第一木曜日 午前10時開始
遠雷の音で目覚め、いつまでも続く音に不気味さを覚える。
2日に埼玉を襲った竜巻は、須藤先生の住まいの近くを通った。幸い、川を挟んで向こう側に被害があったそうで、今朝は、土砂降りの雨の中を出てこられたそうです。
私はと言えば、遅刻はしなかったけれど、世話役仲間からは遅れて到着。
こんな時は、レインコート武装で、さっさといくべきだなぁ。
さて、レインコートとブーツは、子供たちが大人になってからは着用することもなく、あると言えば、防災用のビニールの雨合羽だ。
雨靴は、いつごろはいていたか記憶もないくらいだ。おしゃれなレインブーツをさがしてみよう。
習うということは、気楽なものだ。時間に遅れないように行けば好い。
まだ、予習などできるところまで言ってないので、先生の言葉をシャワーのように浴びる。
たまに、心にしみる言葉に出会うけれど、あふれるほどの言葉は、しずくとなってとどまるか、その大方は、流れ去ってしまう。
心に残った章句を提出したけれど、その章句に対するコメントは、書けなかった。
詩吟だったら、いくらでも書くことはあるのだけれど、論語となると、頭がまだまだ固い。
先生の言葉を聞いて、リラックスして、私の中の良い物だけを引き出してくださる。
そして、今日は、漢詩の読み説きもあって、新島襄の「寒梅」をなさった。
そして、私に、吟詠を注文なさった。
心豊かに、吟詠ができるのは、須藤先生の言葉のシャワーのおかげです。
のびのびと、心置きなく、先生に引き出してもらった良いところだけが、表現される2分間。
育成講座では、漢詩への興味も引き出したいとのお考えで、4月の初回には、レ点の説明や、「一」「二」の意味も説明をなさった。
漢詩を吟詠することで、親しみを増してくれれば、先生の手助けにもなるというもの。
この会には、深く研究なさっている方も参加なさっていて、それぞれの習熟度に応じて、先生の言葉が、理解されていくという不思議な集まりです。
論文が書けそうなくらいの人と、やっと、学ぼうとおっかなびっくりの態で、座っている私と。同じように机を並べているのです。
まだ、1年もたってないのに、詩吟ができるということで、先生のそばについている形になっていて、偉そうにしているようで、心苦しい。
先輩たちは、歳を重ねて着実に論語を体にしみこませているというのに。
でしゃばりな奴めと思われていないだろうか。
9月9日に、先生が主催している愛宕駅近くの喫茶店で行っている論語の会に、参加することに決めました。
美味しいランチをごちそうになり、先生の絵の展覧会もしているので、その絵の鑑賞もしてから、論語の勉強です。
その日も、「寒梅」の解説のなさるので、吟詠をとの依頼をメールで受け取りました。(9月7日)こんなに、引き立てていただいて、ありがたい限り。
ほかにも、いろんな技術や知識をお持ちの方がたくさんいらっしゃるようですが、漢文と吟詠は、近い縁ですから、論語初心者にもかかわらず、ほかの方を差し置いて、目立っているのです。
能ある鷹は爪を隠しているというのに、能のないのにしゃしゃり出ている感のある私でした。
遠雷の音で目覚め、いつまでも続く音に不気味さを覚える。
2日に埼玉を襲った竜巻は、須藤先生の住まいの近くを通った。幸い、川を挟んで向こう側に被害があったそうで、今朝は、土砂降りの雨の中を出てこられたそうです。
私はと言えば、遅刻はしなかったけれど、世話役仲間からは遅れて到着。
こんな時は、レインコート武装で、さっさといくべきだなぁ。
さて、レインコートとブーツは、子供たちが大人になってからは着用することもなく、あると言えば、防災用のビニールの雨合羽だ。
雨靴は、いつごろはいていたか記憶もないくらいだ。おしゃれなレインブーツをさがしてみよう。
習うということは、気楽なものだ。時間に遅れないように行けば好い。
まだ、予習などできるところまで言ってないので、先生の言葉をシャワーのように浴びる。
たまに、心にしみる言葉に出会うけれど、あふれるほどの言葉は、しずくとなってとどまるか、その大方は、流れ去ってしまう。
心に残った章句を提出したけれど、その章句に対するコメントは、書けなかった。
詩吟だったら、いくらでも書くことはあるのだけれど、論語となると、頭がまだまだ固い。
先生の言葉を聞いて、リラックスして、私の中の良い物だけを引き出してくださる。
そして、今日は、漢詩の読み説きもあって、新島襄の「寒梅」をなさった。
そして、私に、吟詠を注文なさった。
心豊かに、吟詠ができるのは、須藤先生の言葉のシャワーのおかげです。
のびのびと、心置きなく、先生に引き出してもらった良いところだけが、表現される2分間。
育成講座では、漢詩への興味も引き出したいとのお考えで、4月の初回には、レ点の説明や、「一」「二」の意味も説明をなさった。
漢詩を吟詠することで、親しみを増してくれれば、先生の手助けにもなるというもの。
この会には、深く研究なさっている方も参加なさっていて、それぞれの習熟度に応じて、先生の言葉が、理解されていくという不思議な集まりです。
論文が書けそうなくらいの人と、やっと、学ぼうとおっかなびっくりの態で、座っている私と。同じように机を並べているのです。
まだ、1年もたってないのに、詩吟ができるということで、先生のそばについている形になっていて、偉そうにしているようで、心苦しい。
先輩たちは、歳を重ねて着実に論語を体にしみこませているというのに。
でしゃばりな奴めと思われていないだろうか。
9月9日に、先生が主催している愛宕駅近くの喫茶店で行っている論語の会に、参加することに決めました。
美味しいランチをごちそうになり、先生の絵の展覧会もしているので、その絵の鑑賞もしてから、論語の勉強です。
その日も、「寒梅」の解説のなさるので、吟詠をとの依頼をメールで受け取りました。(9月7日)こんなに、引き立てていただいて、ありがたい限り。
ほかにも、いろんな技術や知識をお持ちの方がたくさんいらっしゃるようですが、漢文と吟詠は、近い縁ですから、論語初心者にもかかわらず、ほかの方を差し置いて、目立っているのです。
能ある鷹は爪を隠しているというのに、能のないのにしゃしゃり出ている感のある私でした。