日本共産党は1922(大正11)年、旧ソ連のモスクワに本部を置く「共産主義インターナショナル」(コミンテルン)の日本支部として誕生した。結成当初のメンバーは堺利彦、山川均、野坂参三、徳田球一らである。
ロシア革命(1917年)後の19年、レーニンによってつくられたコミンテルンは、共産主義の思想を各国に「輸出」し、全世界を「ソビエト化」つまり、共産主義化することが目的の組織だった。
当時誕生したばかりのソ連は、一国だけの革命政権が、いずれは他の資本主義諸国から包囲されてしまうことを恐れ、諸外国にも同様の革命組織が必要だと考えたのである。このため、各国支部の共産主義者たちは、コミンテルンによるモスクワからの指令と資金提供を受けて、ソ連のための工作やスパイ活動はもちろん、自国の政治体制を内部から混乱させて、いずれは自国でも革命を起こそうと考えていたのだ
25年に日本で成立した治安維持法も、そもそもは共産主義者を取り締まるためのものだった。現在では「戦前の悪法」の代表格のように言われているが、「天皇制打破」と「共産主義革命」という、まさに国家転覆とほぼ同義の言葉を綱領に掲げる組織に対し、国が警戒するのは当然だった、結果的に党指導者らは厳しい弾圧を受け、別の罪で死刑に処されるものもいた。現在でも、日本共産党は「戦前、侵略戦争に反対した唯一の党」「獄中で弾圧されても命をかけて戦った唯一の党」などと常套句のように自画自賛する。だが、こうした「美談」が真実をねじ曲げていることは、コミンテルンと日本共産党の関係を考えただけでも明らかである、当時の日本共産党の具体的な目的は、スパイ活動を通じてソ連に情報を流し、中国大陸に進出していた日本軍のソ連侵攻を阻止することに加え、中国で進行中だった共産主義革命を支援することであり、いずれもコミンテルンが与えた任務だった
わが国が先の戦争に至った経緯については議論が分かれるところではあるが、その時、共産党は他国と内通し、他国の指示に従って、自国の体制を転覆させようとしていたに過ぎなかったのである。決して「平和のため」に「戦争反対」を訴えていたわけではないのだ