人間が発達するとき、まず自分を大事にできるようになり、それから、家族、親戚、友人、地域、職場、自治体、国、人類というふうに大事にできる対象が広がっていきます。
赤ん坊は、自分の生存のことで生きているだけ。 それが、だんだんと、家族の中で生きるようになり、友人や仲間と生きるようになり、やがて職業生活や政治生活に参加してきます。これが、当たり前の順序です。
これをちゃんと順序良くやらないと、だめ。
一足飛びに、他人を愛することを教え込むと、かえって自分本位になります。奉仕や献身を説くが、実は他人を意のままに動かしたいだけの人間。同胞愛を説いている目立ちたがり屋。そんな人たちができてきます。
しかも、そういう人たちはたいてい、偽善を指摘されても怒ったり傷ついたりするばかりです。
自分の感覚や欲求を掴んでいないと、自己認識が浅くなるのです。
子どもの道徳意識を育てるというのは、たいへん複雑で微妙なものです。小学生にもなると、さまざまな発達段階の子が入り混じっていますし、個性の違いもすごく大きいものです。
大人の腕の中に抱きとってやらなければならない子もいますし、やればできるよと勇気づけたほうがいい子もいますし、そりゃ他人迷惑だよとガードレールを立てなければならない子もいます。
そいういう複雑な世界を見て、公共心がなっとらんとか、道徳心がないとか言い出す大人たちがいます。結果しか見ていない。自分の思い通りでないと気がすまない。
「なんで、教師たちはもっときちんとやらんのかね」
「目標として法律に書かないからいけないのだ」
法律に書かれれば、結果のつじつま合わせが横行します。
理科や数学で、結果の丸覚えが有害であることは誰にでもわかります。でも、道徳だと、偽善の害や、尊敬の強要などの害を見抜けない人たちがたくさんいるのです。
道徳をわかっていない人たちが、道徳についての立法をするのだと思います。
(転載歓迎 古山明男)
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