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風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

ぎっくり腰は痛い その5

2008年01月05日 | 風のこたろう裏日記
昨日4日は、初仕事ですが、朝になって行けそうな気がしなくて、欠勤の連絡。上司は、ぎっくり腰の痛みをご存知なので、たいそう、いたわって下さいました。

月曜日は、1時間遅れぐらいで行きますといいましたが、お返事なしでした。多分無理と踏んでくれたと感じましたが。たぶん。

今日は、友達との約束もあったけれど、場所がちょっと遠いので、キャンセル。
少しは、歩くのも良いのではないかと思うのですが、長い距離は帰るのが、辛いだろうし。。。

昨日の、激しい痛みのぶり返しは、がっかりでしたが、今日は、いちばん良くなったときほどではないけれど、まぁまぁ。

女性は、お産と言う大きな仕事があって、そのときは、若さで乗り切るが、もし、何か障害が残ったときはだんだんと積み重なって、節目に出てくるらしい。

お産の後は、実家でのうのうと過ごして体を元の調子に戻すのが、一番よいみたい。

経験の無い人は、親に負担をかけてと見る向きもあるようだが、それはちがうのである。
腰のゆがみは、少しであれば筋肉の力で矯正できるが、還暦を迎える私にとっては、筋肉が弱くなったり、使いすぎて痛んでいる筋肉が増えてきて、腰の痛みとナって出てくるらしい。
これからの生活への警鐘を鳴らされたというところです。

心意気とか根性とか義理とかは、エネルギーにはならなくて、自分に正直なことでしか動きにくい体になったらしい。
これからは、わかりにくい体のアラームを良く聞き分けることが、こんな強烈な苦痛を味わう前に健やかに過ごすための宿題みたい。

主人は、お疲れのようですが、もう少しがんばって。
室内の改装にも意欲を燃やしているみたいで、ャcリャcリと計画を打ち明けてくれています。
それを楽しみに、無理せずこの一年を過ごすことにしよう。

さて、今年は、厄年だから、このぎっくり腰が何かを持って行ってくれる物と信じることにしよう。
厄払い、産みの苦しみと思えば楽なもの。。。。。
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ぎっくり腰 その4

2008年01月03日 | 風のこたろう裏日記
昨日は、友達の受診に便乗して、先生のありがたい申し出もあって、お正月早々から整体の診療を受けることができました。

10年以上も前に始まった介護から、去年の仕事まで、積み重なった疲労が一挙に噴出した形で、腰に痛みが来たのだそうです。
問題は腰ではなく、肩から腕にかけての負担が、後ろのウエストラインぁら上向きの体の前にかけての筋肉が疲れて疲れて弱くなって、それが背骨の痛みとなって出ているのだそうです。

ヘルニアとか、背骨のゆがみとか、冷えとかの問題ではないそうです。
時間をかけて、まず一ヶ月を見て、ほぐしたり刺激したりしながら直していくそうです。
日常は、楽に楽に過ごしましょうと言われました。
ごみは、足で蹴飛ばすくらいの勢いで、聡恚@など使わないようにとのこと。
そして、体に楽なものを着てと、しかし、ストレッチの素材は却って体を締め付けるので、いけないと、言われました。
パジャマのようにゆったりしたものが良いみたいです。

今日は、二人のモンゴル女性がお正月に上京していて、それぞれの活躍場所(日本国内)に帰っていくと電話があったのですが、暮れに上京したとき夕食を外で食べたきりで、お招きすることもお見送りすることもできず、残念でした。

明日の仕事初めは、朝起きてからの様子で行くかどうか決めることにしましょう。
今から、あっさりと休みを決め、土、日をゆったりと過ごし月曜日から出るように、決めてしまった方がよいのかともおもうのですが、、、

先生は、仕事を辞める方向で考えることは無いと助言を下さいました
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ぎっくり腰は痛い その3

2008年01月02日 | 風のこたろう裏日記
大聡怩烽ィ節も準備しない初めてのお正月。
もともと、娘の夫が大晦日が泊まりなので、二人でホテルのお正月をと娘がプレゼントしてくれていた。(このとき夫は、帰国していない可能性が大きかったので、一人と一人が二人で、大晦日をすごそうという提案だった。エキストラベッドを入れられる少し広めの部屋が予約できていたので、夫も気遣い無く参加できた。)
もともと、お節は、作らないつもりだったのだが、まさか、ぎっくり腰で身動きママならない状況になるとは、思っても見なかった。
こんな身軽で気軽なお正月の過ごし方もあるものだと思った。

