教育基本法を作った中心人物は田中耕太郎と言う当時の文部大臣です。この人が「教育基本法の理論」(有斐閣 1961)という本を出しています。教育基本法のことを調べるなら、これに目を通さないわけにもいかないだろうと思いました。4年ほど前、2002年のことです。
ところが、この本は絶版で、近所の図書館にもない。ネット上の古本屋で何冊かありましたが、2~3万円の値段がついていました。中に1万円のものがあったので、エイヤッと買いました。
読んでみて、びっくり。
「ここまで深く考えていたのか!」
1万円は安かった。
少しずつでも、中身を噛み砕いて紹介しようと思っています。
教育と政治について、取り上げます。
田中耕太郎は、教育が政治より優位でなければならない、と言います。
「我々は教育の独立および優位の原則を承認し、これを政治生活上において実現しなければならない」
これを私は、私の言葉でできるだけわかりやすくして、説明したいと思います。
教育は政治を担うことができる人間を育てることができますが、政治は人間の表層にしか働きかけることができません。
政治が直接に人間を育てようとすると、スローガンだらけの人間、結論だらけの人間を育ててしまいます。
だから、政治が教育を支配してはいけないのです。教育のほうが優位なのです。
私は、「世の中でよく生きていくには、こういう人間に育てるのがいい」というのは教育のほうで決めなければいけないと思います。よき人を育てるのは、政治だけでなく、学問、芸術、文化、人付き合いのあらゆるものを必要とします。
教師、親がそれぞれの教育哲学を持つことが優先します。政党が教育哲学を決めてはいけないのです。
そして、公民教育の基本は、「若者諸君、君たちはこの世の中をどう思うか? もっとよくするにはどうしたらよいか。君たちの知恵と力を貸してほしい」と問いかけることだと思います。
そのような、社会のあり方まで判断できる人を育てるのが、教育の力です。
ときの社会の価値観を教え込むのは、教育が政治に従属させられています。
もちろん、ときの社会の価値観を知る必要はあります。それも大事なことです。しかし、それは生きていく実用上、必然的に生じることであり、わざわざ国が強要する必要はないのです。
ですから私は、教育基本法改正案が、政府案も民主党案も、教育目標を法律で定めようとしていることに反対です。
現行法の第1条にたくさん教育理念が並べられているのも、書きすぎだと思っています。「教育は人格の完成を目指す」だけでよろしいと思います。
田中耕太郎自身も、のちに、第1条と第2条は書きすぎた、第3条からでよかった、と述べています。そりゃそうだ、と思います。
(転載歓迎 古山明男)
突然失礼します。
同じgooブログで駄文を書いているものです。
ブログを検索していて興味深い記事をお見受けしたので、事後のお知らせで申し訳ありませんが一部分を私のブログで引用させていただきました。
ご不快であれば削除いたします。
私はGesellschaftと呼びますが、国家や企業のような規則で運営される大きな社会組織は本質的に<目的-手段>の関係に立って、個々の人間をその目的のための手段と見なします。確かに、これらの社会組織も本来は人間のためにつくられたはずなのですが、他の社会組織との競争にさらされているので、どうしても目的の追求が個々の人間の福祉よりも優先される傾向があるのです。
結果として、その目的にそぐわない人間が切り捨てられるわけですが、長期的に見ると、人間の持つ将来のための可能性を失っていくことになるでしょう。政治が教育に優先すれば、短期的には多くの落ちこぼれが出、長期的には社会そのものの衰退を招き、いずれにしても実際に生きている人間が犠牲になることになります。
そもそも法律というのは、何か特定の目的達成のために作られるべきではありません。その目的が目的でなくなっても、法律は急に変えられないのです。ですから、法律に目的(目標)が書かれるにしても、理念的なものにとどめるべきですし、もし具体的に行為を規定しようとするならば、積極的に何かをするようにさせるよりも、してはいけないことを規定すべきなのです。旧約聖書に十戒というのがありますが、これも「○○するなかれ」という形で書かれています。
法律で上から規定すれば物事がうまく行くと考える人は多いようですが、それは人間という自然を外から支配できるという傲慢な発想と私は考えます。このことについては、下記のページで少し書きました。
条理学の可能性
http://www.oct-net.ne.jp/~iwatanrk/tmmj.htm
いずれにしても、人間は人間自身が操作の対象に出来る人工物でないことは確かです。