風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

六から七へ

2022年07月06日 | 揺り

譜№25 大山 の形を習得中の男性。

とても気持ちよく詠っています。吟詠が、ゆったりとして来ました。

大好きな漢詩をうれしくてたまらない様子で、吟じられます。

この思いに水を差さないで、もっと気持ちよく、関吟の約束事に添った

吟じ方ができることをわかっていただくには、どうしたらよい?

毎回、立ち止まり、毎回同じ結論を出す。

    小細工をしないで、私の感じたままを伝えるしかない。

 

   〈余計な雑音を入れない。〉

楽をしようと思っているわけではないことは十分わかっています。

意識とは別の体が、欲しているのだろうと思う。

 

六の高さがきれいに出て、更にのびやかな声・音が出てくるようになったのになぁ。

濁った音色の六ではずみをつけて、七の音に上がる癖がある。

女性には、見かけません。

六の高さの音色のまま、丹田に意識を下ろして行く(決して力をいれるのではない)

すると、美しい音色のまま七の高さの声がでる。

ほら、できるじゃない。

 

その意識と体との連携を、うっかりすると忘れる。

その濁った音をださないで、とか、弾みを付けようとしないで、とか、毎度言葉を変えてみる。

 

気持ちよく吟じれば吟じるほど、テキストにはない音が出現する。

そして、山を下りていくときにも、五から三半の高さに下りる時も、無駄な音階が入る。

毎回、訂正してすぐに治るのであるが、次の練習では、また同じ繰り返し。

 

ここであきらめてしまうと、その上には、伸びていくことが出来ない。

ただただ、気付きを促す。

手を変え品を変え言うのではなく、同じ言葉で、ただただ繰り返す方が良いのかもしれない。

 

ほんのちょっとしたことを見逃すと、先に言って、大きく道が広がって、元の軌跡に

戻すのが、多大な時間と量力が必要となる。

そうなって、悩まないで済むようにと考える。

しかし、自分が理解して、自分で変えようとしない限り変わらないのである

ということもよくわかる。

転ばぬ先の杖は、上を目指すには、余計なのかもしれない。

それでも、言わずにはいられない。

ここまで来て勿体ない、もっと先にいけるのに。もっと楽しんで詠うためにを考える。

 

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