我慢しているつもりも無く我慢していることが、体にこんな大きな災いをもたらすらしい。
整体の先生の、全てを受け入れてくださる語りに半分体がほぐされていきました。

こうなる前に、いろいろと、イエローカードが発せられていたのだけれど、それと知らずに、レッドカードが出されて、つらつら考えてみると、いろいろなことに思い至る。

仕方の無いことだけれど、この痛みは、新しい生活を模索したり考えたり、そしてちゃんと始めるための、産みの苦しみだと、義妹は言う。

夫は還暦を迎え、定年後の仕事を得て、着々と準備が整っている。
娘たちも、それぞれ、自分たちの生活を確立しつつある中で、私だけがうっかり取り残されてしまった。

子育てと言う、わくわくし次々と刺激を与えられ、楽しく充実した仕事は、他に無い。
それに代わるものを見つけようとしていなかった。
それを忘れるために、仕事に精出し過ぎて、強烈な痛みを起こす引き金になった疲れすぎを招いてしまった。
1週間の仕事を3日でやりおおせていると、自慢できたのも、せいぜい3ヶ月のこと。
所詮無理だったのか。無理をしていたつもりは無かったのだけれど、、、

60年近く使い続けたからだの、車検の時期だったのを無視し、故障が起きるまで使ってしまったということなんだなぁ。

今朝の、肩のひえが問題解決の鍵としたら、これも自分では意識していないことだったから、危ない、危ない。

夫が次の仕事への乗り換え中の休暇の時期だったから、家の片づけをしながら、主夫業に専念してくれています。
事故や大病ではないことや、夫が帰国中であることなどは天の配剤なのだろう。
 感謝
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ぎっくり腰は痛い その2

2008年01月02日 | 風のこたろう裏日記
28日29日と整体の治療を受け、次は、お正月にもかかわらず2日にいらっしゃいと先生の指示。

29日、30日と日中はどんどん楽になるのだが、夜は、痛みが軽くなっているのかどうだか分からないくらいに痛む。
痛みが来ることを覚えてしまったから、寝返りをするのが浮「。
そろそろとやるものだから、痛みが長引く。
思い切ってえいやっとやってしまえば一瞬なのだが、その痛みが浮「。

31日は、娘との始めてのホテルで迎えるお正月。
主人と娘にかばわれながら、昼過ぎに出かける。
せっかく、のんびりしようとした計画なのに、娘は、私の心配をしなければならず、かわいそうだったなぁ。

しかし、娘の顔を見ていたら、不思議と痛みがほとんどなくなって、立ち座りにも全く支障がなくなった。
やはり、ストレスだなぁ、さびしさだなぁと、主人はそれとなく言う。

予定の行事をこなし、もう直ったかなぁと思う勢いで就寝。
とんでもなかった。激痛で目が覚めてしまった。あーぁ、がっかり。

朝は、着替えに手間取るくらい痛みが残っていたが、やはり起きて動いていると痛みがどこかに行ってくれた。

残りのイベントをこなし、せっかくここまで来たからと、叔父の家に行って、タクシーをまたせたまま挨拶をして、良かったねと、笑いあった。

駅で、娘と右左に別れるときは、侘しさがこみ上げる。
帰宅後、一番楽をした私が、強烈な眠さに襲われお昼寝。
やはり、眠ると悪くなる。
もう一人の娘が来ると言うのに、どうにも起き上がれない。
やっと起き上がって、娘の顔を見ているとまた、体が楽になる。

そして帰っていくと脱力。

就寝前、夫が、肩が冷えているからではないかと言い出した。
腰には、あんかを当てているけれど、手を出して眠る癖のある私は、肩が冷えているに違いないと言う。
それで、ダウンのベストを着て眠ることにする。
仰向けに眠ったら、痛みでまた目が覚めた。収まるのにずいぶん時間がかかった。
トイレに行くのに時間がかかるようになったら、恐ろしいと思った。

