風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

江戸川詩吟道場

2014年12月21日 | 詩吟
このところ、欠席がちだった江戸川の練習に参加。

いつものメンバーで、いつものように発声練習から始まる。

丁寧な発声練習なのだけれど、なかなか、私の楽器が整ってこない。
春先から、喉や鼻の不調が続いて、自分の吟詠ができずに来た一年でした。

思いがけずオルティンドーの自主練習を始めることになって、いい感じで音が鳴ってきたとの実感があったのだけれど、反応が鈍い。

オルティンドーの発声をすると、詩吟には良い影響があったのを思いだしているのだけれど、今回は、オルティンドーのほうだけにしか効果が上がらない。

確かに、このところ詩吟の発声について、試行錯誤を続けているのが、いまいち、効果なし。

方向性はわかったのだけれど、自分の楽器の奏かたがつかめないでいる。

まぁ、ゆっくりね。
詩吟で遊んだ時の豊かな気持ちを忘れないで、あせらない。

最近気が付いたこと。
先達のCDをいつも聞いているのだが、気が付くと、上の空。
ただ、耳にしていたというだけでは、うっかりと、自分もそのように吟じられているとの誤解を生じているだけとわかる。

本当に、そのCDの吟詠を参考にして上達するためには、その場で、自分も声を出して、確かめる必要がある。

シャワーのように浴びるのも、別の意味では、良いことだけれど、細かい技術的なことは、聞いているだけでは、上達しない。

幼児の耳に届いたものはすべて、反復表現できるように柔らかに脳が反応するなら、聞き流すのでもよいのだが。

うっかり、耳に慣れてくると、すでに自分も吟じられるようになっているかと大いに誤解をしているのが、わかった。

耳になれる、聞き取れることになって初めて習得できるのであるが、その時間が長すぎると、誤解が生じるのだ。

ある日、耳になれたフレーズを吟じてみると、耳に入ってきている通りには吟じられないことを発見した。
「何度も聞いている」と、「その通りできる」つもりになって、大いに誤解とわかった瞬間でした。

少し、「聞いていればよい」方式に休暇を与えてみよう。

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