学校が、気持ちよく学べるところかどうかは、そこにいる人たちの道徳水準でだいたい決まります。だって、「そりゃ、あんまりだ」ってことを先生や友達にされたら、授業を聞いているどころじゃないもの。
従来型の学校は、徳目主義で道徳水準を維持しようとしてた、んだけど...。
金科玉条で生きてる人の言うことって、真実味がないです。徳目の暗記は、道徳水準を落とします。これは、丸暗記が学力を落とすのと同じ。
徳目の多くは、それ自体は、けっこうなものなのですが‥‥
徳目主義が、学校外の人が感じる学校臭さの発生源じゃないかと思います。先生たちの、自分はいいことしてる、っていうツンとすました感じ。現実が見えてなくて、美しい努力目標ばかり立てられる。
徳目主義が嫌がられて、心理主義が台頭。子どもがそうなった原因を掴めば、なんでも解決するだろうと。
もちろん、そうには違いないけど‥‥
でも、心理主義って、だいたい説明しているだけで終わる。それらしい答えがたくさん出てくるけど、ほんとうの意味で、感情や思考の動きをつかんでいることはめったにない。”心”と呼ばれているものの本当の姿は、感覚、感情、思考の果てしない流れそのものであって、それが言葉で定式化されたときには、ただの乾燥標本みたいなものになっている。
それで、徳目主義への回帰が始まっているのだと思う。
「小さいうちに、公共心を身につけさせないと」
「国を愛することです」
でも、一度行き詰まったものに回帰しようとしているだけ。
じきに行き詰まると思う。徳目を法律で教育目標にしてしまったら、その行き詰まりから出られなくなる。
じゃあ、どうしたらいいの、ってことになるかもしれませんが、素晴らしい答えがある と思い込むのが、幻想だと思います。
教育行政や管理職の役職につくと、この幻想にとらわれていて、けっこうなものをあれやこれやと探すのだと思う。でも、それはお役目でやっていること。
定式なんてない。何が起こっているか、見る目があるかどうかが決定的。
教育には、当たり前のことが、果てしなくあって、その場に応じて、きちんきちんとやるだけ。たとえば、わかる授業、過不足ない説明、子どもを脅さない、だめなものはだめと言う、子どもどうしを比較しない、頭脳活動と身体活動のバランス、などなど。
でも、そういうようなものを、学校外部から定式化しても、役に立たない。場違いのことをする原因になります。
(転載歓迎 古山明男)
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