それで、横臥することにして、肩をしっかり布団で覆ってもらった。
夜中に目が覚め、かなり長時間眠ったことを知る。そして、別の向きに横臥。朝までぐっすり。

今朝、起き上がりに激痛はこなかった。ばんざーい。
足に、ブーツ型のスリッパを履き、主人のダウンベストは欠かせないアイテムとなった。
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ぎっくり腰は痛い

2008年01月02日 | 風のこたろう裏日記
暮れの25日、強烈な腰痛に襲われる。
アロマ静効果で、何とか眠りにつく。
26日、不思議に痛みが収まって、出勤。
26日夜、激痛。
27日、一日痛みと戦う。

起きていると消える痛みが、痛みの無い姿勢で横になると1時間ほどで、激痛に襲われて、悲鳴とともに目が覚める。
その後、何とかなだめて眠りにつくと、朝までねむれる。
そういう繰り返しを、25日から26日、27日とくりかえす。
起きていると不思議に痛みが収まってくるので、結局28日も仕事に出る。
その日は、仕事納めで、相対することをお願いしてから、仕事を始めた。
半日で終わる量の仕事が、体をかばいながら、痛みガ来るのをを恐れながらのものだから、結局3時まで係り、昼休みなしで、一日分の仕事をしたことになる。

帰りに整体の治療を受けるつもりで、電話番号を控えていったのだけれど、連絡がつかず、御徒町の友人に乗り換えの合間に良い先生を知っているかと電話をしてみた。
その合間にも、主人がインターネットで適当なところを調べてくれていたが、友人が足繁く通っている先生の紹介を受けることにした。
ご親切に彼女が家から3分のところにあるので、付き添ってくれた。

西洋医学的には何の問題も無い私の体も、その神主もかねていると言う整体師さんは、よく生きてましたねと言うくらいの悪い状況だったと。
症状はぎっくり腰だけれど、もろもろの心身のことを我慢し続け、たまりにたまったものが凝り固まっているのだそうな。

1時間あまりも、首や腕や膝を揉み解してくれて、先生の方から明日もいらっしゃいといってくれました。
寝返るを打つときは、激痛が走り、しばらく中断しながら、思いを聞いてくれたり心身を揉み解してくれました。

帰りは、コルセットも血流が悪くなるからとはずすように言われ、はずしても不安無くゆっくり歩いて楽に帰りました。
夜も良く眠れ、翌日の診察にも付き添ってくれた友人は別人のように表情が明るいといいました。

二度目の整体(29日)は、帰りのほうが腰の一点が痛くて、悪くなったかのように思えましたが、帰宅して、起きているとどんどん痛みがなくなってきました。

しかし、夜、横になると激痛で目が覚めるのは、同じ状況が続きました。
傷みは、脳天を突き破る痛さではなくなって、腰の一点が痛いと言うのに、変わってきたのは、良くなってきたといえるのだろうなぁ。。。
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遺すものと捨てるもの

2007年12月25日 | 風のこたろう裏日記
身軽な生活をしたいと、ばさばさと物を捨てたいとおもっておりますが、、、

2002年に、我が家の一大転機が訪れたとき、いろんなものを捨てました。
その一つに、夫が長年勤めた会社の給与明細関係のものもあります。

次の会社の就職は、ほぼ決まったのですが、待遇を設定する上で、夫がもっとも高待遇だったときの額を証明するものが必要となりました。

幸い、以前勤めた会社の人たちとは、良好な関係を保っているため、電話1本で退職まえ2~3年の源泉徴収のコピーをもらえそうなので、一安心。
古い記録を残してあるところでよかったけれど、残っていなかったら、夫の実力の査定は、どうなったことだろう。

若くて動いているときは、このようなものが必要になることなど思いもよらないことでした。
闇雲にとっておいたものは、ただ場所をとるからと言う理由で、廃棄してしまったけれど、それが、こんな形で必要になるとはね。

ちゃんと意味がわかっていれば、給料明細や給料袋などは廃棄して、源泉徴収票のみを残したはずです。そうすれば場所もとらず、有用だったわけなのですが。
その時はただ、働いていたときの思い出と言う判断で、処理したのでした。

