”道徳”と呼ばれる広いひろい世界がある。していいことと悪いことに対する感覚のようなもの。法律や規則とは違う。いつも決まりきっているわけではない。頭で覚えこむ条文のようなものではない。
学校がわきまえていない道徳の一つ。
能力と善悪は違うということ。
何かができない、何かがわからないというのは、悪いことをしているのだろうか。
他人迷惑をなことをするのは、悪いことだ。これは注意されて当然である。しかし、なにかができない、わからないのは、悪いことをしているのだろうか。
しかし、「できない」生徒は、陰に陽に、つらい思いをして学校生活を送る。
なにかができない、わからないときこそ、生徒に対して親切にしどころではないか。そもそも、生徒にできないことやわからないことがあるから、教師という職業も成立しているのだ。
「そんなこともわからないのか」
これは、教える側のいちばん言ってはいけないことだ。教えられなかった責任を、生徒に転嫁している。教師であることの放棄だ。
「もっと頑張りましょう」
おまえはダメだ、と言っているようなものだ。それより、わかりやすい説明や的確な作業を与えるべきだ。的確なサポートなしに「頑張れ」と言うのは、ムチでたたくのと同じだ。
現実の学校は、「できるようにさせる」ところである。
教師が生徒の発達に対して責任を追うのではなく、「できるようにする」ことに責任を負っているからである。それで、生徒に対して短絡的に結果を求めることをする。
これは、学校が、教育を知らない外部の人間に支配されると起こりやすい。外部の人間は、どうしても数字になるもの、書類になるものを求める。教師はそれに指揮されて、生徒に結果だけを求めるようになる。
(転載歓迎 古山明男)
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