味あうことができた至福の時だったに違いない。

写真は、友人宅でまどろむモナ



報告会のお知らせです

■とき:3月7日(日)14:00-16:30
■会場:あーすぷらざ・映像ホール(5階)

http://www.k-i-a.or.jp/plaza/news/20100207_hiroba.html#d
 
2月に現地を訪れた報告と、
ここまで被害を大きくしたその社会的な背景についてを話す予定です