現在の日本の公立学校システムでは、文部科学大臣から、ヒラの教員にいたるまで、すべての役職が上からの任命です。
国政だと国会議員選挙があります。県政や市政だと、首長選挙も地方議会選挙もあります。あまりの無能、あまりの失政には、責任者の落選が待っています。ところが、教育では、教育を受ける側からの信任・不信任がつきつけられる役職が、どこにもありません。
選挙で選ばれた知事や市長がいるし、県議会や市町村議会があるではないか、と思われるかもしれません。
ところが、教育には「教育と一般行政の分離」という大原則があり、市長や地方議会は、教育を直接指揮できないのです。
現在の日本では教育委員会が教育を管轄しており、首長も地方議会も教育委員会を指揮できないようになっています。教育委員会が、「教育と一般行政の分離」を実現する手段なのです。
地方選挙で、教育のことを公約に掲げる候補者がたくさんいます。その人たちは、この仕組みを知らないのです。当然、公約は実現しません。ただし、人事と予算を通じて多少の影響を与えることは、できないこともないのですが。
それでは、首長や議会が教育を直接に指揮すればよいのかというと、私はそれには反対です。
「教育と一般行政の分離」は、市長の政治色が教育内容に反映されたり、地方選挙ごとに教育方針がくるくる変わったりしないための、大事な原則です。実際、戦前は、市長が変わると校長たちの首のすげかえが行われ、学校は市長の前に平身低頭していました。
教育では、専門家の立場を尊重しつつ、教育を受ける側も意思を反映させられるよう、ほどよいバランスが大切です。うまくいっている例が、諸外国にいくらでもあります。
日本のように、保護者・住民のからの信任・不信任がつきつけられる道をすべて閉ざしたのは、あまりのバランス無視です。教育が、閉鎖的、独善的になりました。
それをやったのが、昭和31年の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(地教行法)です。それまでは、教育委員を選挙する途がありました。
地教行法は、「教育は、‥‥国民全体に直接に責任を負って」という教育基本法第10条に、明白に違反しています。それを、文科省と自民党が咎めないと、誰も咎めようがないのです。
その”国民への直接責任”すら、今回の政府改正案から消えています。
(転載歓迎 古山明男)
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