預金通帳なども、ある程度古いものは廃棄しましたが、年金や保険などの引き落としに使われているものは、証拠に残しておいた方が良いのかなぁ。

年金については、夫は今月私は3ヵ月後に受給対象の年になって手続きの完了をするから、大丈夫なんだろうか。

自分のこと分かり、身の回りの宝とごみを仕分ける能力を持って、ファイリングすることは、自身の老いてからの生活を守る大切なものなんだなぁ。

公僕と言われていた人たちの誠実な仕事があったお陰で、危機管理など必要の無かったかつての生き方は、終わりを告げたと言うことなのでしょう。


昨今の、年金の不祥事などから見ても、仕事にかかわっていたときのもろもろの動きと言うものを何か書類で遺しておいた方が良かったのだなぁと感じ始めていたときです。

夫が仕事をしていたことは、厳然として残っていますが、その評価となると、誰か公の人が文字や数字で表したものが必要となってくるわけなんですねぇ。

老人力全開の時期にこそ必要な危機管理は、誰がどのようにしていくのが良いのかなぁ。
今までのように、役所の人が生活に踏み込んで助言できなくなったからね。
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なんて贅沢な

2007年12月13日 | 風のこたろう裏日記
人間って、欲張りなものだ。
誰に言わせても、今一番幸せなんだよ。といわれるけど。


亡き母にも言ったことがある。一人娘夫婦とその孫と生活できて、貴方は世界で一番幸せだと。
一番の幸せは、一番の不幸と背中合わせということなんだなぁ。
あのときの、母の言葉は私を怒らせて、なんてひねくれたことを言うのだと悲しくなったものだけれど。


年老いて、孫にさえいたわられるようになった母にとっては、誰かのために何かをしてあげられないと言うことが、どんなに空虚だったか、今になって良く分かる。

辛いだけ、痛いだけと言うことには我慢をすればよいけれど、何もしてあげることが無いというのは、我慢でやり過ごせるものではないからね。


還暦は、老いへの分水嶺。
未だ、こちら側に居られるか、あちら側に行ってしまって、転げ落ちることに甘んじるか。
今、その瀬戸際に居て、ともすると暗い方へと考えが及んでしまうのを、何をもって食い止めたらと、思う。

申し分の無い夫と娘たち、そしてその連れ合いたちに恵まれ、孫までもさずかろうとしているのに、満たされない思いを抱えているとは、あの言葉を母に言ったときの私が感じたと同じように、家族を悲しませてしまうのだろうね。
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高校同窓会

2007年12月09日 | 風のこたろう裏日記
関東地区の同窓会に一級下で私を姉と慕ってくれているともちゃんと、出かけました。
私の同級生とは、こちらに住むようになってから、一度も会ったことがないので、なんだか気後れして連絡をしないままの出席でした。

まぁ、行ってみて驚いた同級生は一人も来ていない。
ともちゃんの代は、当番の年と言うこともあり、8人もの大人数で出席がありました。
せっかくの再会だから邪魔をしないのには、どうしたらいいかなと思っていたら、知った名前がありました。

遠縁のお姉さんが居ました。

久しぶりの再会で、お姉さんはとても喜んでくれて、話に花がさき、おかげでともちゃんの楽しみを妨げることなく、私も、楽しい時間を過ごすことができました。
お姉さんの同級生は男性なので、親しくお話を続ける間柄ではなかったようで、ことのほか喜んで話が続きました。

その他に、たまたま話に花が咲いた初対面のAさんは、儲からない店だけど、近所の人が集まって憂さの晴らし場所になっているので閉めるに閉められないということも聞きました。

何処も、高齢になってくると、外に向けて晴らせないものをやさしく接してくれる人のところへ行って、捨ててくるしかないようになる。
そういう場所がある人は良いのだけれど、無い人は、悶々と家でくすぶっていて、ただ、命を永らえているだけの人も居るのです。

行政のサービスを受けるほどではないけれど、一人で行動するほど若く無くて元気も無いというハザマの人たちが、悶々と暮らしている。
年の離れたお姉さんも、当分は、一人で電車に乗ってこられるけれど、人の手を借りなければならなくなったら、もう、来られなくなると心配していました。

縁側と庭のある田舎の家であれば、そこに行くとはなしに行って、おしゃべりをすることもできるのだけれど、ドアの閉ざされたマンション住まいであったり、スペースはあっても人の出入りがあったりする都会暮らしは、一見、目的もなく、意味もなく、漠然と、といった行動はとりにくいのです。

縁側の陽だまりのようなところは、作れないかなぁ。

Aさんと、何か習い事をしたらよいと言う話になったのだけれど、お金の問題が絡んできて、一筋縄ではいかないということが見えてきた。
ボランティアが居れば解決という問題でもなさそうです。

自分の将来も含めて、宿題をもらってきました。
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オルティンドーライブ

2007年11月27日 | 風のこたろう裏日記
腹ごしらえも終わり、開場の合図で友達はいったんドアの外に出て、並んだらしかった。
せっかく一緒に行ったけど、最初の予定は、私も出演するから、もっと一緒の時間は好くな方はずで、ご勘弁。
そのうち、ナーダム君とマンジンちゃんとお母様を連れた三枝さん登場。
前夜私は、CDの販売のお手伝いを頼まれて、快諾したのでした。

ナーダム君はお母さんが大事にしているCDが気になって仕方が無い。
せっかく並べたCDをもってきたケースにしまい始めた。

おばあちゃんが来て、「ママがよろこぶよ」と耳打ちしたら、素直にまた彼の好みで並べなおしました。
それで、私のスタッフシールを恭しく彼に進呈して、おなかにぺたりと貼りました。
これで、彼は、はじめ誰にも渡したくなかったCDを真剣に売ることを考えたらしい。
私の隣に、すっかりその気になって、かなり長時間座っていました。
お母さんの大好きなこと、してあげたいのね。
そして、何より、お母さんの歌が好き。

一曲目の、三枝さんが子守唄を歌い始めたら、「ぼくのうただったんだよ」と、言いました。
彼が、「ぼく」と自分のことを言ったかどうかは定かではないのですが、いとおしげに、とろけるような顔になって、私に、教えてくれたのです。

暗くなった観客席の後ろで、彼は私のことを友達のように思っていったのです。私と彼とは、そのときは50才以上の年の差はありませんでした。

子守唄の持つ不思議な力と、暗くて相手が見えないのとで、思わず、ャ鴻鰍ニ出た言葉の持つ温度は、あたたかくて、いつまでも胸の中に残っています。

今、彼は、マンジンちゃんに歌ってあげているのを聞いているのかしら、それとも、今でも、眠るときは歌ってもらっているのかしら。

おばあちゃんよりも年上の私と彼との年の差を越えた友情を、私が一方的に感じた一瞬でした。
彼は、そんなこと覚えている由もないけれど、来年は、ばぁばになる私に、くれた大きなプレゼントでした

スタッフシールの粘着力が落ちる頃、彼もスタッフで居ることの興味を失い、元のやんちゃ君に戻って、ほっと一安心。

彼は、そのほかにもいろんな人にいろんな思いをいだかせたようだった。
不思議な魅力を持つ坊やでした。<
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オルティンドーライブその1

2007年11月27日 | 風のこたろう裏日記
池袋ロサにて、ライブ。
三枝彩子率いる勉強会のトップメンバーが、民族衣装を着てライブ発表会。
私は、練習にもリハーサルにも出ることができなかったので、観客として見に行くことに。

ライブハウスなんて初めてのことで、どんな様子なんだと興味津々。
むかーしいったことがある銀パリのような感じ。
銀パリもいわばライブハウスだよねぇ。。。

おなかがグーと鳴らない程度にと、コンビニに立ち寄るとなんと、出演メンバーがいた。
なんという偶然なんだろう。
Tさんが、モンゴルってこういうことあるよねぇ。。。と、二人で感嘆しきり。

ロサの建物に入って、彼女たちに案内されないと私と友達とでは、入り口にたどり着けなかったと思う。
モンゴルマジックって私のためだったのかと、感謝して納得。

オルティンドーのステージは、三枝さんの獅「アレンジで、楽しいものに仕上がっていました。
津軽三味線とのコラボレーションは、驚きました。

三枝さんのオルティンドーの声の伸びやかさには、いつも感嘆。
息子ちゃんの心からの応援は、いいなぁ